おかしいじゃないか。なんでこんなに頭の中でぐるぐるしてるんだ?
 困ったものだ。
 堀未央奈のこと、映像作品としての『冷たい水の中』のこと、その「ダンス」のこと、そこで発せられた「卒業」を含む声のことだ。

 「あんたさ、未央奈推しだったわけでもないでしょ?」
 「確かに。」

 まぁそのはずだった。
 2期生への思い入れは少しはあった。堀未央奈へのリスペクトもあった。でもなぁこんなふうになるほどじゃなかったはずなんだけどなぁ。
 ということで超ニワカ未央奈ファンとして、自分自身の整理のためにも文章を書き始めた。


 いま堀未央奈と『冷たい水の中』を撮った山戸結希監督を少し恨んでいる。私の日常生活が破壊されている。何度見返したのかわからないし、どれほど文章を書いてきたかわからない。たぶん自己防衛本能として文章を書いているのだと思う。
 平手友梨奈、鈴本美愉、織田奈那が欅坂46を辞めるときだって、欅坂46がなくなるとわかったときだってこんなことにはならなかった。『黒い羊』のヒット祈願=滝行のときにはかなりはっきりと身構えていたから衝撃に対応することもできた。

 ところが今度はそういかなかった。
 なぜだろう? その問いがぐるぐる回る。
 

 最初に新しいMVが解禁された一報に接してすぐにYou Tubeにアクセスした。
 「これまでの7年間…」と堀が語り始めた冒頭部分で心臓がバクバクし始めた。「きっとまだまだ時間もあるし」で少しホッとしたのに「いやでも時間はないのかな?」というところで不安感がまた膨れ上がってくる。そして「アイドルとして8割は全力でやりきったっていう思いと、2割はちょっと悔い…じゃないですけど…」「こんな時だから感傷的になっているのかも…」
 そして「そんな想いを歌にのせて、パフォーマンスしてみます」といって制服姿になり、踊りはじめる。
 『冷たい水の中』全体についてはまた別に書き残しておこうと思うが、とりあえず映像・歌・そして何よりも堀未央奈から目が離せなくなってしまった。 

                           ***

 不意打ちだった。堀未央奈の卒業は2期生の最後なのではないかと漠然と思っていた。まるでこちらが「ぬるま湯」に浸っていたわけだ。

 自分が知っている範囲内で、だけれども、2期生と堀未央奈のこれまでのことが一挙に思い出された。
 『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』という2期生のアイデンティティとなる楽曲とMVを手に入れるまで7年もかかった。そしてついに2期生ライブが開催されようとした矢先、コロナ禍が蔓延。2期生ライブは未完のまま宙吊りになり、佐々木琴子が卒業。そして堀未央奈が卒業を最終的に決めることになる。

 堀未央奈はいきなり『バレッタ』で選抜センターに抜擢された。
 その厳しさは想像を遥かにこえていただろうと思う。あの白石麻衣が涙を流し座り込んでいる横に呆然とした様子の堀未央奈が1人で立ちすくんでいる。その堀に声をかけたのは生駒里奈1人だったらしい。
 その後、乃木坂46運営委員会は3期生では2人、3期生では3人をWセンター、あるいはセンターとその両サイドに抜擢。堀未央奈の前例があり、既存のメンバーに激しい動揺は見られなかった。また新しいフロントメンバーも同期が2人、あるいは3人いることが強い支えになっただろう。

 しかし困難はいきなりの選抜センターというだけにとどまらなかった。
 その後、12th『太陽ノック』(2015年7月22日発売)でついに選抜を外れる。12thのの選抜発表時の表情はドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方』にも残されているし、「乃木坂工事中」でも流された(この映像が『冷たい水の中』にも使われている)。

 

 

 そして13th『今、話したい誰かがいる』(2015年10月28日)では堀未央奈をふくめ、2期生の全員が選抜から外れた。このときのアンダー曲が『嫉妬の権利』だ。だから2017年の神宮ライブの期別ステージで新内眞衣は強力に『嫉妬の権利』を演目に入れることを主張する(2017年神宮ライブのドキュメンタリー)。2期生全員が選抜を外れ、揃ってパフォーマンスした(せざるを得なかった)アンダー楽曲だったからだ。

 その2017年の神宮ライブでの堀のスピーチは映像として残っている。文字起こしする。

 「乃木坂に入って半年で選抜のセンターに選ばれました。その時は本当に不安で、孤独で、心配で、すごく鮮明に覚えているんですけど、先輩にいろんなことを聞きながら無我夢中に毎日がんばりました。
 …(中略)…
 そうですね、私たち2期生はバラバラのスタートを切って、バラバラの道を歩んできたんですけれど、みんな乃木坂にたいする想いとか、同期にたいする想いはいつも一緒だったな、と思っています。
 今日が私たち2期生の本当のスタートだと思っています。
 いつも応援して下さる皆さん、本当にありがとうございます。
 みなさんのこと、私たち、大好きです。」

 

 

