私はテレビをみない(そもそも持っていない)ので、見てないのですが、「相棒20元日SP」の脚本を書かれた方のブログです。

 

右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。

あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。

 

ということだそうです。そして、

 

訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。

 

と言われています。

 

 脚本家が、その作品の放送直後にこんなコメントを出さざるをえないことは異例なのではないかと思います。非常に強い緊張感とある種の覚悟が必要だったのではないかとも思います。ぜひ番組を見られた方はこのブログをあわせて読んでほしいです。

 私はいまのマスメディア、TV、大手が仕切っている芸能という世界にいささか辟易し、絶望的な感じももっています。けれどもまだ誰もいなくなったわけではないし、現場には大きな流れと格闘し、葛藤している人がいるのだと思っています。そうした声の一つがここにあると思いました。

 

************

以下追記です

 

 私は『相棒』を見ていないので、具体的にそのシーンはわからないけれども、思い当たるものがあります。以下のツイートのリンク先に記事があります。東京メトロの「駅の売店」で働く非正規労働者の人たち。その賃金の差別性を訴えて長いあいだ闘い続けてきました。

 ひょっとすると太田さんが傷つけてしまったかもしれない、ともっとも恐れるのはこの人たちのことなのかもしれない。

 脚本家が作品放送直後に異議を唱えるのは、ただ自分の思いと違うからだけではなくて、あるいはそれならガマンしたかもしれないけれども、それで踏みにじられる人たちのことが目に浮かんだからこそ、黙っているわけにはいかない、プロデューサーなり放送局なりに内々で抗議するだけで終わらせるわけには行かない、そう思ったような気がします。表現に関わる人としてとても立派な態度だと思います。

 

 

 

 

 

 

 2020年3月7日、2期生9人の「アナスターシャ」のMVがアップされました。

そして「幻の2期生ライブ」、佐々木琴子卒業。

 

 2020年11月27日に「冷たい水の中」。堀未央奈の卒業発表でした。

 2021年3月28日9th・2期生ライブ。これで堀未央奈、卒業。震えるようなライブでした。こみ上げてくるものが激しすぎて、まだ表現が難しい状態です。
 

 それからたった2ヶ月、5月26日。
 アンダーライブ、終わってしまいました。伊藤純奈、渡辺みり愛のラストライブでした。「ショパンの嘘つき」、素晴らしかった。素晴らしかったけど、素晴らしかったからこそ、やはり喪失感は大きいです。

 伊藤みり愛の挨拶。中元日芽香の「最後のあいさつ」の引用がありましたね。

 

 「アナスターシャ」で2期生9人は遠くを見つめて旗を立てました。ここまでたどりつき、ここからはじまるのだと、そういう旗だと思いました。

 

 いま「アナスターシャ」を聴き、「冷たい水の中」を聴き、また「アナスターシャ」に戻っています。

 

 向井葉月や中村麗乃じゃないけど、どうしたらいいですかね。

 

 たぶん、なにかぼつぼつ書いていくだろうとは思うけど。

 

映画『ホットギミック』から。


 『ホットギミック ガール ミーツ ボーイ』(山戸結希監督、主演・堀未央奈) 、Blu-ray版を買って、本編、ヴィジュアルコメンタリー、舞台挨拶…全部みた。

 いい映画だった。恋愛映画だと言われるけれども、まぁ確かにそうだけれども、私は恋愛がテーマというより、嘲笑、嘲りの眼差しの中にさらされ、自分を縛り付けていた一人の少女が、自分の顔を、声を、身体を、自分のものとしてとりもどしていく映画だと思う。
 助走期間、主人公「初(はつみ)」(堀未央奈)をめぐる状況はめまぐるしく変化し、「初」の心は大揺れに揺れるが彼女自身の変化は受動的で外部からのものだった。しかし、終盤にかけて「初」は内側から爆発的に変化していく。「卵は内側から破られ」なければならない(ダグラス・ラミス)。その過程は筋道をたてて考え、一つひとつ選択し、変わっていくというようなものではない。時間の流れは切断され、跳躍し、ほとばしる言葉は食い気味に畳み掛けられていく。連続的ではなく、断絶と飛躍の中で自分自身を取り戻すことが、これほどの爆発力を生み出すのかと眼を見張る。「初」自身を含めて、誰にも制御できないエネルギーが「初」=堀未央奈から放出されていく。

 堀未央奈の卒業発表に衝撃を受けている人、飲み込めていない人は、『ホットギミック』を、見たほうがいい。ちゃんともう気持ちの整理はついているという人も、昨年、公開時に見たという人も、いま、見たほうがいい。すでに映画をみた人も、『冷たい水の中』を見た後ではたぶん、『ホットギミック』の見え方が変わるし、『冷たい水の中』の見え方も変わると思う。そこにはもうすでに「乃木坂46の堀未央奈」はいないから。


 『冷たい水の中』は『ホットギミック』の撮影場所で撮られたのだろうか。少なくとも山戸結希監督ははっきりと意識的に『冷たい水の中』に『ホットギミック』の映像を差し込んでいる。

 この2枚の画像はほぼ同じ場所だ。
 
 映画『ホットギミック』(山戸結希監督)

 
 『冷たい水の中』に挿入されている映像。


 
 そしてこれは『冷たい水の中』に挿入されているリハと思われる画像。

 

 

 これらは3枚はすべて豊洲(『ホットギミック』の撮影場所)ではないかと思う。少なくとも山戸監督は非常にはっきりと『ホットギミック』と『冷たい水の中』を結びつけて映像作品を作り上げている。 『ホットギミック』で新しい堀未央奈が誕生し、乃木坂46からの卒業を告げるために、『冷たい水の中』をつくるために、その誕生した場所に戻ってきた。そういうことなのではないだろうか。


 『ホットギミック』で堀未央奈は、役を演じたというよりも、主人公「初(はつみ)」を、あるいは作品そのものを生きた。それはもう演技が上手いとか下手だとかということをこえて次元で、堀の存在に響いてしまうように「初」と、『ホットギミック』とシンクロし、その作品を生きたのだと思う。先回りして言えば、堀未央奈は『ホットギミック』、「初」をいまも生き続けている、あるいは、堀の中に「初」が生き続けているように思える。
 この映画をみて堀未央奈が卒業するのは必然的で、なされるべき選択だったんだと思えた。そして『冷たい水の中』でもまた堀未央奈はその作品世界そのものを生きているのだと思う。あるいは「堀未央奈」という存在の、その時の断面を作品化するとこうなるのか、とも思える。
 『ホットギミック』で堀未央奈の中に眠っていた?まだ存在していなかった?そんな「乃木坂46の堀未央奈」ではない、新しい堀未央奈が目を覚まし、歩きはじめた。その新しく生まれでた堀未央奈が「乃木坂46 堀未央奈」を飲み込んでいったのだろうか。
 2年後、再び『ホットギミック』の現場となった場所に立ち戻り『冷たい水の中』をつくりあげる。

 『ホットギミック』の後半にこんなやりとりがある。
 「バカでごめんなさい。」
 「それなら、最後に俺んところに帰ってきてくれたらいい。ずっと待ってる。」
 「自分のこと、待てないんだ。私が、私自身を追いかけたいの。」

 ヴィジュアルコメンタリーで堀は、このこのセリフを「すごい好き」だといい「このセリフをはじめてきいて、そこからずっと染み付いている」という。
 「自分のこと、待てない。私は、私自身を追いかけたい」。もう『ホットギミック』の「初」の言葉なのか、いまの堀未央奈の言葉なのか区別がつかない。これをそのまま『冷たい水の中』の「もっと冷たい水の中へ」という言葉の前に差し込むことだってできる。

 『ホットギミック』の一つのセリフが堀の中で響きつづけ、その言葉を抱きしめながら生きてきた。たぶんそんな言葉はこれだけではないだろう。『ホットギミック』の「初」はおそらくいまも堀未央奈の中に生き続けているのだろう。
 『ホットギミック』と『冷たい水の中』は地続きにみえる。『冷たい水の中』の堀は『ホットギミック』の「初」に見えてくる。そのように2つの作品を堀未央奈は生きている。こうした作品に出会うことがどれほど幸せなことなのか私にだって多少は想像できる。望んで得られる出会いではないと思う。堀未央奈や山戸結希監督の資質、原作・脚本の良さ、そうした一つひとつの要素を揃えても、きっと『ホットギミック』と堀のような関係は生まれない気がする。そこには作品と作品を生きる役者を生み出す特別な構造、絶妙な関係があったのではないかと思う。


 作品が誰かにとって決定的な転換点になるといっても、ここではキャリアの出発点になったとか、その作品で名が知られるようになったとか、ではなく、その人の存在のあり方が変わってしまう、そんなことが起こったのだと思う。一つの生を生き抜いた果てで人は大きく変貌するものだ。
 『ホットギミック』は堀未央奈にとって「良い作品にめぐりあえましたね」というような水準のものではなかった。もっと存在の根っこに突き刺さり、響き続ける、特殊な作品だったと思う。作品と堀、監督と堀の、すべてのキャスト、スタッフ、原作との、とても特殊で親密で共振してしまうような関係が生み出した作品であり、その世界ではないだろうか。

