https://youtu.be/RTE-mxfqa0E  @YouTubeさんから

 低音部、齋藤冬優花 だよね?


 「黒い羊」の音源を初めて聞いたとき、びっくりした。何だこの低さは、と思った。最初は、これ、かなり加工したのかなとも思った。

 でもそれは違ったらしい。今回のアカペラではっきりした。でも、それはそれで驚きだった。
 最低音部、女性としては相当低い音程で、歌える人、かなり少ないと思う。「アイドル」の楽曲では初めて使うような音程ではないのかな、とすら思う。下がりきっていないところがないわけではないけど、あの音域でよくピッチを維持するなぁ。
 齋藤冬優花、ダンスのイメージだったけど(ごめんなさい、ダンスのイメージだけでした)、ガラッと変わった。あれだけ低い音程のところでも響きを失わない。

 それに石森虹花もいい声だなぁ。芯があってまっすぐに出てくるような声質。少しリバーブをかけているくらいでそれ以上の加工はしていないと思うけど、輝きと少し憂いを感じさせるような中音域の響きが心地よかった。もう少し音数が少なくて声そのものを聴かせるような楽曲を聴いてみたいな、と思う。

 でもこのアカペラは公開された音源よりテンポが25%くらい遅い。
 ダンスを禁欲して、このテンポの、あるいはもうちょっと遅くてもいいかな、そんなアコースティックバージョンがあったら聴いてみたいな。ピアノ一本、せいぜいアコースティックギターまで。

 歌とダンスとで楽曲を届ける欅坂だけれども、言葉と声にだけそれを託すことがあってもいい。
『生存する意識 植物状態の患者と対話する』(A.オーウェン みすず書房)を読んだけれども、ダンスを見るとき、音楽を聴くとき、言葉を聴きとどけるとき、脳が作動する部位が、神経回路が違うらしい。
 ならば、ダンスパフォーマンスが前面に出ることで生まれている表現があるように、ダンスを抑えるたときにはじめて届く何ものかもあるはずだ。

 実際にメンバーたちが「MVをみて曲の聴き方が変わった」と言っていた。齋藤冬優花もそうだったと思う。けれども、それは逆もあるのだと思う。
 鋭く削ぎ落とした先にある表現もある。それはもっと深い絶望を表現するかもしれない。スローテンポの二人のアカペラは、そんなことを思わせてくれた。
 

小池美波 のコメント。
http://www.keyakizaka46.com/s/k46o/diary/detail/19162?ima=0000&cd=member


 黒い羊 は、何よりまずメンバー自身に突き刺さっている。

 この曲はやっぱり1期生しか歌えないのだと思う。
 メンバーが魂を震わせて歌い、踊る。
 そのエネルギーが届かないはずがない。
 それができるとも思っている。何より、その熱源があると思っている。小池美波のブログを読んで、そんなことを強く思う。

 鈴本センターのサイマジョのとき、3列目の 小池美波 のダンスには目を奪われた。「二人セゾン」をアドリブで踊ったエピソードは欅坂の本質のような気がする。小池美波が前に出たんじゃなく、楽曲とパフォーマンスをグループとして完結させようとする見えない力が彼女を押し出したのだと思う。平手友梨奈が「憑依型」とよく言われるけれども、小池美波がセンターに躍り出たとき、彼女は「小池美波」ではなく、「欅坂46の『二人セゾン』」そのものになっていたんじゃないかな、と思う。いや不正確だな。「小池美波」が消えたんじゃない。「小池美波」という具体的な一人の人格を通して楽曲が現れてきたというべきかもしれない。


 そうしたことを可能にするのが欅坂46 だと思っているし、小池美波 はそれを体現する人だと思っている。そしてここでさらに生まれ変わるかもしれない。そんな瞬間に立ち会えるかもしれない。そうした予感を少なくないメンバーが感じてもいるように思う。それはもう始まっているのかもしれないけれども、やはりライブやその他の回路で、受け取り手との関係でまた化学変化がおこる。楽曲と、楽曲とダンスと、個々のメンバーの関係だけではなくて、聴衆との関係の中で激しい変化が生まれる。

