旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 

         

         瑠璃光山満蔵寺山門

 

 蓮田市馬込の辻谷共同墓地を管理しているのは、岩槻区馬込にある天台宗の満蔵寺で、宗派は違うものの、今も、馬込名号板碑に記された、真宗高田派の祖、真仏の報恩供養を執り行っている。

 

        
          満蔵寺本堂

        

          満蔵寺薬師堂


 『新編武蔵風土記稿』によると、この寺の本尊は三尊の弥陀となっているが、その山・院号を瑠璃光山東光院ということから、元々は薬師如来が本尊だったのではないかと考えられる。境内には、今も薬師堂が残る。わたしが興味を引き付けられるのは、ここに、馬込の、斎藤氏や黒須氏の大きな墓と並んで、杉山氏のこれまた大きな墓があることである。この氏は旧馬込村に多く存し、『埼玉苗字辞典』には、《岩槻市馬込に五戸、蓮田市馬込に十戸現存す。》とある。岩槻区では金重の北隣の掛(かけ)にも多い。旧国道122号線沿いに、杉山氏だけの墓地があったり、相当に古い家柄と思われる。わたしは、もしかして、馬込の、斎藤氏や黒須氏と共に、杉山氏も渋江鋳物師の一翼を担っていたのではないか、と思わずにはいられない。

 杉山氏の分布は、日本全国にわたるが、特に静岡県清水市が突出しており、葵区・清水区(区内に杉山という大字がある。)・駿河区に際立っている。同県裾野市茶畑にもやたら多い。次いで多いのは神奈川県で、ここには、鉄の生産と関係があるといわれる、杉山神社が多く存在する。埼玉県は上位に属し、なかでも川越市に多く、殊に古谷本郷と古谷上に多い。そこに、わたしの興味は引き付けられる。なぜなら、『新編武蔵風土記稿』によると、満蔵寺は入間郡古尾谷上村灌頂院の末寺だというからで、この灌頂院とは、今の川越市古谷本郷にある、慈覚大師創建とされる灌頂院にほかならないからである。

      

       天台宗寳聚山灌頂院

 

 しかも、古谷上には小字で黒須というところがあることを力太郎氏(『力太郎のブログ』)

 

 

から教えていただいた。かつて、この辺りに、古尾谷城があったという。さらに力太郎氏は、『新編武蔵風土記稿』の入間郡藤久保村(現同郡三芳町藤久保)条に、つぎのようにあることを指摘している。《旧家者惣八郎、杉山氏なり。本名は黒須にて、先祖は当郡渋井村の旧家伊三郎が家より出し者なりと云へり。伊三郎が蔵する系図を按ずるに、北条長氏の妾・懐体せしを、駿河国東郡茶畑三郎右衛門吉秀に嫁せしむ。爾の時出生の子を黒須長右衛門吉永と云ふ。是れ伊三郎が先祖なり。其の弟黒須庄太夫吉安は三郎右衛門が実子にて、即ち惣八郎の先祖なり。二代目も庄太夫と名乗りしと見ゆ。其の後のことは惣て詳ならず。今杉山を以って氏とせるは、惣八郎より二三代前、杉山氏の人を養ひて家を嗣がしめしより称せりと云ふ》藤久保村の杉山氏の本名は黒須氏で、入間郡渋井村を出自とする、というのである。

 『埼玉苗字辞典』黒須の項に、古尾谷城主仲氏家臣の黒須氏について、《三ヶ島村中氏先祖書に「古尾谷城主仲筑後守資信・応永年中落城、禅仲寺者城跡也。資信家臣黒須長次兵衛あり、古尾谷近郷に子孫数多有之」と見ゆ。資信は天正頃の名にもあり。渋井村の黒須長右衛門吉永の子孫に黒須長次兵衛あり。荒川対岸の足立郡瓦葺村及び大成村等に此氏多く存す。古谷上村善仲寺附近の字黒須は此氏の屋敷名なり。》とあって、渋井黒須氏と瓦葺黒須氏との関係をほのめかしているように思えないでもない。(所沢の三ヶ島といえば、中氏と共に本橋氏も多いところであり、古谷上の北、川越市鴨田には本橋という小字もある。)

 渋井村とは、現在の川越市渋井である。この渋井という地名が渋江鋳物師の渋江と通音であるのは偶然なんだろうか。

             

              馬込第六天神社鳥居の額

 

 黒須という姓氏は埼玉県が最も多く、なかでも、上尾市瓦葺と蓮田市御前橋(瓦葺と御前橋とは1kmも離れてはいない。)とに集中し、ついで白岡市篠津に多い。瓦葺は河原吹であって、その小字梶ヶ谷戸は鍛冶ヶ谷戸と考えられる、ということはすでに書いた。御前橋は大字蓮田の小字金山・金塚の至近にあり、篠津は小字の中妻から精錬工房跡が発見されたところである。

 