(ちなみにこの神宮ライブの2期生ステージ用に新しく作られた衣装が2期生の配信ライブのときの衣装となった。)

 『乃木坂工事中』でも堀未央奈はたびたび「2期生企画」を持ち込み、実際に放送されている。期別の企画をメンバーが持ち込むというのは2期生以外にはないと思う。
 それだけではなく、堀はときに自分を悪者にしてでも2期生にスポットをあてよう、2期生の姿を表舞台に引き出そうとしてきた。例えば『乃木坂工事中』の「隠れたキャラを発掘する」という企画の「だれがあざといか?」というコーナーで、自分が悪者になって山崎怜奈を攻撃するような体で山崎が755にアップしていた動画を『乃木中』にOAさせることに成功している。あの『乃木中』で山崎怜奈を「発見した」人は少なくないと思う。そのくらいインパクトがあった。身を削って2期生にフォーカスさせようとしてきた。
(乃木坂工事中「隠れた逸材を探せ」#85 2016年12月18日放送)

 そしてようやく、というか、ついに、というか、今年2020年3月7日には東京代々木第一体育館で『2期生ライブ』を開催されることが決定される。
 このライブは実現しなかったが、代わりに2期生の配信ライブがおこなわれた。
 2020年3月25日発売の25th『しあわせの保護色』のカップリングとして収められる『アナスターシャ』は、このライブ終盤にMVとともに初披露される。さらに、このライブのアンコールで新たな2期生曲『ゆっくりと咲く花』が生披露された。
 『君の名は希望』から『何度目の青空か』のラインが乃木坂46のアイデンティティの根幹をつくったように、『アナスターシャ』は、伊藤衆人監督の映像を含め、2期生のアイデンティティの核となる曲だと思えた。『アナスターシャ』『ゆっくりと咲く花』。この2曲がそろった。「今日が2期生の本当のスタートだと思っています」と堀未央奈が語ってから2年半の1つの到達点であり、ようやくその言葉が実現する、2期生の旗を立て歩み始める、そういう新たなスタートだと思える楽曲だった。
 そして配信ライブのアンコール曲として披露された『ゆっくりと咲く花』について語りながら堀未央奈は涙を流した。それは2期生がたどり着き、そしてここからはじまる、その地点にたった感慨に思えた。
 だれもが2期生の花が咲くときだと思った。ここから花が咲ほころぶのだと、そう思った。

 それから8ヶ月と20日。堀未央奈は卒業を発表する。



 思い返せば2期生配信ライブの最後に堀未央奈は『ゆっくりと咲く花』について、「ちゃんと噛み締めてこれからも歌っていきたいな、と、歌い継いでいってもらいたいな、と思います」と言っていた。

 

 「歌い継いでいってもらいたい」。そう確かにいった。
 

 この2期生ライブで、本当のライブが実現するとき、自分がセンターで披露したい楽曲をメンバーが1人1曲ずつ選んでいるが、堀未央奈は『ハルジオンが咲く頃』をあげた。その理由仁堀は、深川麻衣への想い、選抜復帰の思い、そして山戸結希監督との出会いをあげていた。

 卒業発表を前にして、11月半ばからは北野日奈子はじめ、2期生の各メンバーへの思いを言葉と写真にしてInstagramにアップしている。

 

 
 そして、11月27日PM10:15。
 山戸結希監督の『冷たい水の中』公開。
 堀未央奈「私、堀未央奈は、乃木坂46を卒業します」。



 

 

 同じ11月27日の公式ブログの最後の1行。

 「乃木坂46・2期生 堀未央奈」


                          ***

 10月31日に堀未央奈は「来年こそは2期生ライブが実現しますように!」とメッセージを送っている。
 2021年のBirthdayLiveがある。26thシングルの活動で卒業するといっている堀には3月か4月くらいまで時間がある。2期生の「記念日」は3月28日。今年の代々木の2期生ライブは3月7日が予定されていた。
 MVでも2割の悔いを述べている。ブログでも心残りについて書いている。まだ完全燃焼していない。これから4ヶ月ほど。「乃木坂46・2期生 堀未央奈」の活動中のもっとも強い光はこれから放たれるのだと、すべてやりきって、『冷たい水の中』では見せなかった弾ける笑顔と涙でぐしゃぐしゃになった顔を残していくのだと信じている。

 

 

【追記】

 超ニワカファン(?)の文章にすぎないけれども、この文章は『冷たい水の中』の堀未央奈に感じ取っているものから大きくそれているとも思っている。

 この堀未央奈の『冷たい水の中』、あるいは『冷たい水の中』で「堀未央奈」を演じきった堀未央奈を、この世界を「乃木坂・2期生」のよく知られた文脈において満足してしまうことに、私はかなり強い違和感、はっきりいえば拒否感のようなものがある。そうじゃないんだ、と思っている。

 映像作品の言葉を差し向けるのは無茶な話だ。けれどもそこに踏み入ってみたい。踏み入ってどこかに出られるのかどうかわからないけれども、まぁ自分自身にとっても書かなければいけない気がしている。