これまでこのブログでは作品や楽曲について述べてきた。それ以外のことで誰か個人について書いたことはなかった。小池美波についての文章は多いけれども、それも「黒い羊」についての彼女の思いの強さからだった。

 そういうスタンスで書き続けるつもりだったけど、今回は逸脱する。

 

*************************

 

 長濱ねるが「卒業」=欅坂46を脱退する。

 意外ではない。意外ではないけれども、前回のブログで書いたあの「滝行」(1月30日らしいけど)直後のこのタイミングに絶句する。

 

 多分、あの収録のとき、齋藤冬優花は知ってたんだね、きっと。

 

 誰が滝行に行くか、という話し合いの中で、齋藤冬優花が「このところをいろいろ振り返って、自分は全然、欅坂46に貢献してないなと思って」と涙を流した。そうだったのか、と泣きそうになる。

 

 いま齋藤冬優花のブログページを開いたままにしてこの文章を書いている。息を詰めてそのブログを見つめている。こんなに早く、自分が書いた文章通りになるとは思いもよらなかった。

 

 彼女はたぶん、長濱ねるの「卒業」=脱退にもっとも胸をえぐられる思いをしているのだと思う。

 

 自分を責めていないだろうか?自分の責任だと背負い込んでいないだろうか?私がもうちょっとこうしていたら、と思いつめていないだろうか?

 勝手に胸の中の何かが共振してしまう。自分を責めている姿がイメージとして浮かんでしまう。

 そんなこと、私のただの「妄想」かもしれない。そうであれば、本当にいいと思う。いいと思うけどさ…

 

 齋藤冬優花さん、ほとんど毎日、ブログを更新してきたんだよね。

 

 彼女は、今晩、ブログ更新できるんだろうか?長濱ねるのことに触れられるだろうか?触れるとして、どういう思いで言葉を綴るんだろうか?

 無理しなくていいんだよと伝えたい。えぐられた胸の傷が癒えることは簡単ではない気がする。だから無理しなくていい。あなたがブログで彼女の「卒業」について触れることができなかったとしても、あるいは、簡単にしか触れられなかったとしても、触れられなかったその空白に、簡単にしか述べられなかったその少ない言葉に、欅坂46のファンは言葉にできない万感の思いをきっと読み取る。だから無理しなくていいと、心から思う。言葉にできる時がやってきたら、その時でいい。語れるときが来なかったら、それでもいい。欅坂46のファンたちはたぶん、ちゃんと理解するから。いまはあなたが自分を大切にしてほしいと思う。癒やす時間をゆっくりとってくれたら、と思う。

 

 齋藤冬優花さん、あなたは欅坂46にとって、とてもとても大切な人です。かけがえのない人だと思っています。

 

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 最初は長濱ねるについて書こうと思っていた。実は出身地が近いこともあったし、気になっていた。齋藤冬優花といった長崎ロケ、タガメを飲み込んだ衝撃、サイレントマジョリティーを舞台袖で一人で踊っている姿、それに感動したスタッフが一緒に踊っている光景、21人になったときの選抜発表…いろいろあった。

 

 でもそれはまた、いつか。書く機会があれば。

 

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 いろいろ思うことはあったけど、長文を一旦書きかけたけど、消した。

 とにかく一言。

 よくがんばったと思う。

 えらいと思う。

 2019/03/11加筆

 「欅って書けない」で放送された、「黒い羊」のヒット祈願の滝行。

 ネット上でも驚きや感動が湧き出しているけれども、本当にそうだと思う。

 

 「黒い羊」という楽曲、そのMVを得て、欅坂46のメンバーたちは、大人たちの様々な思惑を超える地点に立ちつつあるのかもしれない。

 あの回の「欅って書けない」はバラエティの範疇に入らない。笑いなど起こらないし、見ている側にもほとんど笑いなどおこっていないだろう。全身に力をこめて、息を詰めて画面を見つめていたに違いないと思う。TVの制作スタッフ、欅坂の運営スタッフ、MCの土田さん、澤部さん、さらには視聴者の私達のすべての想定をこえた展開になったと思う。もう「バラエティのお約束」などどこにもなく、ほとんど「ドキュメンタリーか?」といいたくなるような放送回だった。

 

 番組で滝行の概要が説明されているところまではメンバーも「ウッソ~」といいながら「バラエティ番組」だったけれども、菅井、守屋、そして鈴本が決定的に変えてしまった。

 

 話し合いの場で菅井友香、守屋茜が手を上げたとき、スタッフから少し笑いが起こったけど、あれがあの番組の「バラエティ」としての終わりだった。そして鈴本美愉が手を上げ、その思いの丈を語ったとき、ちょっと震えが来た。齋藤冬優花のブログでは「スタッフさん方も、全員を連れて行ってあげたいと、会議までしてくださったのですが、メンバーの安全面を第一に考え、8人という人数になりました。」とも書かれていた。

 

 滝行のシーンについてはいろいろ語られているだろうから、いわない。

 

 ただ、その上で思ったこと。

 2018年は本当に欅坂46にとってのたうち回るような格闘の1年だったのだなと。いや、たぶん、それはいまも続いているんだろうな、と。その行く先は…どうなるのだろうか。

 

 滝行にいったメンバーたちは口々に「欅坂を守れる人になりたい」「支えられる強い人になりたい」、そんなことを口々に絶叫する。その叫びの深さを思う。

 

 3人のメンバーが欅坂46を去り、原田葵が休みにはいる。そして平手友梨奈が一時的に戦線離脱。そしてその期間、平手は映画『響-HIBIKI』を主演し、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞する。そしてSEKAINOOWARI『スターゲイザー』に出演し、自分で振り付けもしている。その先には一人の表現者としての平手友梨奈の道筋が明らかに見えてきている。平手自身も「だから私はもう1回欅坂に戻りました。戻らなきゃいけないっていう気持ちもあったし、でも……っていう気持ちもあったけど」と語っている。ということは、明らかに「グループに戻らない」という選択肢もあったということだし、それは全メンバーもわかっていたのだと思う。

 だから彼女たちは、文字通りの意味で必死に「欅坂46を守ろう」とたたかっているのだと思う。その力が「黒い羊」でもあったし、「黒い羊」で復帰してきた平手への思いでもあったんだろうな、と思う。

 

 最初に「黒い羊」の音源を聴いたときの衝撃は凄まじかった。「社会現象になるような楽曲かもしれない」とも書いた。CDの売上とかなんかではとてもはかることができないような、欅坂46のたどり着いた地点を示す作品だと思う。メンバーが「考え方が変わった、生き方がかわった」と口々に語る、そんな楽曲などめったにあるものではない。