 いずれの地にも共通するのは鍛冶であるといえる。なかでも、瓦葺の小字梶ヶ谷戸には瓦葺黒須氏の本家があり、その屋号は鍛冶屋であるという。

 この氏には以下の伝説がまつわりつている。
 
 《桓武天皇の延暦年間、田村麻呂が東山道から武蔵に入り、東北へ進もうとしたが、綾瀬川が広く越すことができない。川を渡れそうなところを探して瓦葺村に至ると、瓦葺の長者に船を用意し、向こう岸の蓮田村に渡してくれるように頼んだ。長者は近くの村々から船を集め、軍勢を無事に渡した。田村麻呂はお礼として家紋を贈り、その使用を許した。
 瓦葺の長者、黒須家では今も丸の中に帆かけ船の図柄の家紋を大事に受けついでいるという。》(『蓮田の伝説(1)』中里忠博著)

 長者には様々な意味があるが、ここでは「億万長者」という場合の長者、すなわち大金持ち・富豪をさす。おそらく、黒須氏は大鍛冶・小鍛冶業で一大資産を築いたのではなかろうか。

 馬込第六天神社に斎藤氏と連名で額を奉納した黒須氏は、思うに、瓦葺黒須氏の分かれで、同様に、鍛冶業を営んでいたのではなかろうか。そして、斎藤氏は鋳物業を営み、同業ではあるものの、きっちりと棲み分けはしていたということなのではなかろうか。第六天神社鳥居の額から、そんなことをわたしは想像してしまうのである。

 ところで、辻谷共同墓地には、他にも魅力的な氏の墓碑が多い。金子氏、白鳥氏、本橋氏などである。

 

    
     原馬室の権現堂 2007年9月撮影


 金子氏というと、どういうわけか、真っ先に思い出すのが、鴻巣市原馬室字権現にある、権現堂のことである。それは、金子姓が最も多いのが埼玉県であり、なかでも、鴻巣市原馬室がトップクラスであることからの連想かもしれない。権現堂の敷地は墓地になっており、そこはすべて金子氏の墓なのである。この権現とは何かというと、おそらく羽黒権現ではなかろうか。近くにある氷川神社の石碑に、合祀した神社の一つとして、《羽黒神社(権現社)》とあるからである。

 

    

      原馬室氷川神社 同上

    

     近くには馬室埴輪窯跡――埴輪を登り窯で焼いていた5~6世紀頃の遺跡

 

 金子氏の墓地で羽黒と云ったら、お歯黒のこととしか思えない。お歯黒、つまり鉄漿(かね)である。そもそも出羽三山は修験の山であり、山伏たちの活躍の場であっただけあって、一帯は鉱山だらけであった。山伏の「伏」とは、「亻(にんべん)」に「犬」と書く。古く、《犬は地下に埋もれた鉱物資源を発見する能力をもっていると信じられ》(『四天王寺の鷹』谷川健一)ていた。昔話の「花咲か爺さん」にあるとおり、犬がここ掘れわんわんと鳴けば、大判小判がザックザックなのである。福岡県宮若市犬鳴にはタタラ谷があって、古くから鉄が造られていたという。つまり、山で、人でありながら犬の役目をするのが山伏なのである。権現の金子氏が山伏だったかどうかは不明だが、柳田國男は金子を金工(かねく)のことと解釈している。(『地名の研究』)それかあらぬか、権現堂の南500mに小字で鉄砲宿というところがあり、鉄砲鍛冶がいたところだといわれている。また、北北西2.5㎞ほどのところ、同市北中野・糠田付近をかつて中野村といい、ここの金子氏は武蔵鐙鍛冶だったという。(『埼玉苗字辞典』)糠田(額田)のヌカとは、《青銅のような銅合金鋳造の鋳型に米糠で作った糠型》(『青銅の神の足跡』)というのがあり、これを指しているのではないかという説がある。(糠=砂鉄という説もある。)天糠戸(あめのぬかと)神は鏡作部の遠祖であり、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)は天目一箇神の後裔である。もしかすると、中野村のナカもヌカだったかもしれない。

 

   

    樹木が帯状になっているところが金山堤 長宮付近から 2008年9月撮影

   

    長宮薬師堂 金子氏が年に一度祭祀しているという 同上

   

    増長薬師堂 手前は成田山不動堂 同上

   

    増長薬師堂の額 「明治廿貮年拾貮月吉祥日 奉 薬師堂 納 川通村大字増長金子作治郎」 とある

 

 鋳物といえば、渋江鋳物師がいたという岩槻区村国の、元荒川を挟んだ対岸に金山堤があって、この堤に沿っていくつかの村があり、それぞれの村の鎮守は香取神社で、必ず薬師堂がペアとしてあった。これらの薬師を信仰していたのが金子氏であった。同区大谷・長宮・増長・大口など金子氏が極めて多い。長宮には小字で猫島、大口にも小字根古島、大谷には小字鍛冶掛がある。つまり、金子は金工のことだとする、柳田説は傾聴に値する。(沖縄や奄美の方では、兼久(カニク)・金久(カネク)は海岸の砂丘や浜堤を意味し、外洋に面した砂の荒っぽいところをいう。桶川市川田谷の荒川右岸の河川敷、ホンダエアポートに兼子という小字がある。)

