『アナスターシャ』は「はじまりの歌」だ。
確かに乃木坂46・2期生の「はじまりの歌」だ。
けれども「乃木坂推し」「2期生推し」にとってだけの意味ではない。
あるサイトで『アナスターシャ』のMVが痛烈に批判、非難されている。そのサイトの文章の抜粋がこの投稿の後ろにある。
”作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う”
音楽などなんでも良かったのだと。この伊藤衆人監督作品のMVをみることは、2期生たちの物語に埋没し、甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの、ノスタルジーに浸る行為でしかない。しかもそれが「手放しで称賛される」ことがありありと思い浮かべられる。そのことを「最も深刻に感じる」と述べている。なんと幼稚なことなのだろう、と。
なかなかに辛辣だ。2期生メンバー、監督、ファンを丸ごとひとまとめにして罵倒していると言ってもいい。
しかし本当にそうなのか?
ミュージックビデオ・乃木坂46『アナスターシャ』、作詞・秋元康、作編曲・中村泰輔、監督・伊藤衆人。
乃木坂・2期生のファンにとって、あまりにMVの映像の印象が強いためほとんど映像についてだけ語られている。あるいはプラスアルファで少し歌詞にも触れられているくらいだと思う。
しかし私には実はこの『アナスターシャ』を支えているのは中村泰輔の音楽(作曲・編曲あわせて)のように思える。この音楽の力『アナスターシャ』を「はじまりの歌」に押し上げている。(以降、音楽という時は、歌詞・MVを除外したものとして使います)
いまここで、アナスターシャとは誰なのか、僕とは誰か、それを「2期生の物語」に即して「考察」しようとは思わない。秋元康の『アナスターシャ』の歌詞を、MVや音楽を忘れて読み返す。あまりにMVの印象が強いからなかなか難しいができるだけ頭を空っぽにして読んでみる。
いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う
ごめんアナスターシャ
約束を守れずに
あの夜の僕には
勇気がなかった
ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
「僕」はアナスターシャを裏切った。国境を向こう側にこえていったアナスターシャが、その向こう側に希望をみていたのか、あるいはこちら側に絶望をみていたのか、それはわからない。しかしいずれにしても「一緒に国境を越えよう」と約束していたはずの「僕」はその約束を破る。
何度 夢を見て 何度覚めれば
胸の痛みは跡形さえなくなるの?
「約束を守れなかった夜」は、たぶん何十年も昔のことではないだろう。けれども、恐らく1週間とか1ヶ月でもなく、そこには積み上がった時間があり、その時間を通して存在し続けてきた痛みがある。そして「僕」はその痛みを感じ続けなければいけない、苦しみ続けなければいけけないのだと思っている。おそらくそれは「僕」がまだアナスターシャを愛し続けているだからだろう。
そして
ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
と繰り返される。ここは切り方によって意味が変わるが、「ごめんアナスターシャ、君はまだ若すぎて。止められなかった愛すことの、その重さ、背負えなかった僕さ。」となるだろうか。
後悔と持続する痛みの中に「僕」はうつむき、座り込んでいる。
「苦しむべきだと思う僕」は、「見知らぬアドレスが走り書きされた教科書」も今も「この手にはチケット」を持ち続けている。それは「苦しむべき僕」へのその傷口をたどり直し続けるためであるかのようだ。
忘れることのできない悔恨があり、忘れてはいけない痛みがある。それを抱えて元に戻ることのできない今の時間の中にあり続ける。そして別の未来をもとめて進むにしても、そのためにも過去の悔恨、痛みを抱き続けようとする意志。
そうしたことはあるし、そういう楽曲もたくさんある。
ごめんね、アナスターシャ、勇気がなくて。
いつかね、アナスターシャ、悲しみを訪ねてみよう。
そう語りかけるアナスターシャは二度と戻ることのない、二度と会うことのない「僕」の記憶の中の、記憶の中だけの、もう二度とあうことのないだろうアナスターシャだ。そうやって「僕」は記憶の中のアナスターシャを抱きしめながら生き続けていく。
『アナスターシャ』の歌詞を真っ直ぐにそのまま読むならばこうなるのではないか、と思う。
誰もがもつ、青春の甘酸っぱい悔恨のようなもの、忘れることのできない戻ることのできないあの時間。記憶の中のアナスターシャはときに笑っているかもしれないけれども、その彼女の笑顔が屈託がない素敵なものであればあるほど、いまここにいる「僕」の胸の中には焼け焦げのようなものが広がっていく。
部屋の仄暗い片隅に、教科書とチケットを手にして「僕」は座り込んでいる。
そして背筋をのがし凛としたアナスターシャの姿を「僕」は思い起こす。
あえて言えば「よくある話」だ。
