No No Girlsを「逆走」的にみている。

 ああこんなことがあったのか、と。

 HANAのプレデビュー曲「Drop」のリリース記念の生配信(5月16日)。

 HANAの各メンバーがオーディションの中で心に残っていることを話している。その中、最年少のMAHINAがこんなことをいっていた。

 

私はThe Finalの10人で歌ったSAD SONGが、本当にものすごく心にぐさっと刺さりましたし、私の一生の宝物でもありますし、みんなの顔を見たときに、もうヤバイぞって、もう歌えないぞって思いました。

 

 

 1月11日のSAD SONG。

 この前にFinalists10人から、7人が選ばれ、「HANA」というグループ名と今後の活動が発表されていた。メンバーにならなかった3人、KOKO、KOKONA、FUMINOは、ステージ上からいなくなっていた。

 でもここは「No No Girls」のThe Finalのステージのエンディング。1年ほどのあいだ、さまざまなNOとたたかってきた彼女たちの「The Final」のステージ。すべてのNo No Girlsのステージ。

 

 

 5月のFirst Takeでは1月のThe Finalと同じ歌割りでメンバーがリレーしていく。

 そしてメンバーにならなかったKOKOが「もう少しこうしてたい、できるだけ」と歌ったことを引き継いで、「10人で歌ったSAD SONGが、本当にものすごく心にぐさっとささった」というMAHINAが、「永遠ってことにしとこうよ」と歌う。ヒトカケラの邪気もないような声で。

 

 

 

 ああ、こうしてひとつひとつ糸をたどりながら沼にハマっていくのか、としみじみ思う。

 

 

 それにしてもMAHINAって最初、歌の力はそれほどなかった。なのに、変幻自在の色と形を持つ歌声になった。あのあまりにも無邪気な歌声っていったいなんなんだ?

 

First TakeのMAHINA

 

 

The FinalのKOKO(COCO)

So tell me
この夢が終わるときはそっと教えてね

The FinalのKOKONA

願うならこんな私が
死んでもせめてこの愛だけは
せめて、残って、咲いてますように

 

The FinalのFUMINO

今はただこんな私の
この音とこの歌声を
信じていてほしいんだ

 No No Girlsに「逆走」的にめぐりあってしまった。

 深い幸福感と、どうしようもない喪失感が、同時に襲いかかってくるという事態に直面することになった。しかもどうやら当面は逃れられそうもない。

 

 

 「ノノガ」という単語は知っていた。HANAというグループ名とガールズグループであること、なんかダンサブルらしいということくらいだった。「ノノガ」と「HANA」という名詞すら関係づけられていなかった。

 

 きっかけはマクドナルドのCMとそのメイキングをふとみてしまったこと。NAOKO version。

 

 

 

 伊藤沙莉がダンスができるのは知っていた。

 それこそ子役時代、「女王の教室」のエンディングで、天海祐希のサイドでHip Hop系のダンスを踊っている2人の生徒の一人だった。youtubeの映像を「へー、伊藤沙莉ってまだ踊れるんだ」くらいで見てしまった。

 まだここまでなら耐えられたが、その後、ちょっと気になってもう一本の方(CHIKA version)を見てしまった。

 

 

 そのコメント欄にこんな書き込みがいくつもあった。

 

 「chikaの笑顔を見るたびに泣きそうになるのは俺だけじゃないはず」

 「マクドナルド✖️伊藤沙莉✖️風神雷神は激アツ」

 「Chikaが笑ってるだけで楽しそうにいてくれるだけで泣ける」

 

 笑顔を見たら泣く?どういうこと?風神雷神ってなに?

