
まだ大陸にはわたれない。
まだ大陸は海の向こうにある。
けれども旗はここに立っている。
チケットは手の中にある。
新しく涙を流せたことを誇れ。
その涙の数だけ高く旗を掲げよ。
眠れぬ夜に。

まだ大陸にはわたれない。
まだ大陸は海の向こうにある。
けれども旗はここに立っている。
チケットは手の中にある。
新しく涙を流せたことを誇れ。
その涙の数だけ高く旗を掲げよ。
眠れぬ夜に。
『アナスターシャ』は「はじまりの歌」だ。
確かに乃木坂46・2期生の「はじまりの歌」だ。
けれども「乃木坂推し」「2期生推し」にとってだけの意味ではない。
あるサイトで『アナスターシャ』のMVが痛烈に批判、非難されている。そのサイトの文章の抜粋がこの投稿の後ろにある。
”作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う”
音楽などなんでも良かったのだと。この伊藤衆人監督作品のMVをみることは、2期生たちの物語に埋没し、甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの、ノスタルジーに浸る行為でしかない。しかもそれが「手放しで称賛される」ことがありありと思い浮かべられる。そのことを「最も深刻に感じる」と述べている。なんと幼稚なことなのだろう、と。
なかなかに辛辣だ。2期生メンバー、監督、ファンを丸ごとひとまとめにして罵倒していると言ってもいい。
しかし本当にそうなのか?
ミュージックビデオ・乃木坂46『アナスターシャ』、作詞・秋元康、作編曲・中村泰輔、監督・伊藤衆人。
乃木坂・2期生のファンにとって、あまりにMVの映像の印象が強いためほとんど映像についてだけ語られている。あるいはプラスアルファで少し歌詞にも触れられているくらいだと思う。
しかし私には実はこの『アナスターシャ』を支えているのは中村泰輔の音楽(作曲・編曲あわせて)のように思える。この音楽の力『アナスターシャ』を「はじまりの歌」に押し上げている。(以降、音楽という時は、歌詞・MVを除外したものとして使います)
いまここで、アナスターシャとは誰なのか、僕とは誰か、それを「2期生の物語」に即して「考察」しようとは思わない。秋元康の『アナスターシャ』の歌詞を、MVや音楽を忘れて読み返す。あまりにMVの印象が強いからなかなか難しいができるだけ頭を空っぽにして読んでみる。
いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う
ごめんアナスターシャ
約束を守れずに
あの夜の僕には
勇気がなかった
ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
「僕」はアナスターシャを裏切った。国境を向こう側にこえていったアナスターシャが、その向こう側に希望をみていたのか、あるいはこちら側に絶望をみていたのか、それはわからない。しかしいずれにしても「一緒に国境を越えよう」と約束していたはずの「僕」はその約束を破る。
何度 夢を見て 何度覚めれば
胸の痛みは跡形さえなくなるの?
「約束を守れなかった夜」は、たぶん何十年も昔のことではないだろう。けれども、恐らく1週間とか1ヶ月でもなく、そこには積み上がった時間があり、その時間を通して存在し続けてきた痛みがある。そして「僕」はその痛みを感じ続けなければいけない、苦しみ続けなければいけけないのだと思っている。おそらくそれは「僕」がまだアナスターシャを愛し続けているだからだろう。
そして
ごめんアナスターシャ
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
と繰り返される。ここは切り方によって意味が変わるが、「ごめんアナスターシャ、君はまだ若すぎて。止められなかった愛すことの、その重さ、背負えなかった僕さ。」となるだろうか。
後悔と持続する痛みの中に「僕」はうつむき、座り込んでいる。
「苦しむべきだと思う僕」は、「見知らぬアドレスが走り書きされた教科書」も今も「この手にはチケット」を持ち続けている。それは「苦しむべき僕」へのその傷口をたどり直し続けるためであるかのようだ。
忘れることのできない悔恨があり、忘れてはいけない痛みがある。それを抱えて元に戻ることのできない今の時間の中にあり続ける。そして別の未来をもとめて進むにしても、そのためにも過去の悔恨、痛みを抱き続けようとする意志。
そうしたことはあるし、そういう楽曲もたくさんある。
ごめんね、アナスターシャ、勇気がなくて。
いつかね、アナスターシャ、悲しみを訪ねてみよう。
そう語りかけるアナスターシャは二度と戻ることのない、二度と会うことのない「僕」の記憶の中の、記憶の中だけの、もう二度とあうことのないだろうアナスターシャだ。そうやって「僕」は記憶の中のアナスターシャを抱きしめながら生き続けていく。
『アナスターシャ』の歌詞を真っ直ぐにそのまま読むならばこうなるのではないか、と思う。
誰もがもつ、青春の甘酸っぱい悔恨のようなもの、忘れることのできない戻ることのできないあの時間。記憶の中のアナスターシャはときに笑っているかもしれないけれども、その彼女の笑顔が屈託がない素敵なものであればあるほど、いまここにいる「僕」の胸の中には焼け焦げのようなものが広がっていく。
部屋の仄暗い片隅に、教科書とチケットを手にして「僕」は座り込んでいる。
そして背筋をのがし凛としたアナスターシャの姿を「僕」は思い起こす。

あえて言えば「よくある話」だ。
また時間は流れる。いずれ「僕」は痛みを抱えながらもまた立ち上がるだろう。またどこかに歩き出すのだろう。そのときもまたアナスターシャの凛とした姿を思い起こすこともあるだろう。痛みは薄れ、その代わりに懐かしさと甘酸っぱさに彩られた記憶のようになって。
けれども楽曲としての『アナスターシャ』を聴くと、この歌詞が全く違う意味を帯び始める。
イントロからそうだ。
何かを切り落とすような「シャっ」という音で場面は一気に変わる。ピアノと弦が絡みミュートされたピチカートのような音がリズムを刻む。1拍目の頭と2拍、3拍の裏に入るベースが全体にうねりを与え、推進力となっている。
もうこのイントロの段階で「後悔を抱え部屋の仄暗い片隅に座り込んでいる『僕』」で終わるというイメージはもつことができなくなる。
ピアノでイントロがはじまる楽曲は乃木坂にもたくさんある。その中でも最も美しく切ないものの一つは「あの日 僕は咄嗟に嘘をついた」だろうと思う。
もし『アナスターシャ』が『咄嗟』のようなイントロで始まれば私にはこの楽曲が「若さのリグレット=後悔」を歌った楽曲に思えていたかもしれない。
けれども中村泰輔作編曲の『アナスターシャ』は最初の第一音からまったく違う世界を描き始める。
秋元康は楽曲に歌詞をつけることのほうが多いとどこかkで読んだことがあるが、想像に過ぎないけれども、この楽曲は先に歌詞があった気がする。これはよくわからないけれども。
比較的、和音進行も譜割りもシンプルでメロディラインも作為的につくりあげられたという感じがしない。けれども「ごめんアナス|ター|シャ」の「ター」のところは4拍分あり、1小節まるごと1音になっている。これは先に歌詞がないとなかなか行わないことのような気がする。
けれども部分はどう聴いてもアナスターシャに語りかける、あるいはアナスターシャを思いながら呟くものではない。アレンジや和音の響きもあわせてまるで高らかに歌いあげるように、アナスターシャに届けようと歌い上げる。
イントロの後、リズムなど途中で立ち止まり、うつむくような屈曲を見せるながらも、それをこえてまっすぐに前に前にむかう推進力に満ちている。オーケストラは徐々に厚みを増し、要所で入るティンパニが背中を押し、スネアのロールが鼓舞する。押し上げるように鳴らされる中低音楽器が力強く音楽を前に推していく。
この推進力、前に進む力が『アナスターシャ』の歌詞を、痛みを抱えうずくまり続けるように読む読み方を許さない。
悔恨を、痛みを、傷を、悲しみを抱えながら、一歩、もう一歩前へ!を激励し、背中を押し続ける。例えば、
今 この手にはチケットがある
国境を越えたリグレットよ
リグレット=後悔を抱えた「僕」の背中を低音の弦が押し始める。チケットの意味が音楽によって強い意味をもちはじめる。
何度 夢を見て 何度覚めれば
高音の弦が色彩を与え始める。リグレットに色彩がまさっていく。
胸の痛みは跡形さえなくなるの?
