あるツイッター上の議論があった。それをへて自分の感覚が少し輪郭をはっきりさせてきた。
中西アルノの歌について。あわせて平手友梨奈について。ただしこれは一般的にいわれていた「似ている」とか「秋元康のゴリ押し」とかとは無縁のこと。
平手友梨奈。
私にとってもっとも鮮烈な印象を与えられたのは2017年FNS歌謡祭で”ノンフィクション”を歌う平井堅との共演のときだ。
直接その目でみた新妻聖子のツイート はネットニュースにもなり、よく知られている。そのツイートとは以下のもの。
昨夜のFNS歌謡祭、平手友梨奈さんのダンスの余韻が凄い。一言も発しない16才の少女の身体が何かを叫んで訴えているようで、胸が締め付けられた。平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに「ノンフィクション」。凄いものを見てしまったと思った。テレビの現場で短い演劇を観たような感覚になるとは。
午前10:07 · 2017年12月7日·Twitter for iPhone
平手友梨奈ばかりがフォーカスされているきらいがあるが新妻聖子は正確に「平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに『ノンフィクション』。凄いものを見てしまった」と言っている。
のちに振り付けたCRE8BOY が、「気持ちを込めて踊ることについてはずば抜けている」と言っていた。ダンスのうまさなら後の平手のほうが遥かに上だろう。また表現力だって進歩しているのだろうと思う。2021年の「ダンスの理由」の平手はバックにダンサーを従えて単独でパフォーマンスを行った。ダンスは格段にうまくなっている。凄みすら感じさせる空気感を身にまとっていた。「ダンスの理由」のMVに参加したダンサーたちが口々にその凄みを語っていた。
けれども、たぶん2021年の平手友梨奈に2017年、16歳のときの ”ノンフィクション” を再現することはできない。またそれを求めることも間違っている。
2017年の平手友梨奈は、その未完成さ、未熟さを、そのまま表現に転化してしまった。踊ることのもどかしさが、そのままこの世界で生きることのもどかしさとして現れてきた。踊ることの未熟さがそのまま生きることの未熟さ、もどかしさだった。それは中年になり、友人が自殺し、新たな存在の危機に直面する歌を歌う平井堅と絶妙な共通性と対照性をつくりだした。二人が平行して存在する空間を劇的なものにした。平井堅がもつ花束が平手へのものであるかのようにみえ、その平手は、花のように舞い降るもののなかで千切れた紙が詰まったカバンの中に、叶わぬ別の世界への脱出をはかるかのように頭を突っ込む。
絶唱だった。再現することができない、あの時、あの瞬間にしか現れることのない世界だった。
改めて平井堅/平手友梨奈の “ノンフィクション” のことを思い出させたのは中西アルノの歌だった。中西のブログが2回分、公開されているが、それを読んでまた歌について考えさせられたからだった。
中西アルノのブログ。
10th Year Birthday Live が終わった後、このように書いた。
不安や苦しさで声も身体も強張ってしまったときに
聞こえた拍手は、本当に。
私の拙い語彙では表現しきれません。
感無量です。
たくさんのファンの方が
私と目を合わせて笑顔になってくれたとき
楽屋で、舞台袖で、舞台上で、
沢山の先輩に優しく声をかけていただいたとき
同期みんなで
手を繋いだり、抱き締めたりして、支えあったとき
乃木坂46のメンバーの涙に、目を潤ませるスタッフさん方を見たとき
OGの方が「大丈夫だよ」と声をかけて肩を擦ってくれたとき
これが"乃木坂46"かと。
わたしは本当にとんでもないグループに飛び込んでしまったのだと。
嵐のように吹き荒れたバッシングにさらされてる自分、10年の歴史の厚みを持つ乃木坂46のメンバー、スタッフ、巨大なステージと埋め尽くされた客席、…そこに含まれる自分自身をあわせて、一つの映像、一枚の絵画のように見つめているような気配が漂う文章だと思う。
ある瞬間、その場にいて目の前に繰り広げられる世界を眺める自分がいるが、次の瞬間、その自分から離脱して外部からそれを見つめる。あるいはその時、その世界に含まれている外部から見えている自分を含めて客観化する眼差し。そういうものを感じる。
