古くは『宗像八幡社』とも称され、豐前國上毛郡炊江郷(とよくにのみちのくちのくにかみつみけのこほりかしきえのさと)に鎮座する大富神社(おおとみじんじゃ)は、奈良時代以降、宇佐使【宇佐神宮への勅使】が宇佐神宮に参詣するときの宿泊地としても利用されていました。境内には、それに関連する「勅使井(ちょくしゐ)」が残っています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社⑦
大富神社の本殿


[所在地] 福岡県豊前市大字四郎丸字甫起山256番地(地図


[御祭神]

 東殿【宗像神社】…往古、「宗像三女神」の神託により鎮座

  ・田心姫神(たごりひめのかみ)

  ・湍津姫神(たきつひめのかみ)

  ・市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)

 中殿【大富神社】…白鳳元年(671年)、「住吉大神」の神託により鎮座

  ・表筒男神(うはつつのをのかみ)

  ・中筒男神(なかつつのをのかみ)

  ・底筒男神(そこつつのをのかみ)

 西殿【八幡大神坐】…神護景雲3年(769年)以降に鎮座

  ・品陀和氣命(ほむだわけのみこと)【應神天皇(おうじんてんのう)

  ・帶中日子命(たらしなかつひこのみこと)【仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

  ・息長帶日賣命(おきながたらしひめのみこと)【神功皇后(じんぐうこうごう)

 脇殿【東脇殿】

  ・齋主神(いはひぬしのかみ)【經津主神(ふつぬしのかみ)/布都御魂神(ふつみたまのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社①  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社③
大富神社 本殿の扁額

 大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしおしろわけのみこと)【景行天皇(けいこうてんのう)】の御宇、天皇が土蜘蛛の征圧にあたり、この地を訪れた時、眞早(まはや)という人への神託により「宗像三女神」を祀ったのが始まりと伝えられ、およそ1900年前まで遡ります。


 さらに、白鳳元年(671年)には、豐前國山田庄長の横武氏への神託により「住吉大神」がお祀りされました。


 天平12年(740年)9月に端を発する、北部九州の大戦乱、「藤原廣嗣(ふぢわらのひろつぐ)の乱」【板櫃河(いたびつがは)の戦い】の砌、豐前國上毛郡義大領の紀宇麻呂(きのうまろ)が戦勝祈願をしたとされ、現在の大富神社春季大祭【通称、八屋祇園】は、戦乱の終結後の紀宇麻呂の凱旋を模したものといわれています。


 天平神護3年(769年)10月、宇佐神宮の神託の真偽を確かめるため宇佐に派遣された和氣清麻呂(わけのきよまろ)が、宇佐に向かう途中の路上から大富神社を遙拝したとも伝えられています。


 これ以来、大富神社は、宇佐神宮への勅使【宇佐使】の宿泊地として利用されるようになりました。境内には、この時、勅使が炊事や茶湯に利用したと伝えられる「勅使井」が残っています。また、奈良時代以降になって八幡大神がお祀りされ、現在の大富神社となりました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社⑥

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大富神社④
大富神社 勅使井

 現在でも、宇佐神宮への勅使が遣わされるにあたっては、宇佐神宮へ「勅使井」の水が祭事用の御神水、お茶湯の水として献上され続けています。


 神護景雲3年(769年)、和氣清麻呂が宇佐神宮に向かう途中、大富神社を遙拝したと伝えられる地は、「伏拝野」と称し、「拝みの松」とよばれる松が植えられています。国道10号線沿いで駐車場は設けられていません。(写真は後日掲載予定)


【拝みの松】

[所在地] 福岡県豊前市大字四郎丸字伏拝野(地図

※駐車場なし


 この「拝みの松」より約1㎞先に大富神社があります。奈良時代の頃、地方官道(後の「勅使街道」の一部)の跡として、昔を偲ぶことができます。現在、大富神社の社叢のすぐ西側では、東九州自動車道の建設がすすめられています。完成する頃には、また違った景色になるのでしょうね。

 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるとおり、二十四節気の「処暑」の頃、暦のうえでは「秋」。まだまだ日中は強い日ざしに、暑い日々が続いていますね。


 そんな中で、時折り吹く風に涼しさを感じる今日この頃…。夜の空は少しずつ、秋の澄んだ空変わりはじめているようです。


 南の空をゆっくりと進む月影はやさしい青紫色。その光に照らされて、空にかかる薄い雲は七色に輝く今日この頃…。月明かりに照らされる松林もとても栄(は)える感じがします。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-処暑の月夜①
処暑の月夜の松林【闇無濱神社】
2010年8月25日1:42撮影

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-処暑の月夜②
処暑の月夜の月暈【わが家の庭にて】
2010年8月27日 0:17撮影


 あともう少し暑い日が続きそうですが、こんな空を見ると、少しだけ「秋もすぐそこ」、秋の兆しを感じますね?大変遅くなりましたが、残暑お見舞い申し上げます。

 大分県大分市屋山の八柱神社(やはしらじんじゃ)は、現在の宮中三殿の「神殿」にお祀りされる八柱の神々をお祀りする神社のひとつです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社①
八柱神社の神殿

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社③
八柱神社の神門と参道入口の鳥居


[所在地]大分県大分市大字屋山2281番地(地図

[御祭神]

 ・高皇産靈神(たかみむすひのかみ)

 ・神皇産靈神(かむみむすひのかみ)

 ・魂留産靈神(たまづめむすひのかみ)

 ・生産靈神(いくむすひのかみ)

 ・足産靈神(たるむすひのかみ)

 ・大宮比賣神(おほみやめのかみ)

 ・事代主神(ことしろぬしのかみ)

 ・御膳津神(みけつかみ)

 《金刀比羅社(相殿)》

 ・大物主神(おほものぬしのかみ)

