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中西アルノが36thシングルの選抜メンバーになった。
乃木坂工事中での選抜発表直後にアップされたブログにこうある。
でもアンダーライブは
悔しさ、素直さ、情熱
そういう今まで避けてきたものと嫌でもぶつからなければいけない環境でした。
私も知らない私に出会ったし、私を強くしてくれた場所です。
私はここで根を張って頑張ってきたんです。
そこにプライドもあります。
そんな大切な場所で得たことも
噛み締めながら前を向いて
新しいこの場所でも変わらず命をかけて頑張ります。
アンダー、アンダーライブに誇りがある。そして、だからこそそのアンダーという場所で得たことを噛み締めて「命をかけて頑張ります」という。
乃木坂46というグループに加入すればその人の人生は文字通り激変する。何もかも変わる。
けれども、そのなかでも最も「激変」に直面し、生き抜いてきた人、少なくともその一人が中西アルノだろう。その人のあり方そのものが激しく変わること自体を生きてきた人だろう。
ここまでよく壊れなかったと思う。よく生き延びたとすら思う。言葉通りの意味でそう思う。その人が公式ブログに書きつける「命をかけて頑張ります」という言葉は、ただのレトリックではない。それほど軽いものではないと思っている。
アンダーという場所に誇りをもつ中西アルノに「選抜(復帰)おめでとう」という言葉がふさわしいのかどうかわからない。また、選抜になったことへの攻撃がそれなりにはあるだろう。いまさらそれに負けるなどということはないにしても、ただただ嬉しいということだけでは語れないだろうし、強い緊張もあるにちがいない。
中西アルノにきっと乃木坂46という場所は必要だった。そして同じくらい、乃木坂46に中西アルノという人は必要なのだと思っている。歌の力はもちろんだが、それだけではなく。
例えば白石麻衣や西野七瀬のように乃木坂のメインストリームを歩むことはないような気がする。どこまでいってもどこかに違和感が残る人であり続けるように思う。
けれどもそのことが大切なのだ。中西が編み上げていくグループの「もう1つの物語」のようなものが必ずあるし、それはすでに書かれ始めていると思う。そのことのかけがえのなさ、代わりの効かなさ。それを包摂することで織り上げられていく物語の豊穣さを体現し、語り手になれる人なのだと思っている。どこまでも「乃木坂46の中西アルノ」を突き通してほしい。選抜復帰は第3章の幕開けだと思う。
TVerでドラマ「チア☆ダン」第1話(土屋太鳳、石井杏奈)が「おすすめ」に出てきてなんとなく観たら…
この右側の子役(セリフもある)、櫻坂3期生の谷口愛季さん、ですよね?ちがうかな?
最後の「エキストラ協力」にアクターズスクール広島の名前はないし、インターネット上にもそれらしい情報は流れてないから今ひとつ確信が持てないけど…
ドラマ版「チア☆ダン」放送は2018年、谷口愛季2005年4月生まれだから当時13歳。まぁ年齢はだいたいあう。
違うのかなぁ…多分そうだと思うけどなぁ。
もしそうだとしたらこういうシーンも感慨深い。
下の2枚の画像。第2話。
部員不足でチアダンス部(ロケッツ)存続の危機。父親が教頭で、優等生で、その優等生の枠には自分をはめ込んで生きてきた桜沢朝子(佐久間由衣)が、いままでの自分を振り切ってロケッツに入る方向に大きく心が動き出すシーン。
何か心を決めるように動画を見始める。
そしてスマホの画面が映る。
言わずとしれた「サイレントマジョリティー」だ。
”君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな”
そしてチアダンス部(ロケッツ)廃部が宣告される瞬間、立ち上がり、父親である教頭に対して自分が入部すると宣言する。
そしてこの5年後、谷口愛季は欅坂の衣装を身にまとうことになる。
櫻坂46になって初めての「語るなら未来を」。しかも3期生だけの「新参者ライブ」。
このときの谷口愛季の覚悟のこもった目には射抜かれた。
まぁ「チア☆ダン」のあの子役が谷口愛李さんだったら、だけど。
でももしそうだったらなかなか素敵な偶然だ。
