古くは「豐後國大野郡」。大分県の臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町にまたがる「西寒多」地区に鎮座する西寒多神社(ささむたじんじゃ)は、『豐後國一宮』とする説もある神社です。『豐後國一宮』は大分市寒田(旧・豐後國大分郡)に鎮座する西寒多神社とされていますが、『延喜式』などには…。


豐後國大野郡 一座 大 西寒多神社

~『延喜式 卷十 神名帳』~


豐後國大野郡 西寒多神社 杵原大明神

~『大日本國々一ノ宮』 【祝詞】~


と記され、大分市寒田の西寒多神社の鎮座地は「豐後國大分郡」であることが理由に挙げられています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社①
大野郡 西寒多神社


西寒多神社

[御祭神]

 八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)

 軻遇突智命(かぐつちのかみ)【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)

 少彦名命(すくなひこなのかみ)

 伊邪那美命(いざなみのみこと)

 菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)【天滿天神(あまみつあめのかみ)


[所在地] 大分県臼杵市野津町大字西寒田字神尾392番地 (地図 )

[経緯度] 北緯:33度4分35秒/東経:131度40分6秒


本殿の横にある碑文にも、風化して読みづらくはなっていますが、『延喜式』や『日本三代實録卷十六』などの内容がに刻まれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社③
本殿横の碑文


延喜式云豐後國大野郡一座大西寒多神社 三代實録云

貞觀十一年三月庚辰授豐後國无位西寒多神從五位下

灼然傳之書乃□加□□□□□□□西寒多之神

文化九年十一月從五位下藤原□長宣綱男鶴峰戊申作

【延喜式に云(いは)く。豐後國大野郡(ぶんごのくにおほののこほり)一座大西寒多神社。三代實録に云く。

貞觀十一年三月庚辰(かのえたつ)、豐後國、位(くらゐ)(な)き西寒多神(ささむたのかみ)、從五位下を授(う)く。

灼然(いやちこ)傳之書乃□加□□□□□□□西寒多之神

文化九年十一月從五位下藤原□長宣□男□□戊申作】

~大野郡西寒多神社の碑文~


※碑文の文中の「□」は、読みづらい箇所で現在解読中です。解読が終わりましたら、時折更新させていただきます。


 また、鳥居の額束には「鎭國一宮」の文字が刻まれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-大野西寒多神社⑤
大野郡 西寒多神社の鳥居の額束

 『延喜式』に「大野郡西寒多神社」と記されていることは前に述べたとおりですが、さらに『龜山隨筆』に「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記されています。


 大野郡の西寒多神社は、大分郡の西寒多神社とともに崇敬を受けていたようですが、中世に衰退していきました。江戸時代になって臼杵藩の崇敬を受け再興され、延享年間(1744~1748年)に鶴峰但馬を神職とし、文化9年(1812年)には「鎮國一宮西寒田神社」の社号を受けたそうです。

 大分県竹田市の仲村川の上流にかかる清滝(きよたき)。この滝に訪れたのは、雨の翌日、少しだけ水量を増していたようですが、清楚に、そして優雅に、降り注ぐ滝水。そこに水飛沫と風の舞う滝。まさに「清滝」の名にふさわしい滝です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-kiyotaki


[所在地] 大分県竹田市直入町長湯 (地図

[高さ幅] 高さ 約35m 幅 約4m


 高さ約35m、滝のすぐ傍では近すぎて、カメラに全体は収まりませんでした。しかし、ここまで来ると、水飛沫が舞い、心地よい風を感じることができます。たぶん、マイナスイオンもたくさんです。滝の左右をよく見回すと小滝も流れています。ぜひとも探してみてくださいね(笑)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入清滝②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入清滝③
清滝の上部と下部

 駐車場には「清滝入口」と記されたゲートがあり、ここから徒歩で約10分で到着します。滝へと進む途中の遊歩道の木漏れ日や仲村川の瀬も清らかな感じを受けました。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入清滝④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入清滝⑤
仲村川と「清滝入口」のゲート

 「清滝」の名のとおり、清楚かつ優雅さをあわせ持つこの滝のもと、日頃の罪・穢を直すべく、『大祓詞【中臣祓】』と『三科祓』を奏上させていただきました(笑

 宮處野神社(みやこのじんじゃ)が鎮座する「宮処野」という(小字の)地名は、景行天皇が土蜘蛛(つちぐも)を征伐する時に、行宮(かりみや)が設置されたことに由来し、現在も宮處野神社の境内の駐車場横には「景行宮跡」が残っている。

 

宮處野 朽網郷所在之野 同天皇 爲征伐土蜘蛛之時 起行宮於此野 是以名曰宮處野

【宮處野(みやこの)、朽網郷(きたみのさと)の野(の)にあり。同(おな)じ天皇(すめらみこと)、土蜘蛛(つちぐも)を征伐(うた)む時(とき)に、行宮(かりみや)をこの野(の)に起(た)てたまひき。これをもちて名(な)を宮處野(みやこの)と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮処野神社①
景行宮跡
 
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社2
景行宮跡にある石碑と案内板

宮處野神社

[御祭神]

 ・大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしろわけのみこと)【景行天皇】

 ・神野親王(かみののみこと)【嵯峨天皇】

 ・日本武尊(やまとたけるのみこと)

[所在地]

 大分県竹田市久住町大字仏原字宮処野1805番地 (地図 )

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑩
宮處野神社の拝殿

 

 『日本書紀 卷第七』や『豐後國風土記』には、景行天皇12年(82年)10月、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に土蜘蛛の情報を聞き征伐に向かったことが記されている。この地に行宮が置かれたのは、「直入郡(なほりのこほり)柏原郷(かしわばるのさと)禰疑野(ねぎの)」に住む土蜘蛛(つちぐも)の打猨(うちさる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)を征伐する時のことだった。

 

禰疑野 在柏原郷之南 昔者纏向日代宮御宇天皇 行幸之時 此野有土蜘蛛 名曰打猨八田國摩侶等三人 天皇 親欲伐此賊 在茲野 勅歴労兵衆 因謂禰疑野是也

【禰疑野(ねぎの)。柏原郷の南に在(あ)り。昔は、纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の御宇(あめのしたしろ)、天皇(すめらみこと)、行幸(いでまし)し時に、この野に土蜘蛛(つちぐも)あり。名(な)を打猨(うちさる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)(ら)と曰(い)三人(みとり)なり。天皇、親(みずか)らこの賊(あた)を伐(う)たむと欲(おもほ)して。この野(の)に在(いま)し、勅(みことのり)して兵衆(いくさびと)を歴(あまね)く労(ね)ぎたまひき。因(よ)りて禰疑野(ねぎの)と謂(い)ふはこれなり。】
~『豐後國風土記』~

 

 景行天皇が設けた、この行宮(かりみや)跡である「景行宮跡」の近くに、後世、景行天皇をお祀りしたのが宮處野神社のはじまりと伝えられる。

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社④
駐車場から宮處野神社(左手)と景行宮跡(右手)を望む


 また、弘仁5年(814年)、社家でもあった、直入郡における擬大領(郡司大領候補職)、朽網郷(吉野)の膳廣雄(かしはでのひろを)の娘(賢媛?)が嵯峨天皇の采女(うねめ)として宮中に奉仕。承和9年(842年)7月、嵯峨天皇(上皇)崩御された時には、來田見郷(きたみのさと)に帰郷の後、剃髪し尼となって嵯峨天皇を供養した。その後、村人らとともに天皇の恩贈の御物を境内の玉垣の内に鎮め奉った。後世に、嵯峨天皇をお祀りした御神域を「擬山陵」というようになり、「嵯峨宮さま」として親しまれるようになったそうだ。

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑤
嵯峨天皇の恩贈を鎮める「擬山陵」

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑨  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑦
宮處野神社の鳥居と神門

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑧
「宮處野神社」の玉垣塀
 
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑪
宮處野神社の本殿

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑭  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-宮處野神社⑬
宮處野神社の古木の社叢

 

[膳氏(かしはでうじ)]
磐鹿六鴈命(いはかむつかりのみこと)を遠祖とし、朝廷の供御(お食事)を主宰した。
景行天皇51年10月、膳臣の遠祖にあたる磐鹿六鴈命が「膳大伴部(かしはてのおほともべ)」の氏姓を賜っている。


冬十月  (中略) 於是 膳臣遠祖 名磐鹿六鴈 以蒲爲手繦 白蛤爲膾而進之。故美六鴈臣之功 而賜膳大伴部
【冬十月、(中略) 膳臣(かしはてのおみ)が遠祖(とほつおや)、名は磐鹿六鴈(いはかむつかり)。蒲を以て手繦と爲(な)し 白蛤の膾を爲(つく)りて進(たてまつ)る。故(かれ)、六鴈臣(むつかりのおみの)の功を美(ほ)めて、膳大伴部を賜る。】
~『日本書紀卷第七』~
その後、「膳臣(かしはでのおみ)」の姓も賜った。