 で検索したらFirst Takeのちゃんみなの「Sad Song feat. No No Girls Finalists」を見つけてみてしまった。(みて、しまった)

 もうこれが「致命傷」になってしまった。

 

 

 5ヶ月で再生回数2500万回超。

 そしてそれ以上にコメント欄が尋常じゃない。公開日は2025年5月。

 

「この動画1回も見てない人はいるけど、1回しか見てない人はいない」

「ファイナルのSAD SONGで泣かなかったCHIKAとKOKOが泣いてる姿を見て、
あの時泣きたかった自分の事を救ってあげられてる気がして安心した。」

「ただのファンでさえ
このまま時が止まってくれたらって思うんだから
当人たちはもっと思ってるよなって考えたら
普通に泣けてしまった。本当ぴったりな選曲。」

 

「何回観て何回泣いたら気が済むんだ自分。
一人一人の表情全部観るために永遠に再生してます
No No Girls Forever❤️」

 

 こんなコメントが無限に続く。一番下のコメントが最新のもので11月3日付け。

 このコメントもただ懐かしい記憶というだけじゃないのだと思う。

 実際に聴くと、いままでほとんど聴いたことがなかったちゃんみなの声はあまりにも優しく、暖かく、慈愛のようなものすら感じる。そしてFinalistsが、つまりは最終審査でメンバーになれなかったKOKO、KOKONA、FUMINOが、同じ「Finalists」として歌い継いでゆく。

 後で知ったがこれは最終審査のエンディングをなぞっている。このあたりはまた後日、きっと。

 

 その歌声がさ、すごいんだよ。

 10人のFinalists全員の声が、凄まじくエモーショナル。

 そしてちゃんみなが「声」に、それはその人の生きてきた時間が現れるものだから、とこだわり続けていたことも後で知ることになる。ちゃんみなは「歌」とは言わず、「声」と言い続けている。

 

 そして沼に引きずり込まれ、No No Girlsのアーカイブを第1回から第16回まで完走。そしてそれに付随するさまざまなドキュメントもあらかたみた。オーディションの過程を通じたその声の変化とその人の変化を辿ってしまうとちゃんみなが言っていた「声」に幾重にも折りたたまれたものを感じるようになってしまう。

 

 引き返せなくなった。

 どうしてくれますかね。

 HANAのこれからをみてみたいと思う。でもそれだけだったらここまでどうにも引き返せない感はなかったと思う。

 KOKO、KOKONA、FUMINO。

 この3人がマクドナルドのCMのCHIKAみたいに笑って音楽をしていて、歌っていて、踊っている姿を探し続け、待ち続けるような気持ちになってしまっている。

 でもそこには出口はあるの?

 

 

KOKO

 

KOKONA

 

Fumino

 

 渡邉理佐、インスタを消してしまった。Xは残っているけど。

 

 なんとなくそうなのか、と納得する部分もある。

 もう戻ってこないと言っているわけではない。

 でもやっぱりちょっとさみしいな。

 

 

 

 

 

 

 中西アルノが36thシングルの選抜メンバーになった。

 乃木坂工事中での選抜発表直後にアップされたブログにこうある。

 

でもアンダーライブは

悔しさ、素直さ、情熱
そういう今まで避けてきたものと嫌でもぶつからなければいけない環境でした。


私も知らない私に出会ったし、私を強くしてくれた場所です。


私はここで根を張って頑張ってきたんです。
そこにプライドもあります。


そんな大切な場所で得たことも
噛み締めながら前を向いて
新しいこの場所でも変わらず命をかけて頑張ります。

 

 

 アンダー、アンダーライブに誇りがある。そして、だからこそそのアンダーという場所で得たことを噛み締めて「命をかけて頑張ります」という。

 乃木坂46というグループに加入すればその人の人生は文字通り激変する。何もかも変わる。

 けれども、そのなかでも最も「激変」に直面し、生き抜いてきた人、少なくともその一人が中西アルノだろう。その人のあり方そのものが激しく変わること自体を生きてきた人だろう。

 ここまでよく壊れなかったと思う。よく生き延びたとすら思う。言葉通りの意味でそう思う。その人が公式ブログに書きつける「命をかけて頑張ります」という言葉は、ただのレトリックではない。それほど軽いものではないと思っている。

 