 《稲荷神社(境内社)》

 ・保食大神(うけもちのかみ)【宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 ・猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社②
「八柱神社」の扁額

 八柱神社の御祭神は、「神祇官八神(じんぎかんはっしん)」・「宮中八神(きゅうちゅうはっしん)・「御巫八神(みかむなぎやはしらのかみ)」・「美保貴神(みほぎのかみ)」・「鎮魂八神(みたましづめやはしらのかみ)」などとよばれる八柱の神々で、現在は、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ「神殿」にお祀りされている神々と同一です。


 『古語拾遺』にも…。


爰 仰從皇天祖之詔 建樹神籬 所謂 高皇産靈 神産靈 魂留産靈 生産靈 足産靈 大宮賣神 事代主神 御膳神 已上 今御巫所奉齋也

【爰(ここ)に皇天(あまつかみ)(ふたはしら)の祖(みおや)の詔(みことのり)に仰從(したが)ひ、樹(き)の神籬(ひもろぎ)を建(た)つ。所謂(いはゆる)高皇産靈(たかみむすひ)。神産靈(かむみむすひ)。魂留産靈(たまづめむすひ)。生産靈(いくむすひ)。足産靈(たるむすひ)。大宮賣神(おほみやめのかみ)。事代主神(ことしろぬしのかみ)。御膳神(みけつかみ)。已上、今(いま)の御巫(みかむなぎ)に齋(いはひ)(まつ)れるなり。】

~『古語拾遺』~


 さらに、日本書紀には…。


高皇産靈尊 因勅曰 吾則起樹天津神籬及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命 太玉命 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉

【高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、因(よ)りて勅(みことのり)して曰(まをしし)く、「吾(あ)、則(すなは)ち天津神籬(あまつひもろき)(およ)び天津磐境(あまついはさか)を起(おこ)し樹(た)てて、當(まさ)に吾(あ)が孫(みま)の爲(ため)に齋(いは)ひ奉(まつ)らむ。汝(なれ)、天兒屋命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)は、宜(よろ)しく天津神籬(あまつひもろき)を持(たも)ちて、葦原中國(あしはらなかつくに)に降(ふ)りて、亦(また)(あ)が孫(みま)の爲(ため)に齋(いは)ひ奉(まつ)れ」。】

~『日本書紀 卷第二』~


 と、記されています。


 これによると、宮中三殿の「神殿」の八柱の神々がお祀りされたのは、「皇天二祖」。つまり、高皇産靈神神皇産靈神の神詔に従って「神籬」をたてられ、天兒屋命の子孫の中臣氏と太玉命の子孫の齋部氏【忌部氏】に祭事が継承されたのがはじまりのようです。


 八柱神社にお祀りされたのは、仁明天皇(にんみょうてんのう)【正良親王(まさらのみこ)/日本根子天璽豐聰慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)】の御宇、承和11年(845年)9月に、坂上大宿禰田村麿(さかのうへのおほすくねたむらまろ)の子孫にあたる坂上大宿禰(さかのうへのおほすくね)によって創建され、「八柱宮(やはしらみや)」・「宮尾(みやを)」と呼ばれていたそうです。


さて、簡単に八柱の神々を紹介させていただきます。


高皇産靈神(たかみむすひのかみ)

 高御産巣日神とも記され、天と地が始まった時、高天原に成った神です。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・神皇産靈神とともに造化主宰の神で、天地の万物を生々化育する神、別天神(ことあまつかみ)の第2代の神です。皇親神漏岐命(すめむつかむろぎのみこと)ともいいます。


神皇産靈神(かむみむすひのかみ)

 神産巣日神とも記され、天と地が始まった時、高天原に成った神です。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産靈神とともに造化主宰の神で、天地間の万物を生々化育する神、別天神の第3代の神です。皇親神漏美命(すめむつかむろみのみこと)ともいいます。


生産靈神(いくむすひのかみ)

 葦の芽のように勢いよく芽生えて伸びていく、活動してやまない、生きて活動する霊魂を主宰する生成と発展の神、別天神第4代の神です。宇摩志阿斯訶備比古遲神(あしかびひこぢのかみ)の奇魂(くしみたま)と荒魂(あらみたま)です。


魂留産靈神(たまづめむすひのかみ)

 玉積産靈神とも記され、安定した精神、秀れた智、浮かれ往く魂を身体に鎮め留めることの霊魂を主宰する神、別天神第5代の神です。天之常立神(あめのとこたちのかみ)の幸魂(さきみたま)です。


足産靈神(たるむすひのかみ)
 不足することなくして豊かに充実・具足することの霊魂を主宰する神。豐雲野神(とよくもののかみ)の和魂(にぎみたま)です。豊かな実りを約束する肥えた、慈雨をもたらす雲の原野、満ち足りることの神です。


大宮比賣神(おほみやめのかみ)

 天宇受賣神(あめのうずめのかみ)【天之鈿女神】ともいいます。心が和楽して一切の憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を和やかにする神。


御膳津神(みけつかみ)

生育する食物を悉く大御食とし、日々の供えもの食べ物の神。


事代主神(ことしろぬしのかみ)

 美都齒八重事代主神(みつはやへことしろぬしのかみ)ともいいます。この世、あの世のこと、万事を知り尽くして、国土を安穏に治める境地に進む心境と、言葉の威力・言霊の神。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-八柱神社⑤
境内の鳥居と神殿横から

 天と地の万物を生成し育成する霊的なはたらき「むすひ(産霊)」の神々、「ことだま(言霊)」の神、「みけもの(食物)の神、その「めぐみ」・「つながり」に生かされている私たち…。また、その目に見えない「はたらき」に生かされている私たち…。八柱神社にお祀りされている神々の御神徳は計り知れないほど…。その御神徳に感謝。ここにお詣りすると遥か遠い宇宙のパワーをもいただけそうですね(笑)