さらに、膳臣(膳氏)は天武天皇13年(684)11月1日に朝臣(あそみ)の姓(氏族の称号)である「膳朝臣(かしはでのあそみ)」を賜る。


十三年十一月戊申朔。
(中略)膳臣。(中略)凡五十二氏賜姓曰朝臣。

【十三年十一月戊申朔。

(中略)膳臣。(中略)凡そ五十二氏、姓を賜る。朝臣と曰ふ。】
~『日本書紀卷第廿九』~


天武天皇12年(683)などと伝える古文書もあり明確な時期は詳らかではないが、凡そ膳國益(かしはでのくにます)の頃より姓を高橋朝臣と称している。よって膳氏と高橋氏は同氏。

参考までに『新撰姓氏録』の文面も原文のまま掲載しておく。

景行天皇巡狩東國供獻大蛤。于時天皇喜其奇美。賜姓膳臣。
天淳中原瀛眞人天皇[謚天武]十二年改膳臣賜高橋朝臣。

~『新撰姓氏録』~

 

 神社の境内に生い茂るスギの大樹、ケヤキ、トチノキ、タブノキなどの古木の社叢は大分県指定の天然記念物です。木漏れ日にあふれ、鳥たちの囀りも心地よい御神域です。

 大分県の佐賀関の「神山(かみやま)」に鎮座し、古くは珍宮(うづみや)と称されていた椎根津彦神(しひねつひこじんじゃ)は、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)【神武天皇】の迎えて、海路の案内人として仕えた椎根津彦命(しひねつひこのみこと)を祀る神社です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社①
椎根津彦神社への参道

椎根津彦神社

[所在地] 大分県大分市大字佐賀関「神山」1812番地(地図

[経緯度] 北緯:33度14分51秒/東経:131度52分46秒

[御祭神]

 椎根津彦命(しひねつひこのみこと)

  槁根津日子命(さをねつひこのみこと)/珍彦命(うづひこのみこと)の御名でもよばれる。

 武位起命(たけいこのみこと)

  …椎根津彦命の御父

 稻飯命(いなひのみこと)

  …鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)の御子で神倭伊波禮毘古命の御兄

 祥持姫命(さかもつひめのみこと)

  …椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃

 稚草根命(わかくさねのみこと)

  …祥持姫命の御子


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社②


椎根津彦神社から佐賀関漁港を望む

 椎根津彦命は、 『古事記』では「槁根津日子」の御名で登場しています。神倭伊波禮毘古命の東征の砌、御船が「速吸門(はやすひなと)」に到着した時、椎根津彦命は亀の甲に乗って釣りをしながら、袖を羽ばたくように動かしながら神倭伊波禮毘古命の御船と遭遇しました。この時、椎根津彦命槁根津日子の名を賜り、潮路を案内する神として仕えました。


故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍 打羽擧來人 遇于速汲門 爾喚歸問之 汝者誰也 答曰 僕者國神 名宇豆毘古 又問 汝者知海道乎 答曰 能知 又問 從而仕奉乎 答曰 仕奉 故爾指度槁機 引入其御船 即賜名號槁根津日子 此者倭國造之祖

【故(かれ)、その國(くに)より上(のぼ)り幸(いでま)しし時(とき)に、龜(かめ)の甲(せ)に乘(の)りて釣(つ)りをしつつ、打(う)ち羽擧(はふ)り來る人、速吸門(はやすひなと)に遇(あ)ひき。しかして喚(よ)び歸(よ)せ「汝(な)は誰(たれ)ぞ」と問(と)ひたまひしかば、「僕(あ)は國神(くにつかみ)ぞ」と答(こた)へ曰(まを)しき。また、「なは、海道(うみつぢ)を知(し)れりや」と問(と)ひたまひしかば、「よく知(し)れり」と答(こた)へ曰(まを)しき。また、「從(したが)ひて仕(つか)へまつらせむや」と問(と)ひたまひしかば、「仕(つか)へまつらむや」と答(こた)へ曰(まを)しき。かれしかして、槁機(さを)を指(さ)し渡(わた)し、その御船(みふね)に引(ひ)き入(い)れ、すなはち名を賜(たま)ひて、槁根津日子(さをねつひこ)と號(なづ)けたまひき。こは、倭國造(やまとのくにのみやつこ)等(ら)が祖(おや)ぞ。

~『古事記 中卷』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社④
椎根津彦神社の拝殿


 さらに、『日本書紀』では、「珍彦」と「椎根津彦」の御名で登場します。「珍彦」は本名、「椎根津彦」は神倭伊波禮毘古命から賜った特別な御名です。亀の甲ではなく、小舟に乗って釣りをしていたと伝えていますが、『古事記』と同じく、潮路を案内する神として仕えたことが記されています。


至速吸之門 時有一漁人 乘艇而至 天皇招之 因問曰 汝誰也 對曰 臣是國神 名曰珍彦 釣魚於曲浦 聞天神子來 故即奉迎 又問之曰 汝能爲我導耶 對曰 導之矣 天皇勅授漁人椎末 令執而牽納於皇舟 以爲海導者 乃特賜名 爲椎根津彦 椎此云辭 此即倭直部始祖也

【速吸之門(はやすひなと)に至(いた)る。 時(とき)に一(ひとり)の漁人(あま)あり。艇(こぶね)に乘(の)りて至(いた)る。 天皇(すめらみこと)これを招(め)して、因(よ)りて問(と)ひて曰(のらしし)く、「汝(な)は誰(たれ)ぞ」。 對(こた)えて曰(まをしし)く、「臣(あ)はこれ國神(くにつかみ)。名(な)は珍彦(うづひこ)と曰(い)ふ。曲浦(わにのうら)に魚(うを)を釣(つ)る。天神子(あまつかみのみこ)の來(きた)ると聞(き)き、故(かれ)(すなは)ち迎(むか)へ奉(まつ)る」。 また問(と)ひて曰(のらしし)く、「汝(な)は能(よ)く我(あ)を導(みちび)かむや」。 對(こた)えて曰(まをしし)く、「導(みちび)かむ」。 天皇(すめらみこと)、勅(みことのり)して漁人(あま)に椎(しひ)の末(さを)を授(さず)け、執(とら)しめて皇舟(みふね)に牽(ひ)き納(い)れ、以(もち)て海(うみ)の導者(みちびきひと)と爲(な)す。 乃(すなは)ち特名(ことな)を賜(たま)ひて、椎根津彦(しひねつひこ)と爲(な)す。椎、これを辭(しひ)と云う。 これ即(すなは)ち倭直(やまとのあたひ)(ら)が始祖(はじめのおや)ぞ。】

~『日本書紀 卷第三』~


 神倭伊波禮毘古命【神武天皇】2年(紀元前659年)春2月に、天皇に椎根津彦命倭国造に任命されました。これを伝え聞いた里人らがその後、小祠を建ててお祀りしたのがはじまりと伝えられています。明治時代までは珍彦命という椎根津彦命の本名に由来して珍宮と称されていたそうです。現在でも、椎根津彦神社の周辺の地名を「神山」と呼び、社地は椎根津彦命の住居跡ともいわれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑤
椎根津彦神社 本殿の脇障子の彫刻

 次に竹位起命は、椎根津彦命の御父で、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)の御子です。鵜草葦不合尊(うかやぶきあへずのみこと)との関係は、同父・異母の弟にあたります。

 『先代舊事本記』には、豊玉姫は子【鵜葺草葺不合命】が端正な事を聞いて、心に哀れみが重く、また還って養いたいと思いましたが、変える事はできなかったので、妹の玉依姫を(彦火々出見命のもとに)遣わして(鵜草葦不合尊を)養わせた時、玉依姫との間に武位起命が生まれたと伝えられています。


是豐玉姬命聞其兒端正 心甚憐重 欲復歸養 於義不可 故還女弟 玉依姬命以來養者矣 即爲御生一兒 則 武位起命矣 此彥火火出見尊子也 母蓋玉依姬乎
【これ豐玉姬命聞其兒端正 心(こころ)(はなは)だ憐(あはれ)み重(おも)く、また歸(かへ)りて養(やしな)はむと欲(おも)ふ。於義不可。かれ女弟を還(かへ)して、玉依姬命(たまよりひめのみこと)を以(もち)て來養者矣 即爲御生一兒 則(すなは)ち 武位起命(たけいこのみこと)矣 これ彥火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子なり。 母(いろは)は蓋(けだ)し玉依姬(たまよおりひめ)

~『先代舊事本記 卷六 皇孫本紀』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑧  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑦
椎根津彦神社の額束と日光に輝きあふれる本殿


 次に稻飯命は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と玉依毘賣命(たまよりびめのみこと)の御子で神倭伊波禮毘古命の御兄にあたります。のちに玉依毘賣命のいる海原に入られたと伝えられています。