 アンダーという場所に誇りをもつ中西アルノに「選抜(復帰)おめでとう」という言葉がふさわしいのかどうかわからない。また、選抜になったことへの攻撃がそれなりにはあるだろう。いまさらそれに負けるなどということはないにしても、ただただ嬉しいということだけでは語れないだろうし、強い緊張もあるにちがいない。

 中西アルノにきっと乃木坂46という場所は必要だった。そして同じくらい、乃木坂46に中西アルノという人は必要なのだと思っている。歌の力はもちろんだが、それだけではなく。

 例えば白石麻衣や西野七瀬のように乃木坂のメインストリームを歩むことはないような気がする。どこまでいってもどこかに違和感が残る人であり続けるように思う。

 けれどもそのことが大切なのだ。中西が編み上げていくグループの「もう1つの物語」のようなものが必ずあるし、それはすでに書かれ始めていると思う。そのことのかけがえのなさ、代わりの効かなさ。それを包摂することで織り上げられていく物語の豊穣さを体現し、語り手になれる人なのだと思っている。どこまでも「乃木坂46の中西アルノ」を突き通してほしい。選抜復帰は第3章の幕開けだと思う。

TVerでドラマ「チア☆ダン」第1話(土屋太鳳、石井杏奈)が「おすすめ」に出てきてなんとなく観たら…

この右側の子役(セリフもある)、櫻坂3期生の谷口愛季さん、ですよね?ちがうかな?

 

 

最後の「エキストラ協力」にアクターズスクール広島の名前はないし、インターネット上にもそれらしい情報は流れてないから今ひとつ確信が持てないけど…

ドラマ版「チア☆ダン」放送は2018年、谷口愛季2005年4月生まれだから当時13歳。まぁ年齢はだいたいあう。

 

ちなみに「そこ曲がったら、櫻坂?」の谷口さん。

 

違うのかなぁ…多分そうだと思うけどなぁ。

もしそうだとしたらこういうシーンも感慨深い。

 

下の2枚の画像。第2話

部員不足でチアダンス部(ロケッツ)存続の危機。父親が教頭で、優等生で、その優等生の枠には自分をはめ込んで生きてきた桜沢朝子(佐久間由衣)が、いままでの自分を振り切ってロケッツに入る方向に大きく心が動き出すシーン。

 

何か心を決めるように動画を見始める。

 

そしてスマホの画面が映る。

 

言わずとしれた「サイレントマジョリティー」だ。

 

”君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな”

 

そしてチアダンス部(ロケッツ)廃部が宣告される瞬間、立ち上がり、父親である教頭に対して自分が入部すると宣言する。

 

そしてこの5年後、谷口愛季は欅坂の衣装を身にまとうことになる。

 

櫻坂46になって初めての「語るなら未来を」。しかも3期生だけの「新参者ライブ」。

このときの谷口愛季の覚悟のこもった目には射抜かれた。

 

まぁ「チア☆ダン」のあの子役が谷口愛李さんだったら、だけど。

でももしそうだったらなかなか素敵な偶然だ。

 

 

 

 

 昨日、櫻坂46の3rd Tour Final(大阪城ホール)を見た。

 

 渡邉理佐が卒業し、櫻坂46は追わなくなっていた。もう追うことはないと思っていたし、まぁMVくらいは見るけど『そこ曲がったら、櫻坂?』もライブもこれからは見ないだろうと思っていた。だから3期生は誰もしらない。

 

 なのに藤吉夏鈴センター「Start Over」で覆された。素晴らしかった。3rd Tour Finalの大阪城ホール。見た。「Start Over」のライブ初披露ともなったが、それも素晴らしかった。

 

 「鮮烈」。その言葉がぱーっと広がっていく。

 「Start Over」と「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」は鮮烈の一言だった。世界が瞬間的に塗り替えられてしまう。その瞬間に立ち会うような感じすらする。しかも、「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」のMVが公開されたのは2020年11月18日。そこから2年半たって、経験も積んできて、それでも鮮烈さが失われないことに驚く。監督が同じ加藤ヒデジンだからかもしれないが、ライブでも感じるのだから監督の手腕だけに還元はできない。

