全国妙見総本宮の御祖(みおや)神社。足立山妙見宮とも称す。
神護景雲4年(770年)、和氣清麿(わけのきよまろ)公が四男の磐梨爲綱(いはなしのためつな)【妙運】に命じて、足立山の山頂に「足立妙見宮」【現在の上宮】として造化神北辰尊星妙見を祀ったのがはじまりと伝えられる。
また、寶龜3年(772年)には、豊前守(ぶぜんのかみ)の大伴百世(おほとものももよ)の援助を受け葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立さた。
御祖神社(足立妙見宮)
稱德天皇の御宇、神護景雲3年(769年)、太宰府の太宰帥(だざいのそち)弓削淨人(ゆげのきよひと)と太宰主神(だざいのかんずかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に立てれば天下泰平となり、宇佐神宮(八幡大神)の神意に適うとする虚偽の神託を奏上。
この皇位継承の神託を真偽を確かめるべく和氣清麿公は、天皇の勅命を受け、豊前國宇佐郡の宇佐神宮【現在の大分県宇佐市】へと向かわれた。
神護景雲3年8月、宇佐神宮に参詣された和氣清麿公が受けた神託は、
我國家開闢 以來君臣定矣 以臣爲君 未之有也 天之日嗣必立皇緒 無道之人 宜早掃除
【我が国家(くに)開闢(かいびゃく)より以来(このか)た、君と臣のわけ定(さだま)れり。臣を以(もち)て君と為(な)すは未だあらざるなり。天之日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃ひ除くべし】
~我が国家は始まって以来、君主と臣下の分別は決定している。臣下を君主としたことは、未だ嘗てないことである。天皇は必ず皇統をひく者をたてよ。その権利のない者(弓削道鏡)は、速やかに排除せよ。~
和氣清麿公は、この神託を京に持ち帰り上奏すると、弓削道鏡は激怒して、稱德天皇は和氣清麿公を大隅國【現在の鹿児島県】に流罪にした。
神護景雲3年10月3日、大隅國に向かう途中、和氣清麿公の御舟は豊前國宇佐郡楉田村(すわえだむら)【現在の大分県宇佐市大字和気の柁鼻神社・舟繋石の辺り】にたどり着いた。この時、弓削道鏡の追っ手に和氣清麿公は足の筋を切られたという。
突如、山中から現れた白鹿の背に乗せられ、左右を200頭あまりの猪に守護されて宇佐神宮へと導かれた和氣清麿公は、八幡大神の神前を拝すると、
「これより西方十七里の規矩郡竹和山の山麓に温泉あり。此所に浴せば必ず癒る」
と教示をうけた。
神護景雲3年10月5日、その神託に従い、和氣清麿公は、宇佐神宮の神馬を借りて、夕刻に豐前國規矩郡の竹和山【現在の足立山】の麓の石川村【現在の小倉南区湯川】の竹馬川に到着。そこに湧出する温泉【湯川水神社に湧出する泉。現在は冷泉となっている。】に浸かると、筋を切られた足がたちどころに治癒したと伝えられる。和氣清麿公の足が立ったことに因んで、「足立(あだち)」の地名譚となった。現在の「湯川」の地名は昔、温泉が湧出していた事の名残だという。
神護景雲3年10月8日、和氣清麿公は、足立山に登り、北辰尊星妙見【造化参神】に、天皇の御血統が安泰であり、反逆者がいなくなるよう七日七夜の間、祈られた。
神護景雲3年10月15日の未明に、造化参神があらわれ、「汝の願い、聴きいる」との神告があった。
翌年、稱德天皇が崩御。光仁天皇の御宇となった、寶龜元年(770年)10月、皇統は安泰し、弓削道鏡は失脚し下野國に流罪、和氣清麿公は從五位下に復位され、播磨國と豊前國の國司を歴任。その後は、美作國と備前國の國造(くにのみやつこ)に任じられた。
こうして、冒頭に記すとおり、神護景雲4年(770年)、造化参神降臨の地に、足立山妙見宮【上宮】を祀り、寶龜3年(772年)、葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立された。
慶長6年(1601年)、後の豊前國小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき)公の眼病平癒祈願成就を期に下宮を現在地に遷座し今日に至る。
およそ1240年前の昔、足立山の山頂に上宮が祀られ、和氣清麿公ゆかりの地として、現在に至るまで鎮座し続ける古社のひとつ。
祭神の造化参神は、古事記に、
天地初發之時 於高天原成神名 天御中主神 次 高御産巣日神 次 神産巣日神
【天(あめ)地(つち)初めて發(おこ)りし時に、高天原(たかあまのはら)に成(な)りませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。】
~古事記 上卷併序~
と記される、天地開闢【宇宙創成】のはじめに成られた(出現された)神。天の御祖たる神を祀る「御祖神社」とも称している。
神武天皇の即位から2673年、現在に至るまで続く一系統の皇位継承にまつわる神社のひとつでもある。
神護景雲4年(770年)、和氣清麿(わけのきよまろ)公が四男の磐梨爲綱(いはなしのためつな)【妙運】に命じて、足立山の山頂に「足立妙見宮」【現在の上宮】として造化神北辰尊星妙見を祀ったのがはじまりと伝えられる。
また、寶龜3年(772年)には、豊前守(ぶぜんのかみ)の大伴百世(おほとものももよ)の援助を受け葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立さた。
さらに、弘仁3年(812年)に、和氣清麿公の三男で参議の和氣眞綱(わけのまつな)卿が、宇佐に勅使として参詣した帰り、下宮に和氣清麻呂公と祖先の神霊が祀られました。
御祖神社(足立妙見宮)
