これから書く一連の文章は、私自身の重い記憶であり、記録だ。
はじめてこんな事を公開の場に書く。実名では書けないが、世界には様々な人が生きていたことはどこかに留められるべきなのだと思ったからかもしれない。ただ抱えきれなくなったからだけかもしれない。
記憶を封印したり、都合よく歪めたり、そうして生きていけるということはある。私もそうやって生きてきた。けれどもそれを許せなくこともある。
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平井堅/平手友梨奈のコラボレーション。いろいろな受け取り方があるだろうと思う。けれども、私にはどうしてもそれが生と死の境界で、生の側で、死の側でのたうち回ることにかかわる。
あのどうしようもなさ。起こったことの不可逆性。繰り返される「あなたに会いたいだけ」という望みの可能性のなさ。言葉を届ける宛先の不在。見つめる相手の欠落、あるいは喪失。
けれども、それは消え去ったのではなく、生身の人間のたどり着けない世界にまだ「あなた」はいるのだろうか。ならばそこに行けば会うことができるのだろうか? 断ち切ることができない感情は、まだ「あなた」と私がつながっているからなのか。
だから歌は手渡されるべき花束とともにあり、身体は誰かに触れるべく空にむかって手を伸ばすのかもしれない。
平井の歌詞と平手の踊りは、胸の奥にあったものを引き出す。それぞれの人の痛切さを呼び起こす。身体が、心が共振し、揺り動かされる。隠されていたもの、しまい込まれていた記憶、かつてあった夢、輝いていたはずの希望、それらの光の消失。失われた人、宛先を失った人。その記憶。
私にはときどき、平井堅の背後で、あるいは隣で、一度も触れることなく、視線を交わすこともなく、踊りつづける踊り手の姿が、まるで失われた相手のように見えることもある。鞄をかぶるその先に、あの身体が失われてしまうように思えることがある。そしてその隣で歌い手が何もすることができず歌っている。そう見えてしまうことがある。
そう見えてしまったとき、水底まで揺さぶられ、かき回され、奥底に沈んでいたはずのものが浮かび上がってきてしまう。
二人の友人が自死した。ずっと昔のことだ。
忘れきれてはいなかった。以前は良く彼らが現れ、問いかけられた。私もまた問いかけた。これでいいのか? おまえだったらどうした? そんなことをきいてみたかった。
けれどももうしばらく、思い出すこともなかった。
一人は大学の先輩だった。
大量の睡眠薬を服用した。素敵な彼女がいた。とても中の良い二人だった。その彼女も自殺の兆候をつかめなかった。先輩の自死後、彼女はしばらく大学を休んでいた。久しぶりにある合宿に彼女が姿を見せた。妙にハイテンションだった。元気いっぱいにふるまっていた。輝くようなえがおだった。顔を見たとき泣きそうになった。
1周忌にご両親にあった。「なぜ息子が死んだのか、いまもわかりません」と呟くようにおっしゃっていた。そして先輩が生きていた、そして死んだ意味を求めて彼が残した大量の本を読み続けていた。
大学の生協の書籍部が出していた小冊子があった。私も編集にかかわっていたことがある。そこに彼は『生と死の弁証法』という一文を書いたことがある。多分、私が表紙のデザインと全体の編集をした時の号だったと思う。いや、その前後だったか…
私がレイアウトした表紙には暗いブラックホールを抱え込んだような宇宙のモノクロの写真を中央に配置し、高橋和巳の一節を引用した。
「ものを書くということは自分の生命を削るようなことなのです」。
正確には覚えていないが、そういう趣旨の言葉だった。『暗黒への出発』かなにかからの引用だったと思う。
確か彼の遺書に、死ぬことについては「生と死の弁証法に書きました」とあったような気がする。少し違うかもしれないか。たぶん彼は自殺を決めてからしばらくそのことを意味をまだ考えていた。そしてある日、死んだ。
彼が書いた文章は記憶にない。
なぜだろう?直後に何度も読んだはずなのだけれども… ほどんど覚えていない。
そしてその後、私は自分のもっていた本や音源をすべて売り払った。写真まで燃やした。だからある時期の写真はほとんどない。私もまた私の痕跡を消そうとした。
