海部郡の佐加(さが)郷、佐賀関(さがのせき)に鎮座する早吸日女神社。


『延喜式』に「豊後國海部郡 一座小 早吸比咩神社」と記される式内社で、『古事記』や『日本書紀』に伝わる伊耶那岐神(イザナギノカミ)の禊祓の神話にも深い関係をもつ古社だ。


早吸日女神社

[鎮座地]

 大分県大分市佐賀関(関)3329番地〔地図

[御祭神]

・八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)
・大直日神(オホナホヒノカミ)
・底筒男神(ソコツツノヲノカミ)
・中筒男神(ナカツツノヲノカミ)

・表筒男神(ウハツツノヲノカミ)
・大地海原諸神(オホトコウナハラモロモロノカミ)

[境内摂社]

◎若御子社

 ・黑砂神(イサゴノカミ)

 ・眞砂神(マサゴノカミ)
◎伊邪那岐社

 ・伊邪那岐神

◎歳神社

 ・大年神(オホトシノカミ)

 ・御年神(ミトシノカミ)

◎神明社

 ・天照大神(アマテラスオホミカミ)

◎厳島社

 ・市杵嶋姫神(イチキシマヒメノカミ)

◎天然社

 ・源維城敦仁親王(みなもとのこれざねあつひとのみこ)【醍醐天皇】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社①

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社③   豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社②
早吸日女神社 伊邪那岐社前の鳥居と神門

神代の昔、「禊祓(みそぎはらへ)」をする場所を探して「雅御子鼻(わかみこばな)【若御子鼻】の田刈穂浦(たがりほうら)」を訪れた伊弉諾神が、潮中に潜り、汚穢を灌ぎ、「高門岩」にのぼり、若御子神(わかみこのかみ)【黑砂神、眞砂神】の防護をうけ、林を伐採して「田刈穗浦」に『速吸神(はやすひのかみ)』を祀ったのが早吸日女神社のはじまりと伝えられる。


『豐後國誌』によると、若御子神【黑砂神(黑濱神)、眞砂神(白濱神)】を称えて速吸日女神(ハヤスヒメノカミ)と呼ぶとあり、この二神は現在の祭神のうち大地海原諸神に含まれるのだろう。


また、「速吸門(はやすひなと)」の名も速吸日女神の御名に因むものとされる。


『日本書紀』も伊弉諾神が禊祓(みそぎはらへ)をされる場所を探されて、粟門(あはのみと)」【愛媛県】と速吸名門(はやすひなと)を訪れ、潮の流れがとても速かったため「橘小門(たちばなのをど)」【宮崎県】に帰還されて「禊祓(みそぎはらへ)」をされたと伝える。


昔者伊弉册尊神浮潜潮中 以濯汚 昇于高門岩 稚御子兄弟二女神供奉防衞 伐林除地。鎭座于田刈穗浦 稱曰速吸比咩神 盖高門岩佐加東北海上里許 今名牛島 是也 稚御子白濱黑濱神 其所居之址 稚御子鼻田刈穗浦始鎭座地 今呼曰古宮村一 崇速吸神 故古呼此水門 稱速吸門

【昔、伊弉册尊、潮中(しほのなか)に潜(もぐ)り神浮(かむう)きたまひて汚(きたな)きを濯(すす)きたまひき。ここに高門岩に昇り、稚御子(わかみこ)兄(いろね)弟(いろも)の二(ふた)はしらの女神(めがみ)供(とも)に防衞(まもり)奉(まつ)りて。林を伐(き)り地を除(はら)ひ、ここに田刈穗浦に鎭座(しづまりま)しき。速吸比咩神(はやすひめのかみ)と稱(たた)へて曰(い)ふ。盖(けだ)し高門岩は佐加の東北(うしとら)の海の上(うへ)の里の許(もと)。今、牛島(うしじま)と名(なづ)く。これなり。稚御子は白濱(まさご)・黑濱(いさご)の神(かみ)。其(そ)の居(ゐ)ます所の址(あと)、稚御子鼻(わかみこばな)の田刈穗浦(たがりほうら)は始(はじ)めて鎭座(しづまりまし)し地(ところ)。今、古宮村と呼び曰ふ。速吸神を崇めたまふ。故(かれ)、古(いにしへ)に此(こ)れの水門(みなと)を呼(よ)びて、速吸門と稱(い)ふ。】
~『豐後國誌』~