 白鳥というと、すぐに思いつくのはヤマトタケルで、三重県の能褒野(のぼの)で「吾が足は三重(みえ)の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり。」と謎の言葉を残して薨御した尊の霊は、白鳥となって飛び立ち、河内国志幾にとどまったので、そこに陵を造った。これを白鳥御陵という、といった話が『古事記』にある。谷川健一は、この謎の言葉を水銀中毒の症状と解釈している。能褒野の北8000mに足見田神社があり、風神シナツヒコやヤマトタケル・天目一箇神を祀るが、この神社は元々は鎌ヶ岳山頂付近に鎮座し、この山にかつてあった水銀鉱山と関係があるという。能褒野を訪れる前にヤマトタケルは滋賀・岐阜にまたがる伊吹山を訪れていたが、ここにも石灰岩(古代においては顔料、漢方薬として使用されたという。)の鉱山があり、今も米原市の大字太平寺で採掘が続けられている。石灰岩地帯はスカルン鉱床といってさまざまな金属鉱物を産出するケースがあり、わたしなどは、太平寺という地名から鉄の存在を感じてしまう。それは伊吹山から尾根筋を北へ15㎞に金糞岳(1317m)があることからも証明されそうだ。石灰岩といえば、秩父武甲山にもヤマトタケル伝説が残り、秩父には金・銅・鉄などの鉱山が多数あった。まさにスカルン鉱床である。金といえば、那須郡那珂川町健武の健武山神社にヤマトタケルと金山彦命が祀られ、近くの武茂川から砂金が採れることはすでに書いた。

 

 

 武茂川の上流は八溝山で、ここにもヤマトタケル伝説があり、この山には金鉱山があった。これらの例から、つまり、ヤマトタケルは鉱山とかかわりが深いといえそうで、その幼名小碓命は石臼を象徴しているように思える。金属鉱物を含有した鉱石はそのままでは還元できないので、これを石臼で挽いて細かく砕いてから炉に入れるのである。ヤマトタケルはなぜ、死後、白鳥となって飛び立っていったのか。それは、古代、霊魂は鳥によって運ばれるという信仰があったこともさりながら、白鳥は鍛冶が最も尊崇する神だったからである。豊受姫命を祀る神社の近傍に、しばしば、製鉄遺跡や鍛冶遺構が発見されるのは、豊受姫の真の正体が白鳥だったからに他ならない。(『丹後国風土記』逸文「奈具の社」・『近江国風土記』逸文「伊香小江(いかごのをうみ)」参照)

 辻谷共同墓地の半分ほどを占める、広い墓域を持つのが本橋一族の墓で、読み取れないほどに風化浸食が進んだ古い墓碑が多くある。

 

   
 

 共同墓地の入口付近に二基の庚申塔と並んで、小さな祠があり、これについて、この墓地近くに住む当時90歳のおばあちゃんに、あれは何か、訊いてみたことがある。すると、彼女はヤシさんだという。ヤシという語から、わたしは、とっさに、小沢昭一の随筆隋談集⑤『笛にうかれて逆立ちすれば』(晶文社)の一節を思い出した。そこで、小沢は、露天商人、つまり香具師(てきや)のことをヤシとか、関西方面で「神農さん」、露天商組合自らも「神農連合会」などと称する理由をこう述べている。

 《神農とは中国古代の伝説上の帝王で、民に五穀を作ることを教え、市を開き、薬草を調べて医道を起こしたのだそうです。そのため薬種問屋などでは、職業神、守護神として神農を祀ってきたといわれるのでありますが、香具師もまた神農をあがめてきました。
 そこで「やし」は「やくし――薬師」のつまったものといわれ、香具師は本来、薬草を扱っていたのではないかと考えられたりしております。》

 わたしが、あそこには薬師如来の仏像が安置されているんですね、と念を押すと、彼女は「仏像は本橋さんが預かっているから、見たいのであれば、云えば見せてくれるはずだ。」とおっしゃった。しかし、その仏像を見せてもらいたいと出向いたとしても、おそらく、それは叶わない願いだったのではなかろうか。なぜなら、寅子伝説地の薬師ならば、12年に一度の寅の年にだけ御開帳する、いわゆる寅薬師に相違なく、この年2008年の干支は子(ねずみ)だったからにほかならない。鍛冶師は目をやられるから、常に薬師を信仰していた。本橋氏が薬師を預かっているとすると、やはり、この氏も鋳冶を業としていたのではないかという疑問が湧く。