昨日、櫻坂46の3rd Tour Final(大阪城ホール)を見た。
渡邉理佐が卒業し、櫻坂46は追わなくなっていた。もう追うことはないと思っていたし、まぁMVくらいは見るけど『そこ曲がったら、櫻坂?』もライブもこれからは見ないだろうと思っていた。だから3期生は誰もしらない。
なのに藤吉夏鈴センター「Start Over」で覆された。素晴らしかった。3rd Tour Finalの大阪城ホール。見た。「Start Over」のライブ初披露ともなったが、それも素晴らしかった。
「鮮烈」。その言葉がぱーっと広がっていく。
「Start Over」と「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」は鮮烈の一言だった。世界が瞬間的に塗り替えられてしまう。その瞬間に立ち会うような感じすらする。しかも、「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」のMVが公開されたのは2020年11月18日。そこから2年半たって、経験も積んできて、それでも鮮烈さが失われないことに驚く。監督が同じ加藤ヒデジンだからかもしれないが、ライブでも感じるのだから監督の手腕だけに還元はできない。
いままで見たことのない表情が瞬間的に現れる。映像全体の光度が一気に上がる気がする。
普通、笑顔になるにしても前後関係があり、文脈がある。流れがあり、必然性がある。けれども藤吉夏鈴の笑顔は、その前後関係や文脈を切断するような気がする。唐突に、突発的に。不意に強い電流に弾かれるみたいになる。そして世界を塗り替えてしまう。別の世界への瞬間的な跳躍のようにも思える。
ライブ初披露後、挨拶で、藤吉夏鈴は言葉につまりながら「『Start Over』という楽曲の中で、力強く、すごく自由に生きることができて、幸せでした」といった。
とても正確な言葉を持っている人だと思う。
「Start Over」と「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」(それだけではないかもしれないが)という楽曲のなかで、その世界の中ではじめて「力強く生きられる」「自由に生きられる」そしてそれが「幸せだった」と涙を流す。その数分間、別の世界にいる。そうした世界の存在を見ているものにまざまざと感じさせる。そんなMVとライブだった。
そういえば生駒里奈も『制服のマネキン』で別の世界にいたのかもしれないなどと思ったり、櫻坂46にとってこの6thシングルの重要さとか、いろいろ思うこと、感じることはあるけれども、とりあえず直後の感想はこのくらいで。
それにしても何かが破裂したみたいだった。
あるツイッター上の議論があった。それをへて自分の感覚が少し輪郭をはっきりさせてきた。
中西アルノの歌について。あわせて平手友梨奈について。ただしこれは一般的にいわれていた「似ている」とか「秋元康のゴリ押し」とかとは無縁のこと。
平手友梨奈。
私にとってもっとも鮮烈な印象を与えられたのは2017年FNS歌謡祭で”ノンフィクション”を歌う平井堅との共演のときだ。
直接その目でみた新妻聖子のツイートはネットニュースにもなり、よく知られている。そのツイートとは以下のもの。
昨夜のFNS歌謡祭、平手友梨奈さんのダンスの余韻が凄い。一言も発しない16才の少女の身体が何かを叫んで訴えているようで、胸が締め付けられた。平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに「ノンフィクション」。凄いものを見てしまったと思った。テレビの現場で短い演劇を観たような感覚になるとは。
午前10:07 · 2017年12月7日·Twitter for iPhone
平手友梨奈ばかりがフォーカスされているきらいがあるが新妻聖子は正確に「平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに『ノンフィクション』。凄いものを見てしまった」と言っている。