 いつだって歴史に残るような楽曲はそうやって成長してきた。
 そんなことがはじまる熱量をメンバーから感じる。

 ただ、この楽曲は、聴く人を選ぶかもしれない。

 「誰もが評価する名曲」というものもあるけど、本当に人に深く突き刺さる作品は、それが痛すぎる人、嫌悪感をもつ人、拒絶する人も生み出す。
 そんな楽曲だと思う。それでいいのだと思う。もともと欅坂46じたいがそういうグループなんだろう。その行き着く先、たどり着けるギリギリの地点にある楽曲に思えてならない。


 だからそのパフォーマンスは、絶対に中途半端ではないはずだ。

 もしも機会があれば…
 小池美波 、小林由依 、渡邉理佐 
 この3人がセンターをつとめる「黒い羊」をみてみたい。
 平手とは違うけど、それぞれが、それぞれの 「黒い羊」であるような気するんだ。ぜんぜん違う景色が見える気がする。


 「黒い羊」 は、
 上手く言えないけれども、欅坂46がたった一人に届けようとするものであってほしい。
 この曲に感応する人は、たぶん、自分に届けられた特別な何かだと感じると思うから。
 もしも、たった一人が、この楽曲で生まれ変わるなら、それはきっと、100万枚売れるよりもすごいことなんだと思う。


 

**************

追記 MVをみて

 

 小池美波さん、すごいです。何かがへし折れ、生の世界から死の世界へ、一瞬で移行してしまうよう。

 

 ブログで自分を重ね、自分に切り込み、並々ならぬ思いと覚悟を込めていることは感じていましたが、あの本の数秒にそれを凝縮してしまったんですね。

だから、あの瞬間が生まれたのですね。

 鳥肌が立つというような表現があまりにありきたりに聞こえてしまいます。

 

 そしてリストカットしようとするあなたを「黒い羊」は全力で抱きしめた。

 だからあなたは、みんなと一緒に走り出そうとする「黒い羊」を引き止めたんですね?生きていてほしかったんですね?

https://twitter.com/toshitakagi1/status/1091438110569725957

「今の私にとって、/すごく考えを変えてくれた曲です。//学生の頃の私にもこの曲に出会わせて、聴かせてあげたいと思うような曲です。」(小池美波)
 メンバーが、「たった一人のあなたに」、「たった一人の私に」届けたいと思うような曲なんだ。
 なかなかめぐりあえない曲だよ。

(小池美波のブログから)


 それにしても小池美波が「学生の頃の私もこの曲に出会わせて、聴かせてあげたい」というんだ。
 胸がつまる。
 ふんわりと生きてきたわけでは、ないんだね。
 「二人セゾン」のダンスのエピソードもそうだけど、小池美波は表現できない激しさを秘めて生きてきたのかもしれない。

 欅って書けないの「大人ロケ」で #小池美波 が「自分のことが好きじゃない。受け入れられない」といって涙を流していた。
 ちょっと思うんだけど、小池美波に癒やされたり、そこにやすらぎみたいなものを感じている人は少なくないと思う。
 そう思うと、なんだか他の人も分まで引き受けて苦しんでいるような気もしてくる。
たぶん、自分を好きになれずに、受け入れられずに苦しんでいることには意味があるんだと思う。 そこから生まれる何かが伝わっているんだと思う。
 と、まぁ、年齢を少し重ねてくると思ったりする。

黒い羊 のフォーメーション。
おー、佐藤詩織 がフロント。
平手の背後に繊細なダンスをする 渡邉理佐。
知った瞬間、心臓が大きく鼓動した。

そして3列目の両サイドに鈴本美愉、齋藤冬優花。

何を見せてくれるんだろう?
ワクワクするというよりもドキドキする。イメージが膨張していく。

鈴本美愉が3列目になったことについて様々な意見があるみたいだけど、その逆サイドが齋藤冬優花だよ。
強烈な意志を感じるフォーメーションだと思う。絶対に半端なパフォーマンスではないし、ありえない。
メンバー同様、TAKAHIROさんがあの曲にインスパイアされないわけがない。

 