 ヴィジュアルコメンタリーは「初」役の堀未央奈と「茜」役の桜田ひよりで撮影されているが、こんな会話がある。


 堀「ものすごい長台詞だけど、初を演じていて、タイムリーですごくほしい言葉が監督からもらえるからすごい覚えやすかったかも。」
 桜田「茜の言いたいことを私が発しなくても汲み取ってくれて。私にしか言えない言葉って考えてくれるのがすごく… あまりコミュニケーションと言うか、自分の想いを伝えなくても監督とは通じ合ってるなっていうのは、すごく感じてた。」
 堀「すごくわかる。」
 桜田「だから監督といると自然と涙が出てきちゃって話している最中、号泣したりした。」
 堀「監督としてもそうだし、人としてもそういう人と出会えるのって人生のうちになかなかないからさ。大きな出会いだった。」
 

 「タイムリーですごくほしい言葉が監督からもらえる」という堀がいうとき、堀は「初]自身になっている。堀は「初」として生きており、監督は「初」と対話し、その中から言葉を掴みだす。「茜」の桜田ひよりも同じことを言っている。「初」「茜」と山戸結希監督は会話をしながら共振し、そこから言葉を掴みだし、それをセリフとして返してゆき、演出をつける。そうして堀未央奈や桜田ひよりは、自分の言葉として「初」、「茜」の言葉を話し、その時間を生きていく。
 

 山戸結希監督からみても現場での堀未央奈はそのまま「初」に見えていたと監督自身が語っている。
 公開時には山戸結希監督と堀未央奈はインタビューにこう答えている。


 堀「台本を読んだ時も、演じている時も、“この気持ち、ちょっと私には理解できないな”という瞬間が一切なかった。わかりすぎて、どうしていいかわからないという悩みの方がありました」
(その悩みはどう解決していきました?)
 堀「私のモヤモヤを監督はキャッチしてくれて、いつも手を差し伸べてくださるので、とても救われていました」
 山戸「今も、すでにカットがかかっているけれど、初の気持ちについて話す時は、初の気持ち……その液体の中に自然と入っているんですよね。現場でも初の気持ちと一緒になってズンとなっていたりしていたので、ずっと初だと思って接していましたし、男の子たちもそうだったんじゃないかなと思います。みんな、それぞれが自分のロールプレイに没入していた。堀さんは、3人の男の子といるとき、それぞれの男の子の前で全く違う顔を見せるんです。だから、堀さんには3人の男の子じゃなくて、初として、亮輝くん、梓くん、凌くんに見えているんだなと感じて。毎シーンがフレッシュで、撮っていて高揚感がありました」
インタビュー「堀未央奈(乃木坂46)×山戸結希監督」 Deview 2019/06/26


 つまりあの「ON・OFFが激しいと思います」という堀が、カットがかかっても「初」であり続けたわけだ。堀自身、撮影期間は「初として生活する」と述べてもいる。

 

 堀が「初」そのものだったことは映画の中の言葉にも跳ね返っていったのだろう。映画のセリフはどんどん変更され、あるいは加えられていったと堀と桜だがヴィジュアルコメンタリーで話している。作品自体が、堀未央奈や桜田ひより、そして山戸結希監督とその関係性の中で生き物のように成長していったのかもしれない。山戸結希監督自身も「初」「茜」の息遣いを感じとることで言葉・セリフを生み出していったのだと思う。そして最初、無口で引っ込み思案で自分の身体と言葉をもたなかった「初」が身体と言葉を爆発させていく。身体と言葉だけじゃない。自分自身の感覚そのものをとりもどす。そのときに発する熱量、激しく飛沫を上げながら懸け下る激流のような速度と激しさ。それが「初」の内部に収まりきらずにその身体を通して空間に放射するように解き放たれていく。それが「初」=堀未央奈自身のものでもあるような構造が作り出されていたのかもしれない。


 そして大切なことは、この作品が最初から堀未央奈にぴったりに描かれていたわけでもないということかもしれない。いわゆる「あて書き」ではない。外側に見えている堀未央奈のために造形され、用意された作品ではなかった。けれどもその作品は堀の内部に眠っていたものと直接に響きあい、接続していく。そして「初」とともに堀未央奈が深いところから塗り替えられていったと思う。

 こういう監督のインタビューがある。
 山戸「(堀未央奈さんは)陽としての華やかな世界を生きながら、きっと彼女の世界にも冷凍保存されてきた10代の時間があって。その10代の陰を映し出す時間をこの作品に注いでくれたんですね。陰影を含めて、青い時代を走りきったみたいな感慨がありました。」

 「冷凍保存されてきた10代の時間」「10代の陰」が映し出され、作品として形象化された。そのことで堀は「乃木坂46の堀未央奈」が生きられなかったもう一つの時間を「初」として生き直し、解き放ったのではないだろうか。しかもそれは必ずしも堀未央奈にとってだけのことではなかった。「堀さんが演じた初ちゃんは17歳でした。今、振り返ってみて、…“17歳”というのはどんな年齢でしたか?」という問いに「10代の頃の想いというものが、この『ホットギミック ガールミーツボーイ』に満ちていて。本当に一歩歩くだけで、一言発するだけで傷つくような、ヤバい感受性があったなって思います。それが、この映画で成仏するというのか、一つ一つ、点と点を繋ぐように、力強く手放してあげられたのだと思いますね」
(https://deview.co.jp/Interview?am_interview_id=760&am_view_page=2&set_cookie=2)

 おそらく山戸結希監督自身が、この『ホットギミック』を撮ることを通して、「初」や「茜」たちと感応しながら10代を生き直し、一つの決着をつけたのだろう。

 このように、監督・演者が呼応しあい、響きあい、作品を通して10代を生き直した。そして堀は「乃木坂46の卒業」という決着の仕方に向かって進んでいくことになる。




 それにしても映画初出演が初主演で、こんな作品に出会うなんてそうそうあるものじゃないと思う。
 当時のニュースは「乃木坂46のエース、堀未央奈が映画初主演」というようなトーンだった。けれどもそんなトーンで語られるべき映画ではない。むろん「アイドル・堀未央奈」のイメージがぴったりだからという脚本でもない。そういうものだったら堀の中に眠っていたものが揺り動かされ、目をさますようなことにはならないだろう。確かに山戸結希監督は乃木坂46やNGT48のMVを何本か撮っている。秋元康のグループアイドルと縁があるし映画撮影は大きな資金が必要だから興行的な問題もある。けれども山戸結希監督は乃木坂46だからということで堀未央奈を主演にしたわけではないはずだ。

 『ハルジオンが咲く頃』のMV撮影で山戸監督と堀は出会うが、その時のことを山戸監督自身が次のように述べている。

 「こんなにも周りの環境に流されずに、自分の足で立って頑張っている女の子がいるんだなと感じましたし、“あ、自分は見たんだ。監督として、見逃しちゃいけないな”とすごく思ったんです。」
 「撮影は二日間だけでしたが、堀さんの真摯さが言葉にせずとも伝わってきて、存在が刻み込まれていました。いつかまたお会いするのかもというイメージが漠然とあった中で、今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』が動き始めた時に、『主演はぜひ、堀さんで』と私から名前を挙げました」と山戸監督からのラブコールだったと明かした。
山戸結希監督、堀未央奈主演抜擢への想いを明かす「堀さんの真摯さが言葉にせずとも伝わってきて、存在が刻み込まれた」 Oricon 2019-06-28)


 「”あ、自分は見たんだ。監督として、見逃しちゃいけないな”とすごく思った」
 「存在が刻み込まれていました。いつかまたお会いするのかもというイメージが漠然とあった」
 この言葉はとても重い。「あ、自分は見たんだ」という言葉の響き。何か運命的な、宿命的な響きすらある。二人は「見てしまった、出会ってしまった」、それをなかったことにはもうできないような、そんな出会をしてしまったのだと思う。
 おそらくそれは堀未央奈の側にもあったのかもしれない。『ハルジオンが咲く頃』のMV撮影以降、彼女は山戸結希監督の作品を見にいっている。


 そしてこの出会いも、さまざまな偶然や苦しいことも含めた歴史の積み重なりをとおして堀未央奈自身が引き寄せたものでもある。
 もしも7th『バレッタ』でセンターに抜擢されていなかったら、堀はもっとのびのびと乃木坂46の活動をしていただろう。『悲しみの忘れ方』のラストで言われているように、堀が『バレッタ』以降の苦境の中で乃木坂46をやめていた可能性だって決して小さくはなかった。逆に、12th『太陽ノック』、13th『今、話したい誰かがいる』で選抜から外れアンダーメンバーになっていなかったら、14th『ハルジオンが咲く頃』の堀未央奈がまとっていた空気はまた違っていただろう。あるいはセンターから2作連続で選抜を外れる状態になることで腐っていたりしたら、ただ喜び勇んで浮かれていたら、撮影が山戸結希監督であったとしても印象に残りはしなかったかもしれない。


 これまで『冷たい水の中』と卒業発表をどうしても「乃木坂46・2期生 堀未央奈」の文脈に縛られて考えてきた。『嫉妬の権利』『大人への近道』をふくめて、『バレッタ』『ハルジオンが咲く頃』『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』とならべて『冷たい水の中』を繰り返し聴いてきた。乃木坂からの卒業なのだから乃木坂の文脈で考えるのは当然といえば当然なのだけれども、『アナスターシャ』・『ゆっくりと咲く花』から『冷たい水の中』の文脈はあまりにも大きな断絶があり脈絡がみえなかった。「2期生ライブを、堀の卒コンとして実現するための捨て身の作戦なのか?」とすら思った。
 けれども『冷たい水の中』は明らかに『ホットギミック』の延長線上にある。『ホットギミック』ですでに新しい堀未央奈が生まれていた。乃木坂46から堀未央奈を見ているだけではもう堀未央奈はみえないところに進んでいた。