[鎮座地] | 福岡県北九州市小倉北区妙見町17番1号 |
[御祭神] | ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ・高皇産霊神(たかみむすひのかみ) ・神皇産霊神(かむみむすひのかみ) ・鐸石別命(ぬてしわけのみこと) ・和氣清麿命(わけのきよまろのみこと) [合祀] ・伊弉諾神(いざなぎのかみ) ・伊弉冉神(いざなみのかみ) ・綿都美神(わたつみのかみ) ・大山祇神(おほわたつみのかみ) ・高淤加美神(たかおかみのかみ) ・闇淤加美神(くらおかみのかみ) ・罔象女神(みつはのめのかみ) ・素戔鳴神(すさのをのかみ) ・大年神(おほとしのかみ) ・大國主神(おほくにぬしのかみ) ・事代主神(ことしろぬしのかみ) ・少彦名神(すくなひこなのかみ) ・猿田彦神(さるたびこのかみ) ・磐長姫神(いわながひめのかみ) ・神武天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと) ・大彦命(おほひこのみこと) ・武渟川別命(たけぬなかはわけのみこと) ・吉備津彦命(きびつひこのみこと) ・丹波道主命(たんばのみちのうしのみこと) ・日本武尊(やまとたけるのみこと) |
御朱印 | あり(御初穂料:300円) /オリジナル御朱印帳、御朱印袋あり |
稱德天皇の御宇、神護景雲3年(769年)、太宰府の太宰帥(だざいのそち)弓削淨人(ゆげのきよひと)と太宰主神(だざいのかんずかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に立てれば天下泰平となり、宇佐神宮(八幡大神)の神意に適うとする虚偽の神託を奏上。
この皇位継承の神託を真偽を確かめるべく和氣清麿公は、天皇の勅命を受け、豊前國宇佐郡の宇佐神宮【現在の大分県宇佐市】へと向かわれた。
神護景雲3年8月、宇佐神宮に参詣された和氣清麿公が受けた神託は、
我國家開闢 以來君臣定矣 以臣爲君 未之有也 天之日嗣必立皇緒 無道之人 宜早掃除
【我が国家(くに)開闢(かいびゃく)より以来(このか)た、君と臣のわけ定(さだま)れり。臣を以(もち)て君と為(な)すは未だあらざるなり。天之日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃ひ除くべし】
~我が国家は始まって以来、君主と臣下の分別は決定している。臣下を君主としたことは、未だ嘗てないことである。天皇は必ず皇統をひく者をたてよ。その権利のない者(弓削道鏡)は、速やかに排除せよ。~
和氣清麿公は、この神託を京に持ち帰り上奏すると、弓削道鏡は激怒して、稱德天皇は和氣清麿公を大隅國【現在の鹿児島県】に流罪にした。
神護景雲3年10月3日、大隅國に向かう途中、和氣清麿公の御舟は豊前國宇佐郡楉田村(すわえだむら)【現在の大分県宇佐市大字和気の柁鼻神社・舟繋石の辺り】にたどり着いた。この時、弓削道鏡の追っ手に和氣清麿公は足の筋を切られたという。
突如、山中から現れた白鹿の背に乗せられ、左右を200頭あまりの猪に守護されて宇佐神宮へと導かれた和氣清麿公は、八幡大神の神前を拝すると、
「これより西方十七里の規矩郡竹和山の山麓に温泉あり。此所に浴せば必ず癒る」
と教示をうけた。
神護景雲3年10月5日、その神託に従い、和氣清麿公は、宇佐神宮の神馬を借りて、夕刻に豐前國規矩郡の竹和山【現在の足立山】の麓の石川村【現在の小倉南区湯川】の竹馬川に到着。そこに湧出する温泉【湯川水神社に湧出する泉。現在は冷泉となっている。】に浸かると、筋を切られた足がたちどころに治癒したと伝えられる。和氣清麿公の足が立ったことに因んで、「足立(あだち)」の地名譚となった。現在の「湯川」の地名は昔、温泉が湧出していた事の名残だという。
神護景雲3年10月8日、和氣清麿公は、足立山に登り、北辰尊星妙見【造化参神】に、天皇の御血統が安泰であり、反逆者がいなくなるよう七日七夜の間、祈られた。
神護景雲3年10月15日の未明に、造化参神があらわれ、「汝の願い、聴きいる」との神告があった。
翌年、稱德天皇が崩御。光仁天皇の御宇となった、寶龜元年(770年)10月、皇統は安泰し、弓削道鏡は失脚し下野國に流罪、和氣清麿公は從五位下に復位され、播磨國と豊前國の國司を歴任。その後は、美作國と備前國の國造(くにのみやつこ)に任じられた。
こうして、冒頭に記すとおり、神護景雲4年(770年)、造化参神降臨の地に、足立山妙見宮【上宮】を祀り、寶龜3年(772年)、葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立された。
慶長6年(1601年)、後の豊前國小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき)公の眼病平癒祈願成就を期に下宮を現在地に遷座し今日に至る。
およそ1240年前の昔、足立山の山頂に上宮が祀られ、和氣清麿公ゆかりの地として、現在に至るまで鎮座し続ける古社のひとつ。
祭神の造化参神は、古事記に、
天地初發之時 於高天原成神名 天御中主神 次 高御産巣日神 次 神産巣日神
【天(あめ)地(つち)初めて發(おこ)りし時に、高天原(たかあまのはら)に成(な)りませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。】
~古事記 上卷併序~
と記される、天地開闢【宇宙創成】のはじめに成られた(出現された)神。天の御祖たる神を祀る「御祖神社」とも称している。
神武天皇の即位から2673年、現在に至るまで続く一系統の皇位継承にまつわる神社のひとつでもある。