のちに振り付けたCRE8BOY が、「気持ちを込めて踊ることについてはずば抜けている」と言っていた。ダンスのうまさなら後の平手のほうが遥かに上だろう。また表現力だって進歩しているのだろうと思う。2021年の「ダンスの理由」の平手はバックにダンサーを従えて単独でパフォーマンスを行った。ダンスは格段にうまくなっている。凄みすら感じさせる空気感を身にまとっていた。「ダンスの理由」のMVに参加したダンサーたちが口々にその凄みを語っていた。
けれども、たぶん2021年の平手友梨奈に2017年、16歳のときの ”ノンフィクション” を再現することはできない。またそれを求めることも間違っている。
2017年の平手友梨奈は、その未完成さ、未熟さを、そのまま表現に転化してしまった。踊ることのもどかしさが、そのままこの世界で生きることのもどかしさとして現れてきた。踊ることの未熟さがそのまま生きることの未熟さ、もどかしさだった。それは中年になり、友人が自殺し、新たな存在の危機に直面する歌を歌う平井堅と絶妙な共通性と対照性をつくりだした。二人が平行して存在する空間を劇的なものにした。平井堅がもつ花束が平手へのものであるかのようにみえ、その平手は、花のように舞い降るもののなかで千切れた紙が詰まったカバンの中に、叶わぬ別の世界への脱出をはかるかのように頭を突っ込む。
絶唱だった。再現することができない、あの時、あの瞬間にしか現れることのない世界だった。
改めて平井堅/平手友梨奈の “ノンフィクション” のことを思い出させたのは中西アルノの歌だった。中西のブログが2回分、公開されているが、それを読んでまた歌について考えさせられたからだった。
中西アルノのブログ。
10th Year Birthday Live が終わった後、このように書いた。
不安や苦しさで声も身体も強張ってしまったときに
聞こえた拍手は、本当に。
私の拙い語彙では表現しきれません。
感無量です。
たくさんのファンの方が
私と目を合わせて笑顔になってくれたとき
楽屋で、舞台袖で、舞台上で、
沢山の先輩に優しく声をかけていただいたとき
同期みんなで
手を繋いだり、抱き締めたりして、支えあったとき
乃木坂46のメンバーの涙に、目を潤ませるスタッフさん方を見たとき
OGの方が「大丈夫だよ」と声をかけて肩を擦ってくれたとき
これが"乃木坂46"かと。
わたしは本当にとんでもないグループに飛び込んでしまったのだと。
嵐のように吹き荒れたバッシングにさらされてる自分、10年の歴史の厚みを持つ乃木坂46のメンバー、スタッフ、巨大なステージと埋め尽くされた客席、…そこに含まれる自分自身をあわせて、一つの映像、一枚の絵画のように見つめているような気配が漂う文章だと思う。
ある瞬間、その場にいて目の前に繰り広げられる世界を眺める自分がいるが、次の瞬間、その自分から離脱して外部からそれを見つめる。あるいはその時、その世界に含まれている外部から見えている自分を含めて客観化する眼差し。そういうものを感じる。
私は、これが中西アルノの「生き延びる知恵」だったのかもしれないと思う。
同じブログにこういう書き方をしている。
可愛いを纏うと、自分の核を隠せている気がして安心します。
可愛いは武器ではなく盾です。私にとって
昨日今日に感じた感想などではない。外部から見えない、見せない核があり、それを盾で守って生きてきた自分のあり方。そういう構造を作り出して生き抜いてきたのだろう。しかも自覚せざるを得ないものとして。そうした眼差しを持ち続けてきたことが10thバスラについての文章を生み出している。
しかしこれは「すぐれた資質」などではない。むしろ苦痛の中から、他の選択肢のないものとして生み出されてきたものだと思う。
2月27日のこのブログでこう書いた。
その孤独な匂いは中西アルノの歌にも濃密にたちこめている。ただ尾崎のようなものとは気
配が違う。もっと微細な、けれどもいたるところに貼り付き決して消えてくれないような、そんな孤独の気配を感じてしまう。
「声と歌にすべてを託してきた人」と書いたが、私には中西アルノが歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきたような、そんな人に思えてならない。
ブログを読んでいてこの人の歌はこの核から、盾の向こう側から生まれてくるのだと確信した。
