中西アルノの"I love you" 。
聴いた直後に思っていたこと。先日のブログ記事では平手友梨奈に似ているとされる見解に異論を唱えつつ、こんなことを書いた。
「ちゃんと自分の歌にしてた。歌にのせたい何かがあるということなんだろう。それがわかる歌だった」
「ある種の重さのある歌」
「人の心の細部に入り込んで、そこで共振するような声と歌だと思う。ほとんどの乃木坂の歌と楽曲は背景的な物語に依存しているところがある。しかし中西の歌はそれを必要としていない。物語に依存しない力があると思う。声と歌にすべてを託してきた人だと思う」
この感想自体は変わらない。
尾崎豊と並べて何度か聴いた。
ある種の重さ、人の心の細部に入り込んで、そこで共振する、声と歌にすべてを託してきた人…
今のところ何も修正する必要を感じない。
中西アルノの"I love you" が響くのは自分の歌として歌っているからだ。ある歌を繰り返し聴いて救われるということがある。でも、多分彼女は何度もこの歌を歌ってきた。そこに何事かを重ね、託し、歌い続けてきた。その何事かが何かはわからない。けれどもそうしてきたことはわかる。
中西アルノの"I love you" は尾崎豊とは言葉の中のアクセントの置き方と譜割りが違うところがある。少なくとも尾崎豊をなぞってはいない。「尾崎豊のように歌いたい」という歌ではない。はじめはそうだったかもしれないが、今は違う。尾崎豊の歌に自分を重ねるのではなく、もう中西アルノ自身の歌として溢れ出る、そんな感じが強くする。
もともとそうだったのかと思うほどに自然にそうなっている。何度も歌ったはずだ。そのたびに何かを込め、何かをのせてきたはずだ。そして作り上げられてきた歌だったのだと思う。
尾崎豊の声は、湿り気と重さがあり、とくに後期のライブでは少し割れ、それが情念的でもあった。人の腹に直球で打ち込まれてくる、そんな声と歌だった。尾崎豊自身の怒りややるせなさが、怒りとして、やるせなさとして表現される。だから熱くもあり、暑苦しくもあった。そのどストレートさがロックでもあったし、同じような情念を抱く狂おしいほどの支持者を獲得もした。だから尾崎の楽曲のカバーには「こんなのは尾崎じゃない!」と激しく否定する声も寄せられたりもした。その支持者にとって尾崎の歌は他に替えることのできないものだった。
中西アルノの声もまた湿り気とある種の重さがある。悲しい声に聞こえる。尾崎に比べるとずっと線が細く、声の前と後に震えるような余韻がある。そして思わぬ音にアクセントが置かれ、その瞬間、世界が少し変わる。
尾崎が怒りを歌とき、それは尾崎の怒りのままであり、同じ怒りを共有する人たちが強力に揺さぶり、獲得した。しかし中西アルノの歌にのせられている感情は高熱で迫ってくるものではない。
繰り返し繰り返し歌ってきたと思われるこの曲だが、そこにうまく言葉にできないなにか、吐き出したくても吐き出せないなにかの存在を感じせる。受け取り手の中にも言葉にできないものがある。吐き出せないものがある。それが刺激され、響く。だから受け取りてによって彼女の歌は別の光景、別の色彩を帯びるんじゃないかという気がする。直後に直観的に「人の心の細部に入り込んで、そこで共振する」と書いたのは、こういうことだったんじゃないかと思う。
中西が大切な歌だという"I love you" は、尾崎豊によって1991年にシングルリリースされているが、もともとアルバムのレコーディングは1983年に行われている。青山学院高校中退後、まだ18歳になる前のことだ。
ラブソングといえばラブソングだけど、そこに明るい未来などひとかけらも見えない。
I love you
逃れ逃れたどり着いたこの部屋
何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい
だからお前は子猫のような鳴き声で…
この世のどこかの片隅に逃れ出ようとしているような歌だ。二人の別れを予示しているわけでもないのにどこにも出口がない。二人がいて強く結びついているにも関わらず深く孤独な曲だ。
尾崎はこの社会の中に自分の居場所がないことをそのまま歌にしていた。だからラブソングもとても孤独な匂いが立ち込める。
その孤独な匂いは中西アルノの歌にも濃密にたちこめている。ただ尾崎のようなものとは気配が違う。もっと微細な、けれどもいたるところに貼り付き決して消えてくれないような、そんな孤独の気配を感じてしまう。
彼女はピアノかギターを弾くのだろうか?カラオケで歌ってきたのではない気がする。
「声と歌にすべてを託してきた人」と書いたが、私には中西アルノが歌うことでようやく呼吸をしてきたような、歌うことでなんとか生き延びてきたような、そんな人に思えてならない。
たった1回、1つの歌を聞いただけの、とても個人的な感想にすぎないけれども。
この人の歌がグループ歌唱となったとき、それをどう活かすのかはよく見えない。自分自身の、個人的な、あるいは孤独な感情をたっぷりと歌にのせるのが中西アルノの歌だとしたら、それはグループの楽曲とどう折り合えるのだろう。
ただ西野七瀬の歌は実はそうしたものだった気がしている。グループの中に溶け込んでしまう、聴こえなくなる、そういう歌、声ではなかった。少し揺らぎと哀感を含んだようなその声は、いつでも聴こえるものだった。だからこそソロ曲が多かったのではないか、と思う。逆に白石麻衣は徹底してグループの声の中に溶け込んでいこうとしていた気がする。不自然なほどまっすぐな歌声はグループでの歌唱のために鍛え上げられたものだったと思ってる。
けれどもたぶん中西アルノの歌は西野七瀬よりも強いから…どうなるのだろうか。「しばらく手探りが続くんじゃないか」とツイッターには書いたが、よく見えない。
それにしても乃木坂46というグループで良かったと思う。
乃木坂は「センターがグループを引っ張る」というタイプのグループではない。どちらかというとセンターを守り、背中を押すグループだと思う。29thの斎藤飛鳥、山下美月をはじめとした1列目、2列目は分厚い。グループの強さ、懐の広さで時に背中を押し、時に包み込み、どこかで新しいグループのあり方の解を見つけるだろう。
ただ乃木坂は役者は生み出してきたけれどもシンガーを生み出してはいない。生田絵梨花はミュージカル俳優ではあっても「シンガー」という感じがしない。もし乃木坂46の卒業生でシンガーを上げるならば川村真洋だと思う。また彼女しかいないと思うが、川村真洋は乃木坂46のなか中軸になることはなかった。中西アルノをどう育てることができるか。初めての扉をいま開こうとしているのだと思う。