もともと、とてもダークなクリスマスソングだったんじゃないか?
 去年の9月にMVを撮っているという動画があがっている。真偽は不明だけど。
 ただ、そういえば間奏部分はバロック風の音をくすませて使っている。クリスマスっぽいと言えなくはない。

 クリスマス、羊、黒い。
 楽曲の冒頭とエンディングの街頭の音がクリスマスに賑わう街なのであれば、そこで黒い羊のぼくが、「そうだ僕だけがいなくなればいいんだ」と歌っている光景が湧き上がったとき、また鳥肌が立った。
 でも、むしろクリスマス時期を外してしまったことはプラスなのかもしれない。あれだけメンバーが「自分が変わった」「自分たちの楽曲に感動した」「みんなに届けたい」「昔の自分に聴かせたい」…
という楽曲はないでしょ。
 クリスマスソングになってしまわなくてよかったと思う。
 

佐藤詩織 、コンテンポラリーダンス、踊れないかな?
黒い羊
平手のかたわらで、佐藤詩織が緩やかに舞う。
もしそうなったらどんな情景が見えるんだろう?
「ノンフィクション」のときの 平井堅 / 平手友梨奈 の衝撃はまだ体の芯に残っている。

黒い羊 のダンスは、美しくなくてはいけない気がする。しかも、とてつもなく、凄絶なまでに美しくなければ。と勝手に思う。
となると佐藤詩織 。あるいは渡邉理佐 か。
みてみたいなぁ。

だって、「ぜんぶ、ぼくの、せいだ」というときの平手友梨奈 は、とんでもなく美しいと思うんだ。きっと。
 

twitterの投稿が膨れ上がってきた。そのまとめ。

 

**********************

 

秋元康 はいま自分の言葉になにを思う?
欅のみんなはどんな思いで歌う?
そして私はどうやって聴けばいい?

/自らの真実を捨て
白い羊のふりをするものよ
黒い羊を見つけ指をさして笑うのか/

黒い羊
そうだ僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば止まってた針はまた動き出すんだろう
全員が納得するそんな 答えなんかあるものか
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしてる仲間には 僕は厄介者でしかない
分かってるよ

白い羊
なんて僕は絶対なりたくないんだ
そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ
周りと違うその事で 誰かに迷惑かけたか?
髪の毛を染めろという大人は何が気に入らない?
反逆の象徴になるとでも思っているのか?
自分の色とは違う それだけで厄介者か?


 サビの歌詞。
 これ、作曲と編曲は誰なんだろう?
イントロから内側に締め付けられていくような緊迫感がみなぎっている。
「サイレントマジョリティー」「不協和音」「ガラスを割れ」は世界に対峙し前を睨んでそこに立っていた。
 けれど「黒い羊」は世界に対峙して入るけれども、その緊張は内向し、「ぼく」をさいなむ。「ぼく」がいま、世界からこぼれ落ちてしまいかかっている。その断崖のふちで舞い踊る。いつ、断崖の向こうに一歩を踏み出すかもしれない。そんな切迫した情景が浮かび上がってくる。

 けれど「黒い羊」は世界に対峙して入るけれども、その緊張は内向し、「ぼく」をさいなむ。「ぼく」がいま、世界からこぼれ落ちてしまいかかっている。その断崖のふちで舞い踊る。いつ、断崖の向こうに一歩を踏み出すかもしれない。そんな切迫した情景が浮かび上がってくる。

 これは、平手友梨奈 にしか歌えないし踊れないとすら思ってしまう。
 それ以外にイメージできない。
 もっといえばこの楽曲は秋元康が平手に書いたというより、平手が引き出した世界にしか思えない。

 例えば、とても大切で親密な誰かに宛てた手紙に、激しく心が震わされることがあるみたいに、ただ平手友梨奈のためだけに書かれたようにすら思えるこの曲が激しく胸を打つ。社会現象になるかもしれない。そのくらいに思えてしまう。

 美しく切ないピアノで始まるけれども、そのピアノの音に不協和音が混じりはじめ、音色もくすみ、歪んでいく。メロディラインも小節線から逸脱していく。
欅坂史上というか、アイドル史に残るような曲になるかもしれない。いやもうアイドルの楽曲ではないか。
 音源だけでこんなことを思うのに、これにTAKAHIROさんの振り付けるダンスがついてしまったら、いったいどうなってしまうんだろう?