 福岡県築上郡吉富町に鎮座する八幡古表神社の祭礼のひとつ「乾衣祭(おいろかし)」が今年も厳かに執行されました。私の祖母の話によると、昭和初期の頃は「七夕さま」としても親しまれていたようです。

(※八幡古表神社については、こちら をご覧ください。)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭①


 元正天皇(げんしょうてんのう)【氷高皇女(ひたかのひめみこ)/日本根子高瑞淨足姫天皇(やまとねこたまみづきよたらしひめのすめらみこと)】の御宇の養老3年(719年)、大隅國(おほすみのくに)【鹿児島県】と日向國(ひむかのくに)【宮崎県】に隼人たちの襲来があり、朝廷に対する反乱【隼人の反乱】が起きました。その翌年の養老4年(720年)には大隅國司の陽侯史麻呂(やこのふまろ)が殺害されるなど、反乱は激しさを増していきました。この時、朝廷は大伴旅人(おほとものたびと)を「征隼人持節大将軍」に任命し隼人の征討にあたらせました。


 当時、宇佐郡の小山田社に鎮座していた八幡大神に祈りをささげた時、「我れ行きて(隼人を)降伏すべし」との神託があり、小山田社の八幡大神を神輿に乗せ、朝廷の軍勢と隼人の征討に合流しました。


元正天皇五年。養老三年癸未。大隅。日向兩國隼人等襲來。擬打傾日本國之間。同四年甲申。公家被祈申當宮之時。神託。

 我行而可降伏者。

元正天皇五年。養老三年癸未。大隅(おほすみ)。日向(ひむか)(ふた)つの國(くに)隼人等(はやとら)(おそ)ひ來(きた)り、日本國の打ち傾(かたぶ)けむと擬(おも)ふ間。同四年甲申。公家(くげ)(この)(みや)を祈申(いのりまを)し被(こうむ)る時の神託。
 我れ行きて降伏すべし。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 小山田社部~


 この隼人の征討の時、宇佐神宮の軍と合流した八幡古表神社と古要神社の傀儡子(くぐつ)【神さまの人形・四十柱宮(よそはしらぐう)の御神体】による細男舞(くわしをのまひ)神相撲が催されました。


 これが今に続く「傀儡子の神相撲・細男舞」【国指定重要無形民俗文化財】のはじまりです。かつては、宇佐神宮の放生会の時にも奉納されていたそうですが、現在は八幡古表神社で4年に一度、古要神社で3年に一度、奉納されています。


 八幡古表神社乾衣祭(おいろかし)は、この「細男舞」の傀儡子に着せる御神衣(おいろ)とよばれる装束(着物)【吉富町指定有形民俗文化財】を虫干しにする神事で、昔は旧暦7月7日に執行されていました。現在は毎年8月6と8月7日に執行されるようになりました。江戸時代には、中津城主などが、毎年のように寄進した御衣に宝物なども社殿の内外に干していたそうです。


 旧暦7月7日に執行されていた神事ということで、七夕の行事も合わせた祭事になっています。境内には、竹が立てられ七夕飾りがつけられます。爽やかに吹く風にユラユラ・サヤサヤと揺れる七夕飾りの情景も風情がありますね(笑)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭②
境内に立てられた七夕飾り

 御神衣のなかは、黒田・細川・小笠原・奥平と続いた歴代の中津城主やその一族が武運長久や出産・普請無事などを願って寄進されたものがあり、黒田家6着、細川家6着、小笠原家8着、奥平家11着、計31着が確認できます。明治20年以降は、一般の氏子からの奉納をも受けるようになり、その数は1,000点以上にもなっているそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭④

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-乾衣祭⑤
社殿に干された傀儡子の御神衣


 七夕の夜を静かに、そして爽やかに吹く風は涼しく、天の川の星々、境内の八幡宮・住吉宮・四十柱宮の神々に願いを込めて、夏から秋への季節の移り変わりを告げる行事のひとつです。

 宇佐神宮の最初の鎮座地で『宇佐八箇社』のひとつ。古くは宇佐河(うさがは)と呼ばれていた大分県宇佐市を流れる駅館川(やっかんがわ)。その東岸に鷹居神社(たかゐじんじゃ)、西岸に郡瀬神社(こうのせじんじゃ)が鎮座しています。八幡大神が御遊化の昔に、鷹の姿で東岸の「鷹居」の松にいて、空を飛び西岸の「郡瀨」の地面におりたので、この2つの御神域をあわせて「鷹居瀬社(たかゐせやしろ)といいます。


次 鷹居 豐前國宇佐郡 同時神託
其至鷹居 
云々
次 郡瀨 云々
其至郡瀨 云々
此兩所者 有宇佐郡大河 化鷹渡瀨居東岸之松 又飛空遊西岸之地 故云鷹居瀨社 斯鷹是大御神之變也 大神比義祀祈顯之 立祠致祭也

【次 鷹居(たかゐ)。豐前國宇佐郡。同じ時の神託。
「それより鷹居に至る。」云々。
次 郡瀨(こうのせ)云々。
「それより郡瀨に至る。」云々。
この兩所(ふたところ)は、宇佐郡(うさのこほり)の大河(おほかは)にあり。鷹(たか)に代(かは)り瀨(せ)を渡(わた)り東(ひむかし)の岸(きし)の松(まつ)に居(ゐま)しき。また空(そら)を飛(と)び西(にし)(きし)の地(つち)に遊(あそば)す。故(ゆゑ)に鷹居瀨社(たかゐせやしろ)と云(い)ふ。この鷹(たか)は、これ大御神(おほみかみ)の變(かはり)なり。大神比義(おほがのひぎ)、祈(いの)り奉(まつ)りこれを顯(あらは)す。祠(ほこら)を立て、祭(まつり)を致(いた)すなり。】
~『八幡宇佐宮御託宣集』日本國御遊化部~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社②