跡形さえ…からスネアが登場する。すると楽曲の景色が変わり世界が広がるような感覚を受ける。
そして「ごめん、アナスターシャ」のところでは勇気を鼓舞するようにドラムロールが入ってくる。
いつかアナスターシャ
埋められぬ過ちの
傷口辿って
愛されてたその意味に
苦しむべきだと思う
メロディを支えている演奏は「僕」を鼓舞し続ける。
そして「苦しむべきだと」とドラムロールとともに、音階もピークに向かって駆け上がりながら、パーンとパーカッションが入り、ブレイクする。
ここではっきりと一つの転換を感じる。背中を押され、鼓舞されてきた「僕」が、「部屋のすみ座り込んでいた僕」が、顔を上げ、立ち上がる。そんな光景への転換。
この文章を映像から切り離すために音だけを聴いていたけれども、映像を確認してみた。
9人が一つになり、上空を見上げているところの後にパーカッションが入り、「アナスターシャ」のタイトルが浮かび上がり、そしてそのタイトルは旗を立てるために塔の階段を登っていくシーンに重なっていく。はっきりとした転換が映像化されている。
そしてこの転換のあとの間奏部分は要所でティンパニがなり、低音源がさらに全体を押し上げていくように鳴り渡る。
楽曲は厚みを増し、ドラムロールが入り、勇気がなかった過去の自分、「背負えなかった」に向けて音階は駆け上がり、そのことを正面から歌い上げ、ブレイク。
このブレイクで「愛すことの重さを背負えなかったこと」といまここにいる「僕」がその瞬間、切り離される。
「僕」もうロシアの貨物船と旋回する渡り鳥を眺めていた「僕」とは違う。
そう聴いてくると繰り返されるサビのフレーズが最後には別の意味に聴こえてくる。
君はまだ若すぎて
止められなかった
愛すことのその重さ
背負えなかった僕さ
過去形で書かれている。
「手にあるチケット、アナスターシャ、いつか、悲しみを訪ねよう」という歌詞も、苦しみを確認し続けるために手にしていたものから、そこへ向かう覚悟と意志のあるものとして響き始める。
君は若すぎて
止められなかった愛すことの、その重さ。背負えなかった僕
その僕が時間の経過のなかで、今ふたたび、今度こそその重さを背負おう。悔恨はある、痛みもある、しかし「背負えなかったこと」は確かに「過去形」なのだ。
だから『アナスターシャ』は始まりの歌になった。そのもっとも大きな力は中村泰輔が作編曲した音楽の力だ。この力は『アナスターシャ』という楽曲の魂を決めたものだと思う。
歌詞に微かにみえていた「僕」の覚悟の芽生えのようなものを楽曲が大きく押し広げ、貸そのものの意味を読み替えさせる。歌詞だけを読んだ時とほとんど正反対に近いようなイメージを受けるような楽曲になった。
陽気に朗らかに未来を信じて進もうというのではない。裏切り、痛み、不甲斐なさ、傷口、悔恨…そういうものを抱えてきた。何度も何度も痛みと傷を見つめてきた。そうした楽曲でもない。そうしたものを抱え込み、だからこそ、今度こそ、と、ここで覚悟を固め、前に進む。そういう楽曲として『アナスターシャ』は生まれた。
それが乃木坂46・2期生の『アナスターシャ』なのだと思う。
この音楽の力がなかったら、あるいはそれがもっと別のものだったら、おそらく伊藤衆人監督のあのMVは生み出されなかったはずだ。
そしてそうした『アナスターシャ』をMVで完成させた。
『アナスターシャ』のMVは楽曲をBGMのようにしてしまっているのではない。楽曲の側から言えば、あの歌詞と音楽が絡みあうことではじめてMV『アナスターシャ』は可能になった。
それについては項を改めて書きたいと思う。
********************************
あるサイトで『アナスターシャ』の伊藤衆人監督によるMVについて非常に強く批判していた。
”つまり、換言すれば、作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う。”
”触れるのは作り手に用意された仕掛けのみである。鑑賞者は、作家の安易な想像力によって作られた、思いついたアイディアをとにかく詰め込んだだけのフィクションの内側で喜び、走りまわることしか許されていない。この点から、流行りのエンターテイメント小説のような感動しかつくらず、ながい時間の経過に耐えうる作品、つまり文学の境域には立っていない、とつよく感じる。”
”「アナスターシャ」はこのようなフィクションには到底到達しておらず、作り手だけではなく、ファンの想像力も試されていない。現実のアイドルの物語を直に虚構の底に置いているだけであり、写実や破壊活動が一切ないため、辿り着く答えは皆一様にしておなじものになる。あとがきに答えが書かれている安物の推理小説を読むようなもので、類型的な感想しか生まれない。”
”「せかいのおわり」においては、この少女たちは「ドラゴンを倒す力もある」と声高らかに叫んだあの日から一歩も前に進んでおらず、「せかいのおわり」であいも変わらず胎動だけを描いている。「せかいのおわり」でなにかがおわったことや夢が破れた事実を、あるいはそれらを凌ぐかけがえのない宝物を少女たちが手に入れるといった、過去の出来事を動機に生きる登場人物を描写するのではなく、現在を切り拓こうとする、楽曲や詩的世界の命題に置かれたであろう覚醒を描けていない。”
これがすべてではないが、核心的な「批判」の一つだ。
共有されている乃木坂26・2期生の「物語」にただそのまま依存しただけのMVだということになるだろうか。なかでも筆者の激しい苛立ちが透けて見える。部分は次のところだろう。
”もっとも深刻に感じるのは、きっと、このような幼稚な作品こそアイドルファンに手放しで賛美されるのだろうという「蓋然」である。アイドルが卒業していないにもかかわらず、すでにアイドルの過去のみを寄す処にしてノスタルジーに浸る行為への、おなじ場所をぐるぐると移動をするだけで成長を一切描いていない作品をまえにして成長を確信するといった構図がやすやすと成り立つことへの「蓋然」である。”
衒学的に述べられているが、端的に言えば『アナスターシャ』MVは「甘酸っぱい、結論の見え透いた内輪受けの映像で、ノスタルジーに浸る行為でしかない」ということになるだろうか。そしてそのことが「手放しで称賛されるのだろう」といい、そのことがありありと思い浮かべられてしまうことを「最も深刻に感じる」と述べている。
だから前回の投稿であえて「私は2期生推しではない」といい「2期生の物語からはなれて」『アナスターシャ』について書いてみようと思ったわけだ。
しかし同時に思うのは、これは憶測だけれども『アナスターシャ』のMVが出て、ほとんどただちに、しかも楽曲(歌詞・音楽・MV)の全体に触れることなく激しくMVのみに反応して書かれた筆者の文章がを読みながら、ああ、この筆者もまた「手放しで賛美するファン」という部分を抱えてこんでいるのだろうな、と思った。そう反応する自分がいるからこそ苛立ち、激しく『アナスターシャ』のMVを批判するのではないかな、と。つまりこれは一種の「自己批評」なのかもしれない、と。
どうやら乃木坂46・2期生楽曲『アナスターシャ』について連続的に書くことになりそうだ。
この曲が好きだからだ、MVも含めて。
でも、それだけではない。
あるサイトの記事が目に止まった。『アナスターシャ』、とくにMVについて非常に低い評価をしていた。それは、伊藤衆人監督が2期生の物語に埋没しすぎているといい、楽曲がもう映像のBGMにしかなっていない、ただ2期生のあれこれの物語が生のまま散りばめられているだけだ、そして「最も深刻なこと」として、このMVをメンバーもファンも喝采で迎えるだろうこと、それが見えてしまうこと、そうしたことにウンザリし、幼稚過ぎるという。
長く続いているサイトのようで、たぶん有名なものなのだろうと思う。
そのサイトの記事の書きようが自分の中で強く引っかかってしまったので、こっそりとここでささやかな抵抗をすることにした。
あらかじめ書いておくと私はいわゆる「2期生推し」ではない。強い共感を感じるところはある。けれどもたぶん「推し」なんて言えたものではない。『せかいのおわりは、』も今回初めてみた。『スカウトマン』や『ライブ神』もみたこと、聞いたことはあったが、MVをじっくりみたのは今回はじめてだ。『ボーダー』も。もっとも『ブランコ』は好きだったから結構見て・聴いてはいたけど。そもそも、おそらくは「乃木坂推し」ですらないと思う。もしそういったら本物の2期生推し、乃木坂推しの人たちに「ふざけるなお前」と叱られるんだろう。
なのにこんなことを書きはじめるのは、『アナスターシャ』が好きだからだし、それへの批判に納得できないからであり、私が2期生推しではないから逆に『2期生の物語』から自由に『アナスターシャ』にアプローチできると思ったからだ。
別の言い方をすれば、『アナスターシャ』は「2期生推しでなくても、2期生の物語を共有していなくても素敵な曲で、素敵なMVのなんだ」といいたいわけだ。
まぁ個人的な感想でしかない。他の人にとってそれは無意味であることも多い。けれどもそうじゃないことだってある(と思う。)
『アナスターシャ』を観たあと、実は一本の映画をみた。 映画冒頭で初老の男性が水辺に一本の松を植えようとしている。それを6,7歳さいだろうか?小さな子どもが黙って手伝う。
こういうシーンだ。
2枚目の画像。松の木の根元の左側に子どもがいるのがわかると思う。
このシーンの初老の老人のセリフ。
ずっと昔のあるとき、年とった修道士がいて、僧院に住んでた。パムベといった。
ある時、枯れかかった木を山裾に植えた。こんな木だ。そして若い門弟に言った。ヨアンという修道僧だ。
木が生き返るまで毎日必ず水をやりなさい。
毎朝早く、ヨアンは桶に水をみたしてでかけた。木を植えた山に登り、枯れかかった木に水をやって、あたりが暗くなった夕暮れ僧院に戻ってきた。これを3年続けた。そしてある晴れた日、彼が山に登って行くと、木がすっかり花でおおわれていた。
一つの目的をもった行為は、いつか効果を生む。
時々、自分に言い聞かせる。
毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に、同じ一つのことを儀式のように、きちんと同じ順序で、毎日変わることなく行っていれば世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬわけにはいかぬ。
人間は朝になると目をさます。
7時にベッドを離れ、浴室に行き、蛇口から水をコップに注ぎ、トイレに流す。
旧ソ連の映画だ。アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』。
タルコフスキーはもう亡くなったけれども、神秘的な強い印象を刻みつける映像を送り出した監督だった。DVDは5,6枚もっていると思う。『アナスターシャ』のMVをみた時、すぐに『サクリファイス』を連想した。
アナスターシャはもともとギリシャ語のアナスタシアだけれども、このMVの冒頭部分、”アナスターシャ”の題字はロシア語で書かれている。
サクリファイス=生贄だ。実際にこの男性は世界の災厄を引き受けて自分を滅ぼすように振る舞まう。そしてこの男の子は男性がいなくなったあと、松の木に水をやり続ける。
遠くから重い水を運び続ける。
そしてあるとき、松の木の根元に座り、木を仰ぎ見る。
見にくいけれども、根っこの左側に男の子がいて木を見上げている。
そしていう。
初めに「ことば」ありき。
なぜなの パパ?