 

 けれども物事は、それが頂点に到達したところから崩れ始めることがある。それが次のステージへの跳躍点になることもあれば、「終わりの始まり」になることもある。強い光は濃い陰をも生み出す。「白い羊のふりをする者たち」が「黒い羊」を生み出すのと同じことだと思う。

 私は平手友梨奈を欅坂46に縛りつけたいとは思わない。欅坂46をみるようになったのは確かに平手友梨奈のパフォーマンスだった。けれども私自身は、「黒い羊」という欅坂46のたどり着いたとてつもない高みで「欅坂46を支えたい、守りたい」と叫ぶメンバーたちのこれからを息を詰めて見つめていようと思う。

 できれば平手友梨奈もそう思っていてくれたらいいと思うのだけれど。けれども、平手友梨奈には欅坂46のなかでセンター以外の居場所がない気がする。運営がそうさせてしまった。

 

 

 「黒い羊」で生き方がかわったといい続けてきた小池美波、フォーメーション上は3列目の両サイドに位置づけられている鈴本と齋藤。普段は激しさとは縁遠く見える小林。あの回をみていると鈴本、齋藤、小池、小林に惚れ込んでしまう。土生のあんな姿もみたことがない。そして菅井、守屋のキャプテン、副キャプテンのグループへの愛情と献身。それを見て泣いている2期生。

 あの叫びの先に新たなステージが開けるならば、欅坂46はたぶん、「アイドルグループ」が、今後もう二度とたどり着けないようなそんな存在になる。逆にそうなる以外に、欅坂46の未来はない、そんなかつてない、驚くべき地点にたどり着いてしまった気がする。

 

 本当は私は欅坂46の温かな未来があれば、と願っている。だから、この文章が的外れで、妄想的であれば、と思う。

 


 あの赤い花は、平手のいわば魂なのだと思っている。
 
 最初の死の現場から平手は赤い花を胸に懐き続けている。

 けれども、最初の回廊で大人たちに指弾され、罵られたあと、「ぜんぶ・ぼくの・せいだ」と言ったあと、赤い花を手放す。
 そして入っていった部屋では、抱擁しようとしても、すべて突き放され、そして一人取り残され、すべての羊たちが「白い羊の世界」をめざして全力で走り去ってしまう。
 残された平手はよろめきながら階段を登り、浄化されたような空間で子どもから差し出された花を受け取り、屋上にあがっていく。

 あの大人たちに罵られたとき、いったん、平手の心は折れたのかもしれない。あるいは平手もまたあのとき、「白い羊のふり」をしようとしたのかもしれない。
 平手は、首尾一貫して「黒い羊」であるわけではない。最初から強く、覚悟を固め、「黒い羊」を全うしようとなどはしていない。抱擁をもとめ、拒絶され、拒絶されても抱擁を求める。その深く激しい愛情が平手を引き裂き、切り刻んでいく。思い悩み、もがき苦しむ。
 そんな平手が、一度は自分も「白い羊のふりをする・ふりをしようとしているみんなと同じになろう」、そう思っても不思議ではない。むしろそのことすら拒絶されるところに、絶望の深さ、拒絶の激しさを見るお思いがする。

 だから「赤い花」を手放すことは自分自身を、その魂を手放すことだった。

 そして、その「自分の赤い花」をもう一度、受け取る。それは確かに再生だったかもしれない。平手としての、「赤い花をもつ平手友梨奈として」の、再生だっと言えるかもしれない。


 そのとき、私には「彼岸花の花言葉」よりも何よりも平手のもがき、苦しみ、狂おしいほどの愛情とその拒絶の痛みのほうが切実だ。はるかに強い訴求力をもっている。制作者の意図はあったのかもしれないし、あったのだろうが、その花言葉など消し飛んでしまった。平手から発せられるものは花言葉よりもはるかに強い。


 あれは彼岸花なのではなく、「平手友梨奈の赤い花」なのだ。


 けれどもあの最後のシーン。
 あのシーンをみているとふと、赤い花が平手の胸からほとばしり出る血のように見えてきた。そのとき、どこかで何かのコツンとした感触があり、以前に(ずいぶんと「以前」だけど)読んだ本の描写を思い出した。
 鮮やかな視覚的イメージをうけ、記憶に残っていた。こんな一節だ。


「春の聖週間にキリストの生涯を描く偶像の行列が街をねり歩くというようなことは、とりわけラテン・アメリカのカトリック諸国においてはめずらしくないことだろう。ただグァテマラやメキシコ南部でわれわれの目を奪うのは、キリスト処刑後の『痛みのマリア』の心臓に剣が刺されて、その傷口からいっぱいに花が咲きこぼれていることだ。これは明らかにいけにえの血潮が花となって蘇生するというマヤの信仰だ。聖者や使徒たちの偶像と十字架のもとに、かつてアステカやマヤの神殿をくゆらせたコパル(樹脂の香)をたきしめ、花をしきつめて今なお呪術や占いの行われている村々のほこらとともに、それは強いられたキリスト教の外皮の下で、インディオがその信仰の内実を生きつづけていることを示す。」(「骨とまぼろし(メキシコ)」 真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫所収 強調は引用者)

 ひょっとするとこの一文が私の記憶の奥底に眠っていて、それが平手の赤い花を血潮に見えさせたのかもしれない。人間のものの見え方がどれほど不自由なことか、ことあるごとに思い知ってきたから。あり得ることだと思う。

 でもあの「平手友梨奈の赤い花」が魂であり、痛みの傷口から魂が尽きることのない血潮となって吹き出している。
 ありえないことでもない気がしてくる。そしてその血潮は、いまも吹き出し続けているし、それは「黒い羊」のMVの中だけではない。この世界のあちらこちらで、日本でも、昨日も、今日も、たぶん、明日も、どこかの誰かがそんな血潮を吹き出し続けている気がする。ただ、それはMVが可視化してくれたようには、私の目に見えていないだけだ。

2019/02/12起稿

詳細の整理は前項で。


ここでは大づかみに。構造的に。
 

■外部
 死。
 黒い羊の自死か?平手はそれをみている。

■第1の部屋
 具体的な世界。一人ひとりの社会的状況がはっきりしてる。その場における強い攻撃性。その攻撃されているのはほぼ全部のメンバーじゃないか。
 この排撃され、攻撃されている各メンバーは潜在的な「黒い羊』だと言っていい。

