私にとって『黒い羊』は、まず解禁された楽曲を聞いたところから始まるが、それはMVに触れたことが一つの頂点になっている。それは今もかわらない。私にとって「本来の『黒い羊』」とはMVに表現された世界のことを指している。
 書こうか書くまいか迷っていた内容を書こうと思ったのは、菅原りこさん、長谷川玲奈さん、山口真帆さんがNGTから離脱する公演で『黒い羊』を演じたからだ。

 NGTを離脱した3人+7人のパフォーマンスそれ自体を評価することは難しい。あまりにも状況と直接的にリンクしすぎているからだ。客観的に見ることができるようになるのにはずいぶんと時間がかかるだろうと思う。
 それにしても、これ以上ない生々しい「黒い羊」だった。

 3人の「卒業」公演での「黒い羊」のパフォーマンスを受けていくつかの典型的な感想が述べられている。その一つ。
 欅坂46のパフォーマンスでは最後に小林由依が<僕>=平手友梨奈とともに残る形になる。それは救いに見える。しかしこの3人の公演では誰も残るものがいない。そのことについて「救いがない演出に改変されていた」と言われている。

 それについてこうツィートした。

 ちょっと違う。
 「黒い羊」の歌詞にもMVにも「救い」はない。
 その後のTV用に変更が加えられた。MVのラスト、救いはどこにもない。
 むしろ中途半端な「救い」を断ち切ったところに「黒い羊」の孤高の価値がある。その時初めて救いがない人々の表現になりえる。
 「救いがない」姿が本来の姿だ」


 「中途半端な救いを断ち切った姿こそが『黒い羊』の本来の姿」なのだ。あのTVなどでのパフォーマンス用の振り付けと演出は、「黒い羊」がもつもっとも鋭利な、もっとも抜き差しならない力を失わせるものだと思う。始めてみたときには怒りすら感じた。なんだか安っぽいテレビドラマを見せられているような気分になった。


 もともと楽曲、MV、そしてスタジオないしステージでのパフォーマンスの間に重要な相違点がいくつかある。

1. 楽曲の歌詞はほとんどモノローグであり、他者は<僕>をとりまく状況としてのみあらわれる。そこに具体的な存在感はない。唯一のかすかな例外が「誰かがため息をついた」という箇所だけだ。それも「誰かが」であって具体的な存在が浮かび上がるわけではない。
 そして秋元康の歌詞は、その<僕>以外の全員が作り出す状況によって<僕>が追い詰められていくさまを描き出している。

 それにたいしてMVのでは各メンバーに物語が設定される。なかでも石森虹花、小池美波、小林由依、佐藤詩織、さらに渡邉理佐にはかなりはっきりと<物語の存在>が示されている。
 そして各メンバーの衣裳も置かれている状況も個々に異なっている。

 これにたいしてスタジオ版では、衣装が「制服」に統一されたこともあり、一人ひとりの物語は消去された。一人の語りだった歌詞=楽曲の世界が、MVでは多様に織りなす羊たちの物語の世界に押し広げられているが、スタジオなどでのパフォーマンスではもとの一人語りに戻されている。(モノローグからポリフォニーへ。そして再びモノローグへ。)

2. 1.は、別の美しさをもたらしはした。しかし<僕>と違う地点が描かれる物語が支えていた生々しさと具体的な存在感が消されることで、ステージ・スタジオでのパフォーマンスを強く抽象化した。象徴化といってもいいし、様式美になった、といってもいい。
 

3. 荒廃から秩序へ。
 具体的な<僕>の「黒い羊」化と一体の、混沌(とした世界)から秩序(ある世界)への転換、その「瞬間と構造」がきわめて明瞭に捉えられている。「大人」=社会的権力による<僕>への暴力的な攻撃が核心部分に据えられ、その暴力の発動を引き金に<白い羊(であろうとするもの)>と<黒い羊=僕>との世界の分裂が一挙に進行する。

 建物内部の、一人ひとりが互いに対立しあい、ときに抱擁するがすぐに突き放し合うような、そうしたカオスな、混沌とした世界から逃走、そして「黒い羊」の排除による無定形な対立が消失した「秩序」=コスモスの形成へ、世界は一挙に変貌する。

4. ラストのシーン。
 上記のことはそれぞれに思うところはあるけれども、さしあたり、それらがラストシーンの変化につながり、ここで「黒い羊」の世界は決定的に変質した。退行し、後退したと思っている。