新約聖書のなかのヨハネの福音書の最初の方の言葉だ。
『アナスターシャ』のMVの冒頭に置かれていたのは旧約聖書の創世記の言葉だ。
実はこの男の子は映画の中でずっと言葉を失った存在だった。この「はじめに「ことば」ありき。なぜなのパパ?」と言うまで一言も発さない、発せない存在だった。
この男の子の、この一言のためにこの映画はあったのかもしれない。そう思えるほどの言葉だ。それが神とこの世界・宇宙への、その根源への「なぜなの?」という疑問として発せられる。
世界は変わった。言葉をもたなかった男の子が言葉を発した。しかも言葉への根本的な問いを含んだものとして。
この「初めに『ことば』ありき」の部分、新共同訳の新約聖書ではこうなっている。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
『サクリファイス』の冒頭の初老の男性の言葉、そして最後の男の子の言葉。
水辺の松の木の下で発せられた、映画の冒頭と最後の言葉は強く印象に残っていた。
冒頭のシーンの堀未央奈をふくめた映像の佇まい、色彩に乏しく全体に荒涼とした風景。
旧約聖書の創世記、新約聖書のヨハネ伝の世界の創造に関わる部分の引用。
「一つの目的をもった行為は、いつか効果を生む。時々、自分に言い聞かせる。毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に、同じ一つのことを儀式のように、きちんと同じ順序で、毎日変わることなく行っていれば世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬわけにはいかぬ」という男性の言葉。
この言葉にも何か通じるものを感じとってしまう。『アナスターシャ』も「世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬ訳にはいかぬ」と信じる者たちの物語なのではないかと思うからだ。
25thシングル、表題曲、白石麻衣のソロ曲はじめ全部のMVがアップされたと思うけれども、『アナスターシャ』は実に不思議なところにたっているよう思える。
基本的に他の楽曲はすべて明るく、楽しげで、カラフルだ。曲調も3期生の「毎日がBrand new day」は、サム・クックやオーティス・レディングを思わず聴き直してしまったけれども、アメリカの50年代の黒人音楽のようだし、表題曲はやはり60年代のアメリカンポップスみたいだ。全体に古き良きアメリカのカラフルさに覆われているように思う。「Sing Out !」からの流れと言ってもいいかもしれない。
その中でロシアの女性の名前をタイトルにもち、ロシアの大地のような色彩の乏しい荒涼とした風景の中で、やはり色彩に乏しい衣服を身にまとった女性たちが描き出される。歌詞の中でも希望や未来は遠くの大陸のどこか、目に見えないところ、触れることのできないところにある。
『アナスターシャ』は、他の25thの楽曲と鋭い対比をみせ、独特の光を放ち、そこに存在している。
他の楽曲がお互いを見つめ合い、お互いに笑顔をみせ、手を取り合うようなMVであるに対して、『アナスターシャ』は一つの群れとなって、一つの旗を立て、一つの方向を、遠くの、目には見えないだろう大陸の方向を凝視する。
それは一つの意志、一つの力を誇示しているように思える。その意志と力は、ここが「世界のはじまりだ」と思わせるものがある。
むろん、それは乃木坂46・2期生の新たな始まりという文脈で理解されることが多いだろうけれども、その文脈を離れても『アナスターシャ』は一つの始まりの力を示していると思う。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
『アナスターシャ』は暗闇が理解しなかった光なのかもしれない。
****************************
私は、『しあわせの保護色』も白石麻衣の『じゃあね』でも泣いてしまいそうになるけれども、それでも実は『アナスターシャ』が一番好きでヘビーローテーションしている。
少し考えてみたけれども 『アナスターシャ』と『サクリファイス』がどうつながっているのかまだ自分でもよくわからない。いろんなことが絡み合い、何か不思議な響きを自分のなかで引き起こしている。けれどもそれもただの個人的な連想なのかもしれない。でもそれならそれでいい。それでも別々に生まれた二つの作品が響き合うことが他のものの色彩を変えていくことは私の世界を少し豊かにすることだという気がする。もう少し深められそうな気がする。
こうしたことを少し書くと思う。たぶん。
プロデューサーや監督がどう考えたのかには興味がないわけではないけれども、私は作品が作品として確立するということは、作りての主観的な意図から自立することでもあると思っている。それは上手くいけば自分なりに作品を育てていくことにもなるかもしれない。
だからこの文章は通常いわれている「考察」とは全く違う。以前に書いた『黒い羊』をめぐる文章も同じように考察ではなかった。
ちなみに、タルコフスキー監督の『サクリファイス』ともう一つ、私の乏しいロシア・旧ソ連に関する知識の中で、「アナスターシャ」ときいてヒットしてきた記憶があった。
アナスターシャはアナスタシア(ギリシャ語)に起源をもつロシアの女性の名前だが、その異形の一つに「ナスターシャ」がある。ナスターシャ=アナスターシャだ。
この「ナスターシャ」はドストエフスキーの小説世界のなかで作り上げられた女性たちの中でもっとも美しく、どのような泥水につかるような境遇に陥ろうとも誇りと尊厳を失わなかった女性の名前として強く記憶されている名前だ。ドストエフスキーが造形した女性の中でもっとも素晴らしいという評価を受けている。ネットで検索してみればいくらでも出てくる。ドストエフスキー自身、このナスターシャが登場する『白痴』を自分の作品の中でもっとも高く評価していたらしい。
近いうちに読み返す。
何かそういういろいろな、忘れてしまっていた記憶やどこかにしまい込まれてしまっていたものが別の光を発して蘇ってくる。
これは確かに『アナスターシャ』をみていなければ起こらなかったことなんだ。それだって作品の一つの力だと思う。
すごいMVだった。それは直感的にわかる。でもその凄さはたぶん、もっともっと深入りし、噛みしめるときに深くなっていく、そんなMV。
以下、若干の覚書
アナスターシャ(アナスタシア)
原義はギリシャ語で「目覚めた/復活した女」の意味。
5つの空席。
冒頭部分。
さぁ、頂が天に届く塔を建てよう。
そして名を上げ、全地に散るのを免れよう。
旧約聖書(新共同訳) 創世記11より。 この塔がバベルの塔。
旧約聖書の該当部分。
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
東の方から移動していた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
主は降ってきて、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、防げることはできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
こういうわけで、この町の名前はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
旧約聖書の中でも非常に有名な部分。
バベルの塔は神によって否定され、完成させることはできなかった。そして散り散りにさせられ、人間は共通の言葉も失う。原罪を背負い楽園を追われた人間の苦難の道のり。
けれども、「アナスタターシャ」=復活した女性たち、は、ついに塔を完成させ、そこに自分たちの独自の旗を立てる。