 社会に蔓延する対立と攻撃と暴力。

■回廊1
 第1の部屋の延長にあるが、ここで大人たちの平手への攻撃が始まる

→「ぜんぶぼくのせいだ」

 平手が、平手一人だけが「黒い羊」として弾き出される位置に、ここで立ち始めるということだろう。→第2の部屋。


 同時に失われた世界が垣間見える。
 ここで花を失う。

■第2の部屋
 花を持たずに入るが、一人平手がすべての拒否を受ける。(回廊での大人たちからの平手への攻撃との関連はわからないが、大人の攻撃が先行していることは事実としてある)


 みんなの社会的役割が消えている。具体的な状況がきえ、同時に、第1の部屋で攻撃されていたメンバーはいま攻撃されていない。
 世界の蔓延していた暴力は大幅に減っている。

 この段階で、白い羊のふりをするものたちと平手との2項対立の構図ははっきりと生まれている。

 平手が取り残される。
 小池らが引き止めた意味は何か?→屋上では抱きしめるんだ。

■階段
 失意の平手。
 花を受け取る。
 聖なる空間にみえる。この花は平手の魂のようなものか。

 ※cf 真木悠介の旅のノート。聖母マリアの血潮に花が咲く。→次項

■屋上
 シーンは4つくらいに分け得たほうがいいか。
1.全員、平手の方を向いている。基本的にそれは白い羊の世界だ。あの駆け出した延長線上の姿。いったんは完成した二分割。

2.しかし平手は小林由依の前に立つ。動き出す。平手が集団の前に、小林の前に立つことを引き金に音楽が始まる。世界が動き出す。

3.強い抱擁の連続。
 しかしそのあと、この抱擁した人々は白いひつの側に走り去っていく。それは確定はされていないが、予感はされている。いやほぼ確定しているが、最終的に決定していないという段階か。(最後は平手への公然たる暴力が引き金を引く)

 あのとき、万感を込めて平手を抱きしめていたんじゃないか。ゴメンね、さよなら、私はあなたの側にはいられないの、本当にごめんなさい…そんなことが入り組んだ感情。

4。平手への暴力。大人の、力あるもの。
 そして全員が白い羊化。このとき多くのメンバーが誰かと手に手を取って走っている。平手への対応と対比すると強い疎外感がある。
 平手は弾き出される。いや、平手自身が反対側に走り出す。偶然ではない。

5.黒い羊として弾き出された平手。この時点ではあの墜死した黒い羊(仮設)と同じ立場かもしれない。
 しかし平手はここで一歩前に進む。
 平手は自分が黒い羊として弾き出されることに抵抗し、同じ仲間じゃないかといってみたり、許しを希ったりしない。むしろ昂然と僕はここで悪目立ちしていよう、という。
 黒い羊としての存在を引き受け、居直り。
 こことはどこか?
 白い羊たちの眼差しの中だ。

 もう新しい黒い羊は出さない。
 小池、石森、渡辺、小林、佐藤、君がたちが黒い羊にされることはないんだ、なぜならぼくがここで悪目立ちし続けるんだから。だから君たちがそこにいたいならそれでいいんだ。 石森、小池、佐藤たちへの強い愛情を平手は持ち続けている。
 そんなメッセージが聴こえる。
 だから平手はここから退かない。死ぬ道は選ばない。




■大構造
 分散する暴力。不安定な関係。混沌、無秩序。
 暴力の平手への集中。同時に社会が析出してくる。
 第3項排除の構造的暴力が働いている。社会が黒い羊を必要とする。社会生成の根源的な暴力。社会存在論的暴力だ。
 であれば、平手が「ここ」を去るならば、次の「黒い羊」を社会は生み出す


■第3章へ
 1章、死んだ黒い羊。(冒頭部分)
 2章、平手が黒い羊にされる。(MVの全体)
 3章、黒い羊を生み出したの構造の変更。(MVが予示する世界)

 平手が石森、小池らに愛情を持ち続けていること、そして石森、小池らが平手への愛情を持ち続けていること。それがどこかでスパークするならこの構図は崩壊する。
 白いふりをしている羊たちがほとんどすべてなのだ。それを自覚もしている。だからこそ「白いふり」を全力でやる。
 羊たちをコントロールしている<力>=大人たちは力はあっても、実はごく少数なんだ。

 だから小池が一歩前に、全体よりも、前に進み出たら、構造は崩れるかもしれない。
 あの分割の前の抱擁は、その可能性を強く感じさせる。彼女たちは平手への強い愛情をもちながら白い方に走っただけなのだ。平手が悪目立ちし続け、彼女たちが一歩前に歩み出たとき、第3章が始まる。それは1章への回帰ではない。




 

■注記 ちょこちょこと加筆していますが、加筆の履歴は最高部の******外に記載。

 

シーンの確認

(0)外部
冒頭
飛び降り死体の痕跡と思われる人型。
人々が集まってくる。

平手は物陰からそれを見つめているが、背を向けて立ち去る。その時平手は赤い彼岸花をかかえている。

(1)内部-1
0:21
その飛び降りたと思われる建物の内部に平手入っていく。
赤い彼岸花を胸に抱えている。

そこは外部と異なった異空間。
お互いにいがみ合い、対立し、人間をすりつぶすような光景が続く。平手は、赤い花を抱えながら、その光景を見つめ、通り過ぎていく。
ここでは誰かと誰かが抱擁するシーンはみられない。

0:38
佐藤詩織、警察に捕まっている。佐藤は激しい感情を顕にしている。左側にはそれを見ながらヒソヒソ話をするような人たちの姿がみえる。

1:02
小池がスマホを見て薄く笑う。この段階で佐藤詩織、石森虹花、小林由依はすでに現れている。

1:08
平手が最初に足を止めるのは老人の死とその家族。
その老人をなくした女性(菅井友香)にゆっくり近づくが、押し戻される。強い拒絶。

★(このシーン以降、この世界の中に蔓延していた激しい対立やいがみ合いは、ずいぶんと少なくなっている。ほとんどない。平手が人々に向かって動き始めたとき、世界は少し変化したとも思える)

1:14
拒絶された先で警察に捕らえられていた女性がいる。
平井が菅井に突き飛ばされた先に佐藤がいる。いったん佐藤に抱きとめられる。しかしそのまま突き放される。このとき平手は佐藤の方を見ながらゆっくり離れていく。右腕が佐藤の方に力なく差し出されている。

1:18
ゆっくり佐藤から話されていった平手は、小林に駆け寄る。

いじめられている高校生(小林由依)。そのいじめられ、肩をがっくり落としているところに走りよる。
(菅井に手を差し伸べた時は、まだおずおずした感じだったが、この時は強い意志持って平井は助けに入る)
うなだれる小林を抱きかかえ立たせるが、小林はそれを受け入れず、花を取り上げる。