 本橋氏は全国的に分布する姓氏だが、特に東京練馬区の石神井公園周辺域に多く、次いで多いのが埼玉で、所沢は三ヶ島・山口に、飯能は唐竹・中藤・赤沢付近に、川口は前川辺りに、それぞれ集中している。石神井といえば、その地名の起源はシャグジなどと呼ばれる、石棒、すなわちマラ石があったことに因るものだろう。石神井川の砂鉄も気になるところである。石神井以外の所沢・飯能・川口の共通点とはなにかといえば、それは金山である。西武池袋線西所沢駅東に金山町、飯能市上赤工(あかだくみ)の北、原市場の小字に金山、そして鋳物の街、川口市の金山町。その川口の鋳物師に本橋氏がいたことは何年か前にすでに書いた。それは、ヤマトタケル伝説の残る、秩父長瀞のホトの山、宝登山神社に奉納された、鋳物製の天水桶にその名は残されている。

 

 

 

とすれば、採鉱冶金の民が多く集住していたと考えられる、馬込の本橋氏も、古く、鋳物師だった可能性は高いのではなかろうか。仮に、馬込の、斎藤氏、黒須氏や本橋氏らが渋江鋳物師の一翼を担っていたとするなら、渋江鋳物師が馬込から金重、渋江、村国、それから川口へと移動したという伝承は、名にし負う、本橋氏をブリッジとして証明されるかもしれない。

 辻谷共同墓地を詳しく見ても、やはり、かつての馬込一帯で、鍛冶師・鋳物師たちが日々躍動的に活動していた姿が想像されるのである。

 

               ちゅーるちゅーる 人(にん)ちゅーる
               ちゅーるちゅーる 人ちゅーる
               ちゅーるちゅーる 人ちゅーる
               入れ歯人ちゅーる
 

   歯無しになっても、ちゅーるがあれば、百人乗っても大丈夫(これはイナバ物置か。)
  

 

 

 

 

 

 

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 しかし、伝説・伝承はまだしも、地名の解釈については、いわゆる諸説あるにもかかわらず、あまりにも主観的過ぎ、多分に誘導的であり、客観性に欠けるのではないかと思う向きもあるかと思うので、馬込一帯に鍛冶がいたという、もう少し客観性のある確かな証拠も挙げておこう。

 


辻谷共同墓地にある「鉄山開了沙弥」の墓碑 2008年9月撮影

          

          2023年4月撮影 だいぶ風化が進んでいる


 それは、辻谷共同墓地に残る、古い墓碑で、表面に「鉄山開了沙弥 文政二年己卯年二月十□日施主斎藤長右エ門」と刻まれている。「鉄山」というのは鍛冶師・鋳物師などの戒名に冠せられる道号、「開了」が戒名で、「沙弥」とは、「沙弥から長老にはなれぬ」(《小僧から一足とびに長老にはなれない。物事には段階があって、順序をふまなければ、進めないたとえ。》『故事ことわざ辞典』東京堂出版)ということわざにある通り、駆け出しの坊主のことであるが、ここでは、仏道に入ってはいるが、妻子を持ち、一般人と変わらぬ生活をしている在家の入道者と考えていいのではなかろうか。戒名の「開了」に意味があるとしたら、「冶金業で成功した」といったところか。文政2年は江戸後期の1819年。施主の斎藤長右エ門は、逆修でなければ、墓碑の人物の長男で、おそらく、この人も鍛冶師、正確にいえば、おそらく鋳物師だったのではなかろうか。

 なぜなら、蓮田市馬込は、さいたま市岩槻区馬込と隣接しているように、かつては一村で、岩槻領に属していた。岩槻の斎藤氏といえば、『新編武蔵風土記稿』に《旧家者伴蔵、氏を斎藤と称す。代々名主を勤め傍ら鋳冶を業とせり。家系を失ひたれば来由詳ならず。岩槻太田家及小田原北条家より与へし文書を蔵す、宛名渋江鋳物師とあり、されば往古は岩槻渋江町に住し、御入国の後当所に移りしなるべし。云々》という記述があるからにほかならない。

 岩槻区の村国村記念碑にも《当所はもと埼玉郡渋江郷に属せし地にして、現在字鋳物屋敷と称し、古来居住の斎藤氏は歴代里正を勤め鋳金を業とせし旧家なり》とある。辻谷墓地の斎藤氏はこの渋江鋳物師の斎藤氏と関係のある人物なのではなかろうか。岩槻市教育委員会が1980年にまとめた『岩槻市地歴豆辞典』にはこうある。

 《渋江鋳物師は、江戸の開府に伴って地の利を失い、江戸に近く交通に便利な川口に移動したとされているが、その真偽は不明である。一説には、初め市内馬込に住み、その後金重に移り、そして岩槻渋江、次に村国に移ったとされている。以上の四ヵ所はいずれも金屎を出土している。》

 
2007年12月撮影


(同委員会が昭和36(1961)年に建てた「埼玉県指定旧跡 渋江鋳金遺跡」の案内板には《岩槻市内の鋳金遺跡は馬込・金重・村国の三か所といわれているが、確認できる旧跡は村国と馬込である。》とある。)