是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 娶其姨玉依毘賣命生御子名 五瀬命 次稻氷命 次御毛沼命 次若御毛沼命 亦名豐御毛沼命 亦名神倭伊波禮毘古命 四柱 故御毛沼命者 跳浪穗 渡坐于常世國 稻氷命者 爲妣國而 入坐海原也

【この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、その姨(をば)の玉依毘賣命を娶(めと)りて生(う)みたまへる御子(みこ)の名は、五瀨命(いつせのみこと)。次に稻泳命(いなひのみこと)。次に御毛沼命(みけぬのみこと)。次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)。亦の名は豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)。亦の名は神倭伊波禮毘古命。四柱(よはしら)。かれ御毛沼命は浪(なみ)の穗(ほ)を跳(ふ)みて、常世國(とこよのくに)に渡(わた)り坐(ま)し、稻氷命(いなひのみこと)は、妣(はは)が國(くに)として、海原(うなはら)に入(い)り坐(ま)しき。】

~『古事記 上卷』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑨  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-椎根津彦神社⑩
椎根津彦神社の鳥居と「佐賀関町 神山」

 関アジと関サバで有名な大分市の「佐賀関」。この関アジと関サバの漁場にあたる豊予海峡は潮流の速く「速吸門(はやすひなと)」とよばれていました。この海で亀の甲に乗って釣をしていた神の椎根津彦と神倭伊波禮毘古命【神武天皇】との出逢いの場所がここにあります。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸門
速吸門」の海

 佐賀関に向かう道路脇に見える「速吸門」の海岸もとても綺麗です。写真は途中にある「道の駅 佐賀関」で撮影したものです。漁業の町らしい「海」に関わる神々をお祀りするこの神社は、2600年以上も昔からこの町の産土神として親しまれてきたようです。

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 大分県中津市に鎮座する闇無濱神社【闇無浜神社】(くらなしはまじんじゃ)は、豐國(とよくに)の土地そのものを神としてお祀りする神社です。古くは「豊日別宮(とよひわけのみや)、「豊日別國魂神社(とよひわけくにたまじんじゃ)と称されていましたが、明治5年に現在の「闇無濱神社」に改称されました。


 崇神天皇(すじんてんのう)御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)】の御宇(紀元前97~紀元前30年)の鎮座と伝えられ、豐國(とよくに)全土における産土神(うぶすながみ)・守護神を祀る古い神社です。


 古くは現在地より南の「中の御崎(なかのみさき)」の丸山に鎮座していましたが、建武元年(1334年)3月の頃、「丸山城」(現在の中津城址)の中になり、参詣の不便さから、神卜(占い)によって建武元年5月4日、「下正路之御崎」(現在地)の闇無濱に遷宮され現在に至っています。


後醍醐天皇(ごだいごてんのう)建武元甲戌年三月、豐日別龍王宮(とよひわけりうおうぐう)、丸山(まるやま)の城中(しろのなか)に在(あ)り。貴賤の参詣の便(たより)自由ならず。是の故に神卜を以(もち)て宮地(みやち)を撰(えら)び、本宮の北、中之御崎(なかのみさき)に神宮を遷座し奉る。東西三町南北二町余なり。是より先、祇園の神、下正路之御崎(しもせふぢのみさき)に御鎭座なり。同年五月四日、豐日別太神遷宮、同月五日夜衆會の連歌有り。

~『豐日別宮傳記』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社①
闇無濱神社


[所在地]

大分県中津市大字竜王447番地 (地図


[経緯座標]

北緯:33度36秒39秒/東経:131度11分38秒


[御祭神]

 ◎豐日別宮(本殿中央・本社)

  《崇神天皇御眞木入日子印惠命】の御宇(紀元前97~紀元前30年)鎮祀》

   (中之御座)

   豐日別國魂神(とよひわけくにたまのかみ)

   瀨織津姫神(せおりつひめのかみ)

  《景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしころわけのみこと)】4年(74年)3月鎮祀》

   (豊日別荒魂宮)

   底津海津見神(そこつわたつみのかみ)

   中津海津見神(なかつわたつみのかみ)

   表津海津見神(うはつわたつみのかみ)

  《景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣命】12年(82年)9月鎮祀》

   (右之御座)

   武甕槌神(たけみかづちのかみ)

   經津主神(ふつぬしのかみ)

   (左之御座)

   天兒屋根神(あめのこやねのかみ)

   別雷神(わけいかづちのかみ)


 ◎祗園八坂社(右社殿・向かって左社殿)

  《後醍醐天皇(1318~1339年)の御宇に鎮祀》

   速素佐乃男命(はやすさのをのみこと)

   櫛名田比賣神(くしなだひめのかみ)

  《配祀・鎮祀年代不詳・最古の祭神》

   天忍穗耳神(あめのおしほみみのかみ)

   天穗日神(あめのほひのかみ)

   天津日子根神(あまつひこねのかみ)

   活津日子根神(いきつひこねのかみ)

   熊野樟日神(くまのくすひのかみ)

   多紀理姫神(たぎりひめのかみ)

   狹依姫神(さよりひめのかみ)

   多岐津姫神(たきつひめのかみ)


 ◎住吉社(左社殿・向かって右社殿)

  《仁壽2年(852年)に鎮祀》

   底筒男神(そこつつのをのかみ)

   中筒男神(なかつつのをのかみ)

   表筒男神(うはつつのをのかみ)

   安曇磯良(あずみのいそら)


 ◎惠比須社(拝殿東側・境内社)

  《天明5年(1785年)鎮祀》

   八重事代主神(やゑことしろぬしのかみ)

  《合祀・御祖社・天明3年(1783年)鎮祀》

   天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

   高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

   神産巣日神(かむむすひのかみ)

  《合祀・厳島社・天保元年(1830年)鎮祀》

  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)


 ◎金刀比羅社(拝殿東側奥手・境内社)

  《嘉永元年(1848年)3月鎮祀》

   大物主神(おほものぬしのかみ)


 ◎稲荷社(境内参道沿・境内社)

  《明治15年(1882年)鎮祀》

   宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社②
祇園八坂宮と豊日別宮、神紋の「丸に澤瀉」

 闇無濱神社の本社「豐日別宮」に鎮祀される豐日別國魂神は、“豐日別(とよひわけ)の國の魂の神”の意で、「豐日別」とは、豐國の古称です。その『豐國』を守護する土地(産土)の神、『豐國』(豊前國と豊後國)を守護する神なのです。『古事記』には次のように記されています。


次生、筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。自久至泥以音。熊曾國謂建日別。曾字以音。

【次に筑紫嶋を生みたまひき。此(こ)の嶋(しま)も身(み)一つにして面(おも)四つあり。面(おも)ごとに名あり。故(かれ)、筑紫國(つくしのくに)を白日別(しらひわけ)と謂(い)ひ、豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾國(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)と謂ふ。】

~『古事記 上卷』~


 往古の昔、九州は『筑紫嶋(つくしのしま)と呼ばれ、筑紫國・豐國・肥國・熊曾國の4つの國でしたが、後に筑前國・筑後國・豐前國豐後國・日向國・肥前國・肥後國・薩摩國・大隅國の9つの國に分置されため「九州」とも呼ばれるようになりました。


 この伊耶那岐命(いざなぎのみこと)伊耶那美命(いざなみのみこと)の国生みにお生まれになった『筑紫嶋』【九州】のうち「豐國を豐日別と謂ひ」とある『豐日別』こそが闇無濱神社の御祭神の豐日別國魂神なのです。


 次に、瀨織津姫神(せおりつひめのかみ)は、「祓戸大神(はらへどのおほかみ)のうちの1柱の女神で、伊邪那岐命が「竺紫日向小戸阿波岐原」で「禊祓」をされた時に「成った神」と伝えられています。『大祓詞』には、祓戸大神として瀨織津姫神速開津比賣神氣吹戸主神速佐須良比賣神の4柱の神々の名があげられています。瀨織津姫神の働きを『大祓詞』(おほはらへことば)は次のようにあげられています。


高山(たかやまのすゑ)短山與里(ひきやまのすゑより)佐久那太理落多岐都(さくなだりにおちたぎつ)速川須(はやかはのせにます)瀨織津比賣(せおりつひめというかみ)大海原持出傳奈牟(おほうなばらにもちいでなむ)

~『大祓詞』(おほはらへことば)抜粋~


 瀨織津姫神は、「高い山、低い山から湧き流れる水の、滾(たぎ)り落ちる流れの速い川の瀬にいらっしゃって、(罪・穢れを)海へと持ち出す」神なのです。


 『豐日別宮傳紀』に、瀨織津姫神は伊奘諾尊が日向の橘の小戸の檍原に禊祓をされた時、左の眼を洗ったことによって成り生れた太陽の神の大日孁貴(おほひるめのむち)【天照大神(あまてらすおほみかみ)】の荒魂(あらみたま)【活動的で盛んな魂】と伝えられています。中津にお姿をあらわされた時、白龍のお姿をあらわされたので「太神龍」というと伝えています。闇無濱神社の「竜王宮」という別称もこれに準ずるものです。


