あまりに衝撃的だった。

 

 2019/09/09の 「欅って、書けない?」での選抜発表。欅坂46が選抜制に移行。

 

 胃が痛い。頭の中をわけのわからないものがぐるぐる回ってる。来週から「ケヤかけ」を直視できるかどうか自信がない。それでもそのうち慣れていくんだろうか?でもすぐにはできそうにない。ぐるぐる回っているものを吐き出すために書く。たぶん、それなりの毒を吐いてしまうと思う。

 

 

 2期生が大量に入ったときから選抜制になるのかもしれない、とは思っていた。けれども、その結果は衝撃的だった。

 鈴本美愉、小池美波、織田奈那、齋藤冬優花、石森虹花、長沢菜々香、尾関梨香、1期生から7人が外れた。非選抜(アンダー?)は9人。アンダーライブをやることになるんだろうか?今野氏は乃木坂で成功したことを欅坂でも、と思ってるんだろうか?

 

 それにしても9人か。ライブをやるにしても少ない。乃木坂46みたいにもともとカップリングのアンダー曲があったわけではないから、もしライブをやるにしてもユニット曲か、表題曲を含め全員でパフォーマンスした曲しかない。このくらいの人数でやった曲はない。フォーメーションからすべて作らないといけない。手直しではすまない変更になる。

 

 …坂道研修生がいる。

 坂道研修生、日向坂に続く第4のグループになるのかもしれないと思っていたけど、欅坂の選抜制への移行と研修生の浮上はセットなのかもしれない。ひょっとすると大半が欅坂と日向坂に配属され、日向坂も選抜制になるのかもしれない。欅坂の次回シングルは「冬」、日向坂も年明けになるだろう。研修生を入れて新体制になっても間に合う。これが一番リアルなところかもしれない。

 

 しかし、これは欅坂が欅坂でなくなることかもしれない。少なくとも私が勝手に思い描いてきた欅坂46ではなくなるのかもしれない。欅坂46にはAKBグループとは違う、また乃木坂46ともまったく違う方向性があるかもしれない、と思っていた。

 

 

 菅井友香が停滞感を口にしていた。その打開策としての選抜制。

 わからなくはないけれども、停滞感があったとして、その打開策は選抜制しかないわけではなかったと思う。

 

 秋元康のプロデュースする日本の女性アイドルグループは、歌やダンスのスキルで選抜・非選抜が決められていない。そこにウェイトがそもそも置かれていない。グループとしての歌・パフォーマンスを磨き上げることにウェイトが置かれていないからだ。

 少なからぬ人がグループが成長するには競争が必要だ、選抜制が必要だ、という。欅坂のファンにもけっこういると思う。

 けれども冷静に考えてメンバーがその都度変動していて、どうやってグループとしてのパフォーマンスを練り上げられるんだろうか?楽曲ごとに大きくメンバーが変わるオーケストラなど見たことがない。たいていのバンドもメンバーはだいたい固定し、そこで音を磨いていく。微妙なアンサンブルや呼吸は、手練のバンドなら別だが、やはり熟成期間が必要だ。メンバーが固定しているから停滞するなどということはない。目指すべき高みがあり、その高みへの意志が現状を許してくれない。現状を否定し、もっと先へと進めと自分のイメージが自分を駆り立てる。停滞などしない。

 

 日本の女性アイドルグループだけ、どうして違うのだろう。いや、秋元康プロデュースのグループだけどうして違うのだろう。

 

 シンプルにプロデューサーやマネジメントの意志と力がそうしたところに向けられていないからだ。そしてそうした地点を目指すものとしてグループが組織されていないからだ、と思う。

 

 AKBグループの初期のダンス指導者であり、ステージマネージャー的なことまで一手に引き受けていた夏まゆみ氏がAKB48の指導をやめたのは、ストレッチの重要性を巡ってAKBの運営と対立したからだとも言われている(『AKB48とニッポンのロック 秋元康 アイドルビジネス論』田中雄二 スモール出版 p339)。運営体制が違うNMBだけが、ストレッチをいまもきちんとやるらしい。