 歌詞はこうだ。
 自らの真実を捨て白い羊のふりをする者よ
 黒い羊を見つけ 指を差して笑うのか?
 それなら僕はいつだって 
 それでも僕はいつだって
 ここで悪目立ちしてよう


 MVについては別項★「黒い羊」MVの構造 全シーンの整理(未完成→加筆中)でそれなりに整理した。ラストシーン直前からの部分を抜粋すると、

 平手が大人たちに突き飛ばされたその時からみんなが抱き合うようになるわけだ。

★この男性たちは、歌詞との連動を考えれば、ある種の<力>なのだろう。権威や権力といってもいい。顔を見せない、匿名の、あるいは象徴的な、だ。その<力>が平手を打ち付ける瞬間から世界が変貌し始めている。このMVのなかでももっとも暴力的なシーンだ。その力のあるものによる平手への暴力が羊たちの世界を2分割の引き金になっている。

4:30
 女性に突き放されたあと、平手は男性のもとに向かう。少し年上のように見える。スーツ姿の大人たちよりは若いが。
 平手から両手を広げて抱擁しようとするが、男性は平手を最初から突き放す。(430男性-平手01、02)
 そして男性が平手を突き放したことをきっかけ(最後の引き金になる)に、全体が左側に一挙に走り始める。それは誰かと手を取り合いながら。(431世界-平手01)

世界の決定的な変貌が完了した瞬間だ。


★この後ろの人々はあちらこちらで手を取り合っている。許しと和解の世界が繰り広げられている。少なくともいったんはそう見える。(けれども本当は多分、そうではない。→中間総括)
 そしてその世界は一方方向に走り去り、平手が一人反対側に走り去る。この瞬間に世界は二分割される。
 平手が「黒い羊」としてはじき出され、白かったり黒かったり、いろいろだった羊たちが一斉に「真っ白な羊のふり」をし始めた瞬間
だ。

 そして歌詞に即して考えるならば、このあとのシーンは「黒い羊」としてはじき出された平手が、自ら「黒い羊」であることを引き受け、覚悟するようになる過程になる。

 もう一つ。黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2から

 しかし平手はここで一歩前に進む。
 平手は自分が黒い羊として弾き出されることに抵抗し、同じ仲間じゃないかといってみたり、許しを希ったりしない。むしろ昂然と僕はここで悪目立ちしていよう、という。
 黒い羊としての存在を引き受け、居直り。
 こことはどこか?
 白い羊たちの眼差しの中だ。

 もう新しい黒い羊は出さない。
 小池、石森、渡辺、小林、佐藤、君がたちが黒い羊にされることはないんだ、なぜならぼくがここで悪目立ちし続けるんだから。だから君たちがそこにいたいならそれでいいんだ。 石森、小池、佐藤たちへの強い愛情を平手は持ち続けている。
 そんなメッセージが聴こえる。
 だから平手はここから退かない。死ぬ道は選ばない。

 平手が「ここ」を去るならば、次の「黒い羊」を社会は生み出す。

 平手が石森、小池らに愛情を持ち続けていること、そして石森、小池らが平手への愛情を持ち続けていること。それがどこかでスパークするならこの構図は崩壊する。
 白いふりをしている羊たちがほとんどすべてなのだ。それを自覚もしている。だからこそ「白いふり」を全力でやる。
 羊たちをコントロールしている<力>=大人たちは力はあっても、実はごく少数なんだ。

 だから小池が一歩前に、全体よりも、前に進み出たら、構造は崩れるかもしれない。
 あの分割の前の抱擁は、その可能性を強く感じさせる。彼女たちは平手への強い愛情をもちながら白い方に走っただけなのだ。平手が悪目立ちし続け、彼女たちが一歩前に歩み出たとき、第3章が始まる。それは1章への回帰ではない。





 スタジオなどでのパフォーマンスでは集団が立ち去り、「黒い羊」とされた<僕>と距離をおいたところから見つめる誰かが佇み、世界が閉じていく。

 「ここで悪目立ちしていよう」と最後に<僕>が言う。
 「ここ」とはどこだ? 「悪目立ち」し続けることはどういうことか?