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CDで聴く平井堅の『ノンフィクション』とも、工藤丈輝が踊るMVとも違う、別の世界が開かれてくる。工藤丈輝の踊りを平手はできないけれども、平手の『ノンフィクション』を工藤丈輝が踊ることもできない。振り付けのCRE8BOYにも踊れないのだと思う。
気がついたことがある。歌は昔の哀しみを歌うこともできる。昨日の怒りを歌うこともできる。
けれども身体の言葉は、いま、その時の哀しみや怒りや喜びだけしかない。身体の言語は、<いま、ここ>という時空にだけ存在している。そしてそうでしかありえないらしい。
現れた身体の言葉は隠すこともできず、留めることもできない。
だから。もう差し替えがきかない。
「気持ちを込めて踊る」と振付師が言っていたけれども、ひょっとすると<踊りが気持ち>なのであって、気持ちのあらわれが踊りなのではないかもしれない。
9:17 - 2018年5月6日
空白であること。ポゼッションされること。憑依されること。
身体のすべてを意識的に統御することはできない。
自分を変えたい、そう言っていた。自分の存在を前面に押し出せないからこそここに来た、と。だから彼女は決然と他者を受け入れているのかもしれない。いや他者ではないかもしれない。「大人としての他者」ではないかもしれない。ならば、言葉を、動きを。
possesion。
憑依されることは自分が透明にならなければいけない。自分を意識的なコントロールから解除しなければいけない。そのために彼女はここにきたのかもしれない。
無意識。
自己の意識が透明になり、外部にあったはずの言葉や振り付けが自分と一体化していく。それは自分を乗っ取られるのではない。俳優の三上博史が「無意識だ」と言っていたことがある。そのときに実は自分のすべての経験や人生がにじみ出てくるのだと。
フランスに客死した森有正がこういうことを言っていたと内田義彦がいう。
「シュバイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏は、それぞれに個性的である。」(『読書と社会科学』 p27~28)
グレン・グールドが弾くバッハの平均律のプレリュードを聴いていると、誰もいない部屋で、ただただ無心に一つ一つの音を鳴らしていく彼の姿が不意に浮かび上がって涙が流れることがある。ただただ無心に。自分を空っぽにして。そのことがあのグールドの強烈な個性的な演奏を生み出しているはずだ。
これはただの私の個人的な感覚にすぎないけれども、ひょっとするとけっこう直観なのかもしれない。
三上博史が言っていることはおそらく森が言っていることと通底している。
徹底して楽譜に忠実に楽曲を演奏する。その時、自分は限りなく透明になり、バッハの精神に満たされる。
けれどもその時、その人の奥底にある、その人の独自の経験、人生が浮かび上がってくる。それは本人にも自覚されないような奥底にあることだ。もっとも根源的なその人自身が顕れてくるということだろう。
それは「気持ちを込める」という言葉で思い浮かべられることとはたぶん違う。
楽曲を、歌詞を読み、解釈し、理解し、ここはこういう気持ちだから、こういう表現をして…ということはまだまだ表層的なことだ。意識的なコントロールだからだ。意識がコントロールできる世界はこの世界の、あるいはその人間の存在の明るく光のあたった部分だ。そうではないところに存在する何かが浮かび上がってくるような、そうしたことを森有正や三上博史は述べているのだと思う。
いま気がついたけれども、これは根源的なアンサンブルだ。
ここで顕れてくるものは、楽曲や言葉の精神であり、演奏者、演者、踊り手の経験や人生だ。そのどれか一つではない。だとすればこれはいくつかの精神が一人の人間において出会い、一つのアンサンブルを織りなしていくということではないか?
顕れているのは「私」なのだろうか?「あなた」なのだろうか?そのいずれもなのだろうか?
あるいはそうした自他の区分が無効になる一つの境界領域なのだろうか?