ちょっと恐ろしくもある。
 

 AKSの記者会見。活字では読んでいたが動画で改めて見ると強い怒りを覚える。AKSは問題をうやむやにするつもりだろうとは思っていたけれども、それは確信になった。

 AKS幹部の中には山口さんへの配慮や謝罪は一切ない。
 被害者にさせてしまったことへの謝罪も、加害者への怒りも、ずっと放置してきたことへの謝罪や反省も、被害者に「謝罪」コメントを言わせたことへの申し訳無さもなにもない。あの会見中、少なくとも松村氏の脳裏に山口さんの姿が浮かんだことは一度もないのではないか、と思わせるものだった。

 事実関係の一切について、警察の捜査内容に関わるので、とコメントを拒否。12月8日に事件が起こり、書類送検されたが、12月28日には不起訴処分の決定を新潟地検が下している。捜査は完了している。捜査が行われていない中での「捜査内容」って一体何だ。何もあるわけがない。つまり運営側は「事実関係については何も調べないし、明らかにしない」と言っているのと同じだ。
 これは第三者委員会の設置とあいまって完全なAKSの居直りと開き直りの論理になる。
 操作終了後に「捜査内容に関わるのでコメントしない」と言っている。ということは、永遠に「捜査内容に関わる」ということを口実に口をつぐみ続ける、ということになる。論理的にはそうなる。

 けれどもそれでは言い逃れができないので「第三者委員会の設置」ということを言い出している。

 その理由には驚いた。松村氏は以下のように述べている。

 「NGTのメンバーとしての不適切な言動だとか行動に関してはあらためて第三者委員会の方で調査をさせていただきたい」

 あまりにもおかしい。
 第三者委員会が設置されるのは、通常、自らの力では問題点を解明し、解決することが困難な場合だろう。どこかの会社の一支店で問題が起こったからといって第三者委員会が立ち上げられるわけではない。当然だ。通常、本社のガバナンスによって解決する問題だからだ。
 第三者委員会が必要になるのは、ガバナンスの主体そのものが問題になるようなときだろう。近い例で言えば日大アメフト部の問題に際して第三者委員会が立ち上げられている(もっともその最終報告書が昨年8月に出されているが、格付け委員会によってほとんど不合格ともされるような厳しい評価を受けている 注1)。今回で言えばAKSのあり方そのものが問題になるときだ。
 つまりその会社、組織の基本的な運営のあり方、経営方針、最高幹部を含めた組織体制や体質、組織の「風土」のようなものが問題になるときだろう。
 今回の第三者委員会がそうした役割を果たすためなのであれば好ましいことだが、松村氏の口から出てきたことが「NGTのメンバーとしての不適切な言動だとか行動に関して」だ。
 何を言っているのだと思った。それこそそれはあなた達の管理運営、ガバナンスの問題ではないか。

 山口真帆さんの告発は明快だ。
 彼女たちの恋愛禁止は契約書にも書かれているらしい。寮の自室に男性を引き入れることなどルール違反、契約違反であることは明白だ。それを守らないメンバーがおり、山口さんが運営サイドに是正を申し入れていた。しかし運営サイドは問題を放置。そして事件が起こる。
 AKS・NGT運営サイドの決めた(あなた達が決めたんですよ)ルールをメンバーが守っていたのか。それがなぜ「第三者委員会の設置」になるのですか。
 もしここで「なぜNGTの運営サイドは、運営側自身がメンバーに要求していたルールを守っていたものを守らず、ルールを破っていたメンバーが我が物顔で振る舞えたのか?その組織のあり方の問題点は何か?」ということであれば第三者委員会の設置はありうることだと思う。しかし今回は全くそうではない。本来AKS・NGTの運営が行うべきことを「第三者」に丸投げするということ以外は意味しない。ということは彼ら自身は自分では何も解明するつもりがない、ということにしかならない。

 それに第三者委員会の委員をいったい誰が選ぶんですか?