鷹居神社

[所在地]大分県宇佐市大字上田字鷹居(地図

[御祭神]
 八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)【應神天皇】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社①


郡瀬神社
[所在地] 大分県宇佐市大字樋田字瀬社(地図
[御祭神]
 八幡大神【應神天皇】
 中帶日子命【仲哀天皇】
 息長帶姫命【神功皇后】


 八幡大神は、天國押波流岐廣庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと)【欽明天皇】32年(571年)、菱形池(ひしがたいけ)のほとりに『廣幡八幡麻呂(ひろはたのやはたのまろ)』として顕現されましたが、和銅5年(712年)まで、どこにもお祀りされることなく、宇佐郡を流れる大河のひとつ「宇佐河(うさがは)」【駅館川】の瀬を鷹の姿で飛び渡り、西岸【瀨社】から東岸【鷹居】の松の木に留まりました。


 和銅3年(710年)のある夜、八幡大神は「我は神となって後、空を飛び回ったが住む所がなかった。そのために心がすさんでしまった」と、大神比義(おほがのひぎ)辛嶋勝乙目(からしまのすぐりをとめ)に姿をあらわさず声のみで告げました。


 大神比義は、和銅3年(710年)から和銅5年(712年)まで祈りを捧げ、八幡大神を祀る初めての社殿を建立しました。これが、現在の鷹居瀬社のちの宇佐神宮はじまりです。


豐前國宇佐郡内 大河流 今號宇佐河 西岸有勝地 東峯有松木 變形多瑞 化鷹顯瑞 渡瀨而遊比地 飛空而居彼松 是大御神之御心荒畏坐 往還之類 遠近之輩 五人行即三人殺 十人行即五人殺 干時大神比義又來 與辛嶋勝乙目兩人 絶穀三箇年 精進一千日依奉祈之 御心令和之給 和銅三年不見其躰 只有靈音 夜來而言

 我靈神後 飛翔虚空 無棲息 其心荒多利

此是奉前顯之大御神也 自和銅三年庚戌。迄同五年壬子 奉祈鎭之。初立宮柱。奉齋敬之。勤神事。即鷹居瀨社是也
【豐前國(とよくにのみちのくちのくに)宇佐郡(うさのこほり)の内(なか)に大河(おほかは)(なが)るる。今(いま)、宇佐河(うさかは)と號(なづ)く。西岸(にしのきし)に勝地(まさるところ)あり。東峯(ひむがしのみね)に松(まつ)の木(き)あり。形(かたち)の變(かは)る多(さは)の瑞(みしるし)、鷹(たか)と化(な)る瑞(みしるし)を顯(あら)はす。瀨(せ)を渡(わた)りて比(こ)の地(ところ)に遊(あそば)したまひき。空(そら)を飛(と)びて彼(か)の松(まつ)居(ゐま)しき。これ大御神(おほみかみ)の御心(みこころ)(あら)び畏(かしこ)み坐(いま)す。往還(ゆきかへり)の類(たぐひ)、遠き近きの輩(ともがら)、五人行けば即ち三人殺め。十人行けば即ち五人殺む。時(とき)に、大神比義(おほがのひぎ)(き)たり、辛嶋勝乙目(からしまのすぐりをとめ)と兩人(ふたり)、穀(たなつもの)を絶(た)つこと三箇年(みとせ)、精進一千日に依(よ)りて祈(の)み奉(まつ)り、御心(みこころ)の和(なご)ましめ給(たま)ふ。和銅三年、その躰(かたち)は見(み)へず。ただ靈(みたま)の音(おとなひ)あり。夜(よ)に來(きた)りて言(のたまは)く。

 「我(あ)れ靈神(かみ)(なり)て後(のち)、虚空(そら)(とび)(かけ)る。棲息(すまふところ)(な)し。その心(こころ)(あらびせ)たり」


(こ)れ是(こ)の顯(あらは)し奉(まつ)る前(まへ)の大御神(おほみかみ)なり。和銅三年庚戌(かのえいぬ)より同五年壬子(みづのえね)まで。祈(の)み奉(まつ)りこれを鎭(しづ)め、初(はじ)めて宮柱(みや)を立(た)て、齋(いつ)き敬(ゐやま)ひ奉(まつ)り、神事(まつり)を勤(つと)む。即(すなは)ち鷹居瀨社(たかゐせやしろ)これなり。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社③
郡瀬神社の岸から鷹居神社の岸を望む



 靈龜2年(716年)、鷹居瀬社(たかゐせやしろ)鷹居神社(たかゐじんじゃ)郡瀬神社(ごうのせじんじゃ)】に鎮座していた八幡大神の「この場所は路頭にあり、往還の人はあるが、敬う人はいない。此れを咎めるにはとても慰めしいことである。小山田の林に移り住みたい」という神託によって、同年、大神朝臣諸男辛嶋勝波豆米が神殿を造営して八幡大神を「鷹居瀬社」(郡瀬神社)からこの「小山田社」(小山田神社 )に遷宮されました。


一云 四十四代元正天皇二年。靈龜二年丙辰
 此所路頭仁志弖往還人無禮奈利 訦牟禮波此等甚慰 小山田移住世牟登願給

【あるひは云ふ。元正天皇二年。靈龜二年丙辰(ひのえたつ)
「此所(このところ)は路頭(みちさき)にして往還(ゆきかへり)の人、無禮(うやまひなき)なり。咎(とが)むれば、此等(これら)甚慰(はなはだめぐ)し。小山田(をやまだ)の林(はやし)に移住(うつりすみ)せむと願給(ねがひたま)ふ」と。】
~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