 いままで見たことのない表情が瞬間的に現れる。映像全体の光度が一気に上がる気がする。

 普通、笑顔になるにしても前後関係があり、文脈がある。流れがあり、必然性がある。けれども藤吉夏鈴の笑顔は、その前後関係や文脈を切断するような気がする。唐突に、突発的に。不意に強い電流に弾かれるみたいになる。そして世界を塗り替えてしまう。別の世界への瞬間的な跳躍のようにも思える。

 

 ライブ初披露後、挨拶で、藤吉夏鈴は言葉につまりながら「『Start Over』という楽曲の中で、力強く、すごく自由に生きることができて、幸せでした」といった。

 とても正確な言葉を持っている人だと思う。

 「Start Over」と「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」(それだけではないかもしれないが)という楽曲のなかで、その世界の中ではじめて「力強く生きられる」「自由に生きられる」そしてそれが「幸せだった」と涙を流す。その数分間、別の世界にいる。そうした世界の存在を見ているものにまざまざと感じさせる。そんなMVとライブだった。

 

 そういえば生駒里奈も『制服のマネキン』で別の世界にいたのかもしれないなどと思ったり、櫻坂46にとってこの6thシングルの重要さとか、いろいろ思うこと、感じることはあるけれども、とりあえず直後の感想はこのくらいで。

 

 それにしても何かが破裂したみたいだった。

 

空は飛ぶためにあるのだから…

 

 

 あるツイッター上の議論があった。それをへて自分の感覚が少し輪郭をはっきりさせてきた。

 中西アルノの歌について。あわせて平手友梨奈について。ただしこれは一般的にいわれていた「似ている」とか「秋元康のゴリ押し」とかとは無縁のこと。

 平手友梨奈。
 私にとってもっとも鮮烈な印象を与えられたのは2017年FNS歌謡祭で”ノンフィクション”を歌う平井堅との共演のときだ。

 直接その目でみた新妻聖子のツイートはネットニュースにもなり、よく知られている。そのツイートとは以下のもの。

昨夜のFNS歌謡祭、平手友梨奈さんのダンスの余韻が凄い。一言も発しない16才の少女の身体が何かを叫んで訴えているようで、胸が締め付けられた。平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに「ノンフィクション」。凄いものを見てしまったと思った。テレビの現場で短い演劇を観たような感覚になるとは。
午前10:07 · 2017年12月7日·Twitter for iPhone


 平手友梨奈ばかりがフォーカスされているきらいがあるが新妻聖子は正確に「平井堅さんの生歌との相乗効果。まさに『ノンフィクション』。凄いものを見てしまった」と言っている。
 のちに振り付けたCRE8BOY が、「気持ちを込めて踊ることについてはずば抜けている」と言っていた。ダンスのうまさなら後の平手のほうが遥かに上だろう。また表現力だって進歩しているのだろうと思う。2021年の「ダンスの理由」の平手はバックにダンサーを従えて単独でパフォーマンスを行った。ダンスは格段にうまくなっている。凄みすら感じさせる空気感を身にまとっていた。「ダンスの理由」のMVに参加したダンサーたちが口々にその凄みを語っていた。

 けれども、たぶん2021年の平手友梨奈に2017年、16歳のときの ”ノンフィクション” を再現することはできない。またそれを求めることも間違っている。
 2017年の平手友梨奈は、その未完成さ、未熟さを、そのまま表現に転化してしまった。踊ることのもどかしさが、そのままこの世界で生きることのもどかしさとして現れてきた。踊ることの未熟さがそのまま生きることの未熟さ、もどかしさだった。それは中年になり、友人が自殺し、新たな存在の危機に直面する歌を歌う平井堅と絶妙な共通性と対照性をつくりだした。二人が平行して存在する空間を劇的なものにした。平井堅がもつ花束が平手へのものであるかのようにみえ、その平手は、花のように舞い降るもののなかで千切れた紙が詰まったカバンの中に、叶わぬ別の世界への脱出をはかるかのように頭を突っ込む。
 絶唱だった。再現することができない、あの時、あの瞬間にしか現れることのない世界だった。