瀨織津姫神は、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の檍原(あはぎはら)に秡除(はらへ)し給ふ時、左の眼(みめ)を洗ふに因(よ)りて以(もち)て生(あ)れます日(ひ)の天子(あまつみこ)大日孁貴(おほひるめのむち)なり。天下(あめのした)化生(なりあれ)ませる名(みな)を天照太神荒魂(あまてらすおほみかみのあらみたま)と曰(まを)す。所謂(いはゆる)秡戸神(はらへどのかみ)瀨織津比咩神(せおりつひめのかみ)(これ)れなり。中津(なかつ)に垂迹(あとたる)時に白龍の形に現(あらは)れ給(たま)ふに依(よ)りて、太神龍(たいしんりう)と稱(まを)し奉(まつ)るなり。

~『豐日別宮傳紀』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社④
境内社の蛭皃宮、豊日別宮周辺古図

 少し長いですが…(笑)

 中央の御殿に9柱の神々がお祭されるまでの御由緒を抜粋して紹介させていただきます。


「老人」の神託

 ある朝、彦雄がこの地(中津)の北浜で身滌(みそぎ)をしていると1人の老人が現れて、「汝は知るまいが、この地は西に川水がめぐり流れ、朝夕に潮がさかのぼる清らかなところである。神代より豐日別國魂神がお姿を現し示された霊地である。雑草を刈り払い、境を立て、神を祀るがよい」と申されました。老人と彦雄は数百歩をともに歩き、神を祀るべきところを中津川の東岸に示し定められました。


 一朝(あるあさ)、彦雄、此(こ)の地(ところ)の北濱(きたはま)に到(いた)りて、秡除(はらへ)して悠然として座す。老人來(きた)り告げて曰(いは)く「汝(いまし)知らずや、この地(ところ)の西の河水(かはみづ)(めぐ)り流れて、朝夕(あさゆふ)の潮沂(しほさかのぼ)り湛(たた)へて清浄(きよらか)なり。神代(かみよ)より豐日別國魂神、姫太神(ひめおほかみ)垂迹(あとたれ)たまふ靈區(あやしきちまた)なり。荊棘(うばら)を披拂(はら)ひ境内(さかひ)を分ちて、齋(いつ)き奉(まつ)るべし」と謂(い)ひて、則ち老人、彦雄と相共(あひとも)に歩(あゆみ)を進め数百歩ばかりにして、祭祀を致すべき其の処に見(まみ)えしむ。中津川東岸なり。

~『豐日別宮傳紀』~


「明鏡」の御験

 また老人(の姿をした神)は、「神霊の降りる時が近づく時、潔斎して待てば、必ずに神の御姿を見ることがあるでしょう」と申されたので、彦男は不思議に思い老人の名前を問うと老人は、「吾が名は後にわかるであろう。吾が形はあとにみるであろう。天皇から万民にいたるまでを守護しよう。これを御験とせよ」と告げて、懐から2面の明鏡を取り出し彦男に与えました。彦男は斎戒して、その鏡を川辺の松の枝に掛け3日3夜祈り続けました。


 老人亦曰く、「大神(おほかみ)の靈(みたま)感ずる時に至り、潔齋(ものいみ)を發(いた)せ、忽ち神躰を見る事あらむ。」彦雄怪みて姓名を問ふ。老人曰く、「吾が名は後に知らむ、吾が形は後に見む。或は乙女(をとめ)・童形(わらべ)となり、亦、老人・神龍となり、天(あめ)に上(のぼ)り地(つち)に入(い)り山海(やまうみ)に止(とどま)り、至らざる所無くして、上は皇(すめらぎ)より下は万民を守護(まも)るなり。汝是れを以て、驗(しるし)となすべし」と謂ひて、懐中より明鏡二面を出し畀(あた)へ去る。彦雄、齋戒して靈畤(まつりのには)を河の辺(ほとり)に定め、老人授くる所の鏡を松の枝(え)に掛け、三日三夜北面してこれを祈る。

~『豐日別宮傳紀』~


「三葉の松」と「闇無濱」の地名譚

 その満願の日の未明、東方から白雲に乗り「日輪の像」【太陽光を後光として】に照らされる女神があらわれ、「三葉の松」の上から、あたかも昼間のようにあたりを明るく照らしました。これが、御神木の「三葉の松」と「闇無濱」の地名譚です。


 滿日の未明に日輪の像を戴ける神女、白雲に乘(の)り東方より三葉の松の上に降る〔此の時より三葉の松、神木となす。今に存す〕。其の光四隅を照し、恰(あたか)も日中の如し。
~『豐日別宮傳紀』~


老人、瀬織津姫神として顕現

 その女神が申し上げるには「汝は天つ神の遠孫であるため心も素直である。日向國よりこの國に来て、百姓を導き、…(中略)…我は天照太神の荒魂の瀬織津姫神である。この豊日別宮と同じ宮に鎮座して、遠い蕃の寇を防ぎ、天の災いもはらい除けようと思う。先日、汝に授けた鏡は2柱の神の影である。これを斎祭せよ。万の事も2柱の神の神告である」と言い終わると、そのまま白龍になって飛び去りました。今、その飛び去った所を「龍筒瀨(りうづせ)」といいます。彦男は歓喜して神を手厚く祀り、多くの里人は神の示現の姿を見て、大変不思議にありがたく思い、社殿を中津川の東に造営し、神鏡を安置しお祀りしました。


彦雄、再拜稽首す。太神(おほみかみ)告げて曰(まをさ)く、「汝(いまし)は天神(あまつかみ)の遠孫(をちみまご)なる故(ゆゑ)に、心神(こころ)も正直なり。日向國より此の國に來り、百姓(おほみたから)を導き西の偏土(ほとりのくに)と雖(いえど)も安く鎭(しづ)め仕へ奉(まつ)る叓(こと)を、天祖神(あまつみおやのかみ)知食(しろしめ)す。吾は天照太神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらみたま)、瀨織津姫神なり。此の豊日別神と同じ宮に鎭(しづま)り座(ましま)して、遠き蕃(ほとり)の寇(あだ)を防ぎ、天の災地の災をも攘(はら)ひ除かむと思ふ。先の日、汝に授けの明鏡は二柱の神の影(みかげ)なり。宜しく齋(いつ)き祭禮(まつる)べし。萬(よろづ)の叓も二柱の神の告(みつげ)なり」と云ひ訖(をは)りて、即ち、白龍と現じ金光映徹して飛び去る〔其の處、龍筒瀬と名づく。今に存す〕。彦雄、感喜隨に徹し、頭面禮足す。神の現形の日、諸人(もろびと)見て甚(はなはだ)奇異(あやし)とす。故に衆人(もろびと)力を戮(あは)せ社(やしろ)を中津河の東に営み、神鏡を安置し奉りこれを祭る。彦男の子、奇彦(くしひこ)、專(もは)ら神祠に仕ふる事を業(わざ)とす。

~『豐日別宮傳紀』~


「霊烏石」と神託

 崇神天皇の御代、奇彦の時、1人の児童に神懸りして「私は、西の海の中津瀬に出生し、この場所に姿をあらわした。今からこの場所を「中津川」と名づけよ。昔を想うに遥かに遠く久しい。今から、ここに鎮まり中津川の川合の沖の海の潮合のほとりに居て、2日も3夜も昔のことを偲びたい」と歌い舞して倒れ伏せました。

 この神託を受けて里人は相談しあい「神託に疑いなし」と思って、奇彦と児童とともに北浜の御崎に歩いて行くと、白烏が渚の石の上に飛んで来ました。この石を「霊烏石(れいうせき)」といい(現在も闇無濱神社の豊日別宮と祇園八坂宮の間の後方にあり)ます。

 児童がにわかに叫んで、「ああ、これは川合の潮合の所だ」と。里人らは神託のままに葦葺きの権殿(かりどの)を造って、3月5日、御神体を御崎の行宮に渡御して神膳と神酒などを献上して、神楽を奏上しました。

 この夜、権殿前の海上に龍灯が2行(つら)に燃え盛り、祀り庭を昼間のように照らしました。龍灯を見た人たちは驚き怪しんで、その翌日に龍筒瀬に行って、龍神に神供を献上し船中で神楽を奏上しました。

 その後、1人の美女が水晶の美しい玉を赤い袖に包んで神前に献上しました。奇彦が怪しんで名を問いましたが、答えずにどことも知れず姿を隠しました。権殿に2夜3日宿泊し、本宮に還御しました。以来、毎年この祭りが行われるようになりました。