その核=盾の向こう側は言葉にできない。ただ歌だけが核=盾の向こう側を解放する。
中西アルノの声は少し悲しい。「個」の声だ。
核を隠せるといい、「盾だ」という中西が歌の中にだけははっきり言葉にできない、あるいは、言葉にしない盾の向こう側がさらけだされる。”Actually” のシャウトは彼女の個人的な叫びの響きだ。だから「繊細さと孤独な匂い」と「歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきた」ように感じたのだと思う。
中西アルノの「盾の向こう側」が解きほぐされ、盾の向こう側とこちら側をあわせて自己を肯定し、扉を開けっ放しにできるようになったとき、あの歌は失われるものなのかもしれない。いや「かもしれない」じゃないな。あの歌はある意味で必然的に失われていく。それに何がとってかわるのかわからない。
中西アルノにもし伝えたいことがあるかと言われたら、こういいたい。
あなたがいま歌う歌は、今しか歌えない。これからいろいろ変化していくだろうけど、いまの自分の歌を大切に大切に歌ってほしいということ。
もう一つ。隠された核、盾で守られた向こう側、その存在が例え自分では誇れるものではないと思っていたとしても、それを抱えて生きてきたことは、きっとあなただけでなく、あなたの歌がつき刺さる人たちにとっても意味があり、大切なものなのだということ。
【追記】
一つ書き忘れた。
中西アルノの歌が、すべての人にではなくてもある人たちに深くつき刺さるのは最初からはっきりしていた。バッシングなどを別にしても、その突出した歌がグループの中でどう変化していくのか、あるいは変化しないのか。そこには強い関心があった。同時に、その歌をセンターに据えたということは乃木坂46というグループ全体にとって激しい変化を要求するものになる。それは必然的なこととして考えていたけれども、このブログの冒頭に書いたツイッター上のやりとりではっきりと分かったことは、中西アルノの歌は、ファンも塗り替えていくことだった。想像を超えたことだった。
率直にいって乃木坂46というグループに「歌の力」を感じたことはほとんどなかった。◯◯は歌がうまいな、というファンの感想に触れるたびに乃木坂ファンは歌、歌の力を求めてはいないのだろうと感じざるを得なかった。
ところがそれが変わり始めるのかもしれない、と思えるようなツイッターのやりとりだった。古くからの乃木坂ファンが自分自身でも驚いたことに、ガツンとくる歌声がないと満足できなくなってきていると言っていた。
中西アルノの力だけではないとしても、その力が大きく働いていることは間違いない。
中西アルノに伝えたいことがあるかと聞かれたら、三番目に、あなたの歌は乃木坂ファンを塗り替えて始めているということだった。ひょっとしたらさ、核を盾で守らなくてもいい世界を自分の力で作り出し始めているのかもしれない。それはきっと他の人も同じように抱えている盾で守られた世界がゆっくり溶け出していける世界かもしれない。
山下敦弘、松江哲明監督。2017年のドラマ。
映画を作ることを映像にしたドラマだが、日本の映画の状況について、映画を作ることについて、演じることについて考えさせれる。
以下、2話、7話で話されている内容のメモ。
*****************
第2話
日本映画大学校の学部長・天願大介。映画監督で脚本家。パルム・ドール作品『うなぎ』の脚本も手掛ける。
(山下、カンヌに行くコツと言うか…)
天願:一般論として言うとね、ハリウッドが嫌いなんですよ、カンヌの人たちは。もう、憎悪してるんですよね。だから不親切につくることですよ。説明したり、お客さんにサービスしない。(山下、お客に向けてつくるって言うより、批評家に向けてつくる?)
批評家に向けてつくるって言うより、作家の中にある整理されてないものが出てこないと。それをお客さんに向けて整理しちゃうとエンターテインメントじゃないですか。もうちょっと原型のまま出すみたいな。
直接的なメッセージみたいなものを入れたほうがいいかもしれないですね。
(山下、それは一言で語れるようなシンプルなものということですか?)
