古くは「豐後國大野郡」。大分県の臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町にまたがる「西寒多」地区に鎮座する西寒多神社(ささむたじんじゃ)は、『豐後國一宮』とする説もある神社です。『豐後國一宮』は大分市寒田(旧・豐後國大分郡)に鎮座する西寒多神社とされていますが、『延喜式』などには…。


豐後國大野郡 一座 大 西寒多神社

~『延喜式 卷十 神名帳』~


豐後國大野郡 西寒多神社 杵原大明神

~『大日本國々一ノ宮』 【祝詞】~


と記され、大分市寒田の西寒多神社の鎮座地は「豐後國大分郡」であることが理由に挙げられています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社①
大野郡 西寒多神社


西寒多神社

[御祭神]

 八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)

 軻遇突智命(かぐつちのかみ)【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)

 少彦名命(すくなひこなのかみ)

 伊邪那美命(いざなみのみこと)

 菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)【天滿天神(あまみつあめのかみ)


[所在地] 大分県臼杵市野津町大字西寒田字神尾392番地 (地図 )

[経緯度] 北緯:33度4分35秒/東経:131度40分6秒


本殿の横にある碑文にも、風化して読みづらくはなっていますが、『延喜式』や『日本三代實録卷十六』などの内容がに刻まれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社③
本殿横の碑文


延喜式云豐後國大野郡一座大西寒多神社 三代實録云

貞觀十一年三月庚辰授豐後國无位西寒多神從五位下

灼然傳之書乃□加□□□□□□□西寒多之神

文化九年十一月從五位下藤原□長宣綱男鶴峰戊申作

【延喜式に云(いは)く。豐後國大野郡(ぶんごのくにおほののこほり)一座大西寒多神社。三代實録に云く。

貞觀十一年三月庚辰(かのえたつ)、豐後國、位(くらゐ)(な)き西寒多神(ささむたのかみ)、從五位下を授(う)く。

灼然(いやちこ)傳之書乃□加□□□□□□□西寒多之神

文化九年十一月從五位下藤原□長宣□男□□戊申作】

~大野郡西寒多神社の碑文~


※碑文の文中の「□」は、読みづらい箇所で現在解読中です。解読が終わりましたら、時折更新させていただきます。


 また、鳥居の額束には「鎭國一宮」の文字が刻まれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社⑤
大野郡 西寒多神社の鳥居の額束

 『延喜式』に「大野郡西寒多神社」と記されていることは前に述べたとおりですが、さらに『龜山隨筆』に「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記されています。


 大野郡の西寒多神社は、大分郡の西寒多神社とともに崇敬を受けていたようですが、中世に衰退していきました。江戸時代になって臼杵藩の崇敬を受け再興され、延享年間(1744~1748年)に鶴峰但馬を神職とし、文化9年(1812年)には「鎮國一宮西寒田神社」の社号を受けたそうです。