 堀がいまどう考えているのかはわからないけれども、この堀の卒業はひょっとすると乃木坂46にも新しいページを開くものになるかもしれないとも少し思っている。堀は、生駒里奈・西野七瀬・白石麻衣の作り上げてきた乃木坂46のメインストーリーの中心的な登場人物であるけれども、同時に、乃木坂46のアナザーストーリーの主人公でもある。そのストーリーはアンダーのものとも違うし、他の2期メンバーとも違っている。
 20%のやり残したことがあると堀は言っている。これからの乃木坂46の活動はその20%をやり遂げることに費やされるだろうが、そのプロセスに9thBirthday Live・卒コン・2期生ライブがある(と思っている)。
 望みうることなのであれば、『ホットギミック』の終盤で見せた「初」の爆発的なエネルギーの燃焼と高熱を、自分の顔と声と身体をとりもどした姿を、乃木坂46のライブのなかでみてみたい。アナザーストーリーの主人公が生み出す爆発的なエネルギーと熱量は、まったく新しい乃木坂46の物語の始まりになるかもしれない。


 17歳で乃木坂46に加入した堀未央奈の11月27日のブログにこんなフレーズがあった。

 ”私の青春は間違いなく乃木坂46 だったし
 乃木坂46 に入ることができて本当によかったです
 すごくラッキーガールだなと思います”

 そして『ホットギミック』、17歳の「初」。
 「17歳の橘亮輝くんに会えて私はスーパーラッキーガールだったよ。」

 

 このセリフを一つの起点にして「初」は怒涛のように自分を解き放っていく。


追記

 

この写真は『冷たい水の中』のラストに差し込まれているもの。これまではMV撮影終了時のものかと思っていたけれども違っていた。『ホットギミック』のオールアップのとき、山戸結希監督から渡された花束を抱えた2018年の堀未央奈だった。ついさっき気がついた。

 


映画『ホットギミック』のメイキング映像から。

手前が山戸結希監督。

 

2018年10月19日『ホットギミック』、クランクアップ。

 

 

 乃木坂46・4期生ライブの林瑠奈の『自分のこと』。
 歌唱力がどうとかはいまは言わないけれども、これだけ強い気持ちがこもった歌はなかなか聴けない。

 忘れてたな。
 例えば好きな人を目の前にして歌うことだってあるかもしれないし、辛いときに自分を励ますために歌うことだってある。林瑠奈もそうやってこの『自分のこと』を歌ってきたとブログに書いていた。たった一人の誰かのためにだけ歌う。そういう歌があることを忘れてた。
 

 強い、まっすぐに伸びる歌声。大サビで声を張りながら視線はどこか遠くを見ている。中元日芽香のことを思っているんだろうか?それとも少し昔の自分に向けて歌っているのだろうか。本人はいろんな思いが交差し、交錯し、覚えていないみたいなことを書いていた。でも、いずれにしても、どうしても、どうしてもあの人に届けたいんだという思いの強さは伝わってくる。

 7th Birthdayliveの久保史緒里が歌う『君は僕と会わないほうが良かったのかな』もそういう歌だったと思う。

 売上や票数が問題になるんじゃないなら「たくさんの人に届く歌」がいい歌だというわけじゃなかったな。そもそも全部の歌が「多くの人に届けるため」に歌われるわけじゃなかった。人数なんて本当は問題ではなかった。むしろたった一人の誰かのためだけに歌われる歌のほうがずっと響いたりする。そういう歌だからこそ時代や国境をこえて歌い継がれてきたりもすることだってある。
 歌、歌うことの本当の姿はこういうものなのかもしれない。もともと歌は聴衆を前提にしていたわけでもない。それどころかもうすでに失われてしまった人にむけて歌うことだってある。
 きっと普通の言葉よりも遠くに届きそうな気がするからだろう。


 『自分のこと』を届けたい相手はいまそこにいない。大サビと歌い終わったあと、林瑠奈の視線はカメラをはずれ、ちょっと遠いどこかを見ていた。ひょっとするとそれは「ちょっと遠いどこか」ではなくて、自分のイメージに向けられていたのかもしれない。そこにはいない届けたい相手を林瑠奈は見つけられていたんだろうか。

 その歌は「祈り」に近いものなのかもしれない。ちょっと大げさだけど、歌って本当はそういうものだったと思う。



 ここまで書いてきて、堀未央奈にも届けたいと思っていたのかもしれないな、と思えてきた。中元日芽香や昔の自分だけじゃなくて。
 堀未央奈の卒業がメンバーに知らされたのは26thの選抜発表前だった。この4期生ライブで林瑠奈が『自分のこと』を歌うと決めたのが直接、そのせいだったのかどうかわからないけれども、中元日芽香に卒業時に与えられた『自分のこと』を、堀未央奈の卒業発表直後のライブで歌う。偶然のことだろうか?偶然のことだったとしたら、もう何か奇跡のような偶然だと思う。

 それにしてもサイリウムカラーをピンク・ピンクにしている重みを背負うといい、いまは「推し一択」という林瑠奈が、11月27日に堀未央奈の卒業が発表される中で、中元日芽香の『自分のこと』を歌う。中元日芽香の『自分のこと』をソロで歌うのは、井上小百合以来、2人目かもしれない。中元日芽香はこの歌を誰かの前で歌うことがなかった。

2018年8月、自己チュープロデュース企画で『自分のこと』を歌う井上小百合

 

                              *****

 

 乃木坂46の運営はライブDVD、Blu-rayを相当にCD音源にしているけれども、あれはやっぱり止めた方がいい。久保の声は入っていると思うけど、全体で歌っていれうところとかは繰り返し聴き比べたけど明らかにCDと同じ音源だと思う。それはライブパフォーマンスではあるかもしれないけど、ライブじゃない。その場の空気、その時の感情が歌と声に影響する。それがライブでしょう?何年の前の声を聴いて、それがライブなわけがないでしょう?どう考えたって。

 ファンの中には200曲もあるんだ、歌詞とか覚えられるわけがないだろうという人がいるけど、そんなことはありません。覚えられます。もっと覚えている歌手もたくさんいるし、もし覚えられないなら舞台なんておよそできないじゃないですか。

 

 

【2021/08/25 追記】

 モデルプレスに林瑠奈のインタビューの抜粋が掲載されていた。

 

「ライブ中、ソロで歌ってもいいと言われたらどの曲を選ぶ?」という質問には「恐れ多いのですが卒業生の堀未央奈さんのソロ曲 『冷たい水の中』を歌いたいです」と打ち明け、「堀さんが披露されたのは2期生ライブだけでしたし、あのライブも配信ライブだったのでいつか、皆さんに見守って頂いている中で生で披露したいという思いがあります。でも、歌わせてもらうにはまだまだ早いというか、もっとパフォーマンス力を上げなければ、と思っています」と想いを語っている。

乃木坂46林瑠奈、目標にしたい先輩・いつかソロ歌唱したい楽曲とは

【モデルプレス=2021/08/23】

 

 自己チュープロデュース企画で、井上小百合が中元日芽香の『自分のこと』を歌った。中元日芽香のソロの、そして最後の録音だった。井上はどこかで「一度もライブで歌われてないから」と話していた。中元日芽香と、一度も誰かの前ので歌われることのない歌への想いだ。
 そして林瑠奈が「堀さんが披露されたのは2期生ライブだけでしたし、あのライブも配信ライブだったのでいつか、皆さんに見守って頂いている中で生で披露したいという思いがあります」という。
 

 その人への想いは当然ある。けれどもそれだけではなくて、重なりながらも微妙に異なる「歌」への想いがあるような気がする。

 『冷たい水の中』は、その時の堀未央奈の卒業発表という驚きとともに、その意志と想いが、声、表情、パフォーマンスとなり、それが一個の作品としてミュージックビデオに刻み込まれ、非常に強い印象を残している。別の言い方をすれば『冷たい水の中』はそのようにしか存在していない。映像や堀未央奈と切り離して考えることができない。
 それをもし安易に誰かが歌えば、その歌を簒奪することになるかもしれない。簒奪というのは、その歌が本来持っていた意味、込められていたものを切り捨て、破壊するかもしれないということだ。
 けれども、もし林瑠奈が歌う機会があれば、たぶん、そうはならないだろう。そう思えるもは『自分のこと』を歌った林瑠奈を見たからだ。
 確かに林が歌えば、まったく別の意味を帯びることにはなる。
 けれどもそれは、現役のメンバーによる堀未央奈と楽曲へのオマージュが重なることだ。卒業のための楽曲というだけの意味ではなくなる。その時、歌は堀未央奈の存在や、映像作品の意味を切り捨てることなく、さらにそこに積み重なるものがあり、自立した一個の作品になるのかもしれない。

 一個の作品として自立するということの意味は大きい。
 「アイドル」は卒業する。あるいは引退する。けれども歌は、作品は生き続ける。少なくとも生き続ける可能性をもっている。歌い手、作り手の意志や存在をこえて、自立した作品は生き続ける。それが作品を残すことの意味なのだと思う。あえていえば人間は死ぬ存在だからこそ、作品をつくり続けるような気もする。
 そして生き続ける作品に様々な出来事、想いが折り重なる。そこに歴史というものが生み出されていくのだと思う。