いやそうじゃなくて、例えばキャメラ目線で彼女(芦田愛菜)が女性差別についてしゃべる、3分間しゃべる。そうするともうOK。嘘でもいいから、そういう現実の酷さを誇張して描くことで、全然お話に関係なくても。
(山下、それは、なるほど。)
ようするにバランスを崩す。結局。
(山下、今の日本映画がコンペにいけなくなったってあるんすか。今の日本映画の傾向というか、状況ってどうですか?)
みんな大喜利が好きなんですよ、日本は。みんなが同じことを知ってて、経験をしてて、同じ価値観を共有しているから小さな価値観(の差が)楽しいってゲームですよね。これって年寄りの、体力がなくなった年寄の遊びなんだと思うんですよ。だからつまり、フィジカルが弱いというかね、日本映画は。だから微細なね、大喜利ゲーム、センス合戦をいくらやっても、国内では評価されるかもしれないけど、外行ったら一撃で倒されてしまう。つまり、同じものを共有してないから、最初から。
(山下、とくに今の日本映画ってそういう感じします?)
というか今の日本映画というか、日本全体。だんだんそういう傾向が強くなってきているように思いますね。
そして業界の中には業界のルールがあって、あなた(山下敦弘監督)も自主映画出身だから分かると思うけど、そんなルール誰が決めたんだよというルールをみんな守るのが無前提に、当たり前だと思ってるでしょ。
(山下、はい)
その中で作っていっても、それはやっぱり外に出ていったときに強いフィジカルを持ったものになかなかならない。つまり体力がつかないと思うんですよね。もっとなんか酷い目にあって作んないと。映画なんだから。そういうことを海外の奴らなんかはわりとやってると思うんですよ。だから対峙したときにやっぱりパンチ力があるんだよね。こっちはポイントを取って逃げようと思っても、そんなもん誰が観たいんだって言うことになるから、結局。だから実際直接ぶつかると負けちゃう。
7話、河瀨直美
河瀨直美の学校が舞台のショートフィルムに山田孝之を出す。
そこで山田が涙を流す。
撮影前の河瀨直美の言葉。
頭の中だけで考えたことってそんなに重要じゃなくて、彼がそこで生きてくれていることっていうのの方が、そしてカメラがその場で回ってる瞬間がリアルでしょ。
形としてなにかきれいに作るというのは、本気嘘つく、本気で何かこの辺が熱くなってくる。それは俳優としてあるでしょ?(と山田孝之と芦田愛菜に)
撮影中、山田は無言で天体観測の部屋の中に座っている。
カットがかかる。山田孝之が泣いていた。そして河瀬と山田の会話。
山田:なんか辛かったですね。すごい楽しかったこととか思い出すんですけど、なんか……辛い、全部
ここで河瀨直美はそっと手招きをして芦田愛菜を呼び寄せ、隣に座らせる。
芦田:どうしたんですか?
山田:(首を傾げ)どうしたんだろうね。(長い沈黙)わからない。
河瀬:自分と演じてる何かっていうのは、何かこう、違うっていうか、混ざっちゃう感じ?