また時間は流れる。いずれ「僕」は痛みを抱えながらもまた立ち上がるだろう。またどこかに歩き出すのだろう。そのときもまたアナスターシャの凛とした姿を思い起こすこともあるだろう。痛みは薄れ、その代わりに懐かしさと甘酸っぱさに彩られた記憶のようになって。
けれども楽曲としての『アナスターシャ』を聴くと、この歌詞が全く違う意味を帯び始める。
イントロからそうだ。
何かを切り落とすような「シャっ」という音で場面は一気に変わる。ピアノと弦が絡みミュートされたピチカートのような音がリズムを刻む。1拍目の頭と2拍、3拍の裏に入るベースが全体にうねりを与え、推進力となっている。
もうこのイントロの段階で「後悔を抱え部屋の仄暗い片隅に座り込んでいる『僕』」で終わるというイメージはもつことができなくなる。
ピアノでイントロがはじまる楽曲は乃木坂にもたくさんある。その中でも最も美しく切ないものの一つは「あの日 僕は咄嗟に嘘をついた」だろうと思う。
もし『アナスターシャ』が『咄嗟』のようなイントロで始まれば私にはこの楽曲が「若さのリグレット=後悔」を歌った楽曲に思えていたかもしれない。
けれども中村泰輔作編曲の『アナスターシャ』は最初の第一音からまったく違う世界を描き始める。
秋元康は楽曲に歌詞をつけることのほうが多いとどこかkで読んだことがあるが、想像に過ぎないけれども、この楽曲は先に歌詞があった気がする。これはよくわからないけれども。
比較的、和音進行も譜割りもシンプルでメロディラインも作為的につくりあげられたという感じがしない。けれども「ごめんアナス|ター|シャ」の「ター」のところは4拍分あり、1小節まるごと1音になっている。これは先に歌詞がないとなかなか行わないことのような気がする。
けれども部分はどう聴いてもアナスターシャに語りかける、あるいはアナスターシャを思いながら呟くものではない。アレンジや和音の響きもあわせてまるで高らかに歌いあげるように、アナスターシャに届けようと歌い上げる。
イントロの後、リズムなど途中で立ち止まり、うつむくような屈曲を見せるながらも、それをこえてまっすぐに前に前にむかう推進力に満ちている。オーケストラは徐々に厚みを増し、要所で入るティンパニが背中を押し、スネアのロールが鼓舞する。押し上げるように鳴らされる中低音楽器が力強く音楽を前に推していく。
この推進力、前に進む力が『アナスターシャ』の歌詞を、痛みを抱えうずくまり続けるように読む読み方を許さない。
悔恨を、痛みを、傷を、悲しみを抱えながら、一歩、もう一歩前へ!を激励し、背中を押し続ける。例えば、
今 この手にはチケットがある
国境を越えたリグレットよ
リグレット=後悔を抱えた「僕」の背中を低音の弦が押し始める。チケットの意味が音楽によって強い意味をもちはじめる。
何度 夢を見て 何度覚めれば
高音の弦が色彩を与え始める。リグレットに色彩がまさっていく。
胸の痛みは跡形さえなくなるの?
跡形さえ…からスネアが登場する。すると楽曲の景色が変わり世界が広がるような感覚を受ける。
そして「ごめん、アナスターシャ」のところでは勇気を鼓舞するようにドラムロールが入ってくる。
いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う
メロディを支えている演奏は「僕」を鼓舞し続ける。
そして「苦しむべきだと」とドラムロールとともに、音階もピークに向かって駆け上がりながら、パーンとパーカッションが入り、ブレイクする。
ここではっきりと一つの転換を感じる。背中を押され、鼓舞されてきた「僕」が、「部屋のすみ座り込んでいた僕」が、顔を上げ、立ち上がる。そんな光景への転換。
この文章を映像から切り離すために音だけを聴いていたけれども、映像を確認してみた。
9人が一つになり、上空を見上げているところの後にパーカッションが入り、「アナスターシャ」のタイトルが浮かび上がり、そしてそのタイトルは旗を立てるために塔の階段を登っていくシーンに重なっていく。はっきりとした転換が映像化されている。
そしてこの転換のあとの間奏部分は要所でティンパニがなり、低音源がさらに全体を押し上げていくように鳴り渡る。
楽曲は厚みを増し、ドラムロールが入り、勇気がなかった過去の自分、「背負えなかった」に向けて音階は駆け上がり、そのことを正面から歌い上げ、ブレイク。
このブレイクで「愛すことの重さを背負えなかったこと」といまここにいる「僕」がその瞬間、切り離される。
「僕」もうロシアの貨物船と旋回する渡り鳥を眺めていた「僕」とは違う。
そう聴いてくると繰り返されるサビのフレーズが最後には別の意味に聴こえてくる。
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
過去形で書かれている。
「手にあるチケット、アナスターシャ、いつか、悲しみを訪ねよう」という歌詞も、苦しみを確認し続けるために手にしていたものから、そこへ向かう覚悟と意志のあるものとして響き始める。
君は若すぎて
止められなかった愛すことの、その重さ。背負えなかった僕