崇神天皇御宇、太神(おほかみ)、兒童(こわらべ)に憑(かか)りて宣(のたまは)く、「吾れ西の海の中津瀨より化生(なりあれ)て、此の所に迹(あと)を埀(た)る。今より此の處を中津川(なかつがは)と號(なづ)くと。昔を想ふに悠(はるか)に遠く久し。今(いま)(ここ)に鎭り居て、中津川の川相(かはあひ)に澳津海(おきつうみ)の潮相(しほあひ)の辺に、二日も三夜も到りて、今を以て古(いにし)へを見む」と歌舞して倒る。是に於て、郷人(さとひと)(はかり)して曰(いは)く、「神託(みつげ)疑ひ無し。」然れども未だ通ぜざる事有り、因りて奇彦、兒童と共に、北濱の御崎に至る。忽ち白烏(しろからす)、州崎の石上に飛び降る(此の時より霊烏石[れいうせき]と號く有り)。兒童見て俄かに叫びて曰く、「呼嗚(ああ)是れ川相潮相の處なり。」告げて亦(また)(ものい)はず。郷里の耆老、神託に感じて、此の處に葦葺(あしぶき)の権殿(かりどの)を構え、三月五日御神体を御崎の行宮(あんくう)に渡し奉る。神膳神酒(みけみき)等を獻(たてまつ)り神樂(かぐら)を奏(まを)す。此の夜、権殿の海上に龍燈、二行(ふたつら)に燃ゆ。祭庭白日の如し。聚(あつま)り観る者、甚(はなはだ)驚怪す。明日に至り、神供を龍神に獻り、龍箇瀨に至りて舟中より神樂を奏す。其の後、美女一人水晶の璞玉(あらたま)を紅(あか)き袖に包み、神前に獻ず。神官怪みて其の名を問ふ。答へず。諸人の群中に紛(まぎ)れ入りて形を隠る。権殿止宿二夜三日にして還御、此の時より毎歳是の祭在り。

~『豐日別宮傳紀』~


海津見神の神託と鎮祀

景行天皇4年(74年)3月、里人が中津川の東岸で遊んでいると、3歳の童児がにわかに狂い、並みの上を陸上のように走って来て、下御崎の海に立ちました。この場所は海童崎、または海祖崎といいます。童児は「吾は檍原(あはぎはら)の潮の中に生まれた神、名は中津少童神(なかつわたつみのかみ)。昔からこの場所に住んでいるが、吾を知る人はいない。今から豊日別荒魂宮(とよひわけあらたまのみや)に住もうと思う。それで今、ここにあらわれた。」といい終わって倒れました。この神託で豊津彦は、中津少童神、底津少童神、表津少童神の三神を「豊日別荒魂宮」にお祀りし、豊日別國魂宮は、豐日別國魂神瀨織津姫神とあわせて5柱の神を祀る神社になりました。


景行天皇四歳甲戌三月。郷里の諸民、中津川の東岸に於て終日、逍遙す。ときに三歳の兒童、俄に狂言して波を走る事、陸地(くがち)の如くにして下の御崎に到り海中に立つ。此の處、海童崎と號く。又、海祖崎とも號く。西に指(ゆびさ)して云(のたまは)く、「吾は是れ檍原(あはぎはら)の潮(うしほ)の中に生(あ)れます神、號は中津少童神(なかつわたつみのかみ)。昔より此の處に住むと云(い)へども、我を知る人無し。今より豐日別國魂荒魂宮(とよひわけあらたまのみや)に住まむと思ふ。是の故に今爰(いまここ)に顯(あらは)ると、云(い)ひ畢(をは)りて倒る。此の神託に因(よ)りて豐津彦、即ち中津少童神、底津少童神、表津少童神の三神(みはしらのかみ)、本宮と合せ祭りて神體を鎭座し奉る。以て上五座の神なり。

~『豐日別宮傳紀』~


景行天皇の詣宮と四座の神の鎮祀

 景行天皇12年9月、天皇が九州の賊徒の討伐をされた時に、物部夏花(もののべのなつはな)を派遣され、大勝彦(おほすぐりひこ)を召して戦勝を祈られました。この時、夏花が「この国は、辺境にあるが皇命に従わない者はない。土蜘蛛がいて、自己の強力任せに、山や川の険しい要害に居て人民をかすめる。朕は、兵を動かしこれを討伐したい。…中略…武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、別雷神を祀れ」と4柱の神威による戦勝を祈るように命じられました。勝彦は、弟の永彦ら12人とともに7日間の祈祷をすると、土蜘蛛はことごとく滅亡しました。景行天皇は重ねて幣帛を勝彦と神人らに賜い、勝彦は萱葺の社殿を本宮の側に造営し、4坐の神を祀りました。


同十二年壬午九月。天皇、物部夏花を遣(つかは)しめて、豐日別宮に詣(いた)らしむ。夏花、中津に到り、大勝彦を召して詔(みことのり)を宣(の)べて曰く、「此の國、辺境に在りて皇命に從はざる者無しと雖(いえど)も土蜘蛛(つちぐも)在りて己が強力を恃(たの)み、山川の險(けわ)しき要害に居て人民を椋(かす)む。朕、兵(いくさ)を動かしこれを伐(う)たむこと安し。然れども百姓(おほみたから)の愁(うれ)ひ鮮(すくな)からず。天皇、畏(おそ)るる所なり。今、神祇(かみがみ)の靈之威(みたまのふゆ)を頼みて、甲兵を煩(わずらは)ず賊虜(あだ)を誅(つみな)はむ事、神の手に有り。汝、勝彦、皇命を以て大神宮に武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、別雷神を祀れ」と。勝彦、永彦、神人十二人、共に神宮に参籠して一七日(なのか)(これ)を祈る。已(すで)にして土蜘蛛の賊徒等悉く滅ぶ。天皇、左右に詔して、重ねて幣を大勝彦、神人に賜ふ。勝彦、國民に命じ、萱葺の社を本宮の左右に造る。四座の神の神躰を安置し奉る。此のとき、三社南西に相並び、神威益々新なり。左の御殿、兒屋根命、別雷神。右の御殿、武甕槌神、經津主神なり。

~『豊日別宮傳記』~


 以上が、中央の本社にお祀りされている神々の鎮祀までの御由緒です。住吉宮と祇園八坂宮についてはまた後日、紹介させていただきます。


 豊前・豊後の産土神として鎮祀され親しまれてきた「豊日別國魂神社」(闇無濱神社)は、宇佐神宮が造営される遥か昔から鎮座し、宇佐國造(うさのみやつこ)も垂仁天皇33年(4年)8月に参詣し神前にて神代以来の話をされたことが『豊日別宮傳記』に記されています。私的には、この闇無濱神社を「豊前國一宮」にしたいところです(笑) 他にも、奈良時代の僧、行基(ぎょうき)や歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)など多くの著名人が参詣した鎮座2100年を越える古社です。

 いにしえの昔は、豐前國の上三毛郡(かみつみけのこほり)と築城郡(ついきのこほり)の郡境にあたり、豊前海を望む丘陵地にあり、近年はテレビや新聞でも話題の「河津桜」(カワヅザクラ)の銘スポット。福岡県豊前市の静豊柑橘園(せいほうかんきつえん)の園内には約600本の河津桜が植えられているそうです。この農園は、特別養護老人福祉施設の「望海荘」の隣に位置し、豊前海や豊前市・築上町を見下ろせる高い場所にあります。染井吉野などに比べて1か月ほど早く咲く早咲きの品種、「河津桜」は、10年ほど前に園内に植えられたそうです。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜③
園の中腹?にある大きな河津桜

河津桜カワヅザクラ

 [学名] Prunus lannesiana Wils. cv. Kawazu-zakura

 

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜①  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑤


 濃紅色の寒緋桜(Prunus cerasoides var. campanulata)と早咲きで白色の大島桜(Prunus lannesiana var. speciosa)の自然交配種といわれている桜です。

河津桜の原木が、静岡県賀茂郡河津町にあることから、昭和49年(1974年)に河津桜と命名され、昭和50年(1975年)に河津町の木に指定された品種だそうです。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑦

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑧  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑥


 たくさんのミツバチたちも河津桜の蜜集めに忙しそう…。ミツバチの足にはたくさんの花粉がついています。ブ~ンと羽音が聞こえてきませんか?(笑)

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑪ 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑨


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-静豊柑橘園の河津桜⑩


 園内から望む豊前海と河津桜と菜の花の景色。園の奥へ進むと菜の花の黄色い絨毯が広がり、河津桜の花の色をやさしく包み込んでいるようです。この日は少し曇り空でしたが、晴れた日は青い海の色もきれいに見えるはずです。


静豊柑橘園
[所在地] 福岡県豊前市大字松江1121番地1(地図


 微かに白色の濃淡のある鮮やかな桃色の「河津桜」は、2010年3月5日現在9分咲き程度でした。毎年2月中旬~3月下旬まで、静豊柑橘園の園内が一般公開され自由に見物できます。