私は、これが中西アルノの「生き延びる知恵」だったのかもしれないと思う。
同じブログにこういう書き方をしている。
可愛いを纏うと、自分の核を隠せている気がして安心します。
可愛いは武器ではなく盾です。私にとって
昨日今日に感じた感想などではない。外部から見えない、見せない核があり、それを盾で守って生きてきた自分のあり方。そういう構造を作り出して生き抜いてきたのだろう。しかも自覚せざるを得ないものとして。そうした眼差しを持ち続けてきたことが10thバスラについての文章を生み出している。
しかしこれは「すぐれた資質」などではない。むしろ苦痛の中から、他の選択肢のないものとして生み出されてきたものだと思う。
2月27日のこのブログ でこう書いた。
その孤独な匂いは中西アルノの歌にも濃密にたちこめている。ただ尾崎のようなものとは気
配が違う。もっと微細な、けれどもいたるところに貼り付き決して消えてくれないような、そんな孤独の気配を感じてしまう。
「声と歌にすべてを託してきた人」と書いたが、私には中西アルノが歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきたような、そんな人に思えてならない。
ブログを読んでいてこの人の歌はこの核から、盾の向こう側から生まれてくるのだと確信した。
その核=盾の向こう側は言葉にできない。ただ歌だけが核=盾の向こう側を解放する。
中西アルノの声は少し悲しい。「個」の声だ。
核を隠せるといい、「盾だ」という中西が歌の中にだけははっきり言葉にできない、あるいは、言葉にしない盾の向こう側がさらけだされる。”Actually” のシャウトは彼女の個人的な叫びの響きだ。だから「繊細さと孤独な匂い」と「歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきた」ように感じたのだと思う。
中西アルノの「盾の向こう側」が解きほぐされ、盾の向こう側とこちら側をあわせて自己を肯定し、扉を開けっ放しにできるようになったとき、あの歌は失われるものなのかもしれない。いや「かもしれない」じゃないな。あの歌はある意味で必然的に失われていく。それに何がとってかわるのかわからない。
中西アルノにもし伝えたいことがあるかと言われたら、こういいたい。
あなたがいま歌う歌は、今しか歌えない。これからいろいろ変化していくだろうけど、いまの自分の歌を大切に大切に歌ってほしいということ。
もう一つ。隠された核、盾で守られた向こう側、その存在が例え自分では誇れるものではないと思っていたとしても、それを抱えて生きてきたことは、きっとあなただけでなく、あなたの歌がつき刺さる人たちにとっても意味があり、大切なものなのだということ。
【追記】
一つ書き忘れた。
中西アルノの歌が、すべての人にではなくてもある人たちに深くつき刺さるのは最初からはっきりしていた。バッシングなどを別にしても、その突出した歌がグループの中でどう変化していくのか、あるいは変化しないのか。そこには強い関心があった。同時に、その歌をセンターに据えたということは乃木坂46というグループ全体にとって激しい変化を要求するものになる。それは必然的なこととして考えていたけれども、このブログの冒頭に書いたツイッター上のやりとりではっきりと分かったことは、中西アルノの歌は、ファンも塗り替えていくことだった。想像を超えたことだった。
率直にいって乃木坂46というグループに「歌の力」を感じたことはほとんどなかった。◯◯は歌がうまいな、というファンの感想に触れるたびに乃木坂ファンは歌、歌の力を求めてはいないのだろうと感じざるを得なかった。
ところがそれが変わり始めるのかもしれない、と思えるようなツイッターのやりとりだった。古くからの乃木坂ファンが自分自身でも驚いたことに、ガツンとくる歌声がないと満足できなくなってきていると言っていた。
中西アルノの力だけではないとしても、その力が大きく働いていることは間違いない。
中西アルノに伝えたいことがあるかと聞かれたら、三番目に、あなたの歌は乃木坂ファンを塗り替えて始めているということだった。ひょっとしたらさ、核を盾で守らなくてもいい世界を自分の力で作り出し始めているのかもしれない。それはきっと他の人も同じように抱えている盾で守られた世界がゆっくり溶け出していける世界かもしれない。