 宇佐神宮が、『鷹居瀬』に鎮座していたのは、和銅5年(712年)から靈龜2年(716年)の5箇年。この頃の祭神は八幡大神のみで、人々の崇敬は薄いものだったようです。「宇佐郡の大河」こと駅館川の東西の岸に、今も静かに宇佐神宮の旧社地として鎮座し続けています。

 阿蘇山系の湧水で、環境省選定「名水百選」の「竹田湧水群(たけたゆうすいぐん)」のひとつ泉水湧水(せんすいゆうすい)。毎分3トンもの水が湧く名水。「九州一の名水」と評価されるほど透明度が高く、癖のないまろやかな味が特徴的です。この水を利用して、淡水魚の養殖やミネラルウォーター、ウイスキーの製造等が行なわれているそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水①
泉水湧水の水車


[所在地] 大分県竹田市大字入田字泉水(地図

[湧水量] 4,340m3/日(3t/分)
[硬  度] 50.43 - 65.79mg/L(軟水)
[水 温] 約16℃

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水②

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水⑥
泉水湧水の入口にある看板と諏訪神社の鳥居


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水④
泉水湧水の清らかな水


 写真で泉水湧水の清らかさが伝わるでしょうか?水底の砂利がよく見えるほどに透き通っています。湧水の水流に揺れる水鏡には、青い空に浮かぶ白雲をも映し出すほど…。清水の波紋は太陽の光を受けてキラキラと輝いていました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-泉水湧水⑦
泉水湧水の奥に鎮座する諏訪神社


 御由緒等は不明ですが、泉水湧水の入口にある鳥居から続く道の奥に諏訪神社(すわじんじゃ)が鎮座しています。コンクリート舗装の道を歩いて行くと辿り着きます。


諏訪神社

[御祭神]

 諏訪大神(すはのおほかみ)

  ・建御名方神(たけみなかたのかみ)

  ・八坂刀賣神(やさかとめのかみ)


 泉水湧水を訪れた時、湧水をいただく御礼を伝えに、こちらにも参詣させていただきました。泉水湧水のすぐ傍にも小さな祠があります。こちらには、水の神【彌都波能賣神(みつはのめのかみ)などか?】が祀られているようです。

 大分市寒田に鎮座する西寒多神社(ささむたじんじゃ)は、『延喜式 卷十』に記される神社【式内社】のひとつで、『大日本國々一ノ宮』 という祝詞に記される「豐後國一宮」とされています。


しかしながら…。


豐後國大野郡 一座 大 西寒多神社

~『延喜式 卷十 神名帳』~


豐後國大野郡 西寒多神社 杵原大明神

~『大日本國々一ノ宮』 【祝詞】~


と、記されていることを考察すると、大分郡(おほいたのこほり)【碩田郡(おほきたのこほり)】の地に鎮座する、この西寒多神社ではなく、豊後大野市【旧・大野郡(おほののこほり)】に鎮座する西寒多神社 が、いわゆる「式内社」・「豐後國一宮」なのでは?とする説もあります。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社①


西寒多神社

[所在地] 大分県大分市寒田1644番地(地図

[経緯度] 北緯:33度10分21秒/東経:131度35分54秒

[御祭神]

 《正面》

 西寒多大神(ささむたおほかみ)【天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)

 《左相殿》

 月讀大神(つくよみのおほかみ)

 《右相殿》

 天忍穗耳大神(あめのおしほみみのおほかみ)

 《相殿》

 伊弉諾大神(いざなぎのおほかみ)

 伊弉册大神(いざなみのおほかみ)

 大直日大神(おほなおびのおほかみ)

 神直日大神(かむなほびのおほかみ)
 天八意思兼大神(あめのやこころおもひかねのおほかみ)

 大歳大神(おほとしのおほかみ)

 倉稻魂大神(うかのみたまのおほかみ)

 軻遇突智大神(かぐつちのおほかみ)

 《相殿》

 應神天皇【品陀和氣命(ほむだわけのみこと)

 神功皇后【息長帶日賣命(おきながたらしひめのみこと)

 武内宿彌命(たけうちのすくねのみこと)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑦  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑥
西寒多神社の扁額


 息長帶日賣命【神功皇后】2年(202年)10月、三韓出兵より帰還される途中の神功皇后が、西寒多山【現在の本宮山】を訪れ、国家を叡覧された時に、その証(あかし)として一本の白旗を立て置きました。土地の人は、これを敬い籬垣(ませがき)を結んで尊崇していました。


豐後國大分郡西寒田神社者當國之一宮而所祭神三座也 抑奉號西寒田神社者神功二年庚辰冬十月神功皇后討平於三韓御歸陣之時御幸西寒多山而叡覧國家 即爲其證立置一本白旗矣 國人敬之結籬垣而奉尊崇皇威矣

【豐後國大分郡の西寒田神社(ささむたのかむやしろ)は當國(このくに)の一宮(いちのみや)にして祭(まつ)りませる神(かみ)は三座(みはしら)ぞ。抑(そもそも)、西寒田神社と號(い)ひ奉(まつ)るは、神功二年庚辰冬十月、神功皇后(じんぐうこうごう)、三韓を討平(うちたひら)げ陣(いくさ)御歸(かへり)ましし時、西寒多山(ささむたやま)に御幸(いでま)して國家(くにのかたち)を叡覧(みたま)ひき。即(すなは)ちその證(あかし)と爲(な)し一本(ひとはしら)の白旗(しらはた)を立(た)て置(お)かむ。國(くに)の人(ひと)籬垣(ませがき)を結(むす)ひて敬(うやま)ひ、皇威(みいつ)を尊(たふ)み崇(あが)め奉(まつ)らむ。】

