NGTの菅原りこさん、長谷川玲奈さん、山口真帆さんの「卒業」公演とその際に書き下ろされた秋元康作詞の「太陽は何度でも」。

 

 きちんと考えるほどに深く怒りが湧いてくる。
 

 「太陽は何度でも」…手垢がついた比喩表現だ。「日はまた昇る」はヘミングウェイの小説だし、「陽はまた昇る」という映画やドラマがあった。「何度でも太陽は昇る」という歌詞をもつ歌もある。まぁありそうなフレーズだ。

 ありそうなフレーズだからだめということではないが、問題は、「自然現象」をふわりと比喩に使っていること。

 太陽は確かにまた昇る。
 しかし昇るのは、太陽が沈んだからだ。
 では、太陽が沈んだのは「自然現象」だったのか?
 違う。
 その太陽は、沈められたんだ。
 しかもそれは夕方の6時とかじゃない。たぶん、まだ太陽が最も高いところに昇るまえ、午前11時くらいの太陽が、登ろうとする太陽が、無理やり腕づくで地平線の下に沈められたんだ。

 そして秋元康は、太陽を沈める側だったんじゃないか。あるいは、それを指を加えて傍観していたんじゃないか。

 「AKSに対して組織的な権限がないから仕方ない」などとは言えない。

 太陽を沈めるなと発言し、行動していた人たちのほとんどすべてが、AKSに対して責任もなく、権限をもたない。だから「総合プロデュサー・秋元康」が無言を通す道理があるはずがない。

 しかも、組織的権限はないが、影響力がないわけがない。実際に松村匠取締役は彼から叱責されたといっている。明らかに小さくない影響力はある。しかしそれを彼は行使しなかった。

 情報が入らなかったとも言えない。一般の私たちよりも情報をとろうと思えばとれるはずだ。知っているスタッフだっているだろうし、芸能記者だっているだろう。私たちよりも情報が入らなどということは絶対にない。

 けれども普通の多くの人が発言し続けたし、し続けている。

 

 そうしたことを、自然現象を使って、何事もなかったように様々なことを覆い隠して、ふわりとキレイなものにしてしまう。
 

 言葉を使うものが一番やってはいけないことだ。
 言葉をもつからこそ、人間はものを捉えることができるようにもなったし、見えるようにもなった。言葉を失うと、物事は輪郭を失う。そして逆に言葉をもつことで大切なものが見えなくさせられることにもなったし、ごまかし、嘘を付くようにもなった。

 人間は嘘をつく。壮大な嘘をつける。そしてその嘘は言葉とともにある。だから言葉を使うことを生業とするものが、こういうごまかし方をすることは最悪なんだ。

 

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 これは菅原さん、長谷川さん、山口さんたちがどう感じ、どう考えたのかとはまったく別の事柄だと思っています。

 彼女たちが心から、あのタイトルに、あの楽曲に感謝をしていたとしても、一点の曇りもなく、そうだったとしても、あるいは、結果としてNGTを去ったことが良いことだったとしても、私自身はこの「太陽は何度でも」というフレーズを受け入れることができません。