山田:(まだ鼻をすすっている)そうですね…そんな感じでしたね。
河瀬:自分の居場所ってある?今。
山田:それをなんか考えてましたね。たぶんずっと探してるんですよね、小っちゃい時から。それを何かこう思い出して、だから、やっぱりないんだなって思って。
(芦田愛菜も泣いている)
河瀬:私とかってさ、イメージとかってさ、奈良とかさ、映画とかさ、めっちゃ自分持っているみたいに思われてんねんけど、すごい自分の居場所を探し求めてて、根無し草だなと思ってて、自分が。たぶん、山田くんとか芦田さんとかだったら、表現…俳優としてかもわからへんけど、そういうところでこそ生きていて、それ以外のところは実は、あんまり何にもなかったりするのかなとかって。私は人のことはわからへんけど、私は何かそんな感じでね。
自分の人生だけだったら多分、どうにも生きてられなかったかもしれないなっていうところに映画がやってきたので。
だからこそそこにものすごいリアリティ、ものすごい魂入れたくなる、そこにしか入れられないみたいな。
そして河瀬直美が山田孝之の背中をポンポンたたきながら「河瀬組にようこそ」。山田「しんど」。
中西アルノの"I love you" 。
聴いた直後に思っていたこと。先日のブログ記事では平手友梨奈に似ているとされる見解に異論を唱えつつ、こんなことを書いた。
「ちゃんと自分の歌にしてた。歌にのせたい何かがあるということなんだろう。それがわかる歌だった」
「ある種の重さのある歌」
「人の心の細部に入り込んで、そこで共振するような声と歌だと思う。ほとんどの乃木坂の歌と楽曲は背景的な物語に依存しているところがある。しかし中西の歌はそれを必要としていない。物語に依存しない力があると思う。声と歌にすべてを託してきた人だと思う」
この感想自体は変わらない。
尾崎豊と並べて何度か聴いた。
ある種の重さ、人の心の細部に入り込んで、そこで共振する、声と歌にすべてを託してきた人…
今のところ何も修正する必要を感じない。
中西アルノの"I love you" が響くのは自分の歌として歌っているからだ。ある歌を繰り返し聴いて救われるということがある。でも、多分彼女は何度もこの歌を歌ってきた。そこに何事かを重ね、託し、歌い続けてきた。その何事かが何かはわからない。けれどもそうしてきたことはわかる。
中西アルノの"I love you" は尾崎豊とは言葉の中のアクセントの置き方と譜割りが違うところがある。少なくとも尾崎豊をなぞってはいない。「尾崎豊のように歌いたい」という歌ではない。はじめはそうだったかもしれないが、今は違う。尾崎豊の歌に自分を重ねるのではなく、もう中西アルノ自身の歌として溢れ出る、そんな感じが強くする。
もともとそうだったのかと思うほどに自然にそうなっている。何度も歌ったはずだ。そのたびに何かを込め、何かをのせてきたはずだ。そして作り上げられてきた歌だったのだと思う。
尾崎豊の声は、湿り気と重さがあり、とくに後期のライブでは少し割れ、それが情念的でもあった。人の腹に直球で打ち込まれてくる、そんな声と歌だった。尾崎豊自身の怒りややるせなさが、怒りとして、やるせなさとして表現される。だから熱くもあり、暑苦しくもあった。そのどストレートさがロックでもあったし、同じような情念を抱く狂おしいほどの支持者を獲得もした。だから尾崎の楽曲のカバーには「こんなのは尾崎じゃない!」と激しく否定する声も寄せられたりもした。その支持者にとって尾崎の歌は他に替えることのできないものだった。
中西アルノの声もまた湿り気とある種の重さがある。悲しい声に聞こえる。尾崎に比べるとずっと線が細く、声の前と後に震えるような余韻がある。そして思わぬ音にアクセントが置かれ、その瞬間、世界が少し変わる。
尾崎が怒りを歌とき、それは尾崎の怒りのままであり、同じ怒りを共有する人たちが強力に揺さぶり、獲得した。しかし中西アルノの歌にのせられている感情は高熱で迫ってくるものではない。