 そんな扉を林瑠奈が開くことを期待している。

 

 

 

 孤独、胸が深くえぐられるような。そしてその孤独の時間をへて堀未央奈は”卒業”の2文字を口にすることができた。
 現実の時間、物理的時間のなかでは確かに卒業がもう決まっており、だからこの楽曲と映像作品の撮影が行われたのだけれども、やはりその「卒業」の2文字を外に向かって肉声で発することには緊張感があるはずだ。この作品は、ある意味で、その一言を発するために必要なものだったのかもしれない。堀未央奈自身、偶然、降ってきた雨に背中を押されるようだったと言っているけれども、それは素直な言葉なんだと思う。堀未央奈はこの作品を生きている気がする。


 孤独の深さと強さが強固な意志、覚悟を支えている。あるいは強い意志、覚悟は深い孤独を要求するのかもしれない。あらためてそんなことを思う。
 深い孤独に裏打ちされた強い意思、意志に貫かれた作品だと思う。堀未央奈の、それを正面から引き受けた山戸結希監督の。覚悟といってもいいかもしれない。
 なんの外連も忖度もない「堀未央奈」の姿と映像だと思う。
 ただ、それは堀未央奈が乃木坂46で孤立していたとか、孤独だったとかいうことではない。そもそもそういう人間の関係性にかかわることはこの『冷たい水の中』には描きこまれていない。そこにはそもそも他者が存在しないのだから。


 異彩。覚悟と決断の孤独な瞬間。

 堀未央奈はほとんどノーメイクじゃないかと思えるくらいだし、髪の毛を直すこともない。ファンに向けの笑顔もないし、「これまで支えてくださってありがとうございました」とか「これからもよろしくおねがいします」とかの気配もなければ、乃木坂46についても、冒頭で暖かくていつまでもいたいと思えるところ、というくらいでグループやメンバーへの感謝が表現されているわけでもない。
 監督も定型的なアイドルの姿、美しさ、かわいさ、甘さ、切なさ、儚さ、みたいなものを描くつもりなど最初からないのだろうと思う。これまでの卒業ソング、例えば白石麻衣や桜井玲香のものとは全く別物だし、西野七瀬や深川麻衣とも違うし、生駒里奈の「Ageinst」とも全く違う。
 「冷たい水の中にあえて踏み出す」という今回の楽曲と同じように、生駒の「Ageinst」も逆風が吹く中に躍り出ようという覚悟を示した楽曲だった。けれどもそれは生駒里奈の覚悟であると同時に「僕らは変わらなきゃいけない」というようにグループの全メンバーへの激しいメッセージでもあった。主語は「僕ら」だったし、MVは1期生の全メンバーで撮影されている。あの時点で、生駒里奈の卒業は寂しいことであっただろうし、メッセージは強いものでもあったけれども、卒業以降の乃木坂46とのかかわりを捨象しても、やはり幸せな個人とグループの強い、濃密な関係が表現されている。
 堀未央奈の『冷たい水の中』はそうしたあり方のまったく対極の姿を描き出した。彼女の周りに人の気配や、誰かが寄り添っている気配はなく、これまで周りにいた仲間たちの姿、その気配すらない。踊りを含めて、本当に芯から孤独なモノローグになっている。

 この堀の『冷たい水の中』を見るとどうしても中元日芽香の最後の映像『最後のあいさつ』を思い出してしまう。
 両方を見ていろいろこみ上げてくるものはあるけれども、それをいまは書きたくないし、たぶん書けない。比較してすること自体がとてもひどいことのように思えてしまうから。ただどうしても自分の中でこの2つの映像は交差し、交錯し、響きあってしまう。いまもこれを書きながら何度か見返してしまった。
(頃安祐良・山田篤共同監督 アンダーアルバム『僕だけの君』に収録 このドキュメンタリーのためだけにでも買ってお釣りが来る。乃木坂46のなかで絶対に埋もれさせてはいけないものだと思う。)
 改めて見ると、中元日芽香はドキュメンタリーの中で、卒業は誰にも相談せず、たった1人で決めました、と語っている。やっぱり1人で物事は決めるのか、と思う。

 確かに、本当に覚悟を固めて1つの意志を決めるときは、その前後でどれほど相談しようと、どれほど熟考しようと、最後は自分自身で孤独に決断するのだと思う。
 「堀未央奈は乃木坂46を卒業します」というその一言を吐き出すためには、決して誰かと分有されることのない時間が必要なのかもしれない。強い覚悟を孤独の深さと強さによってはじめて支えられるのかもしれない。
この『冷たい水の中』は、その決断の瞬間、「卒業します」という一言を発するところに踏み出す瞬間の「堀未央奈」を生々しく形象化したのだと思う。



 映像作品『冷たい水の中』は「決断する瞬間の生の堀未央奈」を描き出した。主演・堀未央奈。
 今日は2020年12月11日だけれども、そうした地球の自転だか公転だかで決められる物理的な時間ではなくて、この映像作品には流れている独自の時間がある。

 冒頭、「堀未央奈」は卒業は決めているようだけれども、まだ迷いも浮かび上がる。
 そして「そんな思いをパフォーマンスにしてみます」という。
 「そんな思い」には迷いも感傷も、まだ時間があるという思いも、もう時間がないという思いも、すべて込められている。そしてパフォーマンを終え、ビルの屋上から夜の光景をしばらくながめたあと、こちらに向き直り「堀未央奈は乃木坂46を卒業します」といい、「もっと冷たい水の中へ」とフレームアウトする。

 卒業しようと決めることと「卒業します」と口にすることはたぶん次元が違う。だれかがブログで卒業発表するとき、予め書いた文章を公開日時を指定してアップしたが、それが公開される時間が迫ってくる時の緊張感、鼓動が大きくなり胸が苦しくなるような感覚を語っていた。
 もう決定的に引き返すことができない地点に自分が進み出るその瞬間に直接つながる時間。まだ取り消しのボタンを1つクリックするだけで戻ることができる。けれどもある時点でそれは致命的に不可能になる。もとに戻すことができない時間に切れ目が入る。
 

 「堀未央奈」を主演の堀未央奈はこれ以上ないくらい生々しく見事に演じきった。ある意味で「堀未央奈」を生き抜いたように思う。私にはここで「アイドル・堀未央奈」は完成したような気がしている。

 むろんそこにはこれまでの7年間が折りたたまれているだろうが、「堀未央奈」は最後の覚悟を決めるとき、7年間を振り返ったりはしない。『冷たい水の中』でもあの踊りの時間を一度もカットせず、当然、過去の映像を一切挟み込まずに撮影している。いま、その瞬間に生きている「堀未央奈」を、映像は何一つ説明せずにそこに映し出した。 「堀未央奈」も踊り続けることの果で最後の一歩を踏み出した。
 あの踊りはその緊迫し、濃縮されたような時間の塊だと思う。実際、堀のおどりは、打点やフレーズで切り離すことができる点をかんじさせない。つねに連続し、揺らぎ、途切れない。どこもカットできない、そんな踊りと時間だ。その時間の終わりに最後の一言がやってくる。

 生きた人間の時間を切り刻むことなどできないのだといっているように思う。誰とも分有することのできない覚悟とその時間は、要約したり、切り分けたりすることはできない、説明することすらできないのだと思う。要約も、切り分けることも、説明することも、「覚悟を言葉に発する」生の時間のあとで行われることだ。それはたぶん生身の人間が生きている時間そのものだ。そして「堀未央奈」は「生身の私がここにいるんだ」といっているように思う。

 そして最後に彼女は一点を見つめて画面の外に去っていく。





 ここで本編は終了したという合図のような映像が挟み込まれ、そこから過去のいくつかのシーンが、当日の撮影シーンとあわせて流される。
 そこには笑顔はないし、幸福そうな姿もない。仲間の姿もほとんどない。これほど笑顔や幸せな様子が映されず、孤独と苦しみ、葛藤だけがうつされた「アイドルのMVの」って他にあっただろうか?
(最後に映る花束に顔をうずめている映像は『冷たい水の中』撮影直後のもののような気がしているが、堀がブログにアップしている花束とは違う)

 冒頭になんの外連も忖度もないと書いた。
 この「堀未央奈」にはなんのハッタリもなく、あまりに生々しい。「これはドキュメンタリーの一種なのか?」とすら思ってしまった。
 そして本編終了後、いくつかの堀の過去の映像が流れるけれどもそれをみていると、これを「ぬるま湯」と表現した『冷たい水の中』の作詞者・秋元康への強い異議のように思えてならない。あなたはこの7年間を「ぬるま湯というのか?」 それはフレームアウトした「堀未央奈」ではなく監督・山戸結希の強いメッセージに思えてしまう。

 最初は「これは一発で撮影したのか?」と思った。でもそうではないらしい。冒頭のシーンも堀のアドリブの演技が加わっているのか、意図した通りなのかまったくわからない。最初は「セリフ」だと思っていなかった。ドキュメンタリーのように、内容は堀にまかされたインタビューのように、その時の心境のままに話したのかと思っていた。
 なので本編終了後の部分の映像をみてちょっと驚いた。踊りのシーンはどうやら何度もリハを行い(まだ明るい時間帯)、セリフについてもどうやらいくつかのテイクがあるらしい(冒頭部分と最後の部分に同じセリフがあるが、声のトーンが違う。ひょっとすると最後のセリフのところだけをとったのかもしれないけれども)。