 福岡県行橋市の元永山【標高76.3mの丘陵】の中腹に社殿を並立させ、拝殿・廻廊などの境内を共有して鎮座する大祖大神社(たいそだいじんじゃ)今井津須佐神社(いまゐづすさじんじゃ)は、城郭を連想させる建築構造が魅力的な神社です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社② 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社①
大祖大神社・今井津須佐神社の境内入口
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社③
大祖大神社・今井津須佐神社の拝殿

[所在地] 福岡県行橋市大字元永字元永山1299 (地図 )  
[経緯度] 北緯:33度43分11秒/東経:131度0分36秒
[御祭神]
 ○大祖大神社(たいそだいじんじゃ) 南の社殿
   ・天之御中主之大神(あめのみなかぬしのかみ)
   ・高御産靈大神(たかみむすひのおほかみ)
   ・神御産靈大神(かむみむすひのおほかみ)

 ○今井津須佐神社(いまゐづすさじんじゃ) 北の社殿
   ・建速須佐之男大神(たけはやすさのをのおほかみ)
   ・奇稲田比売大神(くしなだひめのおほかみ)
   ・八王子大神(はちおうじおほかみ/やつはしらのみこのおほかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑲

鳥居の扁額「大祖大神社」と「須佐神社」


 大祖大神社の草創は、「太古この地に天地(あめつち)の神霊(みたま)を祀り」、のちの天暦6年(952年)に、「妙見神(造化三神)とす」とあります。「造化三神」とは、『古事記 上卷并序』の序第一段に…。


夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分、參神作造化之首。

【それ、混元(こんげん)(すで)に凝(こ)りて、氣象未(いまだ)(あらは)れず。名(な)もなく爲(わざ)もなし。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、參神造化の首(はじめ)と作(な)り。】

~『古事記 上卷并序』 序第一段~


とあり、天之御中主之大神高御産靈大神神御産靈大神の3柱をいいます。天と地のはじめの、その天と地が定まった時、高天原に成り出た神々です。さらに、『古事記 上卷并序』の本文の冒頭に…。


天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。次、高御産巣日神。次、神産巣日神。
【天地(あめつち)(はじ)めて發(おこ)りし時(とき)に、高天原(たかあまのはら)に、成(な)りませる神(かみ)の名(な)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。】
~『古事記 上卷并序』~


さらに『古語拾遺』に…。


天地割判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。次、高皇産靈神。古語、多賀美武須比、是、皇親神神留技命。次、神産靈神。是、皇親神留彌命。
【天地(あめつち)割判(わかれひら)くる初(はじめ)に、天(あめ)の中(なか)に生(あ)れます神(かみ)、名(な)は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と曰(まを)す。次、高皇産靈神(たかみむすひのかみ)古語(ふること)に、多賀美武須比(タカミムスヒ)、これ皇親神神留技命(すめむつかむろぎのみこと)。次、神産靈神(かむむすひのかみ)これ皇親神留彌命(すめむつかむろみのみこと)。
~『古語拾遺』~


と記される天之御中主神高御産靈大神神御産靈大神。天と地のはじまりに高天原に成った神で、太古の宇宙のはじまり、そして、動植物をはじめとするすべての生命、すべての物や事のはじまり、その神霊を産み育む「めぐみ」とその力の神を祀り、元永・長井地区の氏神として草祀より元永山に鎮座しています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津大祖大神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津大祖大神社①
大祖大神社の扁額と拝殿


 須佐神社は、建長6年(1254年)、祓川河口の今井津に疫病が大流行した時、地頭職らが京都の八坂神社より祇園社を豊前国の今井津【現在の行橋市今津金屋】に勧請し祀ったところ霊験があらたかだったので、翌年からその御礼として神事を執り行ったのが、(現在は例年7月15日~8月3日まで執り行われる)「今井祇園」がはじまったと伝えられています。以来、無病息災・厄除開運を祈願する多くの参詣者が訪れ、この神社より豊前、豊後、筑前、筑後など、北部九州に多くの分社(約200座)が勧請されたとされる「北部九州の祇園信仰の中心神社」です。天正年中(1573年~1593年)に現在地に遷座されたそうです。 旧社号は今井津祇園社(いまゐぎおんしゃ)。今でも「須佐神社」、「今井祇園」、「今井の祇園さん」、「今井の祇園さま」とよばれ親しまれています。また、昌泰元年(898年)に須佐神社を草祀したとする説もあります。


 さて、八王子大神とは、建速須佐之男大神の御子で、①多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)【亦の名は、奧津嶋比賣命(おきつしまひめ)】、②市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)【亦の名は、狹依毘賣命(さよりびめのみこと)】、③多岐都比賣命(たきつひめのみこと)、④正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、⑤天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、⑥天津日子根命(あまつひこねのみこと)、⑦活津日子根命(いくつひこのみこと)、⑧熊野久須毘命(くまのくしびのみこと)です。『古事記』には次のように記されています。


故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劔、打折三段而、奴那登母母由良邇此八字以音、下效此。振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而自佐下六字以音、下效此。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命。此神名以音亦御名謂奧津嶋比賣命。次、市寸嶋比賣命。亦御名謂狹依毘賣命。次、多岐都比賣命。三柱、此神名以音。
速須佐之男命、乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纏右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纏御鬘之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纏左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纏右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命并五柱、自久下三字以音
【故爾(かれしか)して各(おのもおのも)天安河(あめのやすかは)を中(なか)に置(お)きて、うけふ時(とき)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、先(ま)づ建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)かせる十拳劔(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打(う)ち折(お)りて、ぬなとももゆらに天之眞名井(あめのまなゐ)に振(ふ)り滌(すす)きて、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は奧津嶋比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(い)ふ。次(つぎ)に、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は狹依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂(い)ふ。次に、多岐都比賣命(たきつひめのみこと)三柱。
速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の左(ひだり)の御(み)みづらに纏(ま)かせる八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、ぬなとももゆらに天之眞名井(あめのまなゐ)に振(ふ)り滌(すす)きて、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。また右の御みづらに纏(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、天之菩卑能命(あめほひのみこと)。また纏(ま)かせる御鬘之珠(みかづらのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)。また左(ひだり)に纏(ま)かせる御手之珠(みてのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、活津日子根命(いくつひこねのみこと)。また右に纏(ま)かせる御手之珠(みてのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)并五柱。】

~『古事記 上卷并序』~


 さらに、八俣遠呂智(やまたのをろち)退治の後、建速須佐之男命が、櫛名田比賣命(くしなだひめのみこと)と御成婚されて、お生まれになった⑨八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)。神大市比賣命(かむおほいちひめのみこと)と御成婚されて、お生まれになった⑩大年神(おほとしのかみ)、⑪宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)も須佐之男命の御子です。


故其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。自士下三字以音。下效此。又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神、次、宇迦之御魂神。二柱、宇迦二字以音。

【かれ、その櫛名田比賣(くしなだひめ)を以(もち)て、くみどに起(おこ)して、生(う)みたまへる神(かみ)の名(な)は、八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)と謂(い)ふ。また大山津見神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)、名(な)は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶(めと)りて生(う)みたまへる子(こ)、大年神(おほとしのかみ)、次(つぎ)に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)二柱。


 少し余談ですが、この後、八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)が木花知流比賣命(このはなのちるひめのみこと)と御成婚されて、布波能母遲久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)。布波能母遲久奴須奴神が、日河比賣命(ひかはひめのみこと)と御成婚されて、深淵之水夜禮花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)。深淵之水夜禮花神が、天之都度閇知泥神(あめのつどへちねのかみ)と御成婚されて、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)。淤美豆奴神が、布帝耳神(ふてみみのみこと)と御成婚されて天之冬衣神(あめのふゆきぬのみこと)。天之冬衣神が、刺國若比賣命(さしくにわかひめのみこと)と御成婚されて、大穴牟遲神(おほあなむぢのかみ)【のちの大國主神(おほくにのかみ)】と子孫の系譜が続きます。これを「須佐之男五代」といいます。


 話を元に戻します。またさらに、大穴牟遲神が須佐能男命(すさのをのみこと)いる「根の堅州國(ねのかたすくに)」を訪れた時には、須佐能男命の娘として⑫須勢理毘賣命(すせりびめのみこと)の名もでてきます。この御子をあわせると12柱になりますが、「八」は神聖な数で、「多数」の意味をあらわす数で、神話の中でもしばしば用いられています。つまり、「八王子大神」とは「(建速須佐之男命の)多数の御子の大神」という意味です。これが、神仏混淆の「牛頭天王(ごずてんのう)」の「八王子大神」ならば、生廣(しょうこう)、魔王(まおう)、倶摩羅(くまら)、達儞迦(たつにか)、蘭子(らんし)、德達(とくたつ)、神形(じんぎょう)、三頭(さんず)の八王子をさします。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社④
今井津須佐神社の扁額と拝殿