 これもまた、《真偽は不明》のようだが、渋江鋳物師は、馬込から金重・渋江・村国へと東へ移動したというのである。

 


赤坂沼 平林寺側 2023年3月撮影

岩槻市給食センター 2009年3月撮影


 ここでいう馬込は蓮田市の馬込ではなく、岩槻区の馬込で、赤坂沼周辺と考えられる。『岩槻城と町まちの歴史』(1987年 聚海書林)によると、岩槻市給食センター裏付近から今も鉱滓が出土する、という。給食センターは1973年に設立、最近取り壊しになり、今は空き地になっているが、周囲を塀で囲まれ、なかに入ることはできない。赤坂沼は馬込と平林寺にまたがってある沼で、おそらく、旧利根川が南進し、岩槻台地にぶつかってできた沼と考えられる。明治期、この辺りを河合村と称し、馬込や平林寺はその大字であった。この河合という地名は旧利根川の南進と関係があるのではあるまいか。ついでにいうと、平林寺という地名は、現在、新座市野火止にある臨済宗金鳳山平林寺がかつてここに所在したことによる。

 

   

   
    赤坂沼馬込側 2009年3月撮影


 さて、赤坂沼の馬込側はその名のとおり赤く、金気だっており、砂鉄の存在を暗示している。旧利根川が元荒川を巻き込んで、岩槻台地に衝突したとき、それぞれの川の砂鉄をここに残溜、堆積させたのではなかろうか。この砂鉄を原料として、馬込・平林寺一帯で、鋳冶業が営まれていたのではあるまいか。

 


馬込第六天神社


 江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』「岩槻領馬込村」の項には、村民持ちの神社として稲荷社・神明社・氷川社・山王社・山神社・白山社・熊野社・荒神社などと共に、採鉱民が奉斎する金山権現社が、あったことが記されている。ところが、明治期に成った『武蔵國郡村誌』には、この社の記述はない。平凡社の『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』には、馬込鎮守の第六天神社に合祀されたとあるが、この神社のどこをどう探しても金山社の存在はないし、『埼玉の神社』を調べても、金山権現が第六天神社に合祀されたという記載はない。つまり、現在、金山権現社は確認されていないが、おそらく、赤坂沼の西、東北自動車道に架かる橋に町谷橋がある辺り、小字町谷付近に、かつて、あったのではないかと想像する。

 

町谷橋

 

なぜなら、十日市と書いて、トオカマチと呼び習わすように、マチ(町)とイチ(市)とは同じ意味を持ち、イチとは、すなわち、非農民の商工業者が多く集まる場所をいうからで、特に神社を中心として集住するのが常であったからである。つまり、金山権現社を中心としてイチが立ったのが町谷だったのではなかろうか。それに、朝鮮語で망치(mang chi)といえば、鍛冶にとってなくてはならない鎚・ハンマーのことをさすのである。

 ところで、馬込の鎮守第六天神社の鳥居の額は斎藤氏と黒須氏との連名で奉納されている。ここにも馬込の斎藤氏が鋳冶を業としていたのではないかという想像を羽ばたかせるワケがある。

 わたしは大型家電のほとんどをケーズデンキから購入している。小物はアマゾンが多い。

 ケーズデンキの最大の特徴は、ポイントではなく、現金値引きであることだ。電器屋のポイントは、利用範囲が狭まいし、放っておけば消滅してしまう。その点、現金値引きはその場で決済されるのだから、すっきりしていていい。企業にとっても、バランスシート上、ポイントは負債になるのだから、客をつなぎとめるという点を除けば、それほどいいこととは思えない。

 以前、アマゾンでカメラの防湿庫を購入したとき、2ヶ所にクレームがあった。物が結構大きく、品物が入っていたダンボールは開封のときにズタズタにしてしまっていたし、幸いに防湿という面では問題がなかったので、良とし、返品はしないことにした。しかし、これを契機に、大物に関しては、アマゾンでの購入は控えることにした。

 ケーズデンキを利用するきっかけとなったのは、もう10年以上も前になるが、エアコン購入のときのことだった。当時、ジャパネットがテレビで盛んにシャープのエアコンの安売りを喧伝していたので、その値段をメモしてケーズに赴き、営業担当と交渉すると、「うちはその機種のワンランク上の機種をジャパネットの価格よりも安く提供する。」というので、購入を決定した経緯があった。

 もう20年以上使い続けてきたフロア型のスピーカーのウーハーにカビが生えたのはずいぶん前のことで、最近になって、この取り付け部分が完全に破れてしまった。音は、出るには出るが、わたしの頭のようにぼやけており、総入れ歯を外してしゃべっているような音色なので、買い替えることにした。