 MVはこの言葉にたいする応答をしているが、残念ながらスタジオ盤のパフォーマンスでは消されてしまった。
 これが私には致命的な退歩に思える。

 上記の「黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2から」「「黒い羊」MVの構造 全シーンの整理(未完成→加筆中)」として書いた文章には理論的な背景があった。実質的に同じような内容の繰り返しになるが、別の方向から再論する。

 まず二つの文章を引用する。二つとも『暴力のオントロギー』(今村仁司)からのもの。

 ”第二の現象は、二項的相互性の維持のために、第三項が絶対的に排除される、という社会関係に根源的に内在する論理である。私はこの現象を「第三項」問題と名づけたい。第三項は、二項対立的関係(相互性)を維持したり、あるいは二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学を示唆する。第三項は、相互性の存立のために、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される。典型的なケースが、供犠であり、身替り犠牲であり、荒地への追放であり、異人化であり、その他、いろいろと人類学的観察事例は極めて多数ある。”
(今村仁司『暴力のオントロギー』p29)


 次の文章は、『暴力のオントロギー』に引用されていたルネ・ジラール『世界の初めから隠されていること』の文章。

 ”各人の各人に対する対立につづいて、突如として万人のひとりに対する対立がつづく。個々の紛争のカオス的な多様性につづいて、一挙に唯ひとつの敵対関係の単純さが生まれるー一方には共同体の全体、他方にはひとりの犠牲者。犠牲的解決が奈辺にあるかは難なく了解できる。共同体は全員一致して、身を守ることができないだけでなく、復讐を企てることがまったくできない犠牲者を血祭りにあげる。犠牲者をやっつけても新しいトラブルは生じないし、危機を拡張させることもない。なぜなら犠牲者を殺すことは共同体のすべての犠牲者に対して結束させるからである。供犠とは、おまけの暴力、他の諸々の暴力に付け加わった一つの暴力でしかないが、それは最後の暴力であり、暴力の最後の言葉である。”
(同上 p236)


 「各人の各人に対する対立につづいて、突如として万人のひとりに対する対立がつづく。個々の紛争のカオス的な多様性につづいて、一挙に唯ひとつの敵対関係の単純さが生まれるー一方には共同体の全体、他方にはひとりの犠牲者。」
 まったくそのまま『黒い羊』のMVの構図だ。

 そしてジラールはその暴力を「最後の暴力であり、暴力の最後の言葉である」と述べている。それはどういうことか。
 今村はこう述べている。「二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学を示唆する。第三項は、相互性の存立のために、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される。典型的なケースが、供犠であり、身替り犠牲であり、荒地への追放であり、異人化で」ある。
 社会は一対一の人間関係の集積でもあるけれども、その「二項関係が危機に陥って」、つまりは『黒い羊』の前半のシーンのように、すべての人々が対立し合うような状態のことだと言っていいだろうが、そうした危機に際してその危機からの回復のために第三項=「黒い羊」を暴力的に排除する。そしてそれを「社会関係に根源的に内在する論理」であり、「運命的」という。何のために?「社会関係のシステム(相互生)がシステムとして閉じて自立するため」(p38~39)だ

 つまり『黒い羊』が排除されることは、あの<僕>の背後で全員が相互の対立が中止され、混乱が終息させられ、その限りで秩序が回復されることだということになる。むしろ今村・ジラールをふまえるならば、『黒い羊』を生み出すことは、社会が「秩序と安定」を回復するためのことだとされている。ルネ・ジラールの言う「最後の暴力」とは社会の内部の相互の対立が終焉するということになる。
 暴力を主語に言えば、世界のいたるところに存在していた暴力が<僕>一人に集中した、偏在していた暴力が一点に集中した。観点を変えれば、<僕>がすべての暴力を吸収し、吸い上げることで世界に蔓延していた暴力が消え去るわけだ。

 今村やジラールの暴力と人間、暴力と社会の関係についての思想的格闘はこれ以降、永続的に続けられる。今村仁司の生涯を通してのテーマだったと言ってもいいが、いまここでそれに触れることはできない。

 しかし今村・ジラールの述べていることの恐ろしさは、これが一過性のものではないことだ。「二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学」という以上、社会が混乱し、秩序を回復しようとするとき、必ずまた「黒い羊」を生み出すということだ。社会が「黒い羊」を生み出し続けるわけだ。

 

 今村仁司、ルネ・ジラールの引用の前に提出した問いはこうだった。

 「ここで悪目立ちしていよう」と最後に<僕>が言う。
 「ここ」とはどこだ? 「悪目立ち」し続けることはどういうことか?


