あの赤い花は、平手のいわば魂なのだと思っている。
 
 最初の死の現場から平手は赤い花を胸に懐き続けている。

 けれども、最初の回廊で大人たちに指弾され、罵られたあと、「ぜんぶ・ぼくの・せいだ」と言ったあと、赤い花を手放す。
 そして入っていった部屋では、抱擁しようとしても、すべて突き放され、そして一人取り残され、すべての羊たちが「白い羊の世界」をめざして全力で走り去ってしまう。
 残された平手はよろめきながら階段を登り、浄化されたような空間で子どもから差し出された花を受け取り、屋上にあがっていく。

 あの大人たちに罵られたとき、いったん、平手の心は折れたのかもしれない。あるいは平手もまたあのとき、「白い羊のふり」をしようとしたのかもしれない。
 平手は、首尾一貫して「黒い羊」であるわけではない。最初から強く、覚悟を固め、「黒い羊」を全うしようとなどはしていない。抱擁をもとめ、拒絶され、拒絶されても抱擁を求める。その深く激しい愛情が平手を引き裂き、切り刻んでいく。思い悩み、もがき苦しむ。
 そんな平手が、一度は自分も「白い羊のふりをする・ふりをしようとしているみんなと同じになろう」、そう思っても不思議ではない。むしろそのことすら拒絶されるところに、絶望の深さ、拒絶の激しさを見るお思いがする。

 だから「赤い花」を手放すことは自分自身を、その魂を手放すことだった。

 そして、その「自分の赤い花」をもう一度、受け取る。それは確かに再生だったかもしれない。平手としての、「赤い花をもつ平手友梨奈として」の、再生だっと言えるかもしれない。


 そのとき、私には「彼岸花の花言葉」よりも何よりも平手のもがき、苦しみ、狂おしいほどの愛情とその拒絶の痛みのほうが切実だ。はるかに強い訴求力をもっている。制作者の意図はあったのかもしれないし、あったのだろうが、その花言葉など消し飛んでしまった。平手から発せられるものは花言葉よりもはるかに強い。


 あれは彼岸花なのではなく、「平手友梨奈の赤い花」なのだ。


 けれどもあの最後のシーン。
 あのシーンをみているとふと、赤い花が平手の胸からほとばしり出る血のように見えてきた。そのとき、どこかで何かのコツンとした感触があり、以前に(ずいぶんと「以前」だけど)読んだ本の描写を思い出した。
 鮮やかな視覚的イメージをうけ、記憶に残っていた。こんな一節だ。


「春の聖週間にキリストの生涯を描く偶像の行列が街をねり歩くというようなことは、とりわけラテン・アメリカのカトリック諸国においてはめずらしくないことだろう。ただグァテマラやメキシコ南部でわれわれの目を奪うのは、キリスト処刑後の『痛みのマリア』の心臓に剣が刺されて、その傷口からいっぱいに花が咲きこぼれていることだ。これは明らかにいけにえの血潮が花となって蘇生するというマヤの信仰だ。聖者や使徒たちの偶像と十字架のもとに、かつてアステカやマヤの神殿をくゆらせたコパル(樹脂の香)をたきしめ、花をしきつめて今なお呪術や占いの行われている村々のほこらとともに、それは強いられたキリスト教の外皮の下で、インディオがその信仰の内実を生きつづけていることを示す。」(「骨とまぼろし(メキシコ)」 真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫所収 強調は引用者)

 ひょっとするとこの一文が私の記憶の奥底に眠っていて、それが平手の赤い花を血潮に見えさせたのかもしれない。人間のものの見え方がどれほど不自由なことか、ことあるごとに思い知ってきたから。あり得ることだと思う。

 でもあの「平手友梨奈の赤い花」が魂であり、痛みの傷口から魂が尽きることのない血潮となって吹き出している。
 ありえないことでもない気がしてくる。そしてその血潮は、いまも吹き出し続けているし、それは「黒い羊」のMVの中だけではない。この世界のあちらこちらで、日本でも、昨日も、今日も、たぶん、明日も、どこかの誰かがそんな血潮を吹き出し続けている気がする。ただ、それはMVが可視化してくれたようには、私の目に見えていないだけだ。