 ケーズデンキ菖蒲店の懇意にしている販売員に電話すると、店頭にはもちろんないが、そのスピーカーは購入可能だという。あとは値段の交渉で、価格コムで最安値を確認、その価格からさらにポイント分を引き、そこからさらに値引きをしてもらい、価格コム最安値のさらに上をいく最安値で交渉成立。

 商品が届くのに2週間ほど要したが、その音に、ぼけた頭が目覚めた。20年の時はこれほどの音の進化をもたらしていたのだ。ならばと、最近、読み込みに時間がかかるようになってきたCDプレイヤーとアンプも替えることにした。これらは、20年以上前、スピーカーと同時に購入したものだが、アンプは、現在でも、全く故障箇所はなく、使用頻度は最も高かったにもかかわらず、相変わらずピュアな音を聴かせてくれていたことが新スピーカーで確認できた。しかし、この際、すべてを刷新し、最新の音を聴いてみたいという欲求が、よだれを垂らしながら、わたしの脳ミソの奥深く、大脳辺縁系あたりで、舌なめずりした。

 そこで再びケーズの販売員と価格交渉し、いつも通り、価格コム最安値以下の値段で話はまとまった。しかし、CDプレイヤーはすぐに届けることは可能だが、アンプは受注生産だという。メーカーに問い合わせると、いつになるか不明だけれども、それでもいいか、と云われたという。もちろん諾である。今まで使ってきたアンプとじっくり別れを惜しむいい機会ではないか。

 2カ月ほどして、ケーズの担当から、商品が到着した、と連絡がきた。そのとき、わたしは、ダメもとで、もう少し安くならないか食い下がってみた。なぜなら、この2ヶ月間で、このアンプの値段が下落していたからである。それでも、ケーズが申し込み時に提示した価格は、今の価格コム最安値よりも安かった。担当は、わたしが来るまでに、確認しておくという。

 菖蒲店に引き取りに行くと、担当は、10,000円値引いておきましたから、と快く減額しておいてくれた。契約時の値段を負けてくれるというのはそうそうないことなのではなかろうか。もちろん一筆書かされはしたが。それで、わたしは、おれはケーズと共に死ぬ覚悟だから、これからもよろしく、と担当に云っておいた。

 担当氏は、トヨタMR2なんていう、今では珍しい車に乗っている人なのだ。
 

 

 

辻谷共同墓地と寅子石

 

 寅子石伝説で、もっとも違和感を覚えるのは、寅子の身体の一部が膾(なます)にされて振舞われた、という点に尽きる。この一点がなければ、現代まで、この伝説が語り継がれたかどうかさえ疑わしい。実の親が死んだ娘の生肉を求婚者たちに振舞うなどということは、到底考えられず、現代語に翻訳すれば、ありえへん、ということになろうか。したがって、わたしは、「膾」云々の話は、鍛冶用語の「鈍(なま)す」、つまり「焼鈍す」の誤解、誤認によって生じたのではないかと思う。

 真っ赤に焼いた鉄を水中に入れて急冷すると、非常に硬くなり、鋭利な刃物を鍛造することができる。これを「焼入れ」という。これとは逆に、ゆっくり冷やしていくと、軟らかく、加工しやすい鉄に変化する。これを「焼鈍し(やきなまし)」という。切れ味の悪い刀のことを「鈍くら刀」というのもこれと関係があるのだろう。

 寅子石伝説は、聞きなれない「鈍す」という鍛冶用語を、「膾」と解釈することによって、考え出された物語だったのではなかろうか。そうでもなければ、だれが、人体を膾にして食べるなどということを思いつくであろうか。佐川君だって、膾にして食べるなんていう発想は浮かばなかったのである。

 

         
          東雲山樂應寺


 春日部市大字内牧字谷向の楽応寺(本尊は薬師如来)の伝承で、「薬師様は生ものを忌む」というのがある。ご近所の方に教えていただいたのだが、なにかの集まりでも、決して寿司は食べないという。単に、生ものに中らないように、ともとれなくはないが、わたしは「鈍す」からきているのではないかと考えている。

       
        板倉雷電神社

       

        ナマズさん


 また、群馬県邑楽郡板倉町板倉に鎮座する雷電神社の青銅製の像「ナマズさん」には、《なでると地震を除けて、元気回復、視力改善、自信が湧き出る》という信仰があるという。社務所で伺ったところ、昔、飢饉のときに、ナマズを食して糊口をしのいだことから、ナマズを神聖視しているのだとのこと。だとすれば、当然、星宮神社のウナギのように、食べるのを禁じるのが習俗だと思うところだが、参道に並ぶ数軒の食事処では、飢饉でもないのに、ナマズを食すことができるというのは、どうにもこうにも納得がゆかないではないか。これもまた、つまるところ、「鈍す」の誤認によって生じた信仰なのではなかろうか。《視力改善》というところに、わたしは鍛冶性を感じてしまうのだが、もちろん理由は他にも多々ある。(以上の二寺社については、後日、詳述する。)