~『西寒多神社縁起』~



 その後の應神天皇の御宇【應神天皇(278年)4月】に、天皇は武内宿彌に豐後國への下向を命じて、天照皇大神月讀大神天忍穗耳大神の三柱(みはしら)の神を祀る社殿を、西寒多山本宮山】の頂に建立し、西寒多神社と称するようになったそうです。


人皇十六代應神天皇御宇 奉奏聞宮殿建立願御門有叡聞勅 武内宿彌乃下向豐後國而建立如法宮殿而鎭三座神 正面者天照在 相殿者月讀尊 右相殿者天忍穗耳尊也 故令寄進大分郡而奉號西寒多神社矣

【人皇十六代應神天皇の御宇、宮殿(みや)を建立(たて)む願(ねが)ひを聞(き)き奏で奉(まつ)る。御門(みかど)の叡聞(えいぶん)(あ)り勅(の)りたまはく。「武内宿彌(たけうちのすくね)の豐後國(とよくにのみちのしりのくに)に下向(くだりむか)ひて法(みのり)の如(ごと)く宮殿(みや)を建立(たて)て三座神(みはしらのかみ)を鎭(しづ)めたまへ」。正面は天照(あまてらす)(ましま)す。相殿(あひどの)は月讀尊(つくよみのみこと)。右相殿(みぎのあひどの)は天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)ぞ。故(かれ)、大分郡(おほきたのこほり)に寄進せしめて西寒多神社と號(なづ)け奉(まつ)らむ。】


~『西寒多神社縁起』~


 繼體天皇【袁本杼命(をほどのみこと)】21年(528年)の「新羅の騒動」【磐井の乱】の時、土地の人は信心を怠り、参詣を断ってしまい、社殿は大破するほどになっていました。その時、卜部氏(うらべうぢ)と與巨勢氏(よこせうぢ)によって再興されました。


于時人皇廿七代繼體天皇御宇 同二十一年有國中欲討新羅之騒動 故國人懈信心斷參詣 既當社曁大破矣 結草爲井墻以茅茨覆宮殿數送星霜而内外爲塵刹 于時卜部氏與巨勢氏合心奉恐神威再興

【于時(そのとき)、人皇廿七代繼體天皇の御宇、同二十一年、國中(くになか)に新羅(しらぎ)を討(う)たむと欲(おもほ)す騒動(さわぎ)(あ)り。故(か)れ國人(くにびと)信心を(おこた)り參詣を斷(た)ちき。既(すで)に當社(このやしろ)、大破に曁(およ)ばむ。結草(くさのいほり)を井(ゐ)の墻(かきね)と爲(な)し、茅茨(ぼうし)を以て宮殿を覆(おほ)ひ、星霜(としつき)を數(かぞ)へ送(おく)りて内外の塵刹(じんせつ)と爲(な)す。于時(そのとき)卜部氏(うらべうぢ)、與巨勢氏(よこせうぢ)(こころ)を合(あは)せ恐(かしこ)み奉(まつ)り神威を再興(ふたたびおこ)したまふ。】


 敏達天皇【沼名倉太珠敷命(ぬなくらのふとたましきのみこと)】2年(572年)9月15日、西寒多山の南に幡(はた)のような赤白の八雲(やぐも)があらわれ、西寒多山の樟(くすのき)の梢(こずえ)には、三つの星が現れて光を放っていました。この時に老人が「この霊妙は尊い神である。どうして参詣しないでいるのか」と教え、自ら七日の潔齋をして西寒多山に登り、幣を捧げ國中の貴賤の群衆と恭しく敬い礼拝しました。


 またさらに、11月にも西寒多山に同一の現象があり、西寒多山の頂に石を立て「寶殿」として敬敬うようになったそうです。


 実際に、西寒多神社の参詣に訪れた日、西寒多山の上空に帯(幡)のような棚引雲に彩雲がかかり、私たちを迎えてくださいました(笑)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社②


于時人皇三十一代敏達天皇二年菊月十五日 從西寒多山南上見嶽 起一片雲於中有赤白八雲 即西寒多山奥数町計有一本櫲樟樹 有暫時赤白八雲 如幡留 彼櫲樟樹梢而三星現而放光 數日衆人作希有思 于茲有老人謂其名於繰生清海敎邑人曰 是靈妙尊神也 豈不奉参詣矣 即自七日潔齋而到彼山中 奉捧幣國中貴賤作群衆而恭敬禮拜 又至霜月中五日遷西寒多山放光如前 依之清海於西寒多山頂立石寶殿而奉敬也

【于(こ)の時(とき)、人皇三十一代敏達天皇二年菊月十五日、西寒多山の南(みなみ)より嶽(みね)の上(うへ)を見(み)る。一片(ひとかけ)の雲(くも)の起(お)きる中(うち)に赤(あか)(しろ)の八雲(やぐも)有(あ)り。即(すなは)ち西寒多山(ささむたやま)の奧(おく)数町計(ばか)り一本の櫲樟樹(くすのき)有(あ)り。暫時(にわか)に赤(あか)(しろ)の八雲(やぐも)(あ)り。幡(はた)の留(とどま)るが如(ごと)し。彼(か)の櫲樟樹(くすのき)の梢(こずえ)にして、三星(みつぼし)(あらは)れて光(ひかり)を放(はな)つ。數日、衆人(もろびと)作希有思。于茲(ここに)、老人(をきな)(あ)りて謂(い)ふ。「其(そ)の名に清海を生み繰(く)る」。邑人(むらびと)に敎(をし)へ曰(い)ふ。是(こ)の靈妙尊(たふた)き神(かみ)なり。豈(あに)参詣せず。」即(すなは)ち自(おのず)から七日(なのか)潔齋して彼(か)の山(やま)の中(なか)に到(いた)り、幣(みてぐら)を捧(ささ)げ奉(まつ)り國中(くになか)の貴賤の群衆を作(つく)りて恭(うやうや)しく敬(うやま)ひ禮拜(をろがみまを)す。又(また)、霜月中五日に至(いた)り、西寒多山に遷(うつ)り、光(ひかり)(はな)つこと前(さき)の如(ごと)し。依(より)て清海に之(ゆ)き西寒多山の頂(いただき)に石(いは)を立(た)て寶殿として敬(うやま)ひ奉(まつ)るなり。】

