北西に花牟礼山【標高1170m】を望み、周囲を600m前後の山々に囲まれた山峡の平原「阿蘇野」。往古に柏峽大野(かしはをのおほの)と呼ばれていた地は遠くないのだろうか?


ここに鎮座する直入中臣神社は、日本書紀に、大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)【景行天皇】が土蜘蛛討伐の砌、祈祷されたと伝えられる「直入中臣神(なほりなかとみのかみ)」とされている。


この神社の草創は、詳らかではなくも神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)【綏靖天皇】の御宇と伝える史書や説もあるようだ。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社①


直入中臣神社

[所在地]

 大分県由布市庄内町阿蘇野(字中村)3784番地〔地図

[御祭神]

 直入中臣神(ナホリナカトミノカミ)

  ・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)

  ・經津主神(フツヌシノカミ)

  ・許登能麻遅媛神(コトノマヂヒメノカミ)

  ・天之兒屋神(アメノコヤネノカミ)

  ・天美津玉照比賣神(アメノミツタマテルヒメノカミ)

  ・天押雲根神(アメノオシクモネノカミ)


直入中臣神社の境内に、天皇が「蹶石野(くゑいしの)」の訪れた時にあった、長さ六尺・広さ三尺・厚さ一尺五寸の「蹶石(ほふみいし)」と伝えられる石がある。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社②
直入中臣神社にお祀りされている「蹶石」

大足彦忍代別天皇12年(西暦82年)冬10月、天皇は、土蜘蛛を討伐しようと、柏峽大野(かしはをのおほの)においでになられ、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりもののべのかみ)、直入中臣神に、「土蜘蛛を滅ぼすことができるならば、この石を踏み蹴ると柏葉のようにあがれ」と、長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の大きな石を踏み蹴ることで神意を伺われた結果、その石は柏の葉のように虚空を舞ったと伝えられる。「蹶石」は、その石だ。


蹶石野 在柏原郷之中 同天皇 欲伐土蜘蛛之賊 幸於柏峡大野 野中有石 長六尺 廣三尺 厚壹尺五寸 天皇祈曰 朕將滅此賊 當蹶茲石 譬如柏葉而騰 即蹶之 騰如柏葉 因曰蹶石野

【蹶石野。柏原郷(かしはるのさと)の中(なか)に在(あ)り。同じ天皇(すめらみこと)。土蜘蛛(つちぐも)の賊(あた)を伐(う)たむと欲(おもほ)し、柏峡大野に幸(いで)ましき。野の中に石(いは)有(あ)り。長さ六尺(むさか)、廣(ひろ)さ三尺(みさか)、厚(あつ)さ壹尺五寸(ひとさかあまりいつき)、天皇、祈(うけ)ひ曰(まを)ししく。「朕(あ)、將(まさ)に此(こ)の賊を滅ぼさむに。茲(こ)の石を蹶(ふ)むに當(あた)り、譬(たと)へば柏葉(かしはば)の如くして騰(あ)がれ」。即(すなは)ち蹶(ふ)みたまへるに、柏葉の如く騰がりき。因(より)て蹶石野と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~


 『日本書紀 卷第七』にも同じような記述があり、このなかで登場する「直入中臣神」は、この直入中臣神社であるとされる。


天皇初將討賊 次于柏峽大野 其野有石 長六尺 廣三尺 厚一尺五寸 天皇祈之曰 朕得滅土蜘蛛者 將蹶茲石 如柏葉而擧焉 因蹶之 則如柏葉上於大虚 故號其石曰蹈石也 是時禱神 則志我神 直入物部神 直入中臣神 三神矣

【天皇、初めて賊を討たむと、次に柏峽大野にいたりたまひき。其(そ)の野に石(いは)有(あ)り。長さ六尺。廣さ三尺、厚さ一尺五寸(ひとさかあまりいつき)、天皇、祈(うけ)ひ曰(まを)ししく。「朕(あ)、土蜘蛛を滅すこと得(え)むは、將(まさ)に茲(こ)の石(いは)を蹶(くゑ)むに、柏葉(かしはば)の如くして擧(あ)がらむ」因(よ)りて蹶(ふ)みたまひき。則(すなは)ち柏葉の如く大虚(おほぞら)に上がりき。故(かれ)、其(そ)の石を號(なづ)けて蹈石(ほみし)と曰(い)ふなり。是(こ)の時に禱(の)みまをす神は、則ち志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりもののべのかみ)、直入中臣神の三神(みはしらのかみ)ぞ。】

~『日本書紀 卷第七』~


柏葉のように空中を舞ったと伝えられるこの石、とても踏んだだけでは空中を舞いそうにない大きさ。しかし、「長さ六尺。廣さ三尺、厚さ一尺五寸」と伝えられている限りこの石が「蹶石」なのだろう。



豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社③


階段の途中には、ここが「直入中臣神」であることを伝える小さな石碑が立つ。碑文に刻まれている内容は以下のとおり。


直入中臣神土俗稱石上明神 景行天皇討土蜘蛛賊時而祷三神之一也

【直入中臣神は土(くにびと)の俗(よ)に石上明神と稱(い)ふ。景行天皇、土蜘蛛(つちぐも)の賊(あた)を討(う)たむ時にして祷(の)みまをす三神(みはしらのかみ)の一(ひと)つなり。】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社④
直入中臣神社の神籬

「石上明神」とは、直入中臣神社の俗称。奈良市の石上神宮とは無関係だ。「蹶石」に向かって右手に少しだけ盛り上がった丘のようになったところがある。元来はこれを神籬とする信仰だったのか?写真の右側に小さな祠が見える。


直入中臣神祠 在朽網郷中野村 祭石爲神 今稱石神明神

【直入中臣神祠(なほりなかとみのかみやしろ)。朽網郷(くたみのさと)中野村(なかのむら)に在り。石を祭り神と爲(な)す。今、石神明神と稱ふ。】

~『豐後國志』~


さらに、今はこの神社の境内となっている「蹶石」がある「蹶石野」という場所について、『豐後國志』は「不詳」と記したうえで、次のように伝えている。


直入中臣神 其祠 在朽網郷 祭石爲神 今稱石明神 其石大小稍相近之然則蹶石野 乃其地方野 而蹶石乃此石歟

【直入中臣神(なほりなかとみのかみ)。其(そ)の祠(やしろ)、朽網郷に在り。石を祭り神(かみ)と爲(な)す。今、石明神と稱ふ。其(そ)の石、大(おほ)き小(ちいさ)き、稍(やや)相(あ)ひ近し。然則(しかるべ)く蹶石野。乃(すなは)ち其(そ)の地方(ところ)の野にして、蹶石、乃ち此(こ)の石なるや。】

~『豐後國志』~


石を神として祀っていることから「石神明神」・「石上明神」・「石明神」とよばれ、現在は、この大小さまざまな石の前に、直入中臣神社の社殿が建っている。往古よりこの地に鎮座し、直入中臣氏の氏神さまとして、今もここにあり続けている古社だ。