(このとき、背後を白い旗をはためかせた集団が駆け去っていく。)

しかし、平井はその小林を抱きしめる。
小林はそっと平手の背後に手を回す。そして小林から再び花を受け取り、平井は水商売の女性のもとにかけよる。(渡邉理佐)

1:30
水商売風のいでたちの渡邉理佐に絡んでいた2人の男性を平手がはねのける。
そして渡邉理佐を抱きしめようとするが、抱きしめる前に押し返され、拒絶される。

(追記・加筆 2019/02/11 もう一度よく見てみたが、理佐は単純に拒絶したのではなく、力いっぱい男たちを押しのけた平手に少し怯えているようにも見える。そうなのかもしれない。ありえることだ。)

1:36
そして石森虹花と出会い、抱き合う。
石森は、唯一、強く平手を抱きしめる。背中に回した右手が平手の上着を力を込めて掴む。強い感情。
この離れ際、平手は石森を見ている。石森は腕を解くが、解けた腕は平手を求めているように見える。

1:42
そしてバスでリストカットをしている小池美波のところに現れる。小池は自分の手首を見つめ、バスタブに身を沈めている。
その小池を平手が抱きしめる。
小池は平手の方を見ることはないが、抱きしめたその腕を取り、それにしがみつく。

1:46
土生、隣は誰?
石森、守谷、渡邉理佐。無表情、いや暗い表情で生気なく、固まって歩いていく。

1:54
階段。
長濱ねるが何かの紙を見ながら力なく階段を降りてくる。
左側には一列並んで階段の上に向かって人々がたっている。動きはない。
落ち葉が舞う。男性が転がり落ちてくる。

2:00
階段踊り場の手前に鈴本美愉。どこを見ているのだろう?顔は光の方に向いているが、角度としては窓に向けられているわけでもない。鈴本の左の肩越しに、赤ちゃんの人形が2体。階段の手すりの隙間から顔を出している。
その2段くらい上に長沢菜々香が宙を見るような目をして佇んでいる。

2:05
平手が踊り場にやってくる。
踊り場には人形の赤ちゃんを抱いた女性がいる。顔は赤ちゃんの方に向けられている。

2:08
階段の途中にいる女性(腕組みをしている。少しやさぐれた感じ)に嘲笑気味に声をかけられる。罵られているかもしれない。
しかし平手は誰にも対応せず、何も見ていないかのように淡々と階段を上がっていく。

そして最初の回廊に進んでいく。

(2)回廊-1

この階段を上がりきったところに渡辺梨加が、どうやら死んでしまったペット(?)の鳥を掌に載せて、それを見つめている。

2:16
中華料理屋の前で大人たちが言い争いをしている。(実はこの中華料理屋さん、実在するらしい!びっくり)
ここに尾関梨香と織田奈那がいる。
織田奈那は目を伏せ、顔を背けている。
尾関は、こちらを見ているようにみえる。よく見るとその視線はこちらに向けられているのでもないのだが、一瞬そう見える。

2:21
左手に上村莉菜がぬいぐるみを抱いて立っている。上村も一瞬、こちらを見ている?と思ってしまう。(よく見るとそうでもない)
顔が少し汚れている。大きな黒いコートのようなものにすっぽり覆われている。私には強い怯えを感じさせる。

2:23
誕生日を祝う家族。父、母、そして息子。
この女性が屋上で登場する?ただし服が違う。

この男の子(と思うが)が、祭壇があるような階段で平手に花を手渡す。あの男の子だと思う。

2:25
 家族の後ろにうつむいて立っていた緑色のワンピースの女性が何か思いつめたような雰囲気を漂わせながらあるきだす。
その女性の前には子供の写真が写真立てに入れられて並べられている。5枚。
 後ろに男性と女性がたっているが、写真の子どもの親と言うには若すぎる。また写真も少し古びて見える。むしろ写真に写っている子どもが青年になった姿があの二人なのだろうか?

★このシーンでは他と照明の色がことなる。特に家族のシーンはとてもあたたかな光に溢れているが、そのことが、その前後の文脈との激しいコントラストを生み出している。その前後のシーンにリアリティを感じるのなら、この家族のシーンはリアリティのない、「この世ならぬもの」のようにも思える。私にはそう見ていて、強い喪失感じを感じる。それは失われてしまった世界、あるいはたどり着くことのできない世界。

 あるいはまた、2つの世界が空間的に併存することは、この世界が、バラバラの、相互に関連することのできないいくつもの破片に砕け散っていることも突き出してくる。

 この家族のシーンがなければ、あるいは「この世界」でも我慢できたのかもしれない。しかしあの家族場面を見てしまうと、あるいは思い出してしまうと、いま存在している世界がより深く、強く絶望的に見えてしまう。


 私は、あの家族に感じる強い喪失感に、どうしても死の匂いを感じてしまう。


2:30平手が写真に目をやりながらその前を通る。

2:34
平手が4人の大人たちに罵られる。最後に顔が見えるスーツにネクタイの男性は、屋上で平手を突き飛ばした男性かもしれない。

2:37
その罵りをくぐり抜けたところ平手は頭を抱え、小刻みに体をゆすり、「ぜんぶぼくのせいだ」という。

ここで照明が落とされ、回廊が見えなくなる。場面が変わる。

(3)内部-2 別の

2:41
「ぜんぶぼくのせいだ」と言った平手は、ずっと抱えていた赤い花を放り出し、次の部屋の中に駆け込んでいく。

この部屋の中では、前の部屋のように具体的な人間のいがみ合いや抱擁はほとんどみられない。
踊って入るが、抱擁にはならない。

2:43 入ってすぐに渡邉理佐に突き放される。


その背後にいるのは尾関と上村か。

2:46 佐藤に向かっていくが、押し出されるように、突き出されるように遠ざけられる。
向こう側を織田奈那が走っていく。手前に鈴本。

2:49 小林由依の腕を取り、抱擁するが強く突き放される。手前で齋藤冬優花。バンとのけぞったとき、髪がバッと巻き上げられるが、その瞬間が結構美しい。

2:52
小林に突き放されたところに小池がいる。
このとき、どうも小池から一瞬、平手の腕をとっているのだが、それを平手が振り払っているように見える。

2:53
小池を振り払った平手が石森の前を駆け抜けようとしたとき、石森が平手の腕を掴み、引き戻す。そして強く押し戻すように胸のあたりを押す。
そこに小池が駆け寄る。
小池は平手を地面に押したおす。それほどの力の入れ方ではなさそうだけど。