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑬

大祖大神社・今井津須佐神社の境内図

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑨
最初の鳥居を抜け境内に入ると、2番めの鳥居の先に西から東に続く階段が見えます。
階段を上りきると城郭のような石垣の上に築かれた廻廊が…。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑧  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑦
石垣と廻廊を右手に、写真の鳥居を後手に北へ進みます。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑩  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑫
再び西から東へ。石垣と廻廊を抜ける階段を上ります。

拝殿には松・竹・梅と龍・雲・神紋の桜などの彫刻が施されています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑭
拝殿の彫刻

拝殿中央の彫刻。小笠原家の家紋「三階菱」を松が囲み、その下に龍の彫刻があります。
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑰  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑭

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑮  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑯
梅【左側】と竹【右側】の彫刻。梅と竹の下にも龍の彫刻があります。

 この神社を訪れた日、境内には桃色の梅もきれいに咲いていました。白い梅の花もいいですが、桃色の梅の花もまたいいですね。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社の梅
境内の梅の花


 須佐神社の神紋は「五瓜に唐花」、大祖大神社の神紋は「桜」です。境内には桜の木も植えられています。もう少し暖かくなれば、境内も桜の花で華やかになります。

 福岡県田川市夏吉に鎮座する若八幡神社は、景行天皇(けいこうてんのう)の御宇の夏吉地域開発の祖神とされる地主神の神夏磯媛(かむなつそひめ)を祀り、その後裔で神功皇后の暗殺を企てた夏羽(なつは)田油津媛(たぶらつひめ)の御霊を鎮めるために八幡大神(はちまんおほかみ)を祀る神社です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社①
若八幡神社の鳥居と境内


[所在地] 福岡県田川市夏吉1636 (地図

[経緯度] 北緯:33度39分33秒/東経:130度49分24秒

[御祭神]

 神夏磯媛(かむなつそひめ)

 仁徳天皇(にんとくてんのう)【大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

 応神天皇(おうじんてんのう)【八幡大神/品陀和氣天皇(ほむだわけのすめらみこと)

 神功皇后(じんぐうこうごう)【息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと)

 小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)


 御祭神の神夏磯媛は景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)】の御宇、12年(82年)9月5日、天皇が周芳娑麼(すはのくにのさば)【山口県防府市佐波】に到着された時に、磯津山【北九州市小倉南区の貫山】の榊を抜きとり、上の枝に八握釼(やつかつるぎ)をかけ、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたかがみ)をかけ、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)をかけ、素幡(しらはた)を船の舳(へ)に立てて出迎え、菟狹川上(うさのかはかみ)【宇佐郡の駅館川の上流】の鼻埀(はなたり)、御木川上(みけのかはかみ)【三毛郡の山国川の上流】の耳埀(みみたり)、高羽川上(たかはのかはかみ)【田川郡の彦山川の上流】の麻剥(あさはぎ)、緑野川上(みどりののかはかみ)【企救郡の紫川の上流】の土折猪折(つちおりゐおり)という皇命に従おうとしない者の情報を提供し、筑紫(九州)平定に寄与した一国の首長です。『日本書紀』は次のように伝えています。


九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。時天皇南望之。詔羣卿曰。於南方烟氣多起。必賊將在。則留之。先遣多臣祖武諸木。國前臣祖菟名手。物部君祖夏花。令察其状。爰有女人。曰神夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆天皇之使者至。則拔磯津山之賢木。以上枝挂八握釼。中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳。參向而啓之曰。(以下省略)
【九月甲子(きのえねのひ)(つひたち)戊辰(つちのえたつのひ)。周芳娑麼(すはのくにのさば)に到(いた)りたまふ。時に天皇(すめらみこと)(みなみ)に望(のぞ)みて、羣卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく。「南(みなみ)の方(かた)に烟氣(けぶり)(おほ)く起(た)つ。必(ふつく)に賊將(あた)(あ)らむ。」則(すなは)ち留(とどま)りて、先(ま)づ多臣(おほおみ)の祖(おや)武諸木(たけもろき)、國前臣(くにさきのおみ)の祖(おや)菟名手(うなて)、物部君(もののべのきみ)の祖(おや)夏花(なつはな)を遣(つかは)して、其(そ)の状(かたち)を令察(みしめ)たまふ。爰(ここ)に女人(をみな)(あ)り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其(そ)の徒衆(やから)甚多(にへさ)なり。一國(ひとくに)の魁帥(ひとごとのかみ)なり。天皇(すめらみこと)の使者(つかひ)の至(まうく)ることを聆(き)きて、則(すなは)ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を拔(こじと)りて、上枝(ほつえ)に八握釼(やつかつるぎ)を挂(とりか)け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたかがみ)を挂(とりか)け、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を挂(とりか)け、また素幡(しらはた)を船(ふな)の舳(へ)に樹(た)てて、參向(まうでき)て啓(まを)して曰(まを)さく。(以下省略)】
~『日本書紀 卷第七』~


 それから127年後、神功皇后の御宇9年(209年)3月25日、神夏磯媛の後裔にあたる夏羽(なつは)は、神功皇后の暗殺を企て、妹の田油津媛(たぶらつひめ)を援護するため軍勢を率いてかけつける途中、山門縣(やまとのあがた)【現在の福岡県山門郡瀬高町のあたりで妹が敗戦したことを知り、夏羽(なつは)は館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢に焼き殺されてしまいました。それ以来、その土地を夏羽焼(なつはやき)、夏焼(なつやき)とよばれるようになったそうです。江戸時代になって小笠原忠眞が若八幡神社を参詣された時、不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつよし)」に改め現在に至っています。


 『日本書紀』には、山門縣(やまとのあがた)田油津媛が敗戦したことを聞き、夏羽が兵を構え迎える途中で逃げ帰ったことだけが伝えられています。


丙申。轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。時田油媛之兄夏羽。興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。

【丙申(ひのえさるのひ)。轉(うつ)りまして山門縣(やまとのあがた)に至りて、則(すなは)ち土蜘蛛(つちぐも)の田油津媛(たぶらつひめ)を誅(つみな)ふ。時に田油津媛(たぶらつひめ)の兄(いろね)、夏羽(なつは)。軍(いくさ)を興(おこ)して迎來(むかへまう)く。然(しかる)に其(そ)の妹(いも)の被誅(つみなはれ)たるを聞(き)きて逃(にげ)ぬ。】

~『日本書紀 卷第九』~


 その後、光仁天皇(こうにんてんのう)【天宗高紹天皇(あめのむねたかつぐのすめらみこと)】の御宇【和銅2年(709年)~天應元年(782年)】の間に、夏羽の亡霊の祟りを鎮めるため、大宮司屋敷に宇佐神宮を勧請し、慶長13年(1608年)2月3日、現在地に遷座されました。祭神の仁徳天皇は、平清盛が香春岳鬼ヶ城の守護神として香春岳の中腹に京都の平野神社を祀っていたのを合祀したものだそうです。


 江戸時代、小笠原忠眞が困窮のどん底にあった村民を救済する施策を行うなど、地域繁栄の功績を感謝し、逝去の後、相殿に小笠原忠眞の神霊を祀り、享和元年(1801年)に朝廷より、小笠原忠眞の神霊に「輝徳霊神」の神号と霊璽を賜り現在に至っています。神紋は小笠原家の家紋と同じ三階菱に因むものです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社③


 鳥居を潜り、階段を上がって拝殿の前に辿り着くとほのぼのした石造の牛が2体、出迎えてくれます。狛犬も鳥居の脇にありますが…。

 北九州市門司区の「戸上山(とのへやま/とのえさん)」【標高521m】の山頂に上宮、麓に本宮が鎮座する戸上神社(とのえじんじゃ)。その昔、大里(だいり)は「柳ヶ浦(やなぎがうら)という地名でした。

 壽永2年(1183年)、源義仲(みなもとのよしなか)に京を追われ太宰府に逃れた平氏と安德天皇(あんとくてんのう)は、さらに豊後國の緒方三郎惟義(をがたさぶろうこれよし)の襲撃を避けるため『豐前國柳ヶ浦(ぶぜんのくにやなぎがうら)』に「柳御所(やなぎのごしょ)」という行宮(かりみや)【仮の御所】が設置されたため「内裏(だいり)とよばれるようになりました。

 室町時代、足利義滿(あしかがよしみつ)の頃、付近の海賊の取り締まりを行う際に内裏の海を血で汚すのはおそれ多いというので「内裏の文字は「大里」に改められました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-戸上神社①
戸上神社の拝殿と戸上山(写真右奥の山)


戸上神社(とのえじんじゃ)
[所在地] 福岡県北九州市門司区大里戸ノ上4丁目4番2号(地図

[経緯座標] 北緯:33度54分5.98秒/東経:130度56分36.35秒
[御祭神]