その僕が時間の経過のなかで、今ふたたび、今度こそその重さを背負おう。悔恨はある、痛みもある、しかし「背負えなかったこと」は確かに「過去形」なのだ。
だから『アナスターシャ』は始まりの歌になった。そのもっとも大きな力は中村泰輔が作編曲した音楽の力だ。この力は『アナスターシャ』という楽曲の魂を決めたものだと思う。
歌詞に微かにみえていた「僕」の覚悟の芽生えのようなものを楽曲が大きく押し広げ、貸そのものの意味を読み替えさせる。歌詞だけを読んだ時とほとんど正反対に近いようなイメージを受けるような楽曲になった。
陽気に朗らかに未来を信じて進もうというのではない。裏切り、痛み、不甲斐なさ、傷口、悔恨…そういうものを抱えてきた。何度も何度も痛みと傷を見つめてきた。そうした楽曲でもない。そうしたものを抱え込み、だからこそ、今度こそ、と、ここで覚悟を固め、前に進む。そういう楽曲として『アナスターシャ』は生まれた。
それが乃木坂46・2期生の『アナスターシャ』なのだと思う。
この音楽の力がなかったら、あるいはそれがもっと別のものだったら、おそらく伊藤衆人監督のあのMVは生み出されなかったはずだ。
そしてそうした『アナスターシャ』をMVで完成させた。
『アナスターシャ』のMVは楽曲をBGMのようにしてしまっているのではない。楽曲の側から言えば、あの歌詞と音楽が絡みあうことではじめてMV『アナスターシャ』は可能になった。
それについては項を改めて書きたいと思う。
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あるサイトで『アナスターシャ』の伊藤衆人監督によるMVについて非常に強く批判していた。
”つまり、換言すれば、作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う。”
”触れるのは作り手に用意された仕掛けのみである。鑑賞者は、作家の安易な想像力によって作られた、思いついたアイディアをとにかく詰め込んだだけのフィクションの内側で喜び、走りまわることしか許されていない。この点から、流行りのエンターテイメント小説のような感動しかつくらず、ながい時間の経過に耐えうる作品、つまり文学の境域には立っていない、とつよく感じる。”
”「アナスターシャ」はこのようなフィクションには到底到達しておらず、作り手だけではなく、ファンの想像力も試されていない。現実のアイドルの物語を直に虚構の底に置いているだけであり、写実や破壊活動が一切ないため、辿り着く答えは皆一様にしておなじものになる。あとがきに答えが書かれている安物の推理小説を読むようなもので、類型的な感想しか生まれない。”
”「せかいのおわり」においては、この少女たちは「ドラゴンを倒す力もある」と声高らかに叫んだあの日から一歩も前に進んでおらず、「せかいのおわり」であいも変わらず胎動だけを描いている。「せかいのおわり」でなにかがおわったことや夢が破れた事実を、あるいはそれらを凌ぐかけがえのない宝物を少女たちが手に入れるといった、過去の出来事を動機に生きる登場人物を描写するのではなく、現在を切り拓こうとする、楽曲や詩的世界の命題に置かれたであろう覚醒を描けていない。”
これがすべてではないが、核心的な「批判」の一つだ。
共有されている乃木坂26・2期生の「物語」にただそのまま依存しただけのMVだということになるだろうか。なかでも筆者の激しい苛立ちが透けて見える。部分は次のところだろう。
”もっとも深刻に感じるのは、きっと、このような幼稚な作品こそアイドルファンに手放しで賛美されるのだろうという「蓋然」である。アイドルが卒業していないにもかかわらず、すでにアイドルの過去のみを寄す処にしてノスタルジーに浸る行為への、おなじ場所をぐるぐると移動をするだけで成長を一切描いていない作品をまえにして成長を確信するといった構図がやすやすと成り立つことへの「蓋然」である。”
衒学的に述べられているが、端的に言えば『アナスターシャ』MVは「甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの映像で、ノスタルジーに浸る行為でしかない」ということになるだろうか。そしてそのことが「手放しで称賛されるのだろう」といい、そのことがありありと思い浮かべられてしまうことを「最も深刻に感じる」と述べている。
だから前回の投稿であえて「私は2期生推しではない」といい「2期生の物語からはなれて」『アナスターシャ』について書いてみようと思ったわけだ。
しかし同時に思うのは、これは憶測だけれども『アナスターシャ』のMVが出て、ほとんどただちに、しかも楽曲(歌詞・音楽・MV)の全体に触れることなく激しくMVのみに反応して書かれた筆者の文章がを読みながら、ああ、この筆者もまた「手放しで賛美するファン」という部分を抱えてこんでいるのだろうな、と思った。そう反応する自分がいるからこそ苛立ち、激しく『アナスターシャ』のMVを批判するのではないかな、と。つまりこれは一種の「自己批評」なのかもしれない、と。