 寅子石伝説には、様々なバリエーションがあり、そのなかの一つには、寅子は自殺したのではなく、父親によって、弓矢で射殺されたのだ、というのがある。この弓矢を射るの「射る」もまた鍛冶用語の「鋳る」の誤認によるものと思われる。

 では、この辺り一帯に鍛冶がいたという根拠はあるのか、といえば、それは、地名と、すでに書いてきた伝承・伝説が一つの有力な根拠となる。

 辻谷(つじや) 地名からいうと、まず、馬込の小字辻谷。まさに寅子石がある場所だが、辻谷の辻とは、旋毛(つむじ)、すなわち、つむじ風のことをいうのではあるまいか。ここは、大宮台地と蓮田台地との間の切れ目の沖積地で、綾瀬川に沿った西風が強いのではないかと想像する。タタラ製鉄にとって、風は極めて重要なファクターである。そういえば、さいたま市西区中釘の小字丸山に、「鍛冶屋」と「つむじ」を屋号とする家が並んでいたのを思い出す。

 金草原(かなくさはら) 辻谷の、綾瀬川を挟んだ向いの小字を金草原という。金草原は、おそらく金糞原(かなくそはら)の転訛だと思われ、伝承では、この辺りの綾瀬川の川底には大量のカナクソ、つまり鉄滓が沈んでいるという。

 五郎淵(ごろうぶち) 五郎淵は、今はないが、多聞院下というから、おそらく、金草原に近いところだと思われる。そこにつぎの伝説がある。

 《丸ヶ崎の多聞院下に、五郎淵と呼ばれている所がある。昔ここに水神様があり、その周りが沼になっていた。その沼は深くいつも蒼々としていた。ある時何のわけがあってか五郎という男がこの沼に身投げして果てた。それから誰いうとなく五郎淵と呼ぶようになった。ところがこの沼のほとりに生える葦は、不思議なことに必ず片葉がまくれて出るので、片葉の葦と呼ばれ、五郎の何かを訴える気持ちが、こって片葉の葦となったのであろうといわれた。
 この片葉の葦については、源義経が奥州から鎌倉に赴く際、この淵の水を鏡に代えて身の繕いをすると、葦の葉が障りとなったので、片葉を薙いだが、その時から片葉になったという説もあり、また熊谷直実がこの地を通った時、淵のそばで休んだが、つないだ馬が葦の片葉を食い尽くしたため片葉の葦になった、という説もある。》(『大宮市史 第五巻』)

 片葉の芦伝説は、全国津々浦々にあるが、その多くは「片輪の足」のことで、採鉱民がフイゴを踏み続けることによって生じる職業病のことである。日本的には、葦(あし)は「悪(あ)し」に通じるので、「良し」、つまり「あし」と云わずに、「よし」に云い換えたわけである。にもかかわらず、「片葉のよし」とはいわずに、そのほとんどが「片葉のあし」なのは、「片輪の足」が本来であるからにほかならない。

 


 また、上の伝説には、《源義経が奥州から鎌倉に赴く際、この淵の水を鏡に代えて身の繕いをすると、葦の葉が障りとなった》とあり、葦の葉が障った、というのは、すなわち、片目を傷つけたとも解釈でき、そもそも、この話が片目伝承であったと云えないこともないのである。だとすると、五郎淵の五郎とは、御霊、つまり、鎌倉権五郎――片目を矢で射られながらも、戦い続けたという平安後期の相模国の武将――に因んだ名なのではないかと思わざるを得ない。

 


丸ケ崎 有無公園


 有無(あんなし) 辻谷共同墓地の南800m、さいたま市見沼区丸ケ崎に有無公園がある。寅子が亡くなった後、両親は彼女が使っていた調度品を見沼へ流してしまったが、彼女を慕っていた人たちはせめて形見にしたいと、それらを探し求めたものの、見つけることはできなかった。ところが、丸ケ崎辺りから深作にかけて、漂っているのを見たとか、見なかったとか、あったとか、なかったとか、あったなかった→あるなし→あんなしと呼ぶようになった、という伝説(『大宮市史 第五巻』)がある。かなりな苦しまぎれの故事付けである。有無という小字は、秋山喜久夫も述べているように、採鉱民を指す鉄穴師(かんなし)の転訛だと思う。

 有無で思い出すのは、山形県東置賜郡高畠町に、上有無(ありなし)川・下有無川が流れていることで、しかも、同町高安(こうやす)に、猫の宮と犬の宮が鎮座し、鈴沼を挟んで、虚空蔵菩薩が祀られていることである。すごいところだな、と思い、調べてみると、砥石山、伝乗山、中沢山、丸山、山伏山などに、金鉱があったことがわかった。やはり、有無は鉄穴師と考えていいのではなかろうか。

 

         
           上尾市瓦葺 宇都宮線宮浜踏切付近の遊水池 酸化鉄で水は赤く、金気だっている

瓦葺字坂下辺りの水路

    