 改めて平井堅/平手友梨奈の “ノンフィクション” のことを思い出させたのは中西アルノの歌だった。中西のブログが2回分、公開されているが、それを読んでまた歌について考えさせられたからだった。

 中西アルノのブログ。
 10th Year Birthday Live が終わった後、このように書いた。
 

不安や苦しさで声も身体も強張ってしまったときに
聞こえた拍手は、本当に。
私の拙い語彙では表現しきれません。
感無量です。

たくさんのファンの方が
私と目を合わせて笑顔になってくれたとき

楽屋で、舞台袖で、舞台上で、
沢山の先輩に優しく声をかけていただいたとき

同期みんなで
手を繋いだり、抱き締めたりして、支えあったとき

乃木坂46のメンバーの涙に、目を潤ませるスタッフさん方を見たとき

OGの方が「大丈夫だよ」と声をかけて肩を擦ってくれたとき

これが"乃木坂46"かと。
わたしは本当にとんでもないグループに飛び込んでしまったのだと。
 

 嵐のように吹き荒れたバッシングにさらされてる自分、10年の歴史の厚みを持つ乃木坂46のメンバー、スタッフ、巨大なステージと埋め尽くされた客席、…そこに含まれる自分自身をあわせて、一つの映像、一枚の絵画のように見つめているような気配が漂う文章だと思う。
 ある瞬間、その場にいて目の前に繰り広げられる世界を眺める自分がいるが、次の瞬間、その自分から離脱して外部からそれを見つめる。あるいはその時、その世界に含まれている外部から見えている自分を含めて客観化する眼差し。そういうものを感じる。

 私は、これが中西アルノの「生き延びる知恵」だったのかもしれないと思う。
 同じブログにこういう書き方をしている。
 

可愛いを纏うと、自分の核を隠せている気がして安心します。
可愛いは武器ではなく盾です。私にとって

 昨日今日に感じた感想などではない。外部から見えない、見せない核があり、それを盾で守って生きてきた自分のあり方。そういう構造を作り出して生き抜いてきたのだろう。しかも自覚せざるを得ないものとして。そうした眼差しを持ち続けてきたことが10thバスラについての文章を生み出している。
 しかしこれは「すぐれた資質」などではない。むしろ苦痛の中から、他の選択肢のないものとして生み出されてきたものだと思う。

 2月27日のこのブログでこう書いた。
 

その孤独な匂いは中西アルノの歌にも濃密にたちこめている。ただ尾崎のようなものとは気
配が違う。もっと微細な、けれどもいたるところに貼り付き決して消えてくれないような、そんな孤独の気配を感じてしまう。

 「声と歌にすべてを託してきた人」と書いたが、私には中西アルノが歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきたような、そんな人に思えてならない。


 ブログを読んでいてこの人の歌はこの核から、盾の向こう側から生まれてくるのだと確信した。
 その核=盾の向こう側は言葉にできない。ただ歌だけが核=盾の向こう側を解放する。
 中西アルノの声は少し悲しい。「個」の声だ。
 核を隠せるといい、「盾だ」という中西が歌の中にだけははっきり言葉にできない、あるいは、言葉にしない盾の向こう側がさらけだされる。”Actually” のシャウトは彼女の個人的な叫びの響きだ。だから「繊細さと孤独な匂い」と「歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきた」ように感じたのだと思う。

 中西アルノの「盾の向こう側」が解きほぐされ、盾の向こう側とこちら側をあわせて自己を肯定し、扉を開けっ放しにできるようになったとき、あの歌は失われるものなのかもしれない。いや「かもしれない」じゃないな。あの歌はある意味で必然的に失われていく。それに何がとってかわるのかわからない。

