孤独、胸が深くえぐられるような。そしてその孤独の時間をへて堀未央奈は”卒業”の2文字を口にすることができた。
現実の時間、物理的時間のなかでは確かに卒業がもう決まっており、だからこの楽曲と映像作品の撮影が行われたのだけれども、やはりその「卒業」の2文字を外に向かって肉声で発することには緊張感があるはずだ。この作品は、ある意味で、その一言を発するために必要なものだったのかもしれない。堀未央奈自身、偶然、降ってきた雨に背中を押されるようだったと言っているけれども、それは素直な言葉なんだと思う。堀未央奈はこの作品を生きている気がする。
孤独の深さと強さが強固な意志、覚悟を支えている。あるいは強い意志、覚悟は深い孤独を要求するのかもしれない。あらためてそんなことを思う。
深い孤独に裏打ちされた強い意思、意志に貫かれた作品だと思う。堀未央奈の、それを正面から引き受けた山戸結希監督の。覚悟といってもいいかもしれない。
なんの外連も忖度もない「堀未央奈」の姿と映像だと思う。
ただ、それは堀未央奈が乃木坂46で孤立していたとか、孤独だったとかいうことではない。そもそもそういう人間の関係性にかかわることはこの『冷たい水の中』には描きこまれていない。そこにはそもそも他者が存在しないのだから。
異彩。覚悟と決断の孤独な瞬間。
堀未央奈はほとんどノーメイクじゃないかと思えるくらいだし、髪の毛を直すこともない。ファンに向けの笑顔もないし、「これまで支えてくださってありがとうございました」とか「これからもよろしくおねがいします」とかの気配もなければ、乃木坂46についても、冒頭で暖かくていつまでもいたいと思えるところ、というくらいでグループやメンバーへの感謝が表現されているわけでもない。
監督も定型的なアイドルの姿、美しさ、かわいさ、甘さ、切なさ、儚さ、みたいなものを描くつもりなど最初からないのだろうと思う。これまでの卒業ソング、例えば白石麻衣や桜井玲香のものとは全く別物だし、西野七瀬や深川麻衣とも違うし、生駒里奈の「Ageinst」とも全く違う。
「冷たい水の中にあえて踏み出す」という今回の楽曲と同じように、生駒の「Ageinst」も逆風が吹く中に躍り出ようという覚悟を示した楽曲だった。けれどもそれは生駒里奈の覚悟であると同時に「僕らは変わらなきゃいけない」というようにグループの全メンバーへの激しいメッセージでもあった。主語は「僕ら」だったし、MVは1期生の全メンバーで撮影されている。あの時点で、生駒里奈の卒業は寂しいことであっただろうし、メッセージは強いものでもあったけれども、卒業以降の乃木坂46とのかかわりを捨象しても、やはり幸せな個人とグループの強い、濃密な関係が表現されている。
堀未央奈の『冷たい水の中』はそうしたあり方のまったく対極の姿を描き出した。彼女の周りに人の気配や、誰かが寄り添っている気配はなく、これまで周りにいた仲間たちの姿、その気配すらない。踊りを含めて、本当に芯から孤独なモノローグになっている。
この堀の『冷たい水の中』を見るとどうしても中元日芽香の最後の映像『最後のあいさつ』を思い出してしまう。
両方を見ていろいろこみ上げてくるものはあるけれども、それをいまは書きたくないし、たぶん書けない。比較してすること自体がとてもひどいことのように思えてしまうから。ただどうしても自分の中でこの2つの映像は交差し、交錯し、響きあってしまう。いまもこれを書きながら何度か見返してしまった。
(頃安祐良・山田篤共同監督 アンダーアルバム『僕だけの君』に収録 このドキュメンタリーのためだけにでも買ってお釣りが来る。乃木坂46のなかで絶対に埋もれさせてはいけないものだと思う。)
改めて見ると、中元日芽香はドキュメンタリーの中で、卒業は誰にも相談せず、たった1人で決めました、と語っている。やっぱり1人で物事は決めるのか、と思う。
確かに、本当に覚悟を固めて1つの意志を決めるときは、その前後でどれほど相談しようと、どれほど熟考しようと、最後は自分自身で孤独に決断するのだと思う。
「堀未央奈は乃木坂46を卒業します」というその一言を吐き出すためには、決して誰かと分有されることのない時間が必要なのかもしれない。強い覚悟を孤独の深さと強さによってはじめて支えられるのかもしれない。
この『冷たい水の中』は、その決断の瞬間、「卒業します」という一言を発するところに踏み出す瞬間の「堀未央奈」を生々しく形象化したのだと思う。
映像作品『冷たい水の中』は「決断する瞬間の生の堀未央奈」を描き出した。主演・堀未央奈。
今日は2020年12月11日だけれども、そうした地球の自転だか公転だかで決められる物理的な時間ではなくて、この映像作品には流れている独自の時間がある。