~『西寒多神社縁起』~



 應永15年(1408年)3月に、大友親世によって西寒多山の頂より麓の現在地に遷座され現在に至っています。西寒多山【本宮山】には現在も奥宮として社殿が鎮座しています。


 また、西寒多神社の参道を流れる寒田川には万年橋(まんねんばし)【大分県指定有形文化財】と呼ばれる石造の橋が架かっています。文久2年(1862年)に寒田村の庄屋らが発起し、大野郡柴北村(現在の大分県豊後大野市犬飼町)の石工2代目後藤郷兵衛らによって竣工したそうです。橋長は22.0m、橋幅は3.7mです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社②
万年橋



 万年橋のすぐ横には藤棚もあります。5月上旬には藤の花とその香りに溢れる花道になるのでしょうね。参詣に訪れたこの日は、既に花は終わり新緑の時期を迎えていました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑤
万年橋横の藤棚


 神功皇后の国家叡覧の証蹟を崇敬することにはじまった西寒多神社は、およそ1700年の昔から鎮座する古社です。「豐後國一宮」は、大分郡なのか大野郡なのかは謎に包まれたままですが…。

 ふんわり感ともっちり感をあわせもつ、お好み焼きのような食感のおいしい「たこ焼き」です。

 タコとキャベツの他に、モヤシも入っていて、濃厚なソースがたっぷり&とろ~り。紹介するお店は、北九州市八幡西区相生町に本店をもつ北九州市の「たこ焼きの老舗」の「たこ焼き とみ」の行橋店です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi

たこ焼きとみ 行橋店

[所在地] 福岡県行橋市西宮市4丁目1番1号(地図


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi


 2010年7月20日の昼、行橋市を通りかかったので、立ち寄ってみました。行橋市でも評判のたこ焼き屋さんだそうです。1パック12個入りで450円!ぜひ一度、食べてみてくださいね(笑)

 温泉の街、『湯布院』の盆地は、往古の昔、大きな湖だったそうです。伝説によれば、由布岳の女神の宇奈岐日女神(うなぎひめのかみ)に、湖の干拓を命じられた蹴裂権現が、西の湖壁を蹴り裂いて、現在の由布盆地をつくったと伝えられています。金鱗湖(きんりんこ)は、その名残だそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-金鱗湖


金鱗湖【岳本の池】

[所在地] 大分県由布市湯布院町大字川上(地図


由布盆地の伝説については、こちら へどうぞ!


 また、安土桃山時代の慶長3年(1596年)7月の「慶長の豊後大地震」で、今よりは大きなものだった金鱗湖も、この地震によって少し小さくなり、現在の大きさになったそうです。地震の規模はマグニチュード7.0で、別府湾-日出生断層帯東部の活断層地震だったそうです。別府湾の近郊には津波が押し寄せ、別府湾に浮かんでいた瓜生島(うりゅうじま)という島は海に沈んだとも伝えられているくらい大きな地震だったようです。


 金鱗湖は「岳本の池(たけもとのいけ)または「岳ん下池(たけんしたいけ)とよばれていましたが、明治17年(1884年)に、儒者の毛利空桑がこの地を訪れ、魚の鱗が夕日に輝くのを見て、「金鱗湖」と名付けたのが現在の名称の起こりだそうです。


 周囲は約400m、湖底は緩やかに深くなっていて、最深部は約2mだそうです。「下ん湯」横の温泉水(約30℃)と
天祖神社(てんそじんじゃ)の境内の湧き水、地底深部にある湧き水、合せて1日約23,300㎥の湧き水が混ざり合って、湖水を湛えているそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-由布天祖神社①
天祖神社の境内


 金鱗湖の南東の湖畔には、天祖神社が鎮座しています。由布盆地が大きな湖だった頃、湖に棲んでいた竜の在住を許可した天祖神(てんそのかみ)【天之御中主神】など4柱をお祀りする神社です。


天祖神社

[所在地]大分県由布市湯布院町大字川上字弓矢1750番地(地図

[御祭神]

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 素盞鳴男命(すさのをのみこと)

 軻遇突智命(かぐつちのみこと)

 事代主命(ことしろぬしのみこと)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社⑦  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社⑥



 拝殿の御由緒書きによると、大足彦忍代別命(おほたらしおしろわけのみこと)【景行天皇】12年(82年)、「速津媛(はやつひめ)に勅して皇祖霊神を祀りたるを当神社の創始となす」とあります。


 伝説によると、蹴裂権現が西の湖壁を蹴り裂いた時、湖底に棲んでいた一匹の大きな龍は、急激に湖水が減少したため神通力を失い、身を悶えながら小川を上り、辿り着いた場所です。


 竜は、天祖神に「私は、長い間この湖に住んでいた龍です。湖のすべては望みません。唯、この地に少しばかりの安住の地を与えてください。そうしてくだされば、ここに清水を湧き出させ、永くこの地を護りましょう。」と訴えました。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社②
天祖神社の境内から金鱗湖に注ぐ湧き水



 天祖神は、竜の願を聞き入れ、「岳本の池」【現在の金鱗湖】が残されました。こうして今も「岳本の池」には清水と温泉が湧き出ています。その後、しばらく「岳本の池」に留まった竜は再び神通力を得、雲を巻いて昇天したと伝えられています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社④
金鱗湖に立つ天祖神社の鳥居