 この『冷たい水の中』を主演し、演じることで、「アイドル・堀未央奈」は完成したと思う。
(ただしそれは「アイドル・堀未央奈」であって「乃木坂46・2期生 堀未央奈」ではない。)
 「アイドル・堀未央奈」はここで完成し、堀未央奈は隔絶した地点に辿り着いたんじゃないかと思っている。これはまた。

 

 たいした経験値があるわけではないけれども、こんなMVは見たことがない。

 悔いが残っていると語るMVなんてあっただろうか。こんなに孤独なMVはみたことがない。こんなに晴れやかさも、喜びも、楽しさも、そういうものがないMVをみたことがない。こんなに胸をえぐられるMVをみたことがない。
 同時に、どこかで遠い記憶を呼び起こすような、不思議な懐かしさ、どうにもならないような懐かしさも感じてしまう。

 これはもうMVをですらないと思う。

 ここにあるのは濃縮された7年間の塊だ。その7年間の最後にもっとも重い決断を立った一人で行う堀未央奈の姿だ。その先に晴れやかな、輝くような未来が待ち受けているかどうかなんてわからない。未来に向けて、一つの決断をする。しかし「未来」という単語がいつもいつも定型的に「希望」と結びついているのではない。かといって地獄からの脱出でもない。その瞬間の姿が7分54秒に濃縮されている。
 それにしても「決断するということ」の孤独さを痛いほどに感じる。


 山戸結希監督の『冷たい水の中』は極めて深く考え抜かれた作品に思える。けれどもその成否は「”堀未央奈”役を演じる主演堀未央奈」にすべてがかかっていた。それを見事に堀は演じきった。想像以上に演じきったのかもしれない。
 けれども、堀が見事に演じきった結果、逆に、この堀未央奈を「主演・堀未央奈」と呼ぶこと、『冷たい水の中』を「映像作品」とすることに抵抗感が感じるようになってしまった。そこに映し出される存在が、あまりにも「堀未央奈」だからだ。

 堀未央奈に<憑依>されてしまった気がする。<憑依>とは<所有されること>と同義だ。<憑依=所有された私>は私ではなくなっているのかもしれない。



 You Tubeの映像にアクセスする。いきなり青いベンチコートを着た堀未央奈が真っ直ぐに顔を上げて話しはじめる。堀の声が聴こえてくる。
 「これまでの7年間、あっという間で、いつの間にか大人になってたっていうのが嘘のない気持ちです。」穏やかな、でも少し陰りがあるような笑顔で話し出す。
 ずっと昔に撮った映像がどこからか出てきたのを見ているような感覚に陥る。少し懐かしい、しかも決定的にそこに戻ることはできない時代にとられた映像のような…
 妙な焦燥感、胸騒ぎのようなものが湧き上がりはじめる。
 そして、きっとまだまだ時間はあるし、いや時間はないか…と言いながら表情は曖昧になり、うつむきがちになっていく。8割はやりきったけれども2割は悔いがあるというか…といい、感傷的ということばを口にして、「そんな気持ちをこめてパフォーマンスしてみます」といって制服姿になり「パフォーマンス」をはじめる。

 のちにこの「パフォーマンス」はCRE8BOYの振り付けだとわかったけれども最初は「これ、堀未央奈自身が自分のイマジネーションで踊ってるんじゃないか?」と思った。ステージ上の堀未央奈のダンスとはまったく違っていた。柔らかく手が舞うけれども、表情もあまりつくらず、背筋がすっと伸びた堀のダンスが好きだった。バキバキ踊る人ではないけれども、ときどきシャッキーンと音がして空気がスパッと切り離されるような感じがすることがある。そんなダンスだった。
 でも全然ちがう。

 なんだろうこれは?と思う。ダンス?ダンスなのかな?
 はっきりしない。ときにバランスをくずし、足元が定まらず、姿勢は保たれない。そういえば最初の声も言い淀み、語尾が消えていったりした。その声の余韻の中での姿。

 喜びはない。迷い、ためらい、苦痛。手を伸ばしても指先が届かない希望。そうしたものが折り重なり制服を着た堀の身体として現れる。
 音楽は流れている。けれども踊りは明確な打点をもたず、曖昧に滲んでいく。
 言語は、あれかこれかを切り分け、世界と声を分節化し線を引き、区別をつける。
 ここはこういう意味で、あそこはそういう歌詞を表していて…。身体とその動作が切り分けられ、急に停止し、突然、勢いよく動き始める。あるいは反転し、思いもかけない曲線を描く。それが音楽の旋律とリズムと歌詞と連動する。
 しかしこの堀未央奈の、何というのだろう?ダンス?踊り?パフォーマンス?身体動作?うまくはまらないが、その流れる時間と揺らぎ続ける身体を部分に切り分けることができない。水の流れに刃物を突き立ててもそれを切り離すことができないように。
 そして映像は堀未央奈が最後にフレームアウトするまで一度もカットされない。過去の映像も別アングルも何も挟まれない。流れる時間は途切れない。

 山戸結希監督はこの映像を16mmで撮影したと言う。フィルムを回したということだろうか。ということは、そのフィルムの上には、バラバラに分解され微小な要素になったのではない、持続した堀の姿が定着しているのだろうか?そのために16mmを使ったのかもしれないな、と思う。生きるているものを、生きているまま=その持続のままに。




 無音で映像と堀の身体が発する声を聴いてみる。
 最初に感じていた孤独感にまじった懐かしさのような感覚が強くなる。堀未央奈の身体が語り始める。記憶の奥の方に呼びかけられる。

 断片。


 最終に近いくらいの時間、私は彼女の少し後ろを歩いて地下鉄の改札口に向かう。「もうここでいいよ」といい彼女はいい、1人でなかにはいる。数歩進んだところで立ち止まり、後ろ姿を見ていた私の方にひらひらと手をふる。少しだけ表情が動く。少し笑っているようにもみえる。少し泣いているようにも見える。表情が途中で変化し、ごちゃまぜになったようにも見える。
 まわりには居酒屋でいっぱいやってきたサラリーマンとか学生とか、そういう人たちもいたはずだけれども、何も覚えていない。改札口の向こう側、4,5メートルのところで上手く読み取れない表情をうかべて手をひらひらさせている姿のイメージしか残っていない。
 11月だったはずだ。
 それが彼女をみた最後の姿だった。
 それからしばらくは連絡を取ろうと思えば取れたはずだけれども、結局、そのままになってしまった。いまとなってはもう繋がっているかもしれない糸の端っこをみつけることができない。
 たぶん、何かの低い偶然でもない限り、私が彼女の姿を見ることはないのだと思う。何をどうしても、どんなに手を尽くしても、どうにもならない。それに、もしも偶然、例えば本屋のどこかのコーナーとか、地下鉄の車両の中とか、そんなところで出会うことがあったとしても、そこから仮に新しい時間が流れ出したとしても、あの手をひらひらさせていた時間に戻ることはない。
 前後の脈絡から切り離され、宙に浮くような断片、その記憶。

 ある研究によれば、言葉をもたなければ記憶に文脈も前後関係もなくなるらしい。印象の強弱で並べられ、時系列で並べられることにはならないらしい。実は言葉なければ人間の時間というものはないのかもしれない。
 記憶はもともと断片でしかない。言葉がその断片を織り上げ、物語るようになる。それを歴史というのだと誰かがいっていた。
 言葉で織り上げられない断片がある。それは掬い上げられずどこかに沈んでいるが、何かのはずみで不意に水面に浮かび上がる。その断片は自分が作り上げたイメージかもしれない、必ずしも現実の記憶ではないかもしれない。それは確かめることができない。人間のギリギリの果てのところで、現実とか虚像とかその区別とかはあまり意味がない気がする。浮び上ってくる前にその断片がどこにいたのか、私の内部のどこかなのだが、それがもうわからない。
 時計でもものさしで測ることのできない距離がある。遠いのではない。端的に図ることができない。距離という言葉が適切ではないのかもしれない。ただ私がその世界の中に入っていくことができないこと。もう絶対に、どんなことをしても、できないこと、それだけが鮮明すぎるほどに鮮明だ。
 その断片は不思議と音をもたない。声が聴こえない。音の断片というものは経験にない気がする。なぜだろう?わからないな。けれども音はその断片を誘い出す。音が作り出しているのかもしれないし、私の中に眠り込んでいたものかもしれない。その区別がつかない。

 あるピアニストのコンサートでモーツァルトのロンド・イ短調を聴いていたとき、不意にそうした事が起こった。
 夏の草むらの中に木造の建物が立っている。光が白い。風が吹いている。草がざわめく。少女が建物を背にして私の方にかすかな微笑みをなげかけている。ピアノの音になか、そんな光景が不意に湧き上がり涙を押し止めることができなかった。となり友人がいたけれども、その涙をさとられまいとシートに深く沈み込んでいた。
 その光景、そのシートの感覚、ホールの空気、浮び上ってきた映像の感覚。そしてやり場のない感情の揺れ。そうしたものはいまも鮮やかに身体に残っている。
 そこにあったのは果てしない隔たりの感覚だったような気がする。自分がそこに属することができないという隔たり。その穏やかな世界からこぼれ落ちてしまったような、そんな感覚。


 無音のなかで、はみかむような、曖昧な表情をうかべ、そしてゆるやかに踊りはじめる姿がそんな記憶を呼び起こす。映像が映し出す場所は遠い。遠いと言うよりももうこの世界には存在しない場所なのかもしれない。映像の中にだけ存在する場所。そこに彼女がいる。いた?
 