 

 

 中西アルノにもし伝えたいことがあるかと言われたら、こういいたい。
 あなたがいま歌う歌は、今しか歌えない。これからいろいろ変化していくだろうけど、いまの自分の歌を大切に大切に歌ってほしいということ。
 もう一つ。隠された核、盾で守られた向こう側、その存在が例え自分では誇れるものではないと思っていたとしても、それを抱えて生きてきたことは、きっとあなただけでなく、あなたの歌がつき刺さる人たちにとっても意味があり、大切なものなのだということ。
 

【追記】

 一つ書き忘れた。

 中西アルノの歌が、すべての人にではなくてもある人たちに深くつき刺さるのは最初からはっきりしていた。バッシングなどを別にしても、その突出した歌がグループの中でどう変化していくのか、あるいは変化しないのか。そこには強い関心があった。同時に、その歌をセンターに据えたということは乃木坂46というグループ全体にとって激しい変化を要求するものになる。それは必然的なこととして考えていたけれども、このブログの冒頭に書いたツイッター上のやりとりではっきりと分かったことは、中西アルノの歌は、ファンも塗り替えていくことだった。想像を超えたことだった。

 率直にいって乃木坂46というグループに「歌の力」を感じたことはほとんどなかった。◯◯は歌がうまいな、というファンの感想に触れるたびに乃木坂ファンは歌、歌の力を求めてはいないのだろうと感じざるを得なかった。

 ところがそれが変わり始めるのかもしれない、と思えるようなツイッターのやりとりだった。古くからの乃木坂ファンが自分自身でも驚いたことに、ガツンとくる歌声がないと満足できなくなってきていると言っていた。

 中西アルノの力だけではないとしても、その力が大きく働いていることは間違いない。

 中西アルノに伝えたいことがあるかと聞かれたら、三番目に、あなたの歌は乃木坂ファンを塗り替えて始めているということだった。ひょっとしたらさ、核を盾で守らなくてもいい世界を自分の力で作り出し始めているのかもしれない。それはきっと他の人も同じように抱えている盾で守られた世界がゆっくり溶け出していける世界かもしれない。

 山下敦弘、松江哲明監督。2017年のドラマ。

 映画を作ることを映像にしたドラマだが、日本の映画の状況について、映画を作ることについて、演じることについて考えさせれる。

 以下、2話、7話で話されている内容のメモ。

 

*****************

 

第2話
日本映画大学校の学部長・天願大介。映画監督で脚本家。パルム・ドール作品『うなぎ』の脚本も手掛ける。

(山下、カンヌに行くコツと言うか…)

天願:一般論として言うとね、ハリウッドが嫌いなんですよ、カンヌの人たちは。もう、憎悪してるんですよね。だから不親切につくることですよ。説明したり、お客さんにサービスしない。(山下、お客に向けてつくるって言うより、批評家に向けてつくる?)
批評家に向けてつくるって言うより、作家の中にある整理されてないものが出てこないと。それをお客さんに向けて整理しちゃうとエンターテインメントじゃないですか。もうちょっと原型のまま出すみたいな。
 直接的なメッセージみたいなものを入れたほうがいいかもしれないですね。
 

(山下、それは一言で語れるようなシンプルなものということですか?)
 

 いやそうじゃなくて、例えばキャメラ目線で彼女(芦田愛菜)が女性差別についてしゃべる、3分間しゃべる。そうするともうOK。嘘でもいいから、そういう現実の酷さを誇張して描くことで、全然お話に関係なくても。
 

(山下、それは、なるほど。)
 ようするにバランスを崩す。結局。

(山下、今の日本映画がコンペにいけなくなったってあるんすか。今の日本映画の傾向というか、状況ってどうですか?)