 この神社の手水舎の水も湧き水。心が清らかにあらわれそうです(笑)金鱗湖に向かって右側には、大きな御神木もあります。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-天祖神社⑧
天祖神社の御神木


 往古の伝説、金鱗湖に今も湧き出す、温泉と清水は、ここで、宇宙創成の神である天之御中主神と約束した竜の神通力でしょうか?その物語のロマンのなかにある「めぐみ」は、今も由布盆地の大自然を育んでいます。


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 古くは、柚富郷(ゆふのさと)とよばれ、群生する楮(こうぞ)の皮の繊維を利用して木綿(ゆふ)【布地】を生産した土地だったそうです。現在の「由布院」または「湯布院」という地名の「院」は平安時代に租税を収蔵する倉院が設置されたことによるものだそうです。


柚富郷 在郡西 此郷之中 栲樹多生 常取栲皮 以造木綿一 因曰柚富郷

【柚富郷(ゆふのさと)。郡(こほり)の西(にし)に在(あ)り。此(こ)の郷(さと)の中(なか)に、栲(たく)の樹(き)(さは)に生(お)ひたり。常(つね)に栲(たく)の皮(かは)を取(と)り、以(もち)て木綿(ゆふ)を造(つく)れり。因(よ)りて柚富郷(ゆふのさと)と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~


 その「柚富郷」の開拓神をお祀している神社が、宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)です。社殿は、神社の参道の軸線が(北東の)由布岳に向かって参詣できるように建てられています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社①
宇奈岐日女神社の参道

宇奈岐日女神社

[所在地] 大分県由布市湯布院町川上 (地図

[御祭神]

 國常立尊(くにのとこたちのみこと)

 國狹槌尊(くにのさづちのみこと)

 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

 彦波瀲武鸕鷀葺不合尊(ひこなぎさたけうかやぶきあへずのみこと)

 神倭磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)【神武天皇】

 神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)【綏靖天皇】

 宇奈岐日女神(うなぎひめのかみ)【由布岳・遥拝】


 由布盆地には、こんな伝説が残っています。


 大昔の由布盆地は、青く清らかな水を湛える大きな湖で、周囲の山々の姿を静かに湖面に映していたそうです。人々は、湖の周囲の丘や日あたりのよい山麓に村をつくり生活していました。そして、由布岳の女神である宇奈岐日女神は、力自慢の権現をしたがえて山の上からジッとこの広大な湖を眺めていました。


 やがて、倉木山まで歩かれた宇奈岐日女神は、権現に向って、「この湖を干拓すれば、底に肥沃なる土地現れて、多くの民が豊かに暮らせよう。権現よ。お前の力を以ってこの湖の堤を蹴り裂いてみよ」と命じられました。


 権現は女神の前に跪いて、「これは、一生一代の大仕事でございます。ある限りの力をもってお言葉のとおりに」と答え、湖の周囲を一巡りして、西の湖壁に最も薄いところを見付けると、満身の力をふりしぼってそこを蹴り裂きました。すると、湖水は怒涛の音を立てて豊後湾【別府湾】まで奔流し、やがて湖底から現在の盆地が現れました。


 また、この時、湖底に棲んでいた一匹の大きな龍は、急激に湖水が減少したため神通力を失い、身を悶えながら小川を上り、天祖神に訴えました。


 「私は、長い間この湖に住んでいた龍です。湖のすべては望みません。唯、この地に少しばかりの安住の地を与えてください。そうしてくだされば、ここに清水を湧き出させ、永くこの地を護りましょう。」


 竜の願いは聞き入れられ、「岳本の池」が残されました。こうして今も「岳本の池」には清水と温泉が湧き出ています。湖の痕跡には、黒々とした土が現れ、女神はさっそく人々を集めて、お米の作り方や作物の育て方を教えられました。


 山麓に家を建て、狩りをして暮らしていた村の人々は、女神に教えられたとおりに田畑を耕し、作物の種を撒き、あたたかい日ざしと岳本の池から湧き出る清水にめぐまれて、作物の豊穣をもたらしました。


 その後、竜は再び神通力を得、雲を巻いて昇天しました。大足彦忍代別命(おほたらしおしろわけのみこと)【景行天皇】12年(82年)10月、里人は宇奈岐日女神を「由布院開拓の祖神」として、大きな社を建てお祀りしました。これが現在の宇奈岐日女神社のはじまりです。湖壁を蹴り裂いた権現【道臣神(みちのおみのかみ)】は川西の蹴裂権現社(けりさきごんげんしゃ)にお祀りされています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社③
宇奈岐日女神社の神門と社殿

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社④
扁額・「宇奈岐囧女神社」(左)、「宇奈岐日女神社」(右)

 さらに、慶長の大地震で大きな池だった岳本の池も今のように小さくなったそうです。明治時代まで、「岳本の池」とよばれていましたが、儒者の毛利空桑がこの地を訪れ、魚の鱗が夕日に輝くのを見て、「金鱗湖(きんりんこ)」と名付けたのが現在の名称の起こりだそうです。


 境内には、清らかな霊水が湧き出ているポイントがあります。龍の口から注ぐ清水は、由布岳の「めぐみ」そのものです。拝殿・社殿が建つ池にも清水が注ぎ、鯉もゆったりと泳いでいて気持ちよさそう。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑧  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑥
境内の清水

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑩  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑨
池に注ぐ清水

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宇奈岐日女神社⑦
池を泳ぐ鯉たち

 往古の昔、大きな湖だった由布盆地は、今も清水と温泉が湧く「めぐみ」の郷。その「めぐみ」は、由布岳などの大自然に育まれています。宇奈岐日女神は、その由布岳の女神。この神社の拝殿から由布岳を遥拝すると、そっと女神の声が聞こえてきそうです(笑)金鱗湖と天祖神社については、また後日に掲載させていただきます。

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