 素人目にも乃木坂や欅坂はその「ストレッチをやらない」側だと思う。私から見ても何年もダンスのレッスンをしてきたとは思えない身体の硬さが目につくことがある。またあるメンバーは「カラオケで練習してきた」といっていたこともあった。日常的にボイストレーニングを受けたりはしていないのだろうと思えてしまう。

 端的にいって秋元康やマネジメント会社に、そうした土台をしっかり作り上げていく問題意識はないのだと思う。

 だからパフォーマンスや表現力(歌を含めて)の高みをめざしてグループとして磨き上げていくということが目標にならないのではないだろうか。

 

 個々のメンバーがそういう意識を持っていないというのではない。個々には見違えるような力をつけてきているメンバーもいる。

 けれどもどうもフリの練習は行われていても、地道な基礎練習がなされていないのではないか、と思うことはやはりある。そうした指導がないのではないかと思ったりすることがある。

 たぶん自分のイメージとしてはこのくらいの大きさで踊りたい、でも体幹が弱く大きく踊るとリズムの打点に遅れるとか、イメージしているだろうな、と思うところまで身体を動かすことができなかったように見えてしまう関節の可動領域の狭さとか… そうしたことが時折目についてしまう。

 そのことをメンバーがどう思っているのかわからない。確かに「ダンスは技術じゃなくてエモーショナルなものだから」(齋藤冬優花)というのは正しいと思う。けれども、エモーショナルなものは技術なしで表現できるわけではない。小さな子どもが道端で泣いているとする。その感情が痛いほど伝わってくるとする。とてもエモーショナルだ。けれどもそれはダンスではない。歌でもない。

 いい歌とうまい歌は違う。確かにそうだ。気持ちが伝わる歌。確かに大切だ。けれどもそれは下手でいいということではない。技術がなければ表現できないことは絶対にある。当たり前のことだ。歌やダンスが一つのツールだとすれば、楽器も一つのツールだ。下手な楽器演奏で表現できることは、とても限られている。

 

 当たり前すぎてことさらに書くのもどうかと思うような内容だ。でも秋元のプロデュースの世界では、それは当たり前ではない。

 

 私は欅坂46に、このグループにだけ、グループとしての圧倒的な、次元の違う磨き上げられた表現力・パフォーマンス力をもつようになるかもしれないと思ってきた。

 しかし総合プロデューサーや運営のトップが表現の土台をしっかり固める意識をもっていない(と思う)ということだ。たどり着けるかもしれない世界を彼らが低めていると思ってしまう。グループとして、たどり着こうとする表現の高みをプロデュースしているとはとても思えない。

 であれば、停滞感が生まれたとして不思議ではない。目指すべき地平がないところに、どうして前に進む推進力が生まれるだろう。

 いや、目指すべきところはあるかもしれない。例えばレコード大賞とか、CDの売上とか。

 けれども、それは結果であって、グループとして、どのようなパフォーマンスをしていくのか、ということの指標にも推進力にもならない。

 

 

 そして、ほとんど誰も論じないけれども、NGT48の事件も、根本にはこの問題があると思っている。

 AKBグループの選抜/非選抜は様々な要因で決まっているようだけれども、一番目立つのは選抜総選挙と握手会だろう。他にもSNSやネット配信のアクセス数なども指標化されているようだ。Google+をAKBのメンバーが開設したときは、Google社とタイアップする戦略だったらしい。じっさい、Google+への登録者数は一挙に増えたようだし、秋元が止めさせたらしいが、当初はAKSのスタッフとGoogle社のスタッフで投稿を検閲したとも言われている(上記、『AKB48とニッポンのロック』p432)。そのぐらい強いタイアップ戦略がとられたようだ。そしてデータがとられ、人気度がはかられていく。

 では、どうやってメンバーは前に出るのだろう?