 ここで確信になった。
 AKSは、運営は、すべてを覆い隠し、うやむやにするつもりだ。確信犯的にその道を猛然と進んでいるんだ。
 だから、今村元支配人の処遇は更迭・引責なのか、という質問には「そういうことでは一切ない」と断言できるわけだ。「引責・更迭」となると、いったいなんの問題で、どのような責任があったのか、ということについて述べざるを得なくなる。だから「引責」でも「更迭」でもない。
 ここはこだわったほうがいい。事実上の、などと曖昧にしないほういい。公式の場で、組織を代表する人物が「更迭・引責ではない」と言い切った。ということはもう誰も責任をとることはないということだ。

 そう考えるとあの会見自体が非常に悪辣な意図に貫かれているのではないか、と思えてくる。会見を伝えたTVでは「会見は事前に知らされておらず、現場には芸能記者だけで一般紙の社会部の記者やNHKも来ていないで社会部の記者などがいない状態で行われた。」(加治佐健一氏 1/15とくダネ!)と言われていた。「少し話があるから」と言われたという。
 みると成人式参加者44人のセンターにNGTのメンバーがいた。
 事件についての質問の自粛要請は出されていた。運営はメンバーを直撃されるのを恐れていたのかもしれない、と思う。芸能記者たちも成人式の場で、無関係な他のグループのメンバーもいる中では質問を自粛するだろうけど、式が終わったあとは? そう、会見だ!
 そんな思惑なんじゃないか、と思えてくる。私の味方がネジ曲がってますかね?

 でもね、いまも、恐怖、不安、そしてたぶん様々な圧力、重圧に耐え続けている人がいるんですよ。

 それが原点だし、出発点だと思う。

 あの運営サイドの人たちには何もない。本当に、なにもない。

注1
東洋経済新聞 ONLINE
日大報告書を格付け委員会が酷評した理由 格付けした委員8人のうち7人が「D」評価
2018/08/02 19:30
https://toyokeizai.net/articles/-/232133

追記
第三者委員会については、たいていの人が期待をしていないと思う。私も期待していなかったが今回その報告書の「格付け委員会」あることをしり、その内容を見てみると想像以上にひどかった。まぁ結局、何もできてないんですね。
ちょっとそのあたりの詳しいサイト。

NHK News Web
“不合格”続出 第三者委員会って名ばかり?
2018年4月13日 19時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/business_tokushu/2018_0413.html

 

********************

 この場はこんなことを書く場所にするつもりではなかったんだけどな。

 あまりに理不尽すぎる。

 それにしてもあのコラボは何度見ても別の意味を発生させる。

 踊る平手が平井の記憶の中の亡くなった人のように思えてきてしまうことがある。生きていた時の最後の姿を見ているような気がしてしまう。もう決してあうことのない二人に見えてしまう。

「会いたい」。ただそれだけのことがかなわなくて、かなう望みもなくて、けれども、そう言いつづけ、叫びつづけることしかできなくて。歌い踊るあの二人も決して会うことができなくて。


 たぶん平井堅の、平手友梨奈の、あるいは演出した人の込めた物語がある。けれどもそれとは違うものを私は見ている気がする。
 それが可能になるのはたぶん、「作品」としての完成度の高さなのだろう。
 小説でも絵画でも映画でも、それが作品となるということは作り手からも自立することを意味するならば、それは受け手のさまざまな解釈を誘発することであるし、根本的には<受け手=人間の自由>に働きかけることを意味するのだと思う。もっとも私はいま「勝手に解釈してますよ」と言い放っているだけなのかもしれないけれども。

 はじめは平手のダンスに目を奪われた。
 けれどもそこから何度もみて、その歌詞の意味を考えていくうちに変わってきた。

 二人は別の世界にいる。
 歌い手は歌詞に乗せながら歌い手の喪失の世界に。踊り手はその身体から叫びを発しながら踊り手の物語の世界に。その二つの世界が強い相関関係をもちながら、強いコントラストも描き出す。
 その二つの世界はどこかでつながり、どこかで共振しながら、決して交わることもなく、触れ合うこともない。


 生きることに望みを失ったような16歳の制服を着た少女と友人を自死で失った46歳の歌い手。
 少女には彼の姿が見えない。彼には少女の姿が見えない。それぞれの叫びがあり、慟哭があり、それが重なり合い増幅する。叫びは重なり合うのだけれども、二人はどこまでも切り離された世界にいる。