冒頭、「堀未央奈」は卒業は決めているようだけれども、まだ迷いも浮かび上がる。
そして「そんな思いをパフォーマンスにしてみます」という。
「そんな思い」には迷いも感傷も、まだ時間があるという思いも、もう時間がないという思いも、すべて込められている。そしてパフォーマンを終え、ビルの屋上から夜の光景をしばらくながめたあと、こちらに向き直り「堀未央奈は乃木坂46を卒業します」といい、「もっと冷たい水の中へ」とフレームアウトする。
卒業しようと決めることと「卒業します」と口にすることはたぶん次元が違う。だれかがブログで卒業発表するとき、予め書いた文章を公開日時を指定してアップしたが、それが公開される時間が迫ってくる時の緊張感、鼓動が大きくなり胸が苦しくなるような感覚を語っていた。
もう決定的に引き返すことができない地点に自分が進み出るその瞬間に直接つながる時間。まだ取り消しのボタンを1つクリックするだけで戻ることができる。けれどもある時点でそれは致命的に不可能になる。もとに戻すことができない時間に切れ目が入る。
「堀未央奈」を主演の堀未央奈はこれ以上ないくらい生々しく見事に演じきった。ある意味で「堀未央奈」を生き抜いたように思う。私にはここで「アイドル・堀未央奈」は完成したような気がしている。
むろんそこにはこれまでの7年間が折りたたまれているだろうが、「堀未央奈」は最後の覚悟を決めるとき、7年間を振り返ったりはしない。『冷たい水の中』でもあの踊りの時間を一度もカットせず、当然、過去の映像を一切挟み込まずに撮影している。いま、その瞬間に生きている「堀未央奈」を、映像は何一つ説明せずにそこに映し出した。 「堀未央奈」も踊り続けることの果で最後の一歩を踏み出した。
あの踊りはその緊迫し、濃縮されたような時間の塊だと思う。実際、堀のおどりは、打点やフレーズで切り離すことができる点をかんじさせない。つねに連続し、揺らぎ、途切れない。どこもカットできない、そんな踊りと時間だ。その時間の終わりに最後の一言がやってくる。
生きた人間の時間を切り刻むことなどできないのだといっているように思う。誰とも分有することのできない覚悟とその時間は、要約したり、切り分けたりすることはできない、説明することすらできないのだと思う。要約も、切り分けることも、説明することも、「覚悟を言葉に発する」生の時間のあとで行われることだ。それはたぶん生身の人間が生きている時間そのものだ。そして「堀未央奈」は「生身の私がここにいるんだ」といっているように思う。
そして最後に彼女は一点を見つめて画面の外に去っていく。
ここで本編は終了したという合図のような映像が挟み込まれ、そこから過去のいくつかのシーンが、当日の撮影シーンとあわせて流される。
そこには笑顔はないし、幸福そうな姿もない。仲間の姿もほとんどない。これほど笑顔や幸せな様子が映されず、孤独と苦しみ、葛藤だけがうつされた「アイドルのMVの」って他にあっただろうか?
(最後に映る花束に顔をうずめている映像は『冷たい水の中』撮影直後のもののような気がしているが、堀がブログにアップしている花束とは違う)
冒頭になんの外連も忖度もないと書いた。
この「堀未央奈」にはなんのハッタリもなく、あまりに生々しい。「これはドキュメンタリーの一種なのか?」とすら思ってしまった。
そして本編終了後、いくつかの堀の過去の映像が流れるけれどもそれをみていると、これを「ぬるま湯」と表現した『冷たい水の中』の作詞者・秋元康への強い異議のように思えてならない。あなたはこの7年間を「ぬるま湯というのか?」 それはフレームアウトした「堀未央奈」ではなく監督・山戸結希の強いメッセージに思えてしまう。
最初は「これは一発で撮影したのか?」と思った。でもそうではないらしい。冒頭のシーンも堀のアドリブの演技が加わっているのか、意図した通りなのかまったくわからない。最初は「セリフ」だと思っていなかった。ドキュメンタリーのように、内容は堀にまかされたインタビューのように、その時の心境のままに話したのかと思っていた。
なので本編終了後の部分の映像をみてちょっと驚いた。踊りのシーンはどうやら何度もリハを行い(まだ明るい時間帯)、セリフについてもどうやらいくつかのテイクがあるらしい(冒頭部分と最後の部分に同じセリフがあるが、声のトーンが違う。ひょっとすると最後のセリフのところだけをとったのかもしれないけれども)。
この『冷たい水の中』を主演し、演じることで、「アイドル・堀未央奈」は完成したと思う。
(ただしそれは「アイドル・堀未央奈」であって「乃木坂46・2期生 堀未央奈」ではない。)
「アイドル・堀未央奈」はここで完成し、堀未央奈は隔絶した地点に辿り着いたんじゃないかと思っている。これはまた。