細部にわたって造り込まれたMVは、メンバーにもファンにも、それぞれの固有の物語を復活させ、一つの世界にまとめあげ、押し上げていくのだろう。私のようなものが、その一つ一つの物語に安易に何かを言うのはきっと、大切な場所を土足で踏み荒らす行為なんだろうと思わせるほどの表現の密度と緊張感がみなぎっている。伊藤衆人監督と2期生メンバーの「乾坤一擲」のMV。
公式MV
2020年3月3日、やっといま「欅って、書けない?」みた。
織田奈那さん、鈴本美愉さん、お疲れさまでした。
とくにこの数ヶ月、いろいろしんどかったと思います。でも最後に「欅って、書けない?」に出てきてくれてありがとうございました。
穏やかな笑顔でした。あなた方が最後に笑顔を届けてくれたことで救われた想いのファンがものすごくたくさんいると思います。私も肩の力がちょっとだけ抜けた気がします。
あなたたちは欅坂46にとって本当にかけがえのない人でした。
織田奈那さんへ。
写真週刊誌の件がありました。欅坂のファンはたぶん、あなたがすぐに出てきて話をすればそれでOKだったと思います。それができなかったことはやっぱり少し残念かな。
でもあの一件であなたの存在が損なわれることなんてありません。恋愛がいけないことではありません。裏切りでもありません。ただそれがいろんな思惑のなかでもみくちゃにされていってしまう環境でした。だからサラッと、こうなってしまいましたぁとか言えば、まぁ最初は叩かれるかもしれないけど、たぶんファンが守ってくれたと思います。もっとも恋愛することが「問題になってしまう」状況そもそも良いのか?ということではあるのですが…
一番心配だったのは一度も顔を出さずに消えていくことでした。
あなたより長く生きてきて思うことは、少し隠れて生きていかないといけない、という状態は辛いということです。それはじわじわとその人を蝕みます。何かよじれたものが積み重なってしまったりします。
最後に織田さん言ってましたよね?「どこかで会えたら話しかけてください」って。
これを言えたこと、本当に良かったと思います。その一言で、これからさきかなり長く、どこかに引きずるかもしれなかった影が消せたと思います。本当は全然悪いことじゃない、むしろ晴れやかなことのはずなのにね。それがあの一言で消すことができたような気がします。
まぁ私などが会うこともないでしょうけど、もし見かけたら話しかけしまいますよ。
私からみたら、織田さんはバラエティ担当みたいに思われがちだけど、中低音を支えた歌声と熱のこもったダンスは素晴らしかったです。
とても繊細で、まわりの痛みも分かって。内部のことは知りません。私の想像などあてにもなりません。けれども、どうみてもあちらこちらにぶつかりながらしか進んでいけない欅坂46です。いたるところに打ち身やたんこぶができているような状態で戦っているのだろうとは思っていましたし、それはいまもかわりません。そんな欅坂46にとって織田奈那さんは他の誰かに代わることのできない人だったと思っています。あなたがいたからこれまでガンバレたというメンバーきっといるだろうな、と思います。本当に大切な人でした。
ありがとうございました。
欅って、書けない?の収録スタジオで笑っていましたね。ほっとしました。不器用そうで、ちょっと不思議なポイントで大笑いしていました、むかしは。
それがいつからかあまり笑わなくなってしまった。でも最後に穏やかな笑顔をスタジオに残していってくれました。ありがとうございました。たぶんファンにとってはかけがえのない贈り物だったと思います。号泣していたファンもいるだろうなぁ、と思います。
ダンススキルとか歌の力については今更言いません。だって松平璃子はあなたのダンス一発でオシメンがかわるくらいの「威力」なんだから。
誰もが思っていることですが、欅坂46が苦しかった2018年後半。その時期、鈴本さんは覚悟と決意をもって一歩も引かず、凛として困難に立ちはだかっている感じでした。あの滝にズカズカと入っていくときの感じ。ああ、こんな感じ、これが鈴本美愉だなぁなんて思いました。
確かにみんな頑張っていたけど、やっぱりあの時期の鈴本美愉、小林由依の覚悟もほどは痛いほど伝わってきました。爆発的な熱量も感じていました。あの熱量と覚悟とその魂はたぶん欅坂46の大切な一部として生き続けていくと思っています。
本当は鈴本さんには一つだけ聞きたいことがありました。
「黒い羊」のことです。
「欅って、書けない?」の滝行の回、スタジオ全体の空気を一変させたのは菅井さん、守屋さんに続いて手をあげた鈴本さんでした。「考え方を変えられた」と言っていましたね。だから当然のように行きます、何が不思議なんですか?みたいな。
それまでのいろいろなメンバーのブログを見ながら思っていたことですが、あの鈴本さんの言葉とその後の滝行をみていて確信にかわりました。
「黒い羊」という楽曲はたぶん、2018年の秋にはいったん出来上がっていたと思うんですね。ということは、あの楽曲は2018年の終わりの鈴本さん(たち)の決意に満ちたパフォーマンスを支える力にもなっていたのではないかな、と思っているのです。たぶん、もう一度何かが奮い立たせられるようなそんな力をメンバーが受け取ったのだと思っています。そのことを強く確信したのです。
聴きたいこと。
「黒い羊」は鈴本さん、あなたの中にいまも生き続けているものとして卒業になったのでしょうか?それともそこから離れていくものとして卒業するのでしょうか?
欅坂46は楽曲とともに呼吸し、生きてきたグループだと思っています。そして3段飛ばしで階段を駆け上がるようにして「黒い羊」(とくにそのPVC)という一つの高い地点にたどり着いた。たどり着いてしまった。それはCDの売上とかレコード大賞がどうのとかというレベルのことではありません。私自身は、あの楽曲が爆発的に売れることはないだろうし、レコード大賞を取るなどとはまるで思っていませんでした。そうした評価を突き抜けた向こう側にある楽曲だと思っています。楽曲とともに生きてきた欅坂46がこれまでになかった、到達し難い地点にたどり着いた。メンバーが口々に生き方が変わった、考え方が変わった…そういう楽曲はあまり玲がないのではないかなと思います。
でもそれが良いことなのか、悪いことなのか、私にはよくわかりません。楽曲の鋭さと同時にそれは生身のメンバーに鋭い痛みも伴うもののような気がするので。
鈴本さんはセンターを務めたこともあり、欅坂46の光と影の両方を生きた気がするのです。だから聞いてみたかった。いま考えて「黒い羊」は何だったのかということを。あれは欅坂46にとってプラスだったのだろうか?それがわからない。
でも、それが語られることは、たぶん、ないのでしょうね。
10年くらいしてそういえば鈴本美愉がこんなこと言ってたよ、とどこからかきこえてきたら、と心のなかで少し思い続けるでしょうけど。まぁ仕方ないね。
織田奈那さん、鈴本美愉さん、今後どうされるのかはわかりませんが、どこかで、何かで、また活躍しているよという話が流れてきたら嬉しいな、と思います。私はまだここで欅坂46を見つめ続けようと思っています。欅坂46が欅坂46である限り。
まだ寒いし、何だか病気が流行っていますが、おふたりともお元気で。
そのうち、ふわふわとどこからかお二人の風の便りが舞い込んでくることをちょっとだけ期待しています。
ありがとうございました。
あまりに衝撃的だった。
2019/09/09の 「欅って、書けない?」での選抜発表。欅坂46が選抜制に移行。
胃が痛い。頭の中をわけのわからないものがぐるぐる回ってる。来週から「ケヤかけ」を直視できるかどうか自信がない。それでもそのうち慣れていくんだろうか?でもすぐにはできそうにない。ぐるぐる回っているものを吐き出すために書く。たぶん、それなりの毒を吐いてしまうと思う。
2期生が大量に入ったときから選抜制になるのかもしれない、とは思っていた。けれども、その結果は衝撃的だった。
鈴本美愉、小池美波、織田奈那、齋藤冬優花、石森虹花、長沢菜々香、尾関梨香、1期生から7人が外れた。非選抜(アンダー?)は9人。アンダーライブをやることになるんだろうか?今野氏は乃木坂で成功したことを欅坂でも、と思ってるんだろうか?