*********************

 前回、前々回に書いた、先輩の自殺。

 彼の自殺後、少し落ち着いてから考えるようになった。私は何をしていたんだろうか?と。

 彼が薬を飲んだ時間、きちんと敷かれた布団に身を横たえていた時間、だんだん意識がなくなり、呼吸が弱くなっていく、その時間。私は何をしていたんだろうか。

 それほど遠くはない場所だった。

 その時間、私はまだ起きていたはずだった。

 音楽を聞きながら何か机に向かっていたかもしれない。TVをみて笑っていたかもしれない。
 その同じ時間、それほど遠くないところで先輩は大量の薬を飲み下していた。二つの世界はどこにも接点がなく、バラバラの時間が流れていた。それがとてもいたたまれなかった。その時間の自分の部屋に乗り込み、両肩をつかんで「先輩が薬を飲んでるぞ!何をやってるんだ!」そう怒鳴りつけてやりたかった。

 いまもアパートの隣の部屋に声を殺して叫んでいる人がいるかも知れない。手にした薬をじっと見つめている人がいるかも知れない。そしてそのことについて何もしらない。何も気が付かない。気がつくことができると思うことは傲慢なのかもしれない。
 けれども、こんなにも世界はバラバラなんだ。幻想でも何でもなくバラバラでしかない。

 なにか事件がおこる。
 TVでは「驚きました。そんなこと、全然知りませんでした。」
 多くの人がそういう。嘘でもなく。



 あのとき彼は、どうしてたんだろう?
 何か呟いていたりしたんだろうか?
 最後の視界には何が見えていたんだろうか。

 もしそれがわかったら、ちょっとだけ救われそうな気がするんだけどな。
 

(前承)

 朝刊の社会面に見知った名前をみつけた。
 紙面に彼の名前を見つけた時の印象はまだ残っている。とても不思議な感覚だった。いや感覚が抜け落ちていたかもしれない。ただ世界がざわざわした。音が消えた。数行の記事だけに吸い込まれるように見入っていた。

 大学に行き、学生たちの溜まり場にいった。誰もいなかったと思う。しばらくすると同じ1年生の女性がやってきた。
 なんとなく会話の空気は覚えている。

 「新聞、見た?」
 「みた。あれ、彼だよね?」
 ふだんよりも少し声を潜めていたような気がする。

 彼女は私より早く知ったようで、少し状況を説明してくれた。彼女が付き合っていた相手が一つ上の先輩で、その彼から話を聞いたのかもしれない。

 その後の記憶はいまはぷっつりと途絶えている。

**********************

 彼は農学部なのにプラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学の本を読んでいるような人だった。かなりの量の哲学書を読んでいたと思う。

 そこに一体何を見ていたのだろうか。その言葉に何を読み取っていたのだろうか。大学1年だった私には彼が生きている世界は未知のものだった。


 その学生のたまり場はけっこう政治的な指向性が強い空間で、一年生の私はかっこうの組織的な勧誘の対象だった。
 あるとき、自死した先輩とは別の、その「政治志向の先輩」の一人が私にさかんに話しかけてきた。たぶん、そのときはもう5年生か6年生くらいで、政治活動のために留年し大学に残っているような感じだった。(少し前にある政党の市議会議員候補としてチラシに名前が出ていたのをみかけた。まだ現役の活動家だ。)

 「ジョージ・バークリなんてくだらないんだ。レーニンが『唯物論と経験批判論』で書いたのは…。今度、学習会をやるから参加しないか?」

 彼は力説していたことは覚えているが、内容は覚えていない。
 ジョージ・バークリは観念論の大家だが、1年生の私はジョージ・バークリもレーニンも読んだことがなかった。肯定も否定もできず、反論も同意もすることがせず、黙って聞いていた。5年生(6年生?)と1年生だ。先輩を無視して簡単に話を打ち切って出ていくこともできない。