 ある人がこんなことを書いていた。


「人間から最初の発声を引き出したのは、飢えでも渇きでもなく、愛、憎悪、憐れみ、怒りであった。』原始人は、自分の考えを表明するために話し合うようになる以前から、自分の気持を表すために歌い交わしていたのだ。
 ジョン・ブラッキングは、歌と踊りが言葉のやり取りの発達に先行したと主張している。
 最初の人類は、現在知られているようにホモサピエンス・サピエンスが会話能力を身に着けてあらわれる数十万年前に、歌い踊ることができたという証拠がある。
 あるいは18世紀のイタリアの哲学者、ジャンバティスタ・ヴィーコが示唆したように、人は歩く以前に踊っていたというのは本当だったかもしれない。」(アンソニー・ストー『音楽する精神 人はなぜ音楽を聴くのか?』 白楊社p27~28)

 

 人間は喋る前に歌い、歩く前に踊っていた。言葉の前に歌と踊りがあったのかもしれない。それはとても大切なことのように思える。けれども私(たち)は、言葉に整復され、言葉の手前にあった歌や踊りを忘れてしまった。そしてそこに戻ることができずにいる。

 堀未央奈の姿が、そんな言葉以前の世界に、切り分けたり、要約したり、概念化したりすることのない世界に佇んでいるような気がする。

 

 

 おかしいじゃないか。なんでこんなに頭の中でぐるぐるしてるんだ?
 困ったものだ。
 堀未央奈のこと、映像作品としての『冷たい水の中』のこと、その「ダンス」のこと、そこで発せられた「卒業」を含む声のことだ。

 「あんたさ、未央奈推しだったわけでもないでしょ?」
 「確かに。」

 まぁそのはずだった。
 2期生への思い入れは少しはあった。堀未央奈へのリスペクトもあった。でもなぁこんなふうになるほどじゃなかったはずなんだけどなぁ。
 ということで超ニワカ未央奈ファンとして、自分自身の整理のためにも文章を書き始めた。


 いま堀未央奈と『冷たい水の中』を撮った山戸結希監督を少し恨んでいる。私の日常生活が破壊されている。何度見返したのかわからないし、どれほど文章を書いてきたかわからない。たぶん自己防衛本能として文章を書いているのだと思う。
 平手友梨奈、鈴本美愉、織田奈那が欅坂46を辞めるときだって、欅坂46がなくなるとわかったときだってこんなことにはならなかった。『黒い羊』のヒット祈願=滝行のときにはかなりはっきりと身構えていたから衝撃に対応することもできた。

 ところが今度はそういかなかった。
 なぜだろう? その問いがぐるぐる回る。
 

 最初に新しいMVが解禁された一報に接してすぐにYou Tubeにアクセスした。
 「これまでの7年間…」と堀が語り始めた冒頭部分で心臓がバクバクし始めた。「きっとまだまだ時間もあるし」で少しホッとしたのに「いやでも時間はないのかな?」というところで不安感がまた膨れ上がってくる。そして「アイドルとして8割は全力でやりきったっていう思いと、2割はちょっと悔い…じゃないですけど…」「こんな時だから感傷的になっているのかも…」
 そして「そんな想いを歌にのせて、パフォーマンスしてみます」といって制服姿になり、踊りはじめる。
 『冷たい水の中』全体についてはまた別に書き残しておこうと思うが、とりあえず映像・歌・そして何よりも堀未央奈から目が離せなくなってしまった。 

                           ***

 不意打ちだった。堀未央奈の卒業は2期生の最後なのではないかと漠然と思っていた。まるでこちらが「ぬるま湯」に浸っていたわけだ。

 自分が知っている範囲内で、だけれども、2期生と堀未央奈のこれまでのことが一挙に思い出された。
 『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』という2期生のアイデンティティとなる楽曲とMVを手に入れるまで7年もかかった。そしてついに2期生ライブが開催されようとした矢先、コロナ禍が蔓延。2期生ライブは未完のまま宙吊りになり、佐々木琴子が卒業。そして堀未央奈が卒業を最終的に決めることになる。

 堀未央奈はいきなり『バレッタ』で選抜センターに抜擢された。
 その厳しさは想像を遥かにこえていただろうと思う。あの白石麻衣が涙を流し座り込んでいる横に呆然とした様子の堀未央奈が1人で立ちすくんでいる。その堀に声をかけたのは生駒里奈1人だったらしい。
 その後、乃木坂46運営委員会は3期生では2人、3期生では3人をWセンター、あるいはセンターとその両サイドに抜擢。堀未央奈の前例があり、既存のメンバーに激しい動揺は見られなかった。また新しいフロントメンバーも同期が2人、あるいは3人いることが強い支えになっただろう。

 しかし困難はいきなりの選抜センターというだけにとどまらなかった。
 その後、12th『太陽ノック』(2015年7月22日発売)でついに選抜を外れる。12thのの選抜発表時の表情はドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方』にも残されているし、「乃木坂工事中」でも流された(この映像が『冷たい水の中』にも使われている)。

 

 

 そして13th『今、話したい誰かがいる』(2015年10月28日)では堀未央奈をふくめ、2期生の全員が選抜から外れた。このときのアンダー曲が『嫉妬の権利』だ。だから2017年の神宮ライブの期別ステージで新内眞衣は強力に『嫉妬の権利』を演目に入れることを主張する(2017年神宮ライブのドキュメンタリー)。2期生全員が選抜を外れ、揃ってパフォーマンスした(せざるを得なかった)アンダー楽曲だったからだ。

 その2017年の神宮ライブでの堀のスピーチは映像として残っている。文字起こしする。

 「乃木坂に入って半年で選抜のセンターに選ばれました。その時は本当に不安で、孤独で、心配で、すごく鮮明に覚えているんですけど、先輩にいろんなことを聞きながら無我夢中に毎日がんばりました。
 …(中略)…
 そうですね、私たち2期生はバラバラのスタートを切って、バラバラの道を歩んできたんですけれど、みんな乃木坂にたいする想いとか、同期にたいする想いはいつも一緒だったな、と思っています。
 今日が私たち2期生の本当のスタートだと思っています。
 いつも応援して下さる皆さん、本当にありがとうございます。
 みなさんのこと、私たち、大好きです。」

 

 

(ちなみにこの神宮ライブの2期生ステージ用に新しく作られた衣装が2期生の配信ライブのときの衣装となった。)

 『乃木坂工事中』でも堀未央奈はたびたび「2期生企画」を持ち込み、実際に放送されている。期別の企画をメンバーが持ち込むというのは2期生以外にはないと思う。
 それだけではなく、堀はときに自分を悪者にしてでも2期生にスポットをあてよう、2期生の姿を表舞台に引き出そうとしてきた。例えば『乃木坂工事中』の「隠れたキャラを発掘する」という企画の「だれがあざといか?」というコーナーで、自分が悪者になって山崎怜奈を攻撃するような体で山崎が755にアップしていた動画を『乃木中』にOAさせることに成功している。あの『乃木中』で山崎怜奈を「発見した」人は少なくないと思う。そのくらいインパクトがあった。身を削って2期生にフォーカスさせようとしてきた。
(乃木坂工事中「隠れた逸材を探せ」#85 2016年12月18日放送)

 そしてようやく、というか、ついに、というか、今年2020年3月7日には東京代々木第一体育館で『2期生ライブ』を開催されることが決定される。
 このライブは実現しなかったが、代わりに2期生の配信ライブがおこなわれた。
 2020年3月25日発売の25th『しあわせの保護色』のカップリングとして収められる『アナスターシャ』は、このライブ終盤にMVとともに初披露される。さらに、このライブのアンコールで新たな2期生曲『ゆっくりと咲く花』が生披露された。
 『君の名は希望』から『何度目の青空か』のラインが乃木坂46のアイデンティティの根幹をつくったように、『アナスターシャ』は、伊藤衆人監督の映像を含め、2期生のアイデンティティの核となる曲だと思えた。『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』。この2曲がそろった。「今日が2期生の本当のスタートだと思っています」と堀未央奈が語ってから2年半の1つの到達点であり、ようやくその言葉が実現する、2期生の旗を立て歩み始める、そういう新たなスタートだと思える楽曲だった。
 そして配信ライブのアンコール曲として披露された『ゆっくりと咲く花』について語りながら堀未央奈は涙を流した。それは2期生がたどり着き、そしてここからはじまる、その地点にたった感慨に思えた。
 だれもが2期生の花が咲くときだと思った。ここから花が咲ほころぶのだと、そう思った。

 それから8ヶ月と20日。堀未央奈は卒業を発表する。



 思い返せば2期生配信ライブの最後に堀未央奈は『ゆっくりと咲く花』について、「ちゃんと噛み締めてこれからも歌っていきたいな、と、歌い継いでいってもらいたいな、と思います」と言っていた。

 

 「歌い継いでいってもらいたい」。そう確かにいった。
 

 この2期生ライブで、本当のライブが実現するとき、自分がセンターで披露したい楽曲をメンバーが1人1曲ずつ選んでいるが、堀未央奈は『ハルジオンが咲く頃』をあげた。その理由仁堀は、深川麻衣への想い、選抜復帰の思い、そして山戸結希監督との出会いをあげていた。