それにしても9人か。ライブをやるにしても少ない。乃木坂46みたいにもともとカップリングのアンダー曲があったわけではないから、もしライブをやるにしてもユニット曲か、表題曲を含め全員でパフォーマンスした曲しかない。このくらいの人数でやった曲はない。フォーメーションからすべて作らないといけない。手直しではすまない変更になる。
…坂道研修生がいる。
坂道研修生、日向坂に続く第4のグループになるのかもしれないと思っていたけど、欅坂の選抜制への移行と研修生の浮上はセットなのかもしれない。ひょっとすると大半が欅坂と日向坂に配属され、日向坂も選抜制になるのかもしれない。欅坂の次回シングルは「冬」、日向坂も年明けになるだろう。研修生を入れて新体制になっても間に合う。これが一番リアルなところかもしれない。
しかし、これは欅坂が欅坂でなくなることかもしれない。少なくとも私が勝手に思い描いてきた欅坂46ではなくなるのかもしれない。欅坂46にはAKBグループとは違う、また乃木坂46ともまったく違う方向性があるかもしれない、と思っていた。
菅井友香が停滞感を口にしていた。その打開策としての選抜制。
わからなくはないけれども、停滞感があったとして、その打開策は選抜制しかないわけではなかったと思う。
秋元康のプロデュースする日本の女性アイドルグループは、歌やダンスのスキルで選抜・非選抜が決められていない。そこにウェイトがそもそも置かれていない。グループとしての歌・パフォーマンスを磨き上げることにウェイトが置かれていないからだ。
少なからぬ人がグループが成長するには競争が必要だ、選抜制が必要だ、という。欅坂のファンにもけっこういると思う。
けれども冷静に考えてメンバーがその都度変動していて、どうやってグループとしてのパフォーマンスを練り上げられるんだろうか?楽曲ごとに大きくメンバーが変わるオーケストラなど見たことがない。たいていのバンドもメンバーはだいたい固定し、そこで音を磨いていく。微妙なアンサンブルや呼吸は、手練のバンドなら別だが、やはり熟成期間が必要だ。メンバーが固定しているから停滞するなどということはない。目指すべき高みがあり、その高みへの意志が現状を許してくれない。現状を否定し、もっと先へと進めと自分のイメージが自分を駆り立てる。停滞などしない。
日本の女性アイドルグループだけ、どうして違うのだろう。いや、秋元康プロデュースのグループだけどうして違うのだろう。
シンプルにプロデューサーやマネジメントの意志と力がそうしたところに向けられていないからだ。そしてそうした地点を目指すものとしてグループが組織されていないからだ、と思う。
AKBグループの初期のダンス指導者であり、ステージマネージャー的なことまで一手に引き受けていた夏まゆみ氏がAKB48の指導をやめたのは、ストレッチの重要性を巡ってAKBの運営と対立したからだとも言われている(『AKB48とニッポンのロック 秋元康 アイドルビジネス論』田中雄二 スモール出版 p339)。運営体制が違うNMBだけが、ストレッチをいまもきちんとやるらしい。
素人目にも乃木坂や欅坂はその「ストレッチをやらない」側だと思う。私から見ても何年もダンスのレッスンをしてきたとは思えない身体の硬さが目につくことがある。またあるメンバーは「カラオケで練習してきた」といっていたこともあった。日常的にボイストレーニングを受けたりはしていないのだろうと思えてしまう。
端的にいって秋元康やマネジメント会社に、そうした土台をしっかり作り上げていく問題意識はないのだと思う。
だからパフォーマンスや表現力(歌を含めて)の高みをめざしてグループとして磨き上げていくということが目標にならないのではないだろうか。
個々のメンバーがそういう意識を持っていないというのではない。個々には見違えるような力をつけてきているメンバーもいる。
けれどもどうもフリの練習は行われていても、地道な基礎練習がなされていないのではないか、と思うことはやはりある。そうした指導がないのではないかと思ったりすることがある。
たぶん自分のイメージとしてはこのくらいの大きさで踊りたい、でも体幹が弱く大きく踊るとリズムの打点に遅れるとか、イメージしているだろうな、と思うところまで身体を動かすことができなかったように見えてしまう関節の可動領域の狭さとか… そうしたことが時折目についてしまう。
そのことをメンバーがどう思っているのかわからない。確かに「ダンスは技術じゃなくてエモーショナルなものだから」(齋藤冬優花)というのは正しいと思う。けれども、エモーショナルなものは技術なしで表現できるわけではない。小さな子どもが道端で泣いているとする。その感情が痛いほど伝わってくるとする。とてもエモーショナルだ。けれどもそれはダンスではない。歌でもない。
いい歌とうまい歌は違う。確かにそうだ。気持ちが伝わる歌。確かに大切だ。けれどもそれは下手でいいということではない。技術がなければ表現できないことは絶対にある。当たり前のことだ。歌やダンスが一つのツールだとすれば、楽器も一つのツールだ。下手な楽器演奏で表現できることは、とても限られている。
当たり前すぎてことさらに書くのもどうかと思うような内容だ。でも秋元のプロデュースの世界では、それは当たり前ではない。
私は欅坂46に、このグループにだけ、グループとしての圧倒的な、次元の違う磨き上げられた表現力・パフォーマンス力をもつようになるかもしれないと思ってきた。
しかし総合プロデューサーや運営のトップが表現の土台をしっかり固める意識をもっていない(と思う)ということだ。たどり着けるかもしれない世界を彼らが低めていると思ってしまう。グループとして、たどり着こうとする表現の高みをプロデュースしているとはとても思えない。
であれば、停滞感が生まれたとして不思議ではない。目指すべき地平がないところに、どうして前に進む推進力が生まれるだろう。
いや、目指すべきところはあるかもしれない。例えばレコード大賞とか、CDの売上とか。
けれども、それは結果であって、グループとして、どのようなパフォーマンスをしていくのか、ということの指標にも推進力にもならない。
そして、ほとんど誰も論じないけれども、NGT48の事件も、根本にはこの問題があると思っている。
AKBグループの選抜/非選抜は様々な要因で決まっているようだけれども、一番目立つのは選抜総選挙と握手会だろう。他にもSNSやネット配信のアクセス数なども指標化されているようだ。Google+をAKBのメンバーが開設したときは、Google社とタイアップする戦略だったらしい。じっさい、Google+への登録者数は一挙に増えたようだし、秋元が止めさせたらしいが、当初はAKSのスタッフとGoogle社のスタッフで投稿を検閲したとも言われている(上記、『AKB48とニッポンのロック』p432)。そのぐらい強いタイアップ戦略がとられたようだ。そしてデータがとられ、人気度がはかられていく。
では、どうやってメンバーは前に出るのだろう?
歌やダンスを磨いても、それで選抜に選ばれるわけではない。だから個人の人気商売になるほかない。であれば、その中の何人かが「個人営業」を積極的に行い始めることに何の不思議があるだろう。
秋元康のグループが、楽曲の歌やダンスパフォーマンスでの表現力を磨き上げることを根っこのところで放棄していること。
そうずっと思ってきた。思ってきたけれども言葉にしたことはなかったけれども、欅坂46の選抜制への移行という衝撃の中で封じておくことができなくなった。
選抜制などという人工的な刺激策をとらなくても、グループは切磋琢磨し、遥かに高いイメージに向かって自分たちを自分たちで打ち破り、前に進んでいくことはできることなんだ。別段難しいことでも、特別なことでもない。オーケストラやバンドは、たいていそうしていることだ。あるいは個人で何かを行っている場合でもそうだ。自分でこうなりたい、という強いイメージがいまの自分を作り変えていく。それは当たり前にどこにでもあることだ。
「サイレントマジョリティー」からはじまって、「黒い羊」まで。
特に「黒い羊」は衝撃作だった。いわゆる「アイドルグループ」が表現できうるギリギリの地点にたどり着いたと思っていた。欅坂46のなかでも突き抜けて深刻な楽曲になった。それは各メンバーの想い入れを見ればわかる。MVがそれをもっとも鋭く表現している。
そしてそのとき、同時に思ったことがある。
秋元康は、「黒い羊」をこえる強度をもった楽曲はつくれないかもしれないということ。「黒い羊」をこえるためには、秋元康が、これまでの秋元康の枠をこえなければいけなくなるだろうということ。あの楽曲ほど深く、鋭く、この社会のありようをえぐり出した楽曲は、たぶん、3000曲か4000曲ほども作詞している秋元にもないと思う。
メンバーは「黒い羊」にまで上り詰めた。MVがそれを表現した。あるいは「欅って書けない」のあの滝行の回。あれもその現れだった。あんなアイドルのバラエティー番組ってあるだろうか? ないと思う。あそこまで彼女たちは登りつめ、研ぎ澄まされていった。
しかし、あの放送回の延長線上に「ケヤかけ」を考えることができないように、「黒い羊」の延長線上に次の楽曲を秋元は考えることができないかもしれない。
今回の選抜制の導入は、総合プロデューサーの秋元康や運営会社が、「黒い羊」を突き破って向こう側に行くのではなく、その厳しさから引き下がり、別の方向に向かおうとする合図に思えてならない。
最初の方、「私が勝手に思い描いてきた欅坂46ではなくなるのかもしれない」と書いた中身だ。
今回は平手友梨奈をセンターからいったん外してみるチャンスでもあった。それが平手友梨奈が欅坂46で活動し続けていけるただ一つの道なんじゃないかと思っている。
平手はセンターしかできない存在にされてしまった。これはたぶん、秋元康のせいだ。私は平手は年の半分くらい欅坂で活動してくれたらいいと思っている。平手センターのシングルと、そもそも平手が参加しないシングル。
2016年、デビューの年、サイレントマジョリティー、世界には愛しかない、二人セゾン
2017年、4月、不協和音、10月、風に吹かれても。
2018年、3月、ガラスを割れ、8月、アンビバレント。
2019年、2月、黒い羊。そして冬。冬っていつだ?