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)

 伊邪那美神(いざなみのかみ) 他十七柱を合祀


 宇多天皇(うだてんのう)【定貞天皇(さだみのすめらみこと)】の御宇、寛平年間(889~896年)に、豐前國企救郡柳ヶ浦(ぶぜんのくにきくのこほりやなぎがうら)【現在の門司区大里付近の海】の漁師の網に光輝く玉がかかったたので、それを引き上げて「根二の濱の松の根元」に置いて帰りました。その数日後のこと、馬寄村の老人の夢に「根二の浜に迎えに来るように」と神のお告げがあり、老人は、その玉をしばらく邸内の「鳥居の宮」に祀りました。その後、馬寄村の「一坂の前立山の社」に鎮座していましたが、また夢の中で「我は柳ヶ浦の氏神なり。我を鶏の声の届かぬ高き所に祀れ。」と神のお告げがあったので、峰刑部を祭主として枝折戸(しおりど)【木枠や竹枠に割竹や木の枝などを組んで作った開き戸】の上に乗せてし山上に三柱の大神が祀られました。以来、戸上権現として親しまれ、後に山上を上宮として、山麓を本宮とし、柳ヶ浦七ヶ村【現在の大里地区】の氏神である戸上神社となりました。


 大同元年(806年)、唐より帰国した空海【弘法大師】が博多より京に向かう途中、関門海峡をご通過する船中で戸上山を仰ぎ下船して、戸上の霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、唐より持ち帰った随身供養の観世音菩薩像を安置したことにはじまる満隆寺。境内の「大師堂」や大日如来像、小笠原忠真奉納の十二神将はその名残です。


 江戸時代には、修験道の山としても信仰されていたようです。小倉藩主の細川氏や小笠原氏の尊崇篤く、社殿の造営や社領の寄進等もあり、参勤交代で大里の宿場を通過する九州諸大名は、武運長久と交通安全を祈願していたそうです。現在の社殿は、平成13年(2001年)7月の火災で焼失したため、平成15年(2003年)9月に再建されたものです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-戸上神社②
戸上神社の本殿


古事記に…。

天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。

【天地(あめつち)(はじ)めて發(おこ)りし時(とき)に、高天原(たかあまのはら)に、成(な)りませる神(かみ)の名(な)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。】

~『古事記 上卷』~


古語拾遺に…。

天地割判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。

【天地(あめつち)割判(わかれひら)くる初(はじめ)に、天(あめ)の中(なか)に生(あ)れます神(かみ)、名(な)は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と曰(まを)す。】

~『古語拾遺』~


と記される天之御中主神。天と地のはじまりに高天原に成った神で、太古の宇宙のはじまり、そして、動植物をはじめとするすべての生命、すべての物や事のはじまり、その神霊を産み育む「めぐみ」とその力の神。


 国生みや神生みの神話で知られる伊耶那岐神(いざなぎのかみ)、伊耶那美神(いざなみのかみ)とともに祀られ、柔らかくそして清らかに境内を包み込む風にやさしさを感じることができる神社です。

 宇佐神宮が鎮座する小倉山の「坤(ひつじさる)」(南西)にあたる「小山田の林」(をやまだのはやし)に鎮座する小山田神社(おやまだじんじゃ)は、宇佐神宮の旧社跡のひとつです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-小山田神社③
小山田神社の社殿

小山田神社

 [所在地] 大分県宇佐市大字小向野 (地図

 [経緯座標] 北緯:33度31分0.17秒/東経:131度21分38.8秒

 [御祭神]

  八幡大神(はちまんおほかみ/やはたおほかみ)

  高龗神(たかおかみのかみ)

  闇龗神(くらおかみのかみ)


小山田神社について、『八幡宇佐宮御託宣集』には次のように伝えられています。


次 小山田林中。同郡。同時神託。
 自其至小山田林中。
云々。
靈龜二年造社。有祭。隼人征伐。自此社而御進發矣。

【次 小山田(をやまだ)の林(はやし)の中(なか)同郡。同じ時の神託。
それより山田の林に中に至(いた)る。云々。
靈龜二年に社(やしろ)を造(つく)る。祭(まつり)あり。隼人征伐は、この社より御進發せり。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 日本國遊化部~


元明天皇二年。靈龜二年丙辰

此所路頭仁志弖往還人無禮奈利。訦牟禮波此等甚慰。小山田移住世牟登願給者。

【元正天皇二年。靈龜二年丙辰(ひのえたつ)

此所(このところ)は路頭(みちさき)にして往還(ゆきかへり)の人、無禮(うやまひなき)なり。訦(とが)むれば、此等(これら)甚慰(はなはだめぐ)し。小山田(をやまだ)の林(はやし)に移住(うつりすみ)せむと願給(ねがひたま)ふと。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


小山田社部。此社十箇年。靈龜二。養老七。神龜元。

宇佐郡。當小倉山之坤。有小山田之林。元正天皇二年。靈龜二年丙辰。大神諸男。辛嶋勝波豆米奉隨大御神之御心。立宮柱。奉造小山田之神殿。致祭祀。

一。元正天皇五年。養老三年癸未。大隅。日向兩國隼人等襲來。擬打傾日本國之間。同四年甲申。公家被祈申當宮之時。神託。

 我行而可降伏者。

【小山田社の部。この社(やしろ)十箇年。靈龜二。養老七。神龜元。

宇佐郡(うさのこほり)。小倉山(をぐらやま)の坤(ひつじさる)に當(あた)る。小山田(をやまだ)の林(はやし)に有(あ)り。元正天皇二年。靈龜二年丙辰(ひのえたつ)。大神諸男(おほがのもろを)、辛嶋勝波豆米(からしまのかちはづめ)、大御神(おほみかみ)の御心(みこころ)に隨(したが)ひ奉(まつ)りて。宮柱(みやばしら)を立(た)て。小山田の神殿(みあらか)を造(つく)り奉(まつ)り、祭祀致(まつりまつ)る。

一。元正天皇五年。養老三年癸未。大隅(おほすみ)。日向(ひむか)(ふた)つの國(くに)隼人等(はやとら)(おそ)ひ來(きた)り、日本國の打ち傾(かたぶ)けむと擬(おも)ふ間。同四年甲申。公家(くげ)(この)(みや)を祈申(いのりまを)し被(こうむ)る時の神託。

 我れ行きて降伏すべし。】

…(中略)…

此事之後。託宣。養老七年。

 我今坐須留小山田社。其地狹隘。我良牟土菱形山願給

【この事(こと)の後(のち)の託宣。養老七年。

 我(わ)れ今(いま)(いま)する小山田社(をやまだのやしろ)は、その地(ところ)狹隘(せま)し。我(われ)れ菱形山(ひしがたやま)に移(うつ)らむと願給(ねがひたま)ふ。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 小山田社部~

 靈龜2年(716年)、鷹居瀬社(たかゐせやしろ)鷹居神社(たかゐじんじゃ)郡瀬神社(ごうのせじんじゃ)】に鎮座していた八幡大神の「この場所は路頭にあり、往還の人はあるが、敬う人はいない。此れを咎めるにはとても慰めしいことである。小山田の林に移り住みたい」という神託によって、同年、大神朝臣諸男辛嶋勝波豆米が神殿を造営して八幡大神を「高居瀬社」(郡瀬神社)からこの「小山田社」(小山田神社)に遷宮し、養老7年・神龜元年(725年)に小倉山社に遷宮されるまでの約10年間の宇佐神宮の旧社地です。現在は、旧社殿の面影を残す遺構・壇跡の上に少し大きめの祠宮と拝殿が立っています。また、宇佐神宮が現在の鎮座地「小倉山社」に遷宮される以前、御祭神は八幡大神のみでした。


 祭神のうち高龗神(たかおかみのかみ)闇龗神(くらおかみのかみ)の2柱は、明治6年(1917年)に小向野村中の貴船神社(きふねじんじゃ)を合祀したもので、鳥居の扁額のひとつに「貴布祢(きふね)と記されています。小山田神社は、宇佐神宮行幸八ヶ社のひとつで、放生会などの時には神輿が巡幸します。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-小山田神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-小山田神社①
小山田神社の拝殿と参道

 養老3年(719年)、八幡大神の神託により隼人征伐で大隅・日向に御進発されたのは、この「小山田社」(小山田神社)からでした。隼人征伐から「小山田社」に還御の後の養老7年(723年)の「私が今いる小山田社の土地は狭い。私は菱形山に移りたいと願う」という神託により宇佐神宮の現在地に遷宮されました。


 小山田神社が鎮座する「小山田の林」は、「鷹居瀬社」に比べ人通りの少ないところにあります。今も宇佐神宮の八幡大神の旧社跡としての面影を伝えるかのように静かに鎮座しています。お時間があれば、立ち寄ってみてくださいね。