『豐後國誌』に伊弉册尊(イザナミノミコト)とあるのは伊弉諾神の誤りだろう。

故欲濯除其穢惡 乃往見粟門及速吸名門 然此二門 潮既太急 故還向於橘之小門而拂濯也

【故(かれ)、其(そ)の穢悪(けがらはしきもの)を濯(すす)き除(はら)はむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち粟門(あはのみと)及(およ)び速吸名門(はやすひなと)に往(ゆ)きて見(みそなは)す。然(しか)るに、此(こ)の二(ふたつ)の門(みなと)、潮(しほ)既(すで)に太(はなは)だ急(はや)し。故(かれ)、橘小門(たちばなのをど)に還向(かへ)りたまひて、拂(はら)ひ濯きたまふぞ。】

~『日本書紀 卷第一 神代上』 第五段 一書 第五~


さらに、皇暦紀元前7年(紀元前667年ごろ)、神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)【神武天皇】御東遷の途路、速吸の瀬戸において、若御子神【黑砂神、眞砂神】が海底に住む大きな蛸(たこ)により長い間、守護してきた伊邪那岐神の神剣を取り上げて天皇に献上しました。天皇は、この神剣を御神体とし、古宮の地に祓戸神【八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神】を祀り、建国の大請願をたてられたと伝えられる。こうして現在の「早吸日女神社」となった。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑩

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑨  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑧
本殿の朱塗り、木々の緑、青空の構成が素晴らしく栄えています。


大寶元年(701年)、神託によって現在地の「佐加郷土浦(さかのさとつちうら)」の「曲浦(わたうら)の清地(そが)」に遷座されました。この曲浦を和多浦(わたのうら)と呼び、その清地を「素娥(そが)」と呼び、後に「洲賀(すが)」となり、これが「佐加(さか)」という郷称になった。「海部」の郡名は、若御子神【黑砂神、眞砂神】に漁の方法を教わり生活する人々に因むものだそうだ。


大寶元年 奉神宣神宮于曲浦清地 曲浦呼爲和多浦一 清地呼爲素娥 後作洲賀 盖佐加古稱 稚御子以漁師事敎民因以海部其國

【大寶元年、神宣を奉り、神宮(かみのみや)を曲浦(わたうら)の清地(すが)に移したまひき。曲浦を和多浦(わたうら)と呼び、清地(すが)を素娥(そが)と呼び、後に洲賀(すが)と作(な)す。盖し佐加と古に稱ふ。稚御子を以(もち)て漁師(あま)の事を民(たみ)に敎(をし)へたまふ。因(よ)りて海部(あまべ/うみべ)を以て、その國の名とす。】
~『豐後國誌』~


此郡百姓 竝海邊白水郎也 因曰海部郡

【此(こ)の郡(こほり)の百姓(おほみたから)は、竝(みな)、海邊(うみべ)の白水郎(あまべ)なり。因(よ)りて海部郡(うみべのこほり)と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑦

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社④
御本殿(拝殿)の彫刻や瓦は「海」をイメージしたデザインになっています。

 今も昔も潮が速く、「関サバ」、「関アジ」の漁場として知られる「早吸門」・「佐賀関」の海の「早吸日女神」を祀る御神域。伊邪那岐神、神倭伊波禮毘古命【神武天皇】ゆかりの御神域。往古より漁師【海部】として生活してきた人々の産土神。心の「曲(まが)」を「直(なほ)」す事、「祓(はらへ)」の神を祀る御神域。早吸日女神社は、青く清らかな海と大地の「めぐみ」溢れる佐賀関の産土神として、往古より鎮座し続けている。