年2枚のシングル。発売間隔も開いてきている。これはグループ活動として成り立っているんだろうか?というレベルだと思う。秋元康の忙しさと広範囲に手を広げている商売方法もある。けれども平手の体調の問題は少なからずあると思う。そしてそれが彼女を追い詰めてもいる。
確かに平手友梨奈は特別な存在感をもっている。だったらさ、年半分でもいいんじゃないか?
それに…平手の存在感、表現力は確かにある。けれども、パフォーマンス力は落ちてきていないか、と思うことがある。身体が動かなくなってきているんじゃないか、と。そして平手ありきで、平手のペースにグループを合わせることが、果たして正しいのか?
「黒い羊」にしてもそうだ。
あの楽曲は昨年のクリスマス時期にあわせた楽曲だったはずだ。9月くらいに最初のMVを撮影しているはずだ。使われている音も、クリスマスらしいものになっている。
けれどもそれを今年2月リリースにしたのは平手の状態が良くなかったからだ。運営は、この構図を、ずっと続けていくつもりなのだろうか?平手友梨奈は「ケガをする人」「体調を崩す人」なんだ。本人の体調管理に問題があるのかどうかしらないが、体調不良やケガに悩まされる人は実際にいる。そういうものとして秋元も運営も腹をくくってグループを作っていったほうがいいのではないか思う。今回はそのチャンスだと思っていたんだけれども…
秋元康の商売方法と書いたついでに若干。
率直に言って秋元康の商売にとって、どこのグループが売れようが潰れようが関係なくなっている。
運営会社はメンバーを抱えているから当然、そのグループが売れなければ赤字になるが、秋元は違う。例えば乃木坂がAKBを圧倒し、吹き飛ばしてしまっても乃木坂が売れていれば、欅坂が乃木坂を引きずり下ろしてしまっても欅坂が売れていれば、作詞家・秋元康の収入はかわらない。どこかのグループが売れていさえすれば秋元には収入がちゃんとはいってくる。
昨今、海外にグループ展開しているけれども、それらのグループも秋元プロデュースの楽曲を訳詞で歌うことが義務付けられるところからはじまる。AKBグループではこの3年くらい劇場公演用のセットを作っていない(2016年2月AKB48チームA『M.T.に捧ぐ』が最後)。いまは、すでにつくられた公演用のセットをリメイクして再上演しているだけだ。しかし旧作が売れるなら秋元には著作権料がはいる。そう考えると、乃木坂などが「全曲披露」をするのも、秋元的利害にはとてもかなったことだ。よほど人気のある曲でなければ、通常、アイドルグループの楽曲が10年後も歌われ続けることはあまりない。しかし、秋元プロデュースのグループは、ずっと楽曲を掘り起こし続けている。そしてそれが秋元の収入になり続けている。演奏すると著作権料が入ってくるようになっているはずだし、掘り起こされる楽曲を聴くためにCDやDVDを買ったりするからだ。
いま秋元はとんでもなく手を広げているが、その中のどれかが売れていけばそれで収益があがる。いってみれば分社化した一群の会社があるようなものだ。連結決算するとして、トータルで黒字だったらよい。赤字部門があれば早々に潰れても構わない。そこにいる人達にはそうはいかないが、社長には何の問題もない。ここで、「そこにいる人たち」がメンバーであり、各々の運営会社だ。例えばAKB本体がこけたらAKSは潰れる。しかしSKEやNMBが売れていれば、乃木坂や欅坂が売れていれば、秋元として問題はない。そういう構造になっている。
NGT問題で吉成夏子が全く間違った道ではあるけれども、必死にのたうち回っていても、秋元康には何も痛くない。そういう構造になっている。
だから秋元康にはいま、自分がプロデュースしているグループを熟知し、育て上げていくということに利害はない。収益だけで言えば「別にどうでもいい」とすらいいうる。
そうした中で、実は乃木坂と欅坂では、秋元康の運営への関わり方が違うようだ。欅には秋元が「実業家としてかかわっている」(前掲『AKB48とニッポンのロック』p632)。この点が今後、どう影響してくるか。
いろいろ脈絡がないところもあるけれども、かなり毒々しい…のだろうか?
すぐに削除することになってしまうかもしれない。
私にとって『黒い羊』は、まず解禁された楽曲を聞いたところから始まるが、それはMVに触れたことが一つの頂点になっている。それは今もかわらない。私にとって「本来の『黒い羊』」とはMVに表現された世界のことを指している。
書こうか書くまいか迷っていた内容を書こうと思ったのは、菅原りこさん、長谷川玲奈さん、山口真帆さんがNGTから離脱する公演で『黒い羊』を演じたからだ。
NGTを離脱した3人+7人のパフォーマンスそれ自体を評価することは難しい。あまりにも状況と直接的にリンクしすぎているからだ。客観的に見ることができるようになるのにはずいぶんと時間がかかるだろうと思う。
それにしても、これ以上ない生々しい「黒い羊」だった。
3人の「卒業」公演での「黒い羊」のパフォーマンスを受けていくつかの典型的な感想が述べられている。その一つ。
欅坂46のパフォーマンスでは最後に小林由依が<僕>=平手友梨奈とともに残る形になる。それは救いに見える。しかしこの3人の公演では誰も残るものがいない。そのことについて「救いがない演出に改変されていた」と言われている。
それについてこうツィートした。
ちょっと違う。
「黒い羊」の歌詞にもMVにも「救い」はない。
その後のTV用に変更が加えられた。MVのラスト、救いはどこにもない。
むしろ中途半端な「救い」を断ち切ったところに「黒い羊」の孤高の価値がある。その時初めて救いがない人々の表現になりえる。
「救いがない」姿が本来の姿だ」
「中途半端な救いを断ち切った姿こそが『黒い羊』の本来の姿」なのだ。あのTVなどでのパフォーマンス用の振り付けと演出は、「黒い羊」がもつもっとも鋭利な、もっとも抜き差しならない力を失わせるものだと思う。始めてみたときには怒りすら感じた。なんだか安っぽいテレビドラマを見せられているような気分になった。
もともと楽曲、MV、そしてスタジオないしステージでのパフォーマンスの間に重要な相違点がいくつかある。
1. 楽曲の歌詞はほとんどモノローグであり、他者は<僕>をとりまく状況としてのみあらわれる。そこに具体的な存在感はない。唯一のかすかな例外が「誰かがため息をついた」という箇所だけだ。それも「誰かが」であって具体的な存在が浮かび上がるわけではない。
そして秋元康の歌詞は、その<僕>以外の全員が作り出す状況によって<僕>が追い詰められていくさまを描き出している。
それにたいしてMVのでは各メンバーに物語が設定される。なかでも石森虹花、小池美波、小林由依、佐藤詩織、さらに渡邉理佐にはかなりはっきりと<物語の存在>が示されている。
そして各メンバーの衣裳も置かれている状況も個々に異なっている。
これにたいしてスタジオ版では、衣装が「制服」に統一されたこともあり、一人ひとりの物語は消去された。一人の語りだった歌詞=楽曲の世界が、MVでは多様に織りなす羊たちの物語の世界に押し広げられているが、スタジオなどでのパフォーマンスではもとの一人語りに戻されている。(モノローグからポリフォニーへ。そして再びモノローグへ。)
2. 1.は、別の美しさをもたらしはした。しかし<僕>と違う地点が描かれる物語が支えていた生々しさと具体的な存在感が消されることで、ステージ・スタジオでのパフォーマンスを強く抽象化した。象徴化といってもいいし、様式美になった、といってもいい。
3. 荒廃から秩序へ。
具体的な<僕>の「黒い羊」化と一体の、混沌(とした世界)から秩序(ある世界)への転換、その「瞬間と構造」がきわめて明瞭に捉えられている。「大人」=社会的権力による<僕>への暴力的な攻撃が核心部分に据えられ、その暴力の発動を引き金に<白い羊(であろうとするもの)>と<黒い羊=僕>との世界の分裂が一挙に進行する。
建物内部の、一人ひとりが互いに対立しあい、ときに抱擁するがすぐに突き放し合うような、そうしたカオスな、混沌とした世界から逃走、そして「黒い羊」の排除による無定形な対立が消失した「秩序」=コスモスの形成へ、世界は一挙に変貌する。
4. ラストのシーン。
上記のことはそれぞれに思うところはあるけれども、さしあたり、それらがラストシーンの変化につながり、ここで「黒い羊」の世界は決定的に変質した。退行し、後退したと思っている。
歌詞はこうだ。
自らの真実を捨て白い羊のふりをする者よ
黒い羊を見つけ 指を差して笑うのか?