 歌やダンスを磨いても、それで選抜に選ばれるわけではない。だから個人の人気商売になるほかない。であれば、その中の何人かが「個人営業」を積極的に行い始めることに何の不思議があるだろう。

 

 

 秋元康のグループが、楽曲の歌やダンスパフォーマンスでの表現力を磨き上げることを根っこのところで放棄していること。

 そうずっと思ってきた。思ってきたけれども言葉にしたことはなかったけれども、欅坂46の選抜制への移行という衝撃の中で封じておくことができなくなった。

 選抜制などという人工的な刺激策をとらなくても、グループは切磋琢磨し、遥かに高いイメージに向かって自分たちを自分たちで打ち破り、前に進んでいくことはできることなんだ。別段難しいことでも、特別なことでもない。オーケストラやバンドは、たいていそうしていることだ。あるいは個人で何かを行っている場合でもそうだ。自分でこうなりたい、という強いイメージがいまの自分を作り変えていく。それは当たり前にどこにでもあることだ。

 

 

 「サイレントマジョリティー」からはじまって、「黒い羊」まで。

 特に「黒い羊」は衝撃作だった。いわゆる「アイドルグループ」が表現できうるギリギリの地点にたどり着いたと思っていた。欅坂46のなかでも突き抜けて深刻な楽曲になった。それは各メンバーの想い入れを見ればわかる。MVがそれをもっとも鋭く表現している。

 そしてそのとき、同時に思ったことがある。

 秋元康は、「黒い羊」をこえる強度をもった楽曲はつくれないかもしれないということ。「黒い羊」をこえるためには、秋元康が、これまでの秋元康の枠をこえなければいけなくなるだろうということ。あの楽曲ほど深く、鋭く、この社会のありようをえぐり出した楽曲は、たぶん、3000曲か4000曲ほども作詞している秋元にもないと思う。

 メンバーは「黒い羊」にまで上り詰めた。MVがそれを表現した。あるいは「欅って書けない」のあの滝行の回。あれもその現れだった。あんなアイドルのバラエティー番組ってあるだろうか? ないと思う。あそこまで彼女たちは登りつめ、研ぎ澄まされていった。

 しかし、あの放送回の延長線上に「ケヤかけ」を考えることができないように、「黒い羊」の延長線上に次の楽曲を秋元は考えることができないかもしれない。

 今回の選抜制の導入は、総合プロデューサーの秋元康や運営会社が、「黒い羊」を突き破って向こう側に行くのではなく、その厳しさから引き下がり、別の方向に向かおうとする合図に思えてならない。

 最初の方、「私が勝手に思い描いてきた欅坂46ではなくなるのかもしれない」と書いた中身だ。

 

 

 

 

 今回は平手友梨奈をセンターからいったん外してみるチャンスでもあった。それが平手友梨奈が欅坂46で活動し続けていけるただ一つの道なんじゃないかと思っている。

 

 平手はセンターしかできない存在にされてしまった。これはたぶん、秋元康のせいだ。私は平手は年の半分くらい欅坂で活動してくれたらいいと思っている。平手センターのシングルと、そもそも平手が参加しないシングル。

 2016年、デビューの年、サイレントマジョリティー、世界には愛しかない、二人セゾン

 2017年、4月、不協和音、10月、風に吹かれても。

 2018年、3月、ガラスを割れ、8月、アンビバレント。

 2019年、2月、黒い羊。そして冬。冬っていつだ?

 年2枚のシングル。発売間隔も開いてきている。これはグループ活動として成り立っているんだろうか?というレベルだと思う。秋元康の忙しさと広範囲に手を広げている商売方法もある。けれども平手の体調の問題は少なからずあると思う。そしてそれが彼女を追い詰めてもいる。

 確かに平手友梨奈は特別な存在感をもっている。だったらさ、年半分でもいいんじゃないか?