 みんな大喜利が好きなんですよ、日本は。みんなが同じことを知ってて、経験をしてて、同じ価値観を共有しているから小さな価値観(の差が)楽しいってゲームですよね。これって年寄りの、体力がなくなった年寄の遊びなんだと思うんですよ。だからつまり、フィジカルが弱いというかね、日本映画は。だから微細なね、大喜利ゲーム、センス合戦をいくらやっても、国内では評価されるかもしれないけど、外行ったら一撃で倒されてしまう。つまり、同じものを共有してないから、最初から。
 

(山下、とくに今の日本映画ってそういう感じします?)
 というか今の日本映画というか、日本全体。だんだんそういう傾向が強くなってきているように思いますね。

 そして業界の中には業界のルールがあって、あなた(山下敦弘監督)も自主映画出身だから分かると思うけど、そんなルール誰が決めたんだよというルールをみんな守るのが無前提に、当たり前だと思ってるでしょ。
 

(山下、はい)
 その中で作っていっても、それはやっぱり外に出ていったときに強いフィジカルを持ったものになかなかならない。つまり体力がつかないと思うんですよね。もっとなんか酷い目にあって作んないと。映画なんだから。そういうことを海外の奴らなんかはわりとやってると思うんですよ。だから対峙したときにやっぱりパンチ力があるんだよね。こっちはポイントを取って逃げようと思っても、そんなもん誰が観たいんだって言うことになるから、結局。だから実際直接ぶつかると負けちゃう。


7話、河瀨直美
 河瀨直美の学校が舞台のショートフィルムに山田孝之を出す。
 そこで山田が涙を流す。

 撮影前の河瀨直美の言葉。

 頭の中だけで考えたことってそんなに重要じゃなくて、彼がそこで生きてくれていることっていうのの方が、そしてカメラがその場で回ってる瞬間がリアルでしょ。
 形としてなにかきれいに作るというのは、本気嘘つく、本気で何かこの辺が熱くなってくる。それは俳優としてあるでしょ?(と山田孝之と芦田愛菜に)
 撮影中、山田は無言で天体観測の部屋の中に座っている。
 カットがかかる。山田孝之が泣いていた。そして河瀬と山田の会話。

 山田:なんか辛かったですね。すごい楽しかったこととか思い出すんですけど、なんか……辛い、全部
 ここで河瀨直美はそっと手招きをして芦田愛菜を呼び寄せ、隣に座らせる。
 芦田:どうしたんですか?
 山田:(首を傾げ)どうしたんだろうね。(長い沈黙)わからない。

 河瀬:自分と演じてる何かっていうのは、何かこう、違うっていうか、混ざっちゃう感じ?
 山田:(まだ鼻をすすっている)そうですね…そんな感じでしたね。
 河瀬:自分の居場所ってある?今。
 山田:それをなんか考えてましたね。たぶんずっと探してるんですよね、小っちゃい時から。それを何かこう思い出して、だから、やっぱりないんだなって思って。
 (芦田愛菜も泣いている)
 河瀬:私とかってさ、イメージとかってさ、奈良とかさ、映画とかさ、めっちゃ自分持っているみたいに思われてんねんけど、すごい自分の居場所を探し求めてて、根無し草だなと思ってて、自分が。たぶん、山田くんとか芦田さんとかだったら、表現…俳優としてかもわからへんけど、そういうところでこそ生きていて、それ以外のところは実は、あんまり何にもなかったりするのかなとかって。私は人のことはわからへんけど、私は何かそんな感じでね。
 自分の人生だけだったら多分、どうにも生きてられなかったかもしれないなっていうところに映画がやってきたので。
 だからこそそこにものすごいリアリティ、ものすごい魂入れたくなる、そこにしか入れられないみたいな。

 そして河瀬直美が山田孝之の背中をポンポンたたきながら「河瀬組にようこそ」。山田「しんど」。

 

 ダメだ、耐えられない。

 

 なんでこんなMVを残すんだ。

 なんで最後の最後に、こんな……

 ずるいよ。

 

 

 

 

 

 

 

櫻坂46 僕のジレンマ

金野恵利香監督

 

渡邉理佐、最後のミュージックビデオ。