それなら僕はいつだって
それでも僕はいつだって
ここで悪目立ちしてよう
MVについては別項(★「黒い羊」MVの構造 全シーンの整理(未完成→加筆中))でそれなりに整理した。ラストシーン直前からの部分を抜粋すると、
平手が大人たちに突き飛ばされたその時からみんなが抱き合うようになるわけだ。
★この男性たちは、歌詞との連動を考えれば、ある種の<力>なのだろう。権威や権力といってもいい。顔を見せない、匿名の、あるいは象徴的な、だ。その<力>が平手を打ち付ける瞬間から世界が変貌し始めている。このMVのなかでももっとも暴力的なシーンだ。その力のあるものによる平手への暴力が羊たちの世界を2分割の引き金になっている。
4:30
女性に突き放されたあと、平手は男性のもとに向かう。少し年上のように見える。スーツ姿の大人たちよりは若いが。
平手から両手を広げて抱擁しようとするが、男性は平手を最初から突き放す。(430男性-平手01、02)
そして男性が平手を突き放したことをきっかけ(最後の引き金になる)に、全体が左側に一挙に走り始める。それは誰かと手を取り合いながら。(431世界-平手01)
世界の決定的な変貌が完了した瞬間だ。
★この後ろの人々はあちらこちらで手を取り合っている。許しと和解の世界が繰り広げられている。少なくともいったんはそう見える。(けれども本当は多分、そうではない。→中間総括)
そしてその世界は一方方向に走り去り、平手が一人反対側に走り去る。この瞬間に世界は二分割される。
平手が「黒い羊」としてはじき出され、白かったり黒かったり、いろいろだった羊たちが一斉に「真っ白な羊のふり」をし始めた瞬間だ。
そして歌詞に即して考えるならば、このあとのシーンは「黒い羊」としてはじき出された平手が、自ら「黒い羊」であることを引き受け、覚悟するようになる過程になる。
もう一つ。黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2から
しかし平手はここで一歩前に進む。
平手は自分が黒い羊として弾き出されることに抵抗し、同じ仲間じゃないかといってみたり、許しを希ったりしない。むしろ昂然と僕はここで悪目立ちしていよう、という。
黒い羊としての存在を引き受け、居直り。
こことはどこか?
白い羊たちの眼差しの中だ。
もう新しい黒い羊は出さない。
小池、石森、渡辺、小林、佐藤、君がたちが黒い羊にされることはないんだ、なぜならぼくがここで悪目立ちし続けるんだから。だから君たちがそこにいたいならそれでいいんだ。 石森、小池、佐藤たちへの強い愛情を平手は持ち続けている。
そんなメッセージが聴こえる。
だから平手はここから退かない。死ぬ道は選ばない。
平手が「ここ」を去るならば、次の「黒い羊」を社会は生み出す。
平手が石森、小池らに愛情を持ち続けていること、そして石森、小池らが平手への愛情を持ち続けていること。それがどこかでスパークするならこの構図は崩壊する。
白いふりをしている羊たちがほとんどすべてなのだ。それを自覚もしている。だからこそ「白いふり」を全力でやる。
羊たちをコントロールしている<力>=大人たちは力はあっても、実はごく少数なんだ。
だから小池が一歩前に、全体よりも、前に進み出たら、構造は崩れるかもしれない。
あの分割の前の抱擁は、その可能性を強く感じさせる。彼女たちは平手への強い愛情をもちながら白い方に走っただけなのだ。平手が悪目立ちし続け、彼女たちが一歩前に歩み出たとき、第3章が始まる。それは1章への回帰ではない。
スタジオなどでのパフォーマンスでは集団が立ち去り、「黒い羊」とされた<僕>と距離をおいたところから見つめる誰かが佇み、世界が閉じていく。
「ここで悪目立ちしていよう」と最後に<僕>が言う。
「ここ」とはどこだ? 「悪目立ち」し続けることはどういうことか?
MVはこの言葉にたいする応答をしているが、残念ながらスタジオ盤のパフォーマンスでは消されてしまった。
これが私には致命的な退歩に思える。
上記の「黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2から」「「黒い羊」MVの構造 全シーンの整理(未完成→加筆中)」として書いた文章には理論的な背景があった。実質的に同じような内容の繰り返しになるが、別の方向から再論する。
まず二つの文章を引用する。二つとも『暴力のオントロギー』(今村仁司)からのもの。
”第二の現象は、二項的相互性の維持のために、第三項が絶対的に排除される、という社会関係に根源的に内在する論理である。私はこの現象を「第三項」問題と名づけたい。第三項は、二項対立的関係(相互性)を維持したり、あるいは二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学を示唆する。第三項は、相互性の存立のために、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される。典型的なケースが、供犠であり、身替り犠牲であり、荒地への追放であり、異人化であり、その他、いろいろと人類学的観察事例は極めて多数ある。”
(今村仁司『暴力のオントロギー』p29)
次の文章は、『暴力のオントロギー』に引用されていたルネ・ジラール『世界の初めから隠されていること』の文章。
”各人の各人に対する対立につづいて、突如として万人のひとりに対する対立がつづく。個々の紛争のカオス的な多様性につづいて、一挙に唯ひとつの敵対関係の単純さが生まれるー一方には共同体の全体、他方にはひとりの犠牲者。犠牲的解決が奈辺にあるかは難なく了解できる。共同体は全員一致して、身を守ることができないだけでなく、復讐を企てることがまったくできない犠牲者を血祭りにあげる。犠牲者をやっつけても新しいトラブルは生じないし、危機を拡張させることもない。なぜなら犠牲者を殺すことは共同体のすべての犠牲者に対して結束させるからである。供犠とは、おまけの暴力、他の諸々の暴力に付け加わった一つの暴力でしかないが、それは最後の暴力であり、暴力の最後の言葉である。”
(同上 p236)
「各人の各人に対する対立につづいて、突如として万人のひとりに対する対立がつづく。個々の紛争のカオス的な多様性につづいて、一挙に唯ひとつの敵対関係の単純さが生まれるー一方には共同体の全体、他方にはひとりの犠牲者。」
まったくそのまま『黒い羊』のMVの構図だ。
そしてジラールはその暴力を「最後の暴力であり、暴力の最後の言葉である」と述べている。それはどういうことか。
今村はこう述べている。「二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学を示唆する。第三項は、相互性の存立のために、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される。典型的なケースが、供犠であり、身替り犠牲であり、荒地への追放であり、異人化で」ある。
社会は一対一の人間関係の集積でもあるけれども、その「二項関係が危機に陥って」、つまりは『黒い羊』の前半のシーンのように、すべての人々が対立し合うような状態のことだと言っていいだろうが、そうした危機に際してその危機からの回復のために第三項=「黒い羊」を暴力的に排除する。そしてそれを「社会関係に根源的に内在する論理」であり、「運命的」という。何のために?「社会関係のシステム(相互生)がシステムとして閉じて自立するため」(p38~39)だ。
つまり『黒い羊』が排除されることは、あの<僕>の背後で全員が相互の対立が中止され、混乱が終息させられ、その限りで秩序が回復されることだということになる。むしろ今村・ジラールをふまえるならば、『黒い羊』を生み出すことは、社会が「秩序と安定」を回復するためのことだとされている。ルネ・ジラールの言う「最後の暴力」とは社会の内部の相互の対立が終焉するということになる。
暴力を主語に言えば、世界のいたるところに存在していた暴力が<僕>一人に集中した、偏在していた暴力が一点に集中した。観点を変えれば、<僕>がすべての暴力を吸収し、吸い上げることで世界に蔓延していた暴力が消え去るわけだ。
今村やジラールの暴力と人間、暴力と社会の関係についての思想的格闘はこれ以降、永続的に続けられる。今村仁司の生涯を通してのテーマだったと言ってもいいが、いまここでそれに触れることはできない。
しかし今村・ジラールの述べていることの恐ろしさは、これが一過性のものではないことだ。「二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学」という以上、社会が混乱し、秩序を回復しようとするとき、必ずまた「黒い羊」を生み出すということだ。社会が「黒い羊」を生み出し続けるわけだ。
今村仁司、ルネ・ジラールの引用の前に提出した問いはこうだった。
「ここで悪目立ちしていよう」と最後に<僕>が言う。
「ここ」とはどこだ? 「悪目立ち」し続けることはどういうことか?
『黒い羊』MVの冒頭シーンは、おそらくは誰かの飛び降り自殺の痕跡からはじまる。そして<僕>はその死者に手向けるかのような赤い彼岸花を抱きしめている。
「ここ」とはどこか?
MVに即して言えば、あの「白い羊のふりをする者たち」の視線の中だ。
「悪目立ちし続ける」とはどういうことか?