2:57
それをみて石森が、もともと平手が走っていこうとしていた方向に走り去っていく。
平手は右手を前に突き出し、何かを求めるように、同じ方向に走り出す。平手の右手が求めているものは、みんなが進んでいこうとする世界なのか、あるいは走り去る石森なのか。

2:58
その平手に後ろから小池と渡邉理佐がしがみつき、止める。
さらにそこに佐藤も加わり、平手を引き戻す。そこに小林由依も加わっているように見えるがはっきりしない。

しかしこのシーンは、平手への敵意、悪感情は感じさせない。

3:03
みんな平手をそこに置き去りにして、同じ方向に全員が走り去っていく。

3:06
小林由依が転倒。

3:08
平手が追いつき、助け起こすのだが、小林はめもくれず、なんの反応も示さず、そのまま走り去ってしまう。

3:16
平手もみんなの後を追うのだが、このとき、呆然とした様子から、天を仰ぎ、両腕を抱え込み、苦痛にふらついている感じだ。

★この世界で、赤い花をもたない平手は一度も誰とも抱擁できない。つねに突き放される存在としてある。

 特徴的なこと。

 平手が花を持っていない。

 平手だけが突き放される存在とされている。

 個々の人々が、以前のシーンにあったような具体的な状況に置かれていない。

 具体的な状況において存在した攻撃性はなくなっている。

 

 平手がいるあいだ、この世界の人々は、すべてではないが、ほとんどが一人で踊っている。孤独な平穏などではない。のたうち回るような踊りだ。しかし具体的な人間同士のいがみ合い、憎しみ合い、誰かを激しく攻撃することもない。

 けれども同時に、誰かと誰かが抱擁することもない。この世界で、ただ平手だけがはっきりと突き放され続ける。

 

 そして人々は一斉にある方向に走り出す。平手も同じ方向に走り出そうとするが、石森が、小池が、佐藤が、渡辺がそれを強く、半ば暴力的に引き止め、押し止める。そして平手が一人、はじき出され、取り残される。

 ここで「白い羊のふりをする者」と「黒い羊」との二分割が始まっているというべきかもしれない。みんなが「白い羊」めざして一斉に走り出した。そういうことだろうか。

 では石森、小池、佐藤、渡辺、小林(?)は、なぜ平手を止めたのか?とどまらせたのか?

 彼女たち自身が、平手を拒絶したのだろうか? そうなのだろうか?

 あるいは、彼女らには、「白い羊のふりをする者たち」の世界で平手が、ただ一人弾き出され、集団から排除される光景が見えていたのだろうか?

→最終シーンへ。


(4)回廊-2 階段 祭壇、ロウソク 空間の空気が転換する

そして、
3:20 間奏部分の教会風の音楽がなりはじめ、両側にロウソクが立ち並ぶ階段が現れる。向こう側からは光が再込んでいる。それはこの薄暗かった内部の世界から外部の世界につながる階段なのだろうか。
しかしこのロウソクは?
踊り場に祭壇のようなものもみえる。手すりなどに掛けられている布は白。

3:28
赤い花をもって子どもが立っている。それを平手に手渡す。
あの誕生日を祝われていた子どもだと思う。壁際にはロウソクがたちならぶ。小さいテーブルの上にも。
子どもは光の中に立っている。最初、その顔が光の中ににじみ、見えない。
平手が着ているのとほぼ同じ服を着ている。
平手はその子供の前にひざまずき、差し出された花を受け取り、胸にしっかりと抱きかかえる。

踊り場の先の階段が背景に見えているが、ロウソクは途中までしかないようだ。

(5)祭壇のあるような空間から屋上の世界へ

3:40
ここで音楽がとまる。
平手の足音と息遣いだけが聴こえる。
最初、少しよろけるような感じで立ち上がったが、その足取りは徐々に確かになり、階段の最後の数段は駆け上がっていく。

3:52
そして屋上に出る最後のところで、すべての音が消える。そのなかで平手が強い感情を込めながら何事かをいっている。音声はない。
いや、声にならない声というものもこの世の中にはある。だからそれは聞こえてこないことに意味があるかもしれないんだ。

そして屋上。
空は暗く、いたるところにロウソクが灯されている。建物の中にいたすべての人々がここにいるのだろうか。

3:55
左手に赤い花の花束を持ち、平手は小林由依の前に立つ。
音楽が始まり、平手が両手を広げ踊り始める。いったん突き放すような動きから、二人は1回展し、小林が平手の左手を取り、平手を回転させる。そして小林が左腕を平手の背後に回し、抱擁。小林がはじめて平手を抱きしめる。(image 400小林-平手01)

★ここから強い抱擁のシーンが連続する。

4:01
小林との抱擁が解け、(ここでは突き放してはいない)回転する平手を、後ろから渡邉理佐が抱きとめる。(image 401理佐-平手01)
回転しながら理佐は平手を抱えあげるように抱きしめている。その腕には力強さを感じる。平手も理佐を抱きしめる。(image 401理佐-平手02)

 

(追記・加筆 2019/02/11 このシーン。1:30、2:43で平手を突き放した渡邉理佐が、ここでは平手の後ろから、つまりは渡邉理佐から平手を抱きとめ、強く抱きしめる。

 一連の流れを考えると、私にとって、とても力強い、訴求力の強いシーンだ。

 正直に言って、この流れをたどったとき、熱いものが込み上げる物があった。そうだったんだ、と。見えてなかったな、と。見えないところに、様々な物語が、溢れるような願いやいろんなものが詰め込まれているんだなと。)

4:04
 抱きかかえられた平手が回転しながら着地すると目の前に石森虹花がいる。石森の表情は悲しげに見える。(image 404石森-平手01)
このとき、左後方に佐藤と小池、右後方に、たぶん、齋藤冬優花。そして二人越しのグリーンのワンピースの女性が、あの子どもたちの写真立てのところにいた女性だろう。
 その時の平手の表情もまた悲しげだ。(image 404石森ー平手02)
 ここでは平手が石森を回転させ、二人は正面から強く抱きしめ合う。(image 404石森ー平手03)

4:11
 そして佐藤詩織。(image 411佐藤ー平手01)
 佐藤も平手もお互いに両腕を大きく広げ、強く抱きあう。佐藤は泣きそうな顔をしている。私には喜びより、そこに深い悲しみが現れているようにみえる。(image 411佐藤-平手02、03)
 後ろで齋藤冬優花がおどる。

