乃木坂46・4期生ライブの林瑠奈の『自分のこと』。
歌唱力がどうとかはいまは言わないけれども、これだけ強い気持ちがこもった歌はなかなか聴けない。
忘れてたな。
例えば好きな人を目の前にして歌うことだってあるかもしれないし、辛いときに自分を励ますために歌うことだってある。林瑠奈もそうやってこの『自分のこと』を歌ってきたとブログに書いていた。たった一人の誰かのためにだけ歌う。そういう歌があることを忘れてた。
強い、まっすぐに伸びる歌声。大サビで声を張りながら視線はどこか遠くを見ている。中元日芽香のことを思っているんだろうか?それとも少し昔の自分に向けて歌っているのだろうか。本人はいろんな思いが交差し、交錯し、覚えていないみたいなことを書いていた。でも、いずれにしても、どうしても、どうしてもあの人に届けたいんだという思いの強さは伝わってくる。
7th Birthdayliveの久保史緒里が歌う『君は僕と会わないほうが良かったのかな』もそういう歌だったと思う。
売上や票数が問題になるんじゃないなら「たくさんの人に届く歌」がいい歌だというわけじゃなかったな。そもそも全部の歌が「多くの人に届けるため」に歌われるわけじゃなかった。人数なんて本当は問題ではなかった。むしろたった一人の誰かのためだけに歌われる歌のほうがずっと響いたりする。そういう歌だからこそ時代や国境をこえて歌い継がれてきたりもすることだってある。
歌、歌うことの本当の姿はこういうものなのかもしれない。もともと歌は聴衆を前提にしていたわけでもない。それどころかもうすでに失われてしまった人にむけて歌うことだってある。
きっと普通の言葉よりも遠くに届きそうな気がするからだろう。
『自分のこと』を届けたい相手はいまそこにいない。大サビと歌い終わったあと、林瑠奈の視線はカメラをはずれ、ちょっと遠いどこかを見ていた。ひょっとするとそれは「ちょっと遠いどこか」ではなくて、自分のイメージに向けられていたのかもしれない。そこにはいない届けたい相手を林瑠奈は見つけられていたんだろうか。
その歌は「祈り」に近いものなのかもしれない。ちょっと大げさだけど、歌って本当はそういうものだったと思う。
ここまで書いてきて、堀未央奈にも届けたいと思っていたのかもしれないな、と思えてきた。中元日芽香や昔の自分だけじゃなくて。
堀未央奈の卒業がメンバーに知らされたのは26thの選抜発表前だった。この4期生ライブで林瑠奈が『自分のこと』を歌うと決めたのが直接、そのせいだったのかどうかわからないけれども、中元日芽香に卒業時に与えられた『自分のこと』を、堀未央奈の卒業発表直後のライブで歌う。偶然のことだろうか?偶然のことだったとしたら、もう何か奇跡のような偶然だと思う。
それにしてもサイリウムカラーをピンク・ピンクにしている重みを背負うといい、いまは「推し一択」という林瑠奈が、11月27日に堀未央奈の卒業が発表される中で、中元日芽香の『自分のこと』を歌う。中元日芽香の『自分のこと』をソロで歌うのは、井上小百合以来、2人目かもしれない。中元日芽香はこの歌を誰かの前で歌うことがなかった。
2018年8月、自己チュープロデュース企画で『自分のこと』を歌う井上小百合
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乃木坂46の運営はライブDVD、Blu-rayを相当にCD音源にしているけれども、あれはやっぱり止めた方がいい。久保の声は入っていると思うけど、全体で歌っていれうところとかは繰り返し聴き比べたけど明らかにCDと同じ音源だと思う。それはライブパフォーマンスではあるかもしれないけど、ライブじゃない。その場の空気、その時の感情が歌と声に影響する。それがライブでしょう?何年の前の声を聴いて、それがライブなわけがないでしょう?どう考えたって。
ファンの中には200曲もあるんだ、歌詞とか覚えられるわけがないだろうという人がいるけど、そんなことはありません。覚えられます。もっと覚えている歌手もたくさんいるし、もし覚えられないなら舞台なんておよそできないじゃないですか。
【2021/08/25 追記】
モデルプレスに林瑠奈のインタビューの抜粋が掲載されていた。
「ライブ中、ソロで歌ってもいいと言われたらどの曲を選ぶ?」という質問には「恐れ多いのですが卒業生の堀未央奈さんのソロ曲 『冷たい水の中』を歌いたいです」と打ち明け、「堀さんが披露されたのは2期生ライブだけでしたし、あのライブも配信ライブだったのでいつか、皆さんに見守って頂いている中で生で披露したいという思いがあります。でも、歌わせてもらうにはまだまだ早いというか、もっとパフォーマンス力を上げなければ、と思っています」と想いを語っている。
乃木坂46林瑠奈、目標にしたい先輩・いつかソロ歌唱したい楽曲とは
【モデルプレス=2021/08/23】
自己チュープロデュース企画で、井上小百合が中元日芽香の『自分のこと』を歌った。中元日芽香のソロの、そして最後の録音だった。井上はどこかで「一度もライブで歌われてないから」と話していた。中元日芽香と、一度も誰かの前ので歌われることのない歌への想いだ。
そして林瑠奈が「堀さんが披露されたのは2期生ライブだけでしたし、あのライブも配信ライブだったのでいつか、皆さんに見守って頂いている中で生で披露したいという思いがあります」という。
その人への想いは当然ある。けれどもそれだけではなくて、重なりながらも微妙に異なる「歌」への想いがあるような気がする。
『冷たい水の中』は、その時の堀未央奈の卒業発表という驚きとともに、その意志と想いが、声、表情、パフォーマンスとなり、それが一個の作品としてミュージックビデオに刻み込まれ、非常に強い印象を残している。別の言い方をすれば『冷たい水の中』はそのようにしか存在していない。映像や堀未央奈と切り離して考えることができない。
それをもし安易に誰かが歌えば、その歌を簒奪することになるかもしれない。簒奪というのは、その歌が本来持っていた意味、込められていたものを切り捨て、破壊するかもしれないということだ。
けれども、もし林瑠奈が歌う機会があれば、たぶん、そうはならないだろう。そう思えるもは『自分のこと』を歌った林瑠奈を見たからだ。
確かに林が歌えば、まったく別の意味を帯びることにはなる。
けれどもそれは、現役のメンバーによる堀未央奈と楽曲へのオマージュが重なることだ。卒業のための楽曲というだけの意味ではなくなる。その時、歌は堀未央奈の存在や、映像作品の意味を切り捨てることなく、さらにそこに積み重なるものがあり、自立した一個の作品になるのかもしれない。
一個の作品として自立するということの意味は大きい。
「アイドル」は卒業する。あるいは引退する。けれども歌は、作品は生き続ける。少なくとも生き続ける可能性をもっている。歌い手、作り手の意志や存在をこえて、自立した作品は生き続ける。それが作品を残すことの意味なのだと思う。あえていえば人間は死ぬ存在だからこそ、作品をつくり続けるような気もする。
そして生き続ける作品に様々な出来事、想いが折り重なる。そこに歴史というものが生み出されていくのだと思う。
そんな扉を林瑠奈が開くことを期待している。