たいした経験値があるわけではないけれども、こんなMVは見たことがない。

 悔いが残っていると語るMVなんてあっただろうか。こんなに孤独なMVはみたことがない。こんなに晴れやかさも、喜びも、楽しさも、そういうものがないMVをみたことがない。こんなに胸をえぐられるMVをみたことがない。
 同時に、どこかで遠い記憶を呼び起こすような、不思議な懐かしさ、どうにもならないような懐かしさも感じてしまう。

 これはもうMVをですらないと思う。

 ここにあるのは濃縮された7年間の塊だ。その7年間の最後にもっとも重い決断を立った一人で行う堀未央奈の姿だ。その先に晴れやかな、輝くような未来が待ち受けているかどうかなんてわからない。未来に向けて、一つの決断をする。しかし「未来」という単語がいつもいつも定型的に「希望」と結びついているのではない。かといって地獄からの脱出でもない。その瞬間の姿が7分54秒に濃縮されている。
 それにしても「決断するということ」の孤独さを痛いほどに感じる。


 山戸結希監督の『冷たい水の中』は極めて深く考え抜かれた作品に思える。けれどもその成否は「”堀未央奈”役を演じる主演堀未央奈」にすべてがかかっていた。それを見事に堀は演じきった。想像以上に演じきったのかもしれない。
 けれども、堀が見事に演じきった結果、逆に、この堀未央奈を「主演・堀未央奈」と呼ぶこと、『冷たい水の中』を「映像作品」とすることに抵抗感が感じるようになってしまった。そこに映し出される存在が、あまりにも「堀未央奈」だからだ。

 堀未央奈に<憑依>されてしまった気がする。<憑依>とは<所有されること>と同義だ。<憑依=所有された私>は私ではなくなっているのかもしれない。



 You Tubeの映像にアクセスする。いきなり青いベンチコートを着た堀未央奈が真っ直ぐに顔を上げて話しはじめる。堀の声が聴こえてくる。
 「これまでの7年間、あっという間で、いつの間にか大人になってたっていうのが嘘のない気持ちです。」穏やかな、でも少し陰りがあるような笑顔で話し出す。
 ずっと昔に撮った映像がどこからか出てきたのを見ているような感覚に陥る。少し懐かしい、しかも決定的にそこに戻ることはできない時代にとられた映像のような…
 妙な焦燥感、胸騒ぎのようなものが湧き上がりはじめる。
 そして、きっとまだまだ時間はあるし、いや時間はないか…と言いながら表情は曖昧になり、うつむきがちになっていく。8割はやりきったけれども2割は悔いがあるというか…といい、感傷的ということばを口にして、「そんな気持ちをこめてパフォーマンスしてみます」といって制服姿になり「パフォーマンス」をはじめる。

 のちにこの「パフォーマンス」はCRE8BOYの振り付けだとわかったけれども最初は「これ、堀未央奈自身が自分のイマジネーションで踊ってるんじゃないか?」と思った。ステージ上の堀未央奈のダンスとはまったく違っていた。柔らかく手が舞うけれども、表情もあまりつくらず、背筋がすっと伸びた堀のダンスが好きだった。バキバキ踊る人ではないけれども、ときどきシャッキーンと音がして空気がスパッと切り離されるような感じがすることがある。そんなダンスだった。
 でも全然ちがう。

 なんだろうこれは?と思う。ダンス?ダンスなのかな?
 はっきりしない。ときにバランスをくずし、足元が定まらず、姿勢は保たれない。そういえば最初の声も言い淀み、語尾が消えていったりした。その声の余韻の中での姿。

 喜びはない。迷い、ためらい、苦痛。手を伸ばしても指先が届かない希望。そうしたものが折り重なり制服を着た堀の身体として現れる。
 音楽は流れている。けれども踊りは明確な打点をもたず、曖昧に滲んでいく。
 言語は、あれかこれかを切り分け、世界と声を分節化し線を引き、区別をつける。
 ここはこういう意味で、あそこはそういう歌詞を表していて…。身体とその動作が切り分けられ、急に停止し、突然、勢いよく動き始める。あるいは反転し、思いもかけない曲線を描く。それが音楽の旋律とリズムと歌詞と連動する。
 しかしこの堀未央奈の、何というのだろう?ダンス?踊り?パフォーマンス?身体動作?うまくはまらないが、その流れる時間と揺らぎ続ける身体を部分に切り分けることができない。水の流れに刃物を突き立ててもそれを切り離すことができないように。
 そして映像は堀未央奈が最後にフレームアウトするまで一度もカットされない。過去の映像も別アングルも何も挟まれない。流れる時間は途切れない。

 山戸結希監督はこの映像を16mmで撮影したと言う。フィルムを回したということだろうか。ということは、そのフィルムの上には、バラバラに分解され微小な要素になったのではない、持続した堀の姿が定着しているのだろうか?そのために16mmを使ったのかもしれないな、と思う。生きるているものを、生きているまま=その持続のままに。




 無音で映像と堀の身体が発する声を聴いてみる。
 最初に感じていた孤独感にまじった懐かしさのような感覚が強くなる。堀未央奈の身体が語り始める。記憶の奥の方に呼びかけられる。