4:13
 小池美波。
 ここは抱き合わないが、二人は手をとりあって踊る。途中で一瞬見える小池の表情は、少し寂しげだが同時に穏やかに微笑んでいるように見える。(413小池-平手01)

 この佐藤と小池の表情は、このMVののなかでもっとも印象的なものだと思う。

4:18
 小池から離れ、平手は一瞬、男性に少しリフトされたあと、女性の前に。この女性に対して、平手は、その手をいったんははっきりと振り払うが、抱擁する。
 この女性は誰なんだろう?よくわからない。

★大人たちの暴力の発動 世界の変貌→「白い羊のふりをする者たち」と「黒い羊」との世界の二分割の完成へ

 このあと、重要なシーンが出てくる。

4:21
 ここから男性2人、女性1人の「大人たち」が現れる。
 最初に二人の男性。
 始め、この二人の男性が喧嘩していたのかと思ったけど、よくみるとそうではないらしい。右側の男性は、平手が赤い花をいったん手放す前に、罵声を浴びせていた男性(その時はメガネをかけていた)のようにも見える。どうなんだろうか。

 この二人の男性はふたりとも顔を、目を隠している。「顔を持たない大人」として現れる。
 平手はその二人の間を突破する。(421大人-平手01、02)
 そのようすを少し離れたところの女性がみている。

 そして平手は叫びながら、男性の一人に花束を突き出している。
 このときの歌詞は「髪の毛を染めろという大人は、何が気に入らない? 反逆の象徴になるとでも思っているのか?」というもの。
 その表情は悲しみや怒りよりも「訴え」なのかもしれない。


4:24
 しかし大人たちは平手をコンクリートの床に突き倒す。
 このとき、平手は赤い花を手放してしまう。
 その平手を大人の一人が引きずるように立たせ、突き飛ばす。強く暴力的だ。
 顔は怒りで紅潮しているようにすら見える。
 背後では人々が抱き合っている。


 平手が大人たちに突き飛ばされたその時からみんなが抱き合うようになるわけだ。

この男性たちは、歌詞との連動を考えれば、ある種の<力>なのだろう。権威や権力といってもいい。顔を見せない、匿名の、あるいは象徴的な、だ。その<力>が平手を打ち付ける瞬間から世界が変貌し始めている。このMVのなかでももっとも暴力的なシーンだ。その力のあるものによる平手への暴力が羊たちの世界を2分割の引き金になっている。

4:26
 平手が落とした赤い花を女性が拾い上げ、そして突き飛ばされた平手を受け止める。
 このとき、後ろでは人々が抱擁しあっている。
 女性は心配そうに平手の方に手をかける。平手はそれに応えて抱きしめる(ここは平手から抱きしめている)。しかし女性の方がその平手を突き放す。(426女性-平手01 02,03,04)



4:30
 女性に突き放されたあと、平手は男性のもとに向かう。少し年上のように見える。スーツ姿の大人たちよりは若いが。
 平手から両手を広げて抱擁しようとするが、男性は平手を最初から突き放す。(430男性-平手01、02)
 そして男性が平手を突き放したことをきっかけ(最後の引き金になる)に、全体が左側に一挙に走り始める。それは誰かと手を取り合いながら。(431世界-平手01)

 


世界の決定的な変貌が完了した瞬間だ。
★この後ろの人々はあちらこちらで手を取り合っている。許しと和解の世界が繰り広げられている。少なくともいったんはそう見える。(けれども本当は多分、そうではない。→中間総括)
 そしてその世界は一方方向に走り去り、平手が一人反対側に走り去る。この瞬間に世界は二分割される。
 平手が「黒い羊」としてはじき出され、白かったり黒かったり、いろいろだった羊たちが一斉に「真っ白な羊のふり」をし始めた瞬間だ。

 そして歌詞に即して考えるならば、このあとのシーンは「黒い羊」としてはじき出された平手が、自ら「黒い羊」であることを引き受け、覚悟するようになる過程になる。

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 中間総括

 まだ細部について書き込むことになるし、とりあえずのラフスケッチというところだ。
 また必要な画像を添付することになると思うが、ここまででも相当の長文になっている。どうしようか?
 でもとりあえず、私自身はこの作業で「黒い羊」MVの見え方がかなりかわってきた。
 石森虹花、小池美波、小林由依、佐藤詩織、渡邉理佐にはそれぞれの物語がある。MVの中ではっきりした変化がある。さらに、彼女たちと、平手との関係、距離感もかわっていく。
 その各々の物語からこのMVを見ることもできる。

 私はずっと小池美波の視点から見ていたかもしれない。そこからは、はじき出された平手を見つめながら、その胸の中には渦巻く感情があるように思う。小池はいったんは「真っ白な羊」であることを選んだ。彼女にはそれ以外に生きていく道がなかったかもしれない。しかし…
 眼の前で平手が打ちのめされ、苦痛に転げ回り、ただ一人、社会からはじき出され、のたうち回る。そのことがわからないはずがない。その平手の苦痛、呻き、世界からはじき出されることの痛みは小池には強く共振するものであるはずだ。
 一体何を思う。あの最後のしーん、平手を見つめている側に立っているとき。左側に全員が走り去る時は一人ひとり誰かと手を取り合っていたけど、最後にはばらばらになっている。お互いに見つめ合っているものも、抱き合っているものもいない。ただ平手を見つめている。その共通性だけで「真っ白の羊たち」は一つの共通項をもっているに過ぎない。お互いに通い合うものはない。
 あのシーン、ふりをしているだけだと強く自覚している何人かの「真っ白な羊」がいる。その「羊たち」は、あの中で、見えない表情の下で涙を流しているのかもしれない。平手の姿に、自分の姿に。

 そんなことをリアリティをもって感じるくらいに、MVの小池はすごみがあった。

 今回の作業の中で一番ハッとしたのは渡邉理佐が屋上で、自分から平手を強く抱擁していることに気がついたこと、大人たちから平手が暴力を受け始めた瞬間に、世界全体が変貌し始めていること。(このあたりのことはtwitterに書いたものがあるけれども、もう少し整理してアップする、と思う)

 まぁとりあえず、中間総括ですかね。

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加筆履歴
■2019/02/11

 ・渡邉理佐に関連して 1:30、2:43、4:01のimage×9 と若干のコメント

 ・2:25 家族団らんのシーンへのコメント
■2019/02/12

 ・屋上での「3人の大人たち」によって暴力的に突き倒されるシーン、その後の女性の。image

 ・(3)内部-2 別の この項の最後の部分。

 率直に言って「黒い羊」のMVは秋元康の歌詞の内容を遥かにこえている。質的に異なる次元にたどり着いている。
 「黒い羊」の楽曲からあの振り付けと映像は直接には生まれでない。