 卒業発表を前にして、11月半ばからは北野日奈子はじめ、2期生の各メンバーへの思いを言葉と写真にしてInstagramにアップしている。

 

 
 そして、11月27日PM10:15。
 山戸結希監督の『冷たい水の中』公開。
 堀未央奈「私、堀未央奈は、乃木坂46を卒業します」。



 

 

 同じ11月27日の公式ブログの最後の1行。

 「乃木坂46・2期生 堀未央奈」


                          ***

 10月31日に堀未央奈は「来年こそは2期生ライブが実現しますように!」とメッセージを送っている。
 2021年のBirthdayLiveがある。26thシングルの活動で卒業するといっている堀には3月か4月くらいまで時間がある。2期生の「記念日」は3月28日。今年の代々木の2期生ライブは3月7日が予定されていた。
 MVでも2割の悔いを述べている。ブログでも心残りについて書いている。まだ完全燃焼していない。これから4ヶ月ほど。「乃木坂46・2期生 堀未央奈」の活動中のもっとも強い光はこれから放たれるのだと、すべてやりきって、『冷たい水の中』では見せなかった弾ける笑顔と涙でぐしゃぐしゃになった顔を残していくのだと信じている。

 

 

【追記】

 超ニワカファン(?)の文章にすぎないけれども、この文章は『冷たい水の中』の堀未央奈に感じ取っているものから大きくそれているとも思っている。

 この堀未央奈の『冷たい水の中』、あるいは『冷たい水の中』で「堀未央奈」を演じきった堀未央奈を、この世界を「乃木坂・2期生」のよく知られた文脈において満足してしまうことに、私はかなり強い違和感、はっきりいえば拒否感のようなものがある。そうじゃないんだ、と思っている。

 映像作品の言葉を差し向けるのは無茶な話だ。けれどもそこに踏み入ってみたい。踏み入ってどこかに出られるのかどうかわからないけれども、まぁ自分自身にとっても書かなければいけない気がしている。

 

2013年11月27日、堀未央奈センターの乃木坂467thシングル『バレッタ』発売。

そして2020年11月27日、『バレッタ』発売から7年。ブログとMVで卒業を発表。

MVは山戸結希監督。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闘いつづけた7年、闘い抜いた7年。

 強いリスペクを込めて、とりあえずアップする。

 嘆き、悲しみ、悔しさ、いろいろ湧き上がるものはある。10日ほど前、26thシングルの選抜発表をうけて「旗を掲げよ」といった矢先のことだった。

 

 でも、まだ、乃木坂46・2期生、堀未央奈の日々は続く。まだ乃木坂46・2期生の堀未央奈は完結していない。彼女はきっと2割のやり残した思いを完全燃焼させようとするだろう。MVは過去の映像を一切挟まずに1ショットで、いまここに生きている堀未央奈を映し出した。乃木坂46で過ごしてきた過去を振り返るのはその全部が終わってからでいい。いまはまだ思い出ではない。そんな堀未央奈と山戸結希監督の声が聴こえるようだ。

 とまどいがちに語り始めた堀未央奈。

 現状を打ち破る覚悟にたどりつき、前を向いてフレームアウトする。

 けれども、まだ彼女は笑顔をみせてはいない。まだ成し遂げていないことがあるからだ。

 

 乃木坂46・2期生、堀未央奈の完全燃焼の最後の数ヶ月。この目と胸に焼き付ける。

 

***

 

 2020/11/29追記

 MV冒頭、アイドルとして8割全力でやった、2割は…と言っている。まだ堀未央奈は完全燃焼していない。最後の数ヶ月、全力でアイドルを全うしようとするはずだ。

 

 乃木坂運営の方、なんとしても、どんなことをしても2期生ライブを開催してください。彼女のブログの最後はこうだった。

 

「2020.11.27 乃木坂46 2期生

堀未央奈」

 

 この堀未央奈が最後まで燃え尽きる、2期生とともに走り抜けることができる場を、なんとしても作り出してください。

まだ大陸にはわたれない。

 まだ大陸は海の向こうにある。

 けれども旗はここに立っている。

 チケットは手の中にある。

 新しく涙を流せたことを誇れ。

 その涙の数だけ高く旗を掲げよ。

 

眠れぬ夜に。

 

 

 『アナスターシャ』は「はじまりの歌」だ。

 確かに乃木坂46・2期生の「はじまりの歌」だ。
 けれども「乃木坂推し」「2期生推し」にとってだけの意味ではない。

 あるサイトで『アナスターシャ』のMVが痛烈に批判、非難されている。そのサイトの文章の抜粋がこの投稿の後ろにある。


”作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う”
 音楽などなんでも良かったのだと。この伊藤衆人監督作品のMVをみることは、2期生たちの物語に埋没し、甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの、ノスタルジーに浸る行為でしかない。しかもそれが「手放しで称賛される」ことがありありと思い浮かべられる。そのことを「最も深刻に感じる」と述べている。なんと幼稚なことなのだろう、と。

 なかなかに辛辣だ。2期生メンバー、監督、ファンを丸ごとひとまとめにして罵倒していると言ってもいい。
 しかし本当にそうなのか?



 ミュージックビデオ・乃木坂46『アナスターシャ』、作詞・秋元康、作編曲・中村泰輔、監督・伊藤衆人。
 乃木坂・2期生のファンにとって、あまりにMVの映像の印象が強いためほとんど映像についてだけ語られている。あるいはプラスアルファで少し歌詞にも触れられているくらいだと思う。
 しかし私には実はこの『アナスターシャ』を支えているのは中村泰輔の音楽(作曲・編曲あわせて)のように思える。この音楽の力『アナスターシャ』を「はじまりの歌」に押し上げている。(以降、音楽という時は、歌詞・MVを除外したものとして使います)



 いまここで、アナスターシャとは誰なのか、僕とは誰か、それを「2期生の物語」に即して「考察」しようとは思わない。秋元康の『アナスターシャ』の歌詞を、MVや音楽を忘れて読み返す。あまりにMVの印象が強いからなかなか難しいができるだけ頭を空っぽにして読んでみる。


いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う

ごめんアナスターシャ
約束を守れずに
あの夜の僕には
勇気がなかった

ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ



 「僕」はアナスターシャを裏切った。国境を向こう側にこえていったアナスターシャが、その向こう側に希望をみていたのか、あるいはこちら側に絶望をみていたのか、それはわからない。しかしいずれにしても「一緒に国境を越えよう」と約束していたはずの「僕」はその約束を破る。

何度 夢を見て 何度覚めれば
胸の痛みは跡形さえなくなるの?


 「約束を守れなかった夜」は、たぶん何十年も昔のことではないだろう。けれども、恐らく1週間とか1ヶ月でもなく、そこには積み上がった時間があり、その時間を通して存在し続けてきた痛みがある。そして「僕」はその痛みを感じ続けなければいけない、苦しみ続けなければいけけないのだと思っている。おそらくそれは「僕」がまだアナスターシャを愛し続けているだからだろう。

 そして

ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ


と繰り返される。ここは切り方によって意味が変わるが、「ごめんアナスターシャ、君はまだ若すぎて。止められなかった愛すことの、その重さ、背負えなかった僕さ。」となるだろうか。

 後悔と持続する痛みの中に「僕」はうつむき、座り込んでいる。
 「苦しむべきだと思う僕」は、「見知らぬアドレスが走り書きされた教科書」も今も「この手にはチケット」を持ち続けている。それは「苦しむべき僕」へのその傷口をたどり直し続けるためであるかのようだ。
 忘れることのできない悔恨があり、忘れてはいけない痛みがある。それを抱えて元に戻ることのできない今の時間の中にあり続ける。そして別の未来をもとめて進むにしても、そのためにも過去の悔恨、痛みを抱き続けようとする意志。
 そうしたことはあるし、そういう楽曲もたくさんある。

 ごめんね、アナスターシャ、勇気がなくて。
 いつかね、アナスターシャ、悲しみを訪ねてみよう。


 そう語りかけるアナスターシャは二度と戻ることのない、二度と会うことのない「僕」の記憶の中の、記憶の中だけの、もう二度とあうことのないだろうアナスターシャだ。そうやって「僕」は記憶の中のアナスターシャを抱きしめながら生き続けていく。


 『アナスターシャ』の歌詞を真っ直ぐにそのまま読むならばこうなるのではないか、と思う。
 誰もがもつ、青春の甘酸っぱい悔恨のようなもの、忘れることのできない戻ることのできないあの時間。記憶の中のアナスターシャはときに笑っているかもしれないけれども、その彼女の笑顔が屈託がない素敵なものであればあるほど、いまここにいる「僕」の胸の中には焼け焦げのようなものが広がっていく。

 部屋の仄暗い片隅に、教科書とチケットを手にして「僕」は座り込んでいる。
 そして背筋をのがし凛としたアナスターシャの姿を「僕」は思い起こす。


 

 

 あえて言えば「よくある話」だ。
 また時間は流れる。いずれ「僕」は痛みを抱えながらもまた立ち上がるだろう。またどこかに歩き出すのだろう。そのときもまたアナスターシャの凛とした姿を思い起こすこともあるだろう。痛みは薄れ、その代わりに懐かしさと甘酸っぱさに彩られた記憶のようになって。

