北九州市門司区の「戸上山(とのへやま/とのえさん)」【標高521m】の山頂に上宮、麓に本宮が鎮座する戸上神社(とのえじんじゃ)。その昔、大里(だいり)は「柳ヶ浦(やなぎがうら)という地名でした。

 壽永2年(1183年)、源義仲(みなもとのよしなか)に京を追われ太宰府に逃れた平氏と安德天皇(あんとくてんのう)は、さらに豊後國の緒方三郎惟義(をがたさぶろうこれよし)の襲撃を避けるため『豐前國柳ヶ浦(ぶぜんのくにやなぎがうら)』に「柳御所(やなぎのごしょ)」という行宮(かりみや)【仮の御所】が設置されたため「内裏(だいり)とよばれるようになりました。

 室町時代、足利義滿(あしかがよしみつ)の頃、付近の海賊の取り締まりを行う際に内裏の海を血で汚すのはおそれ多いというので「内裏の文字は「大里」に改められました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-戸上神社①
戸上神社の拝殿と戸上山(写真右奥の山)


戸上神社(とのえじんじゃ)
[所在地] 福岡県北九州市門司区大里戸ノ上4丁目4番2号(地図

[経緯座標] 北緯:33度54分5.98秒/東経:130度56分36.35秒
[御祭神]

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)

 伊邪那美神(いざなみのかみ) 他十七柱を合祀


 宇多天皇(うだてんのう)【定貞天皇(さだみのすめらみこと)】の御宇、寛平年間(889~896年)に、豐前國企救郡柳ヶ浦(ぶぜんのくにきくのこほりやなぎがうら)【現在の門司区大里付近の海】の漁師の網に光輝く玉がかかったたので、それを引き上げて「根二の濱の松の根元」に置いて帰りました。その数日後のこと、馬寄村の老人の夢に「根二の浜に迎えに来るように」と神のお告げがあり、老人は、その玉をしばらく邸内の「鳥居の宮」に祀りました。その後、馬寄村の「一坂の前立山の社」に鎮座していましたが、また夢の中で「我は柳ヶ浦の氏神なり。我を鶏の声の届かぬ高き所に祀れ。」と神のお告げがあったので、峰刑部を祭主として枝折戸(しおりど)【木枠や竹枠に割竹や木の枝などを組んで作った開き戸】の上に乗せてし山上に三柱の大神が祀られました。以来、戸上権現として親しまれ、後に山上を上宮として、山麓を本宮とし、柳ヶ浦七ヶ村【現在の大里地区】の氏神である戸上神社となりました。


 大同元年(806年)、唐より帰国した空海【弘法大師】が博多より京に向かう途中、関門海峡をご通過する船中で戸上山を仰ぎ下船して、戸上の霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、唐より持ち帰った随身供養の観世音菩薩像を安置したことにはじまる満隆寺。境内の「大師堂」や大日如来像、小笠原忠真奉納の十二神将はその名残です。


 江戸時代には、修験道の山としても信仰されていたようです。小倉藩主の細川氏や小笠原氏の尊崇篤く、社殿の造営や社領の寄進等もあり、参勤交代で大里の宿場を通過する九州諸大名は、武運長久と交通安全を祈願していたそうです。現在の社殿は、平成13年(2001年)7月の火災で焼失したため、平成15年(2003年)9月に再建されたものです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-戸上神社②
戸上神社の本殿


古事記に…。

天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。

【天地(あめつち)(はじ)めて發(おこ)りし時(とき)に、高天原(たかあまのはら)に、成(な)りませる神(かみ)の名(な)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。】

~『古事記 上卷』~


古語拾遺に…。

天地割判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。

【天地(あめつち)割判(わかれひら)くる初(はじめ)に、天(あめ)の中(なか)に生(あ)れます神(かみ)、名(な)は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と曰(まを)す。】

~『古語拾遺』~


と記される天之御中主神。天と地のはじまりに高天原に成った神で、太古の宇宙のはじまり、そして、動植物をはじめとするすべての生命、すべての物や事のはじまり、その神霊を産み育む「めぐみ」とその力の神。


 国生みや神生みの神話で知られる伊耶那岐神(いざなぎのかみ)、伊耶那美神(いざなみのかみ)とともに祀られ、柔らかくそして清らかに境内を包み込む風にやさしさを感じることができる神社です。