 『黒い羊』MVの冒頭シーンは、おそらくは誰かの飛び降り自殺の痕跡からはじまる。そして<僕>はその死者に手向けるかのような赤い彼岸花を抱きしめている。
 「ここ」とはどこか?
 MVに即して言えば、あの「白い羊のふりをする者たち」の視線の中だ。
 「悪目立ちし続ける」とはどういうことか?
 「黒い羊」であり続けることだ。

 そのことの意味は何か。
 <僕>に先行して存在したかもしれない、したであろう「黒い羊」への想いを胸に抱きかかえ、これからまた生み出されるかもしれない、その運命に直面するかもしれない新しい「黒い羊」をその危機から救い出すことだ。つまり<僕>が「ここ」で「黒い羊」として「悪目立ちし続ける」限り、新しい「黒い羊」が生み出される運命が回避されることになるわけだ。
 それはあの<僕>の壮絶な決意だったのだと思う。

 だからあのラストシーンで「黒い羊」を生み出した社会=集団を立ち去らせてはいけない。その先にあるのは、<僕>のしらないところで次の「黒い羊」が生み出されるということだからだ。あの集団が立ち去り、小林由依が一人残ることで、あたかも<僕>の救済の道が示されたように思うのは、確かにそうだ。しかしそれは「中途半端な救済」でしかない。
 けれども、MVの<僕>はそのような「個人的な救済」を遥かにこえてしまった地点を指し示していたのだと思う。いわばキリストが十字架で人間のすべての罪を背負って死を受け入れたのと同じ構造になっているのだと思う。スタジオ版の演出は、あのMVの<僕>のもっとも核心にあった覚悟と意志と意味を失わせてしまうものだったと私は思っている。

「黒い羊MV構造についてのラフスケッチー黒い羊ノート2」の終わりにこのように書いた。

 「だから小池が一歩前に、全体よりも、前に進み出たら、構造は崩れるかもしれない。
 あの分割の前の抱擁は、その可能性を強く感じさせる。彼女たちは平手への強い愛情をもちながら白い方に走っただけなのだ。平手が悪目立ちし続け、彼女たちが一歩前に歩み出たとき、第3章が始まる。それは1章への回帰ではない。」


 今村やルネ・ジラールは社会全体の論理を考えていたが、『黒い羊』のMVは、それ自体が大きな社会のメタファーとなっているが、同時に、きわめて生々しくそのプロセスを描き出した。
 生々しく、ということには<僕>の痛切な痛みも含まれているが、それ以上に石森虹花、佐藤詩織、小池美波、小林由依、渡邉理佐などの「白い羊のふりをするもの」たちに具体的な顔と物語が与えられることによっている。つまり今村、ジラールの捉える理論的な世界には存在することがなかった具体的な存在がそこにいる
 「白い羊のふりをするもの」たちは、みな同じなのではない。<僕>と強く抱擁しあったものがいる。同時に、最後に「顔を隠した大人」=恐らくは存在を画した権力のメタファーが<僕>対して激しく暴力を振るうことを引き金にして一挙に世界が二分割される。その世界の分割の構造も克明に描き出された。
 このことの意味はとても大きい。

 一方では抱擁したものから拒否されるという<僕>の痛みがよりつよくなることではあるが、もう一方では、誰かが一歩踏み出すことであの冷たく秩序だった「社会」の堤防が崩れていってしまうかもしれない可能性を孕んでいるということでもある。それを可能にしたのは「一人ひとりの存在」がきちんと設定され、「一人ひとりの物語」があり、その一人ひとりと<僕>との関係性が描かれたことだこの点、MVのははっきりと秋元康の歌詞の世界を超え出た。
 けれども、スタジオ版の演出では、その「一人ひとり」が消えてしまい、さらに「白い羊のふりをするもの」を含んだ集団が立ち去ってしまう。ここですべての可能性は潰え去ってしまう。だから立ち去ってはいけないのだ。小林由依一人が残っても、世界は変わらないのだ。新しい[黒い羊」がどこかでまた生み出されるのだ。

 その時、再び世界は混沌とし、新しい「黒い羊」を生み出すのかもしれない。
 けれども、それが今度は、あの最後に平手を突き倒した者になるかもしれない。権力と権威の象徴だった存在が打ち倒されるかもしれない。
 そうなったらいったいどうなるのだろうか?それが本来「革命」という名前で呼ばれるものだろうか?それは上記の引用文などが想定していなかった新しい世界なのかもしれない。

 私にはあの『黒い羊』のMVのはこんな地点にまでたどり着いたように思える。『黒い羊』MVはこの世界を照らし出し、暴き出し、そこに裏返された希望を垣間見させた。しかしスタジオ版のパフォーマンスは、それを<僕>の個人の物語にしてしまった。