 けれども楽曲としての『アナスターシャ』を聴くと、この歌詞が全く違う意味を帯び始める。

 イントロからそうだ。
 何かを切り落とすような「シャっ」という音で場面は一気に変わる。ピアノと弦が絡みミュートされたピチカートのような音がリズムを刻む。1拍目の頭と2拍、3拍の裏に入るベースが全体にうねりを与え、推進力となっている。
 もうこのイントロの段階で「後悔を抱え部屋の仄暗い片隅に座り込んでいる『僕』」で終わるというイメージはもつことができなくなる。

 ピアノでイントロがはじまる楽曲は乃木坂にもたくさんある。その中でも最も美しく切ないものの一つは「あの日 僕は咄嗟に嘘をついた」だろうと思う。
 もし『アナスターシャ』が『咄嗟』のようなイントロで始まれば私にはこの楽曲が「若さのリグレット=後悔」を歌った楽曲に思えていたかもしれない。
 けれども中村泰輔作編曲の『アナスターシャ』は最初の第一音からまったく違う世界を描き始める。

 秋元康は楽曲に歌詞をつけることのほうが多いとどこかkで読んだことがあるが、想像に過ぎないけれども、この楽曲は先に歌詞があった気がする。これはよくわからないけれども。
 比較的、和音進行も譜割りもシンプルでメロディラインも作為的につくりあげられたという感じがしない。けれども「ごめんアナス|ター|シャ」の「ター」のところは4拍分あり、1小節まるごと1音になっている。これは先に歌詞がないとなかなか行わないことのような気がする。
 けれども部分はどう聴いてもアナスターシャに語りかける、あるいはアナスターシャを思いながら呟くものではない。アレンジや和音の響きもあわせてまるで高らかに歌いあげるように、アナスターシャに届けようと歌い上げる。




 イントロの後、リズムなど途中で立ち止まり、うつむくような屈曲を見せるながらも、それをこえてまっすぐに前に前にむかう推進力に満ちている。オーケストラは徐々に厚みを増し、要所で入るティンパニが背中を押し、スネアのロールが鼓舞する。押し上げるように鳴らされる中低音楽器が力強く音楽を前に推していく。
 この推進力、前に進む力が『アナスターシャ』の歌詞を、痛みを抱えうずくまり続けるように読む読み方を許さない。
 悔恨を、痛みを、傷を、悲しみを抱えながら、一歩、もう一歩前へ!を激励し、背中を押し続ける。例えば、


今 この手にはチケットがある    
国境を越えたリグレットよ

  リグレット=後悔を抱えた「僕」の背中を低音の弦が押し始める。チケットの意味が音楽によって強い意味をもちはじめる。
何度 夢を見て 何度覚めれば
  高音の弦が色彩を与え始める。リグレットに色彩がまさっていく。
胸の痛みは跡形さえなくなるの?
  跡形さえ…からスネアが登場する。すると楽曲の景色が変わり世界が広がるような感覚を受ける。
 

 そして「ごめん、アナスターシャ」のところでは勇気を鼓舞するようにドラムロールが入ってくる。

いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う


 メロディを支えている演奏は「僕」を鼓舞し続ける。
 そして「苦しむべきだと」とドラムロールとともに、音階もピークに向かって駆け上がりながら、パーンとパーカッションが入り、ブレイクする。
 ここではっきりと一つの転換を感じる。背中を押され、鼓舞されてきた「僕」が、「部屋のすみ座り込んでいた僕」が、顔を上げ、立ち上がる。そんな光景への転換。

 この文章を映像から切り離すために音だけを聴いていたけれども、映像を確認してみた。
 9人が一つになり、上空を見上げているところの後にパーカッションが入り、「アナスターシャ」のタイトルが浮かび上がり、そしてそのタイトルは旗を立てるために塔の階段を登っていくシーンに重なっていく。はっきりとした転換が映像化されている。

 

 

 

 そしてこの転換のあとの間奏部分は要所でティンパニがなり、低音源がさらに全体を押し上げていくように鳴り渡る。
 楽曲は厚みを増し、ドラムロールが入り、勇気がなかった過去の自分、「背負えなかった」に向けて音階は駆け上がり、そのことを正面から歌い上げ、ブレイク。

 このブレイクで「愛すことの重さを背負えなかったこと」といまここにいる「僕」がその瞬間、切り離される。
 「僕」もうロシアの貨物船と旋回する渡り鳥を眺めていた「僕」とは違う。

 

 そう聴いてくると繰り返されるサビのフレーズが最後には別の意味に聴こえてくる。

君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ


 過去形で書かれている。
 「手にあるチケット、アナスターシャ、いつか、悲しみを訪ねよう」という歌詞も、苦しみを確認し続けるために手にしていたものから、そこへ向かう覚悟と意志のあるものとして響き始める。

 君は若すぎて
 止められなかった愛すことの、その重さ。背負えなかった僕


 その僕が時間の経過のなかで、今ふたたび、今度こそその重さを背負おう。悔恨はある、痛みもある、しかし「背負えなかったこと」は確かに「過去形」なのだ。


 だから『アナスターシャ』は始まりの歌になった。そのもっとも大きな力は中村泰輔が作編曲した音楽の力だ。この力は『アナスターシャ』という楽曲の魂を決めたものだと思う。
 歌詞に微かにみえていた「僕」の覚悟の芽生えのようなものを楽曲が大きく押し広げ、貸そのものの意味を読み替えさせる。歌詞だけを読んだ時とほとんど正反対に近いようなイメージを受けるような楽曲になった。
 陽気に朗らかに未来を信じて進もうというのではない。裏切り、痛み、不甲斐なさ、傷口、悔恨…そういうものを抱えてきた。何度も何度も痛みと傷を見つめてきた。そうした楽曲でもない。そうしたものを抱え込み、だからこそ、今度こそ、と、ここで覚悟を固め、前に進む。そういう楽曲として『アナスターシャ』は生まれた。

 それが乃木坂46・2期生の『アナスターシャ』なのだと思う。




 この音楽の力がなかったら、あるいはそれがもっと別のものだったら、おそらく伊藤衆人監督のあのMVは生み出されなかったはずだ。
 そしてそうした『アナスターシャ』をMVで完成させた。
 『アナスターシャ』のMVは楽曲をBGMのようにしてしまっているのではない。楽曲の側から言えば、あの歌詞と音楽が絡みあうことではじめてMV『アナスターシャ』は可能になった。
 それについては項を改めて書きたいと思う。





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 あるサイトで『アナスターシャ』の伊藤衆人監督によるMVについて非常に強く批判していた。

”つまり、換言すれば、作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う。”


”触れるのは作り手に用意された仕掛けのみである。鑑賞者は、作家の安易な想像力によって作られた、思いついたアイディアをとにかく詰め込んだだけのフィクションの内側で喜び、走りまわることしか許されていない。この点から、流行りのエンターテイメント小説のような感動しかつくらず、ながい時間の経過に耐えうる作品、つまり文学の境域には立っていない、とつよく感じる。”

”「アナスターシャ」はこのようなフィクションには到底到達しておらず、作り手だけではなく、ファンの想像力も試されていない。現実のアイドルの物語を直に虚構の底に置いているだけであり、写実や破壊活動が一切ないため、辿り着く答えは皆一様にしておなじものになる。あとがきに答えが書かれている安物の推理小説を読むようなもので、類型的な感想しか生まれない。”


”「せかいのおわり」においては、この少女たちは「ドラゴンを倒す力もある」と声高らかに叫んだあの日から一歩も前に進んでおらず、「せかいのおわり」であいも変わらず胎動だけを描いている。「せかいのおわり」でなにかがおわったことや夢が破れた事実を、あるいはそれらを凌ぐかけがえのない宝物を少女たちが手に入れるといった、過去の出来事を動機に生きる登場人物を描写するのではなく、現在を切り拓こうとする、楽曲や詩的世界の命題に置かれたであろう覚醒を描けていない。”


 これがすべてではないが、核心的な「批判」の一つだ。
 共有されている乃木坂26・2期生の「物語」にただそのまま依存しただけのMVだということになるだろうか。なかでも筆者の激しい苛立ちが透けて見える。部分は次のところだろう。

”もっとも深刻に感じるのは、きっと、このような幼稚な作品こそアイドルファンに手放しで賛美されるのだろうという「蓋然」である。アイドルが卒業していないにもかかわらず、すでにアイドルの過去のみを寄す処にしてノスタルジーに浸る行為への、おなじ場所をぐるぐると移動をするだけで成長を一切描いていない作品をまえにして成長を確信するといった構図がやすやすと成り立つことへの「蓋然」である。”


 衒学的に述べられているが、端的に言えば『アナスターシャ』MVは「甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの映像で、ノスタルジーに浸る行為でしかない」ということになるだろうか。そしてそのことが「手放しで称賛されるのだろう」といい、そのことがありありと思い浮かべられてしまうことを「最も深刻に感じる」と述べている。
 だから前回の投稿であえて「私は2期生推しではない」といい「2期生の物語からはなれて」『アナスターシャ』について書いてみようと思ったわけだ。
 しかし同時に思うのは、これは憶測だけれども『アナスターシャ』のMVが出て、ほとんどただちに、しかも楽曲(歌詞・音楽・MV)の全体に触れることなく激しくMVのみに反応して書かれた筆者の文章がを読みながら、ああ、この筆者もまた「手放しで賛美するファン」という部分を抱えてこんでいるのだろうな、と思った。そう反応する自分がいるからこそ苛立ち、激しく『アナスターシャ』のMVを批判するのではないかな、と。つまりこれは一種の「自己批評」なのかもしれない、と。