枝野幸男が立憲民主党の立ち上げ時に欅坂46の『不協和音』をあげていた。そして先日香港雨傘運動を象徴する人物の一人、周庭も『不協和音』を聴きながら戦っていたと語っていた。

そして平手友梨奈の名前を聴き、あのパフォーマンスにたどり着いた。

 知ったのはつい最近事だ。そしてまだその衝撃はより激しく、深くなっていく。生きていくこと自体が息苦しくなるくらいだ。

少しでも言葉にしないといけない気がしてこのアカウントをつくった。

 

 写真をとり、録音し、映像を残すのは、言葉を書き留めるのと同じく、いつかは必ず自分も死ぬからだと分かっているからなのか。

 けれども<生の時間>は記録できないもののことだ。

 そしてもっと短い、とても短い<生の時間>の中にしか存在することができない、そんな美しさがどうしようもなくある。

 そんな美しさは生きていることを揺るがす衝撃でもある。

 けれども、それに出会ってしまうことは幸福なことなのかどうかわからない。

 

 ましてやその美しさを表現する人が削り込む命は、流れ出ていってしまう命はいったいどれほどのものなのだろうか。

 引きずられその美しさの深淵の渕に立たされおののいている私がいる。

 

 

 平井は右手に花束をもち、淡々と歌っている。極力感情をむき出しにしないようにしているように。そしてその背後で、傍らで平手が踊る。その踊りはまるで平手の閉じ込められた心がむき出しの身体をもって表れてきたかのようだった。

 そこはまるで生と死の境界のようだ。

 

 

 無言の叫びのなかカバンに頭を突っ込む。

 カバンの暗さの中で何を見ていたのか。いったいどこに行こうとしていたのか。

 そこはきみに会いに行くための通路なのか。身体はこの世界にあり肩で息をしながら、その精神は向こう側に脱出しようとしていたのだろうか?

 

 これからしばらくここでtweetし続けることになるんだろう。いつまで続くのか、どこに行き着くのか、そもそもなぜわざわざアカウントをつくってまでtweetしはじめたのか、いまは自分でもまったくわからないけれども、わからないままにつづける。ゴール地点などきめられないし、決めたくもない。

 

 湧き上がってくる何かに押しつぶされるかもしれないし、いつのまにか枯れていくのかもしれない。わからないままに、あの世界の中を漂いつづけようと思っている。

だってそれだけの何かがあるんだと。そんな何かに出会えることってもう無いかもしれないんだから。

 

 フジテレビはFNS歌謡祭の映像、カット割りしていないそのままの映像を後悔してくれないだろうか。

 してくれないだろうなぁ。でもさ…

 

 でも、振付師の人たちも踊り手も、TVに映っていないところでも全力を注いでいたはずなんだ。

 あの踊りは、表現は生命を削っているようにすら思う。であれば、映っていないところにも、その流れ出す命があるんだ。

 

2018・5・5

 

 ストリングスから平井が歌い始める。

 「描いた夢はかなわないことの方が多い」。確かにそうだ。いつものことだ。

 

 そして踊り手がゆっくり紙を破る。

 まるで生命力が消え去ったみたいに、呆然として。夢が敗れることはいつものことかもしれない。

 

 「いつものことだからさ。もういいや諦めるよ」。そう静かに言いながら、破った夢の欠片は捨てられることなく、そっと静かにカバンのなかにしまい込まれていく。

 「いつものことだ」。何度も何度も繰り返してきたいつものこと。

 きっとカバンの中はいっぱいだ。

20:06 - 2018年5月4日

 

 歌い手の言葉を踊り手が表したのだろうか?

 むしろ踊り手が描き出す情景が、新たな意味を、新たな生命を言葉と歌に与えているかのようにすら思える。あるいは隠されていた何かを引き出したようにも思える。

 20:26 - 2018年5月4日

 

 すべてを失ってしまったような、生きるていくことの意味そのものを失ってしまったような、そんなときも「いつものことだよね」と言ってみせる。その落差の中で私も震える。

20:26 - 2018年5月4日


 

 あのような世界に触れてしまうこと、その世界へ跳躍できることは恐ろしくもある。生身の人間がたどり着けない世界に触れてしまったら、いったいどうなるんだろうか?

 

 「憑依型」とか簡単に言われているけれども飼いならすことができる程度の才能ならばいいけれども…

23:54 - 2018年5月4日

 

 チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレは別の世界への桁違いの跳躍力、あるいは感応力のもちぬしだったと思う。

 12歳でリサイタルを行い16歳で本格デビューする。

 10代前半でバッハやベートーベンの研ぎ澄まされた巨大な精神が宿ってしまうような演奏家だった。

 だから生身のジャクリーヌは壊れていったとしか思えない。詩人のアルチュール・ランボーも17歳でヴェルレーヌに天才を愛されたが、21歳には詩作をやめる。その後、放浪し砂漠の商人になる。

 

飼いならすことのできない才能があるなら、何が生み出されてしまうんだろう。

23:54 - 2018年5月4日

 

 

 FNS歌謡祭の平井堅/平手友梨奈の『ノンフィクション』。歌い手には歌い手の物語と思いがあり、踊り手には踊り手の、また違う物語と思いがある。

 それが出会うとき、この『ノンフィクション』また別の『ノンフィクション』になる。

 

 CDで聴く平井堅の『ノンフィクション』とも、工藤丈輝が踊るMVとも違う、別の世界が開かれてくる。工藤丈輝の踊りを平手はできないけれども、平手の『ノンフィクション』を工藤丈輝が踊ることもできない。振り付けのCRE8BOYにも踊れないのだと思う。

 

 気がついたことがある。歌は昔の哀しみを歌うこともできる。昨日の怒りを歌うこともできる。

けれども身体の言葉は、いま、その時の哀しみや怒りや喜びだけしかない。身体の言語は、<いま、ここ>という時空にだけ存在している。そしてそうでしかありえないらしい。


 現れた身体の言葉は隠すこともできず、留めることもできない。

だから。もう差し替えがきかない。

 「気持ちを込めて踊る」と振付師が言っていたけれども、ひょっとすると<踊りが気持ち>なのであって、気持ちのあらわれが踊りなのではないかもしれない。