 歌詞は学校を舞台に、個性を持たない(個別化されない)「白い羊」ないしはその予備軍(真っ白な羊のふりをする者たち)と「黒い羊」に二分割された世界像になっており、その世界を黒い羊の側からだけ描き出している。
 いわば「平手友梨奈を宛先にした」歌詞だと言っていい。

多層な空間構造(概括)

 MVは4つの空間と2つの回廊をもつ多層構造になっている。
 1つ目の空間は、建物の外部にある。「日常」と言ってもいいかもしれない。
 2つ目の空間は、最初に平手が入っていくところ。ここで平手はある変貌を遂げていく。
 そして1つ目の回廊。この意味は実は小さくない。
 とくに尾関梨香と上村莉菜の存在は実は小さくない。それまでいわば画面のこちら側で「観客」として見ていられたのだが、尾関と上村の視線はこちらに向けられている。その瞬間、私は「観客」ではなくなる。あの世界の一人の登場人物になってしまう。
 そしてこの回廊で平手は大人たちから罵られる。

 3つ目の空間。
 平手が花を持たずに入った空間。対立と抗争だけがある。

 2つ目の回廊。
 祭壇のようなものがあり、子どもから赤い花を受け取る。

 そして屋上。このあたりはまた書くことがあるだろうと思う。


 この多層構造は新宮良平監督のものだろうか。

 建物の内部と外部、さらに建物の内部の構造、最初の建物外部の空間以外、一つとして現実に実在するような空間ではなく、各々、きわめて象徴的な空間を作り上げている。またその各々の空間の内部は区切られていないが、いたるところに別々の物語があり、それらは相互の脈絡もなく、混沌とした状態で併存している。

 こうした空間の構造、配置は原曲の歌詞にはないものだ。

一つの物語から錯綜する物語たちのアンサンブルへ

 そして非常に重要なことは、「黒い羊」の世界が、一つの声、一つの物語から、錯綜する多様な声、いくつもの物語の世界へ押し広げられていることだろう。

 もともとの歌詞は、流動的ではあるが、基本的に白い羊-黒い羊の二項対立でしかなかった。もともと白い羊と黒い羊がいたわけではなく、白とも黒ともつかない羊がおり、それが「真っ白な羊のふりをする」わけだから、そこに一定の流動性、ダイナミズムがある。けれども基本的には<白-黒の世界>だ。
 そして、歌詞はその世界を黒い羊の側からだけ語っていく。つまりは「黒い羊」=平手のモノローグが歌詞となっている。(だから「平手への宛書」と言われることには理由がある)

 しかしMVは違う。
 小池美波、佐藤詩織、石森虹花、小林由依、そして渡邉理佐、菅井友香…の生きた人間がいる。しかも一人ひとりが強い存在感を示している。一人ひとりが独自の物語をもっていて、それがはっきりと表されている。つまりモノローグの世界でしかなかった「黒い羊」の原曲の世界を、MVは多数の生きた人間の苦しみや悲しみの織りなすアンサンブルに押し広げている。

 これはたぶん、コレオグラファーとしてのTAKAHIRO氏のイメージだろうと思う。
 別段根拠はないが、秋元康、新宮監督、TAKAHIROの3人のなかで、もっともメンバーに近いところにいるのが、TAKAHIRO氏だと思うし、彼はメンバーすべての個性を掴んでいると思う。たぶん、秋元康はそこまでしらない。
 あの人物の配置は個々のメンバーを熟知しているものしかたぶん、できない。

 MVは全体のストーリーの設定は新宮監督かもしれないが、それを生み出す原動力になったのは一人ひとりの人物像の彫琢で、それを行ったのがTAKAHIRO氏ではないかと思う。彼にしかできない気がする。
 さらに言えば、この点が重要だけど、そのTAKAHIRO氏の世界を引き出しのは欅坂46の各メンバーの力だと言っていい。一人ひとりが常に手を抜かず、自分自身を、ではなく、楽曲とその世界を現前させるために全力を尽くしてきたからこそ、TAKAHIRO氏は、すべてのメンバーに各々のストーリーを設定したのだろう。誰一人として軽々しく扱うことができなかったのだ。

 そういう一人ひとり、すべてにストーリーを与えることが、MVの世界を作り上げることにどれほど有効だったのかわからない。見ているものにはその奥行きの僅かな断片=数人分しかわからない。
 しかし、たとえば小池美波の生きている世界は、強烈な印象と起伏を持ってしっかり浮かび上がってくる。浮かび上がるという以上に、強い訴求力を持ち、胸に迫ってくる。あのほんの数秒で見ているものの胸を揺さぶるのは、率直に言ってすごいことだと思う。

 でも考えてみれば、そうしたことはこれまでもあった。思い出した。

 私には、道でふとすれ違っただけで、そのまま強い印象とともに私の中に刻み込まれ続けている人が何人かいる。別に何か特別なことをしていたわけではない。けれどもすれ違ったとき、何かが共振した。そんな感覚だった。もう二度と会うことはないまま、10年以上も色褪せず思い出される。たぶん、あのスマートフォンをみて表情がかわり、首ががくんと折れる瞬間を見ていたら、ずっと長く刻まれていただろう。そう思わせるものがある。

 そういうものが錯綜する世界で、見ているものは、独自に視点を設定することができるようになる。どの物語に軸をおいて映像を見るのかで見え方がかわってくる。


 しかし考えてみれば、これは現実の世界のあり方そのものだ。

 ふとした瞬間、世界が切り取られ、一枚の写真に固着させられる。全く始めてみた世界のように見えることがある。写真の力だ。そこに映し出された世界は、確かにそこにあったはずなのだが、流れる時間に覆い隠されて見えないことのほうが多い。そうした世界の断面のようなものがふとしたはずみに見えたような気がすることがある。そういう感覚の世界だ。
 電車に乗る。隣の席の人がぼんやりと窓の外を眺め続けている。そして一瞬、表情が歪む。その一瞬を偶然に目にしてしまうような、そんな事がある。何かただ事ならぬ空気を感じはしても、そこにある物語を私達が知ることはまずない。尋ねることもなければ、本人が話し出すこともしないだろう。私はあれこれ想像もしてみる。けれども、たぶん、それはものすごい勘違いで、的外れだったりするだろう。けれども私は、それが勘違いであることを知ることもできない。それすらできない。