繰り返し繰り返し歌ってきたと思われるこの曲だが、そこにうまく言葉にできないなにか、吐き出したくても吐き出せないなにかの存在を感じせる。受け取り手の中にも言葉にできないものがある。吐き出せないものがある。それが刺激され、響く。だから受け取りてによって彼女の歌は別の光景、別の色彩を帯びるんじゃないかという気がする。直後に直観的に「人の心の細部に入り込んで、そこで共振する」と書いたのは、こういうことだったんじゃないかと思う。
中西が大切な歌だという"I love you" は、尾崎豊によって1991年にシングルリリースされているが、もともとアルバムのレコーディングは1983年に行われている。青山学院高校中退後、まだ18歳になる前のことだ。
ラブソングといえばラブソングだけど、そこに明るい未来などひとかけらも見えない。
I love you
逃れ逃れたどり着いたこの部屋
何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい
だからお前は子猫のような鳴き声で…
この世のどこかの片隅に逃れ出ようとしているような歌だ。二人の別れを予示しているわけでもないのにどこにも出口がない。二人がいて強く結びついているにも関わらず深く孤独な曲だ。
尾崎はこの社会の中に自分の居場所がないことをそのまま歌にしていた。だからラブソングもとても孤独な匂いが立ち込める。
その孤独な匂いは中西アルノの歌にも濃密にたちこめている。ただ尾崎のようなものとは気配が違う。もっと微細な、けれどもいたるところに貼り付き決して消えてくれないような、そんな孤独の気配を感じてしまう。
彼女はピアノかギターを弾くのだろうか?カラオケで歌ってきたのではない気がする。
「声と歌にすべてを託してきた人」と書いたが、私には中西アルノが歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきたような、そんな人に思えてならない。
たった1回、1つの歌を聞いただけの、とても個人的な感想にすぎないけれども。
この人の歌がグループ歌唱となったとき、それをどう活かすのかはよく見えない。自分自身の、個人的な、あるいは孤独な感情をたっぷりと歌にのせるのが中西アルノの歌だとしたら、それはグループの楽曲とどう折り合えるのだろう。
ただ西野七瀬の歌は実はそうしたものだった気がしている。グループの中に溶け込んでしまう、聴こえなくなる、そういう歌、声ではなかった。少し揺らぎと哀感を含んだようなその声は、いつでも聴こえるものだった。だからこそソロ曲が多かったのではないか、と思う。逆に白石麻衣は徹底してグループの声の中に溶け込んでいこうとしていた気がする。不自然なほどまっすぐな歌声はグループでの歌唱のために鍛え上げられたものだったと思ってる。
けれどもたぶん中西アルノの歌は西野七瀬よりも強いから…どうなるのだろうか。「しばらく手探りが続くんじゃないか」とツイッターには書いたが、よく見えない。
それにしても乃木坂46というグループで良かったと思う。
乃木坂は「センターがグループを引っ張る」というタイプのグループではない。どちらかというとセンターを守り、背中を押すグループだと思う。29thの斎藤飛鳥、山下美月をはじめとした1列目、2列目は分厚い。グループの強さ、懐の広さで時に背中を押し、時に包み込み、どこかで新しいグループのあり方の解を見つけるだろう。
ただ乃木坂は役者は生み出してきたけれどもシンガーを生み出してはいない。生田絵梨花はミュージカル俳優ではあっても「シンガー」という感じがしない。もし乃木坂46の卒業生でシンガーを上げるならば川村真洋だと思う。また彼女しかいないと思うが、川村真洋は乃木坂46のなか中軸になることはなかった。中西アルノをどう育てることができるか。初めての扉をいま開こうとしているのだと思う。
以下はとりあえずのメモ。ツイッター投稿の再掲。
しかし興味を持っていなかった乃木坂5期生についてブログ記事を書くとは思わなかった。
2月22日分
乃木坂5期生で中西アルノが叩かれているんか。
遠藤光莉もそうだったけど、生身の人間を出どころも良くわからない情報とか容姿で叩くっていったいなんだ。