 断片。


 最終に近いくらいの時間、私は彼女の少し後ろを歩いて地下鉄の改札口に向かう。「もうここでいいよ」といい彼女はいい、1人でなかにはいる。数歩進んだところで立ち止まり、後ろ姿を見ていた私の方にひらひらと手をふる。少しだけ表情が動く。少し笑っているようにもみえる。少し泣いているようにも見える。表情が途中で変化し、ごちゃまぜになったようにも見える。
 まわりには居酒屋でいっぱいやってきたサラリーマンとか学生とか、そういう人たちもいたはずだけれども、何も覚えていない。改札口の向こう側、4,5メートルのところで上手く読み取れない表情をうかべて手をひらひらさせている姿のイメージしか残っていない。
 11月だったはずだ。
 それが彼女をみた最後の姿だった。
 それからしばらくは連絡を取ろうと思えば取れたはずだけれども、結局、そのままになってしまった。いまとなってはもう繋がっているかもしれない糸の端っこをみつけることができない。
 たぶん、何かの低い偶然でもない限り、私が彼女の姿を見ることはないのだと思う。何をどうしても、どんなに手を尽くしても、どうにもならない。それに、もしも偶然、例えば本屋のどこかのコーナーとか、地下鉄の車両の中とか、そんなところで出会うことがあったとしても、そこから仮に新しい時間が流れ出したとしても、あの手をひらひらさせていた時間に戻ることはない。
 前後の脈絡から切り離され、宙に浮くような断片、その記憶。

 ある研究によれば、言葉をもたなければ記憶に文脈も前後関係もなくなるらしい。印象の強弱で並べられ、時系列で並べられることにはならないらしい。実は言葉なければ人間の時間というものはないのかもしれない。
 記憶はもともと断片でしかない。言葉がその断片を織り上げ、物語るようになる。それを歴史というのだと誰かがいっていた。
 言葉で織り上げられない断片がある。それは掬い上げられずどこかに沈んでいるが、何かのはずみで不意に水面に浮かび上がる。その断片は自分が作り上げたイメージかもしれない、必ずしも現実の記憶ではないかもしれない。それは確かめることができない。人間のギリギリの果てのところで、現実とか虚像とかその区別とかはあまり意味がない気がする。浮び上ってくる前にその断片がどこにいたのか、私の内部のどこかなのだが、それがもうわからない。
 時計でもものさしで測ることのできない距離がある。遠いのではない。端的に図ることができない。距離という言葉が適切ではないのかもしれない。ただ私がその世界の中に入っていくことができないこと。もう絶対に、どんなことをしても、できないこと、それだけが鮮明すぎるほどに鮮明だ。
 その断片は不思議と音をもたない。声が聴こえない。音の断片というものは経験にない気がする。なぜだろう?わからないな。けれども音はその断片を誘い出す。音が作り出しているのかもしれないし、私の中に眠り込んでいたものかもしれない。その区別がつかない。

 あるピアニストのコンサートでモーツァルトのロンド・イ短調を聴いていたとき、不意にそうした事が起こった。
 夏の草むらの中に木造の建物が立っている。光が白い。風が吹いている。草がざわめく。少女が建物を背にして私の方にかすかな微笑みをなげかけている。ピアノの音になか、そんな光景が不意に湧き上がり涙を押し止めることができなかった。となり友人がいたけれども、その涙をさとられまいとシートに深く沈み込んでいた。
 その光景、そのシートの感覚、ホールの空気、浮び上ってきた映像の感覚。そしてやり場のない感情の揺れ。そうしたものはいまも鮮やかに身体に残っている。
 そこにあったのは果てしない隔たりの感覚だったような気がする。自分がそこに属することができないという隔たり。その穏やかな世界からこぼれ落ちてしまったような、そんな感覚。


 無音のなかで、はみかむような、曖昧な表情をうかべ、そしてゆるやかに踊りはじめる姿がそんな記憶を呼び起こす。映像が映し出す場所は遠い。遠いと言うよりももうこの世界には存在しない場所なのかもしれない。映像の中にだけ存在する場所。そこに彼女がいる。いた?
 

 ある人がこんなことを書いていた。


「人間から最初の発声を引き出したのは、飢えでも渇きでもなく、愛、憎悪、憐れみ、怒りであった。』原始人は、自分の考えを表明するために話し合うようになる以前から、自分の気持を表すために歌い交わしていたのだ。
 ジョン・ブラッキングは、歌と踊りが言葉のやり取りの発達に先行したと主張している。
 最初の人類は、現在知られているようにホモサピエンス・サピエンスが会話能力を身に着けてあらわれる数十万年前に、歌い踊ることができたという証拠がある。
 あるいは18世紀のイタリアの哲学者、ジャンバティスタ・ヴィーコが示唆したように、人は歩く以前に踊っていたというのは本当だったかもしれない。」(アンソニー・ストー『音楽する精神 人はなぜ音楽を聴くのか?』 白楊社p27~28)

 

 人間は喋る前に歌い、歩く前に踊っていた。言葉の前に歌と踊りがあったのかもしれない。それはとても大切なことのように思える。けれども私(たち)は、言葉に整復され、言葉の手前にあった歌や踊りを忘れてしまった。そしてそこに戻ることができずにいる。

 堀未央奈の姿が、そんな言葉以前の世界に、切り分けたり、要約したり、概念化したりすることのない世界に佇んでいるような気がする。