踊りの技術はまだまだなのだと思う。それが足りなければ、浮かび上がろうとする何者かは出口を失う。
16歳にそんなことができるのか、と言う人がいるかも知れない。けれども多分、年齢とは全く関係ない。実際にデュプレは10代前半にすでにそうした世界にいたはずだ。
平手友梨奈はひょっとするとそうした境界線上に立っているかもしれない。
彼女の踊りに激しく衝き動かされるのは、こうしたことなのかもしれない。人間は人間にこそもっとも強く共振しするものだろうから。
FNS歌謡祭の平井堅/平手友梨奈の『ノンフィクション』。歌い手には歌い手の物語と思いがあり、踊り手には踊り手の、また違う物語と思いがある。
それが出会うとき、この『ノンフィクション』また別の『ノンフィクション』になる。
CDで聴く平井堅の『ノンフィクション』とも、工藤丈輝が踊るMVとも違う、別の世界が開かれてくる。工藤丈輝の踊りを平手はできないけれども、平手の『ノンフィクション』を工藤丈輝が踊ることもできない。振り付けのCRE8BOYにも踊れないのだと思う。それは16歳の平手友梨奈にしか踊れない。
たぶん、彼女が20歳になったら20歳の平手友梨奈として踊るだろう。同じ振り付けで踊ることはできるだろう。けれども、あの瞬間のダンスは、その瞬間にしか存在できなかった。そう強く確信させるものがある。
工藤丈輝が踊る平井 堅 『ノンフィクション』
踊り手でこれほどに変わる。
平井堅の歌は変わらない。ブレていない。
むしろ彼が生の自分の感情を爆発させず言葉を届けようとしているから平手友梨奈とのコラボで色彩が大きく変わる。それは歌の大きさでもあると思う。
23:02 - 2018年5月6日
(書き換えた)
あのような世界に触れてしまうこと、その世界へ跳躍できることは恐ろしくもある。生身の人間がたどり着けない世界に触れてしまったら、いったいどうなるんだろうか?
「憑依型」とか簡単に言われているけれども飼いならすことができる程度の才能ならばいいけれども…
23:54 - 2018年5月4日
チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレは別の世界への桁違いの跳躍力、あるいは感応力のもちぬしだったと思う。
12歳でリサイタルを行い16歳で本格デビューする。
10代前半でバッハやベートーベンの研ぎ澄まされた巨大な精神が宿ってしまうような演奏家だった。
だから生身のジャクリーヌは壊れていったとしか思えない。詩人のアルチュール・ランボーも17歳でヴェルレーヌに天才を愛されたが、21歳には詩作をやめる。その後、放浪し砂漠の商人になる。
飼いならすことのできない才能があるなら、何が生み出されてしまうんだろう。
***
「俺は正義にたいして武装した」(アルチュール・ランボー『地獄の季節』)
まるで「不協和音」にでも出てきそうなフレーズだ。
「ノンフィクション」のコラボレーション。とくに平手友梨奈さんのダンスをみてランボーの『地獄の季節』を再び読み始めてしまった。
『地獄の季節』。
ランボー19歳。彼が自ら出版した唯一の詩集。
ランボーの年齢から遠ざかり、手にとることもなくなっていたのに、ふと読み始めると、以前よりもはるかに痛切に言葉響いてくることに驚いた。
それはあのコラボとダンスに触れたからなのかもしれない。
あの「ノンフィクション」のコラボレーション、とくにそこに加わったダンスが平手さんのものだったこと。そのことでかき乱され、呼び覚まされる何かがある。私にとっては。
言葉がおびる響き、色彩、そんなものを変えてしまう。
その変容のさせ方が彼女にしかできないものだった。
19:09 - 2018年5月6日
枝野幸男が立憲民主党の立ち上げ時に欅坂46の『不協和音』をあげていた。そして先日香港雨傘運動を象徴する人物の一人、周庭も『不協和音』を聴きながら戦っていたと語っていた。
そして平手友梨奈の名前を聴き、あのパフォーマンスにたどり着いた。
知ったのはつい最近事だ。そしてまだその衝撃はより激しく、深くなっていく。生きていくこと自体が息苦しくなるくらいだ。
少しでも言葉にしないといけない気がしてこのアカウントをつくった。
写真をとり、録音し、映像を残すのは、言葉を書き留めるのと同じく、いつかは必ず自分も死ぬからだと分かっているからなのか。
けれども<生の時間>は記録できないもののことだ。
そしてもっと短い、とても短い<生の時間>の中にしか存在することができない、そんな美しさがどうしようもなくある。
そんな美しさは生きていることを揺るがす衝撃でもある。
けれども、それに出会ってしまうことは幸福なことなのかどうかわからない。
ましてやその美しさを表現する人が削り込む命は、流れ出ていってしまう命はいったいどれほどのものなのだろうか。
引きずられその美しさの深淵の渕に立たされおののいている私がいる。
平井は右手に花束をもち、淡々と歌っている。極力感情をむき出しにしないようにしているように。そしてその背後で、傍らで平手が踊る。その踊りはまるで平手の閉じ込められた心がむき出しの身体をもって表れてきたかのようだった。
そこはまるで生と死の境界のようだ。
無言の叫びのなかカバンに頭を突っ込む。
カバンの暗さの中で何を見ていたのか。いったいどこに行こうとしていたのか。
そこはきみに会いに行くための通路なのか。身体はこの世界にあり肩で息をしながら、その精神は向こう側に脱出しようとしていたのだろうか?