 それは嗚咽を漏らして泣いているとか、そういうことではない。もっとさりげなく、細やかで、ひょっとすると私だけしか気がついていないような微細ななにかだったりもする。
 しかし明らかにそこに、私と違う世界を生きている一つの人生があり、これまで生きられた時間の堆積があることはわかる。そして世界は無数のそうした物語がより合わさって形作られている。
 「黒い羊」のMVはそうしたことを強く思い起こさせる。一人の小池稲美のむこうには、一人の佐藤詩織の向こうには、あるいは石森虹花の向こうには、おのおの生命と時間を持った人たちがいる。そのことを強く教えてくれる。

 ふと村上春樹の最初の作品、『風の歌を聴け』のラジオのDJ(いまはパーソナリティというかなと思うけど)を思い出した。
(後日、どのようなものだったか、加筆する。たぶん)

(加筆)
 村上春樹『風の歌を聴け」講談社 1979年7月刊 p181)
 下記に記載。
 そう、「黒い羊」を繰り返し聴きながら、MVを繰り返し見ながら思い出したのは下の文章だった。なぜだかは知らない。何となく分かるけど、ここでそんなことを説明するものでもないと思う。


 それにしても…
 「不協和音」「ガラスを割れ」のMVとTVなどでのパフォーマンスのあいだにはそれほどのギャップは感じなかった。「アンビバレント」はちょっと厳しいものがあった。カメラワークに殺された気がする。「アイドルグループ」っぽく個々のメンバーを一生懸命抜かなくていい。楽曲とパフォーマンス全体をどう映像に収めるか考えてほしい。激しくフォーメーションが変わるダンスでカメラアングルまで変えられるとわけがわからない感じになってしまう。

 しかし今回は…いったいどうするんだろう?
 楽曲そのものの世界からMVがは大きく跳躍してしまった。
 TVとかは楽曲とパフォーマンスだけになる。映像がないが、もともとの楽曲の世界に戻すんだろうか?

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 村上春樹『風の歌を聴け』37(全文)

 やあ、元気かい? こちらはラジオN・E・B、ポップス・テレフォン・リクエスト。また土曜日の夜がやってきた。これからの2時間、素敵な音楽をたっぷりと聴いてくれ。ところでなつもそろそろおしまいだね。どうだい、良い夏だったかい?
 今日はレコードをかける前に、君たちからもらった一通の手紙を紹介する。読んでみる。こんな手紙だ。

 「お元気ですか?
 毎週楽しみにこの番組を聴いています。早いもので、この秋で入院生活ももう3年目ということになります。時の経つのは本当に早いもんです。もちろんエア・コンディショナーのきいた病院の窓から僅かに外の景色を眺めている私にとって季節の移り変わりなど何の意味もないのだけれど、それでもひとつの季節が去り、新しいものが訪れるということはやはり心の踊るものなのです。
 私は17歳で、この3年間本も読めず、テレビを見ることもできず、散歩もできず、……それどころかベッドに起き上がることも、寝返りをうつことさえできずに過ごしてきました。この手紙は和手足にずっと付き添ってくれているお姉さんに書いてもらっています。彼女は私を看病するために大学を止めました。もちろん私は彼女に本当に感謝しています。私がこの3年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。
 私の病気は脊椎の神経の病気なのだそうです。ひどく厄介な病気なのですが、もちろん回復の可能性はあります。3%ばかりだけど……。これはお医者様(素敵な人です)が教えてくれた同じような病気の回復例の数字です。彼の説によると、この数字は新人投手がジャイアンツを相手にノーヒット・ノーランをやるよりは簡単だけど、完封するよりは少し難しい程度のものなのだそうです。
 時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫び出したくなるくらい怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢出来ないほど悲しいです。夜中の3時に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。そして実際そのとおりなのかもしれません。
 嫌な話はもうやめます。そしてお姉さんが1日に何百回となく私に言い聞かせてくれるように、良い事だけを考えるよう努力してみます。それから夜はきちんと寝るようにします。嫌なことは大抵真夜中に思いつくからです。
 病院の窓からは港が見えます。毎朝私はベッドから起き上がって港まで歩き、海の香りを胸いっぱいに吸いこめたら……と想像します。もし、たった一度でもいいからそうすることができたとしたら、世の中が何故こんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そんな気がします。そしてほんの少しでもそれが理解できたとしたら、ベッドの上で一生を終えたとしても耐えることができるかもしれない。
 さよなら。お元気で。」

 名前は書いてない。
 僕がこの手紙を受け取ったのは昨日の3時過ぎだった。僕の局の喫茶室でコーヒーを読みながらこれを読んで、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港から君の病室も見える筈だものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯だし、あるものは大きな屋敷の灯だ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久しぶりだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・君たちが・好きだ。

 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。
 彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの「グッドラック・チャーム」。この曲が終わったらあと1時間50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
 御清聴ありがとう。

左後方に小池美波の姿がみえる。

小池が微かに微笑んでいる。

平手は小池と取り合った手を離す。

 

 

平手は泣きながら離れていくようにもみえる。

 

***************

他にも少しだけ姿がみえるところはあるけれども、主要なシーンは網羅した。

多くの人が1/4、2/4にあげた情景に強く印象付けられ、心を揺さぶられている。

漂う空気感は濃密で生きている時間のもっとも重要な刹那を切り取ったようだ。

けれども、3/4、4/4もとても大切だと思っている。この世界にもしほんの一瞬でも、ほんの微かなものでも、幸せそうな、と言いうる表情を浮かべたものがいるとすれば、小池美波唯一人のような気がする。(佐藤詩織の表情は少し違う気がする)

 

だとすれば、それはとても貴重な、かけがえのないものだったのかもしれない。

私はここから「黒い羊」の第3章のイメージを、この世界からの脱出のイメージを受け取っている。

 

別項の続く。と思う、多分。

 

 

平手が大人たちに罵られ、「ぜんぶぼくのせいだ」と言ったあと、次の世界に入っていく。そここのシーン。

前の世界とはかわって、平手友梨奈は花を持っていない。そして抱擁は成立しない。

 

石森も小池も佐藤も、だれも平手を抱擁しない。石森や小池の表情がかいまみえるが、少なくとも憎悪、嫌悪の表情ではない。むしろ寂しげにすらみえる。

その動きも敵意というよりも平手が進もうとするのを食い止めようとしているように見える。

 

しかしいずれにしても、すべての人が平手を残し走り去っていく。

 

このあとが階段のシーンから屋上のシーンになっていく。