 あの先輩はその時、部屋のすみでなにか本を読んでいたが、しばらくすると本をおき、一言いった。

 「〇〇くんはバークリは読んだことがあるの?」
 しばしの沈黙。
 「いやないけど、読まなくてもわかるさ。だってレーニンは…」
 「読まないでどうしてレーニンが正しいと言い切れるの?」

 会話の記憶はここまでだ。
 けれどもとりあえずその学習会への勧誘はここで打ち切られた。


 彼にとってもその「政治志向の人」は先輩に当たる人だった。憤っているようでもなく、強くもなく、むろん教え諭すようでもなく、静かに、淡々と一言、二言だけいっただけだった、そのやりとりしか記憶に残っていない。私に何かを言ったということもないと思う。たぶん、また本を読み続けていたと思う。他人に自分の意見をぶつける人ではなかった。

 その当時、私の大学の生協はある政治勢力が強い影響力をもっていた。書籍部の小冊子の編集にまで口を挟まれた記憶はいけれども、彼らが意に沿わぬ先輩に原稿を依頼したとはとても思えない。先輩の「生と死の弁証法」は、ひょっとしたら私が自分で頼んだのかもしれない。記憶があまりにも曖昧ではっきりしないけれども、そうだったかもしれない。十分にありうる。信頼もしていたし、書いたものを読んでも見たかった。彼が何を見ているのか、何を考えているのか、あの政治的空間のなかで自分の考えにきちんと立っている姿を何が支えているのか知りたかった。
 そしてこれがたぶん、彼が書き、公表された最後の文章だったのだろうと思う。

 先輩の自死からしばらくたって私もまた自分の痕跡を消してしまうように、すべての書籍と音源を売り払った。行きつけの古本屋の親父さんが「君の本ならすべて私が買い取るよ」といってくれた。バンを乗り付けて一冊一冊丹念に値段をつけてくれた。ダンボール箱で15箱か20箱くらいになったと思う。それは私の分身でもあった。
 写真も焼いた。卒業アルバムまで処分した。当時の写真をたぶん一枚ももっていない。

 たぶんその時、彼が書いた、公開された最後の文章を一緒に処分してしまったと思う。手元にはもうほとんど何も残っていなかったから、たぶん。

 でも、なぜ私は他のものと一緒にまるごと処分してしまったのだろう。小冊子一冊くらいもっていることはできたのに。痛切な記憶がこびりついたものだったのに。しかもそのことをいま覚えていない。なぜ何も記憶が無いのだろう。

 小冊子の表紙につかった高橋和巳の言葉のように、彼もまた「生命を削るようにして言葉を書き留めた」人だったはずだ。私がもっと鋭敏な読み手だったら、「生と死の弁証法」というその一文に何か気配を感じていたかもしれない。だから何かができたなどとは思わない。それほど傲慢ではないけれども、彼は「生と死について」書いたんだ。何もなかったはずはないと思う。何も込められたものがなかったはずはないと思う。
 けれどもその込められたものは文字の背後に隠され、誰にも届かなかった。誰にも届かないメッセージがそこにあった。
 そしてそれを処分してしまった。しかもその記憶がない。


 今回、はじめてそのことに気がついた。

 書かれた文章に込められていたことに気が付かなかったこと以上に、処分してしまったこと、しかもその記憶すら無いこと、しかも自分が処分してしまったことに今回この文章を書き始めるまで気がつなかった自分が許せない。先輩とこの世界をつなぐ細い糸を私がぷつんと切断してしまったような気がしてならない。そして今日までそのことに気が付かないまま時間が経過してきてしまった。

 だれにも気が付かれないまま消えていったのだろうか?
 そのことに私は役割を果たしてしまったのだろうか。

******************

「おまえさ、鈍いにもほどがあるよね。いったいあれからどれだけ時間がたったんだ?」
「すいません。先輩、あれ、相当の力を込めて書いたんですよね?」
「当たり前だろう? だってあれが最後のメッセージになると思って書いたんだからさ。それをさ… 鈍いよね、お前もさ。」

 そう彼は淡々というだろう。

「あの文章、何が書いてあったか、教えてくれませんか?」
「消えたものは消えたんだ。消え去ったものはもうここにはないんだよ。そうだろう?もう二度とは戻らないんだ。ぼくももどらないようにさ。」