これからしばらくここでtweetし続けることになるんだろう。いつまで続くのか、どこに行き着くのか、そもそもなぜわざわざアカウントをつくってまでtweetしはじめたのか、いまは自分でもまったくわからないけれども、わからないままにつづける。ゴール地点などきめられないし、決めたくもない。
湧き上がってくる何かに押しつぶされるかもしれないし、いつのまにか枯れていくのかもしれない。わからないままに、あの世界の中を漂いつづけようと思っている。
だってそれだけの何かがあるんだと。そんな何かに出会えることってもう無いかもしれないんだから。
フジテレビはFNS歌謡祭の映像、カット割りしていないそのままの映像を後悔してくれないだろうか。
してくれないだろうなぁ。でもさ…
でも、振付師の人たちも踊り手も、TVに映っていないところでも全力を注いでいたはずなんだ。
あの踊りは、表現は生命を削っているようにすら思う。であれば、映っていないところにも、その流れ出す命があるんだ。
2018・5・5
ストリングスから平井が歌い始める。
「描いた夢はかなわないことの方が多い」。確かにそうだ。いつものことだ。
そして踊り手がゆっくり紙を破る。
まるで生命力が消え去ったみたいに、呆然として。夢が敗れることはいつものことかもしれない。
「いつものことだからさ。もういいや諦めるよ」。そう静かに言いながら、破った夢の欠片は捨てられることなく、そっと静かにカバンのなかにしまい込まれていく。
「いつものことだ」。何度も何度も繰り返してきたいつものこと。
きっとカバンの中はいっぱいだ。
20:06 - 2018年5月4日
歌い手の言葉を踊り手が表したのだろうか?
むしろ踊り手が描き出す情景が、新たな意味を、新たな生命を言葉と歌に与えているかのようにすら思える。あるいは隠されていた何かを引き出したようにも思える。
20:26 - 2018年5月4日
すべてを失ってしまったような、生きるていくことの意味そのものを失ってしまったような、そんなときも「いつものことだよね」と言ってみせる。その落差の中で私も震える。
20:26 - 2018年5月4日
あのような世界に触れてしまうこと、その世界へ跳躍できることは恐ろしくもある。生身の人間がたどり着けない世界に触れてしまったら、いったいどうなるんだろうか?
「憑依型」とか簡単に言われているけれども飼いならすことができる程度の才能ならばいいけれども…
23:54 - 2018年5月4日
チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレは別の世界への桁違いの跳躍力、あるいは感応力のもちぬしだったと思う。
12歳でリサイタルを行い16歳で本格デビューする。
10代前半でバッハやベートーベンの研ぎ澄まされた巨大な精神が宿ってしまうような演奏家だった。
だから生身のジャクリーヌは壊れていったとしか思えない。詩人のアルチュール・ランボーも17歳でヴェルレーヌに天才を愛されたが、21歳には詩作をやめる。その後、放浪し砂漠の商人になる。
飼いならすことのできない才能があるなら、何が生み出されてしまうんだろう。
23:54 - 2018年5月4日
FNS歌謡祭の平井堅/平手友梨奈の『ノンフィクション』。歌い手には歌い手の物語と思いがあり、踊り手には踊り手の、また違う物語と思いがある。
それが出会うとき、この『ノンフィクション』また別の『ノンフィクション』になる。
CDで聴く平井堅の『ノンフィクション』とも、工藤丈輝が踊るMVとも違う、別の世界が開かれてくる。工藤丈輝の踊りを平手はできないけれども、平手の『ノンフィクション』を工藤丈輝が踊ることもできない。振り付けのCRE8BOYにも踊れないのだと思う。
気がついたことがある。歌は昔の哀しみを歌うこともできる。昨日の怒りを歌うこともできる。
けれども身体の言葉は、いま、その時の哀しみや怒りや喜びだけしかない。身体の言語は、<いま、ここ>という時空にだけ存在している。そしてそうでしかありえないらしい。
現れた身体の言葉は隠すこともできず、留めることもできない。
だから。もう差し替えがきかない。
「気持ちを込めて踊る」と振付師が言っていたけれども、ひょっとすると<踊りが気持ち>なのであって、気持ちのあらわれが踊りなのではないかもしれない。