匿名で物陰から言うのが卑怯だと思わないのか。
私の知っている人が2人、学費を稼ぐために被写体モデルやってた。誰にだって事情はあるんだ。
もし仮にだよ、仮に。
過去に何事かあったとしてもさ、いま必死に脱却しようともがいているのかもしれないじゃないか。今の姿をみろよ。これからの変貌をみろよ。目の前にあるものを自分の目で直視しないで一体何を見るんだ。
私はむしろ逆風が吹いているからこそ頑張ってほしいと思う。
以下は今日、2月23日
乃木坂5期生、お見立て会
中西アルノ、尾崎豊の「I love you」歌ってる。
アーティスティックだな。尾崎のマネてなぞっている歌じゃない。
表現したいものが溢れ出るみたいな歌だった。
心を動かせる歌だった。
中西アルノ、はじめ「特技披露で”I love you”を歌う」と聞いて、え~っと思った。まぁ尾崎豊の歌はそこにこめられる情念がないと歌えないと思う。
でも、ちゃんと自分の歌にしてた。歌にのせたい何かがあるということなんだろう。それがわかる歌だったな。
乃木坂5期生には興味も何もなかったけど、ちょっと変わってきた。
いまお見立て会、ガルルを歌ってる。それ聴きながら打ってる。
考えてみれば尾崎豊だって高校中退して歌い始めた。彼の歌にもっとも激しい情念がこもっていたのはいまの5期生たちくらいの年齢だったな。
中西アルノ、自分にとって大切な曲といってた。
なにかインスパイアするものがあるんだろうか。
もし中西アルノにいいソロ曲を歌わせたら、乃木坂の歴史が少し変わるんじゃないかとすら思った。ああいうある種の重さのある歌は、あまり記憶にない。ちょっと橋本奈々未の「ないものねだり」を思い出した。
センター発表後
29thセンター、中西アルノ。
乃木坂、歌の力で全く新しい扉を開けようとしているわけだね。
でも、楽曲は誰が聴いても欅坂っぽく聴こえるだろう。彼女の少し不思議な存在感、歌の力を活かす道が、秋元康が挫折し、敗北した欅坂の夢なのかはかなり疑問。これから手探りが続くんじゃないだろうか。
中西アルノと平手友梨奈を重ねて、欅坂的な空気感の楽曲にしたのなら、そこに秋元康の想像力の限界があるんじゃないか。誰よりも欅坂の歴史に背負うものがある秋元康が、そのことを省察できていないのではないのか。
中西アルノ・センターにワクワクするだけに欅を見ていた者として危機感を覚える。
平手友梨奈と中西アルノを重ねる人は多いけど、歌に関してはかなり違う。中西の方がデビュー当時の平手よりも遥かに完成されているし、何よりも歌が繊細だ。平手は歌が下手ではないけれども、繊細さはそれほどなく、身体パフォーマンスを軸に表現していた。あの繊細な歌の力を活かす楽曲がほしい。
中西アルノの”I love you"聴き直したけど、人の心の細部に入り込んで、そこで共振するような声と歌だと思う。ほとんどの乃木坂の歌と楽曲は背景的な物語に依存しているところがある。しかし中西の歌はそれを必要としていない。物語に依存しない力があると思う。声と歌にすべてを託してきた人だと思う。
中西アルノの登場。
ひさしぶりにワクワクする。
中西アルノ、平手友梨奈と重ねられたり、その歌に注目がたぶん集まっているだろうと思うけど、なんだか妙な空気感を身にまとってる。少し違う角度から世界を見ているみたいな、そんな感じ。
どうも「ボケ担当」「いじられキャラ」になれそうな気がする。不思議なユーモラスさを感じるのだけど。
追記。
しかし中西アルノと平手友梨奈の決定的な違い、最大の違いは上の画像にあるように隣に齋藤飛鳥がいることかもしれない。平手にはそうしたメンバーはどこにもいなかった。
*****************
補足 投稿済みのブログ記事
欅坂46『黒い羊』が秋元康の限界であることについて
”そしてそのとき、同時に思ったことがある。
秋元康は、「黒い羊」をこえる強度をもった楽曲はつくれないかもしれないということ。「黒い羊」をこえるためには、秋元康が、これまでの秋元康の枠をこえなければいけなくなるだろうということ。”
”この点、MVははっきりと秋元康の歌詞の世界を超え出た。”