 それに…平手の存在感、表現力は確かにある。けれども、パフォーマンス力は落ちてきていないか、と思うことがある。身体が動かなくなってきているんじゃないか、と。そして平手ありきで、平手のペースにグループを合わせることが、果たして正しいのか?

 「黒い羊」にしてもそうだ。

 あの楽曲は昨年のクリスマス時期にあわせた楽曲だったはずだ。9月くらいに最初のMVを撮影しているはずだ。使われている音も、クリスマスらしいものになっている。

 けれどもそれを今年2月リリースにしたのは平手の状態が良くなかったからだ。運営は、この構図を、ずっと続けていくつもりなのだろうか?平手友梨奈は「ケガをする人」「体調を崩す人」なんだ。本人の体調管理に問題があるのかどうかしらないが、体調不良やケガに悩まされる人は実際にいる。そういうものとして秋元も運営も腹をくくってグループを作っていったほうがいいのではないか思う。今回はそのチャンスだと思っていたんだけれども…

 

 

 

 秋元康の商売方法と書いたついでに若干。

 率直に言って秋元康の商売にとって、どこのグループが売れようが潰れようが関係なくなっている。

 運営会社はメンバーを抱えているから当然、そのグループが売れなければ赤字になるが、秋元は違う。例えば乃木坂がAKBを圧倒し、吹き飛ばしてしまっても乃木坂が売れていれば、欅坂が乃木坂を引きずり下ろしてしまっても欅坂が売れていれば、作詞家・秋元康の収入はかわらない。どこかのグループが売れていさえすれば秋元には収入がちゃんとはいってくる。

昨今、海外にグループ展開しているけれども、それらのグループも秋元プロデュースの楽曲を訳詞で歌うことが義務付けられるところからはじまる。AKBグループではこの3年くらい劇場公演用のセットを作っていない(2016年2月AKB48チームA『M.T.に捧ぐ』が最後)。いまは、すでにつくられた公演用のセットをリメイクして再上演しているだけだ。しかし旧作が売れるなら秋元には著作権料がはいる。そう考えると、乃木坂などが「全曲披露」をするのも、秋元的利害にはとてもかなったことだ。よほど人気のある曲でなければ、通常、アイドルグループの楽曲が10年後も歌われ続けることはあまりない。しかし、秋元プロデュースのグループは、ずっと楽曲を掘り起こし続けている。そしてそれが秋元の収入になり続けている。演奏すると著作権料が入ってくるようになっているはずだし、掘り起こされる楽曲を聴くためにCDやDVDを買ったりするからだ。

 

 いま秋元はとんでもなく手を広げているが、その中のどれかが売れていけばそれで収益があがる。いってみれば分社化した一群の会社があるようなものだ。連結決算するとして、トータルで黒字だったらよい。赤字部門があれば早々に潰れても構わない。そこにいる人達にはそうはいかないが、社長には何の問題もない。ここで、「そこにいる人たち」がメンバーであり、各々の運営会社だ。例えばAKB本体がこけたらAKSは潰れる。しかしSKEやNMBが売れていれば、乃木坂や欅坂が売れていれば、秋元として問題はない。そういう構造になっている。

 NGT問題で吉成夏子が全く間違った道ではあるけれども、必死にのたうち回っていても、秋元康には何も痛くない。そういう構造になっている。

 だから秋元康にはいま、自分がプロデュースしているグループを熟知し、育て上げていくということに利害はない。収益だけで言えば「別にどうでもいい」とすらいいうる。

 

 そうした中で、実は乃木坂と欅坂では、秋元康の運営への関わり方が違うようだ。欅には秋元が「実業家としてかかわっている」(前掲『AKB48とニッポンのロック』p632)。この点が今後、どう影響してくるか。

 

 

 いろいろ脈絡がないところもあるけれども、かなり毒々しい…のだろうか?

 すぐに削除することになってしまうかもしれない。