「黒い羊」であり続けることだ。

そのことの意味は何か。
<僕>に先行して存在したかもしれない、したであろう「黒い羊」への想いを胸に抱きかかえ、これからまた生み出されるかもしれない、その運命に直面するかもしれない新しい「黒い羊」をその危機から救い出すことだ。つまり<僕>が「ここ」で「黒い羊」として「悪目立ちし続ける」限り、新しい「黒い羊」が生み出される運命が回避されることになるわけだ。
それはあの<僕>の壮絶な決意だったのだと思う。
だからあのラストシーンで「黒い羊」を生み出した社会=集団を立ち去らせてはいけない。その先にあるのは、<僕>のしらないところで次の「黒い羊」が生み出されるということだからだ。あの集団が立ち去り、小林由依が一人残ることで、あたかも<僕>の救済の道が示されたように思うのは、確かにそうだ。しかしそれは「中途半端な救済」でしかない。
けれども、MVの<僕>はそのような「個人的な救済」を遥かにこえてしまった地点を指し示していたのだと思う。いわばキリストが十字架で人間のすべての罪を背負って死を受け入れたのと同じ構造になっているのだと思う。スタジオ版の演出は、あのMVの<僕>のもっとも核心にあった覚悟と意志と意味を失わせてしまうものだったと私は思っている。
「黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2」の終わりにこのように書いた。
「だから小池が一歩前に、全体よりも、前に進み出たら、構造は崩れるかもしれない。
あの分割の前の抱擁は、その可能性を強く感じさせる。彼女たちは平手への強い愛情をもちながら白い方に走っただけなのだ。平手が悪目立ちし続け、彼女たちが一歩前に歩み出たとき、第3章が始まる。それは1章への回帰ではない。」
今村やルネ・ジラールは社会全体の論理を考えていたが、『黒い羊』のMVは、それ自体が大きな社会のメタファーとなっているが、同時に、きわめて生々しくそのプロセスを描き出した。
生々しく、ということには<僕>の痛切な痛みも含まれているが、それ以上に石森虹花、佐藤詩織、小池美波、小林由依、渡邉理佐などの「白い羊のふりをするもの」たちに具体的な顔と物語が与えられることによっている。つまり今村、ジラールの捉える理論的な世界には存在することがなかった具体的な存在がそこにいる。
「白い羊のふりをするもの」たちは、みな同じなのではない。<僕>と強く抱擁しあったものがいる。同時に、最後に「顔を隠した大人」=恐らくは存在を画した権力のメタファーが<僕>対して激しく暴力を振るうことを引き金にして一挙に世界が二分割される。その世界の分割の構造も克明に描き出された。
このことの意味はとても大きい。
一方では抱擁したものから拒否されるという<僕>の痛みがよりつよくなることではあるが、もう一方では、誰かが一歩踏み出すことであの冷たく秩序だった「社会」の堤防が崩れていってしまうかもしれない可能性を孕んでいるということでもある。それを可能にしたのは「一人ひとりの存在」がきちんと設定され、「一人ひとりの物語」があり、その一人ひとりと<僕>との関係性が描かれたことだ。この点、MVのははっきりと秋元康の歌詞の世界を超え出た。
けれども、スタジオ版の演出では、その「一人ひとり」が消えてしまい、さらに「白い羊のふりをするもの」を含んだ集団が立ち去ってしまう。ここですべての可能性は潰え去ってしまう。だから立ち去ってはいけないのだ。小林由依一人が残っても、世界は変わらないのだ。新しい[黒い羊」がどこかでまた生み出されるのだ。
その時、再び世界は混沌とし、新しい「黒い羊」を生み出すのかもしれない。
けれども、それが今度は、あの最後に平手を突き倒した者になるかもしれない。権力と権威の象徴だった存在が打ち倒されるかもしれない。
そうなったらいったいどうなるのだろうか?それが本来「革命」という名前で呼ばれるものだろうか?それは上記の引用文などが想定していなかった新しい世界なのかもしれない。
私にはあの『黒い羊』のMVのはこんな地点にまでたどり着いたように思える。『黒い羊』MVはこの世界を照らし出し、暴き出し、そこに裏返された希望を垣間見させた。しかしスタジオ版のパフォーマンスは、それを<僕>の個人の物語にしてしまった。
NGTの菅原りこさん、長谷川玲奈さん、山口真帆さんの「卒業」公演とその際に書き下ろされた秋元康作詞の「太陽は何度でも」。
きちんと考えるほどに深く怒りが湧いてくる。
「太陽は何度でも」…手垢がついた比喩表現だ。「日はまた昇る」はヘミングウェイの小説だし、「陽はまた昇る」という映画やドラマがあった。「何度でも太陽は昇る」という歌詞をもつ歌もある。まぁありそうなフレーズだ。
ありそうなフレーズだからだめということではないが、問題は、「自然現象」をふわりと比喩に使っていること。
太陽は確かにまた昇る。
しかし昇るのは、太陽が沈んだからだ。
では、太陽が沈んだのは「自然現象」だったのか?
違う。
その太陽は、沈められたんだ。
しかもそれは夕方の6時とかじゃない。たぶん、まだ太陽が最も高いところに昇るまえ、午前11時くらいの太陽が、登ろうとする太陽が、無理やり腕づくで地平線の下に沈められたんだ。
そして秋元康は、太陽を沈める側だったんじゃないか。あるいは、それを指を加えて傍観していたんじゃないか。
「AKSに対して組織的な権限がないから仕方ない」などとは言えない。
太陽を沈めるなと発言し、行動していた人たちのほとんどすべてが、AKSに対して責任もなく、権限をもたない。だから「総合プロデュサー・秋元康」が無言を通す道理があるはずがない。
しかも、組織的権限はないが、影響力がないわけがない。実際に松村匠取締役は彼から叱責されたといっている。明らかに小さくない影響力はある。しかしそれを彼は行使しなかった。
情報が入らなかったとも言えない。一般の私たちよりも情報をとろうと思えばとれるはずだ。知っているスタッフだっているだろうし、芸能記者だっているだろう。私たちよりも情報が入らなどということは絶対にない。
けれども普通の多くの人が発言し続けたし、し続けている。
そうしたことを、自然現象を使って、何事もなかったように様々なことを覆い隠して、ふわりとキレイなものにしてしまう。
言葉を使うものが一番やってはいけないことだ。
言葉をもつからこそ、人間はものを捉えることができるようにもなったし、見えるようにもなった。言葉を失うと、物事は輪郭を失う。そして逆に言葉をもつことで大切なものが見えなくさせられることにもなったし、ごまかし、嘘を付くようにもなった。
人間は嘘をつく。壮大な嘘をつける。そしてその嘘は言葉とともにある。だから言葉を使うことを生業とするものが、こういうごまかし方をすることは最悪なんだ。
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これは菅原さん、長谷川さん、山口さんたちがどう感じ、どう考えたのかとはまったく別の事柄だと思っています。
彼女たちが心から、あのタイトルに、あの楽曲に感謝をしていたとしても、一点の曇りもなく、そうだったとしても、あるいは、結果としてNGTを去ったことが良いことだったとしても、私自身はこの「太陽は何度でも」というフレーズを受け入れることができません。
「僕の周りの世界は絶望にあふれている」。
「黒い羊」のCMはこう語るところから始まる。
そうだろうか?
本当に「周りの世界」が、その住人たちが、「絶望にあふれている」のであれば、どうして自分こそが「白い羊」になろうともがき、誰かを「黒い羊」に蹴り落とすことになるだろう?
違う。
中途半端でしかないかもしれないが、そこに希望や願いがあるからこそ、誰かを蹴落とし、先を競うように走り出す。「希望」とは「希な望み」じゃないか。だから我先にそこにたどりつき、その「希な望み」を手にしようとするんだ。椅子は限られている。ならば誰かを蹴り落とすしかないではないか。
本当に絶望に溢れているのであれば、もう人は誰かを蹴り落とすこともしない。望みを絶たれた人は誰かを蹴り落とすこともしない。
「僕の周りは絶望に溢れている」。
安易なキャプションだ。
絶望にさらされているのはむしろ「僕」の方だ。簡単に「絶望」に落ち込んではいないけれども、必死に戦う僕の中に、忍び込みつつある絶望の姿が見え隠れしている。
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乃木坂46の”Sing Out !” のセンターは替えがきかない。乃木坂46では齋藤飛鳥以外では大きく意味が変わってしまう。
そしてもし他にあの曲の中心に立つものを想像するならば平手友梨奈しかいない気がする。逆に「黒い羊」にされてしまうものが齋藤飛鳥だったら…
まったく別の空気になるけれども、それは十分に成り立つ。
私には「黒い羊」のいる場所と「Sing Out !」のあの一番高いところの場所は、実はコインの裏表のように思えてならない。
それはもっとも傷つきやすく、傷つけられやすく、しかし自分以外ではいられないものがいる場所なのだ。