      瓦葺氷川神社


 瓦葺・梶ヶ谷戸 辻谷の北西1000mが上尾市瓦葺で、わたしは瓦葺とは河原吹、すなわちノダタラのことと考えている。それを証するかのように、瓦葺の小字に梶ヶ谷戸があり、これは鍛冶ヶ谷戸と考えられる。瓦葺の鎮守は氷川神社で、氷川総本宮である大宮高鼻氷川神社の神池に棲む魚は片目であるという伝承がある。瓦葺は蓮田市蓮田と接しており、大字蓮田には小字で、金山・金塚があり、ここに以下の伝承があることはすでに書いた。    


 《昔から下蓮田村の綾瀬川のあたりは、昔の人たちが砂鉄を採ったところだといわれている。西の方を流れている綾瀬川の近くに金塚とか金山といわれる土地があって、金塚の下の方にある綾瀬川の川底には、カナクソという鉄の錆びたようなものがたくさん捨てられている。
 金山耕地の下の綾瀬たんぼの土には小さなカナクソが混じっているので、畑の土を掘り下げて田んぼにしたいときなど、瓦屋さんに田んぼの土を売り出すと、安く買い叩かれたという話をよく聞かされた。》(『蓮田の伝説』(中里忠博著))

 地名と伝承・伝説から見ると、蓮田市大字馬込から大字蓮田にかけての綾瀬川沿いは、金糞だらけの土地だったものと思われる。つまり、一時期、それだけ多くの採鉱冶金の民が騒がしく、鉄造りの仕事にはげんでいたに違いあるまい。


 


 蓮田市馬込字辻谷の共同墓地にある馬込名号板碑 通称寅子石

 

 今度のNHK朝ドラ『虎に翼』の主人公の名が猪爪寅子というんで、いささか驚いた。なにせ、ちょうど、蓮田市馬込の辻谷共同墓地にある寅子石について、あれこれ考えていた矢先だったから。ただ、朝ドラのヒロインの名は寅子と書いてトモコと読むらしい。なんでも、日本で初めて女性弁護士になった三淵嘉子をモデルにしているんだとか。この人は、1914年(大正3年)生まれだから、寅年である。そこから主人公の名を寅子にし、「虎に翼」という、おしゃれなタイトルになったと思われる。大修館の『大漢和辞典』には《虎翼 虎の猛き上に更に翼をつけると、其の凶暴の制し難くなること。轉じて、勢力家に権威を増し與へる喩。》とある。明治期に培われた「益荒男ぶり」を粉砕するには、虎に翼が不可欠だったに違いない。

 一方、馬込名号板碑――通称寅子石――に伝わる話では、あまたの男たちから結婚を迫られた寅子は、どうしたらよいものやら悩んだ末に、あっさりと自ら命を絶ってしまうのである、しかも、自分の肉をかれらに食してもらうために。

 《永仁(1293~1298)のころ、辻谷の里に長者がいた。その娘をお寅といい、大変器量がよかったため、大人になるにつれて嫁に欲しいとの申込があまりに多く、両親は婿選びが悩みの種となり、お寅自身も、争い事が起こるのではないかと、胸を痛める始末で、悩んだあげく、ある日自室で自殺してしまう。
 今わの際の遺言は、自分の身体を料理して、自分を望んだ多くの男たちに馳走し、すべての男たちの希望を満たしてもらいたい、というものだった。
 長者夫婦は娘の死に気も転倒せんばかりだったが、娘の気持ちをあわれに思い、彼女の死を隠して、お寅に求婚した男たちに、酒宴をはるという招待状を出した。
 当日、山海珍味で供応し、宴もたけなわのとき、主人が「ただ今差し上げる馳走は、娘の心から薦める品であるから、どうかご賞味願いたい」と、一皿づつの膾(なます)を銘々にくばった。
 みながその膾を食べ終わると、長者は涙ながらにつぎのように述べた。
 「ただ今差し上げた膾は、まことを申せば娘の腿の肉でございます。お寅はあまりに皆様のご執心がきついので、誰のもとへ参ったらよいのか迷い、とうとう自害してしまったのです。その遺言に、せめて自分の肉なりと皆様にご馳走して、皆様のお心の等分に立つようにしていただきたい、といって死んだのでございます。」
 男たちは大変驚くと同時に、激しい後悔の念にさいなまれ、お寅の後生を慰めるために、大きな青石の供養塔を建てた。これが寅御石である。》

 (今はどうか知らないが、30年ほど前に訊いた話では、蓮田市は、野外学習の一環として、小学校低学年の生徒を辻谷共同墓地に連れて行き、実際に寅子石を見せながら、このような伝説をがあることを教えていたという。なかには、強烈な印象から、まさに寅ウマになってしまった子がいたらしい。)

 伝説では、お寅の霊をなだめるために建てられたのが寅子石だと、仰々しくいうのだが、実は、この青石塔婆に刻まれた銘文は寅子伝説とは全く無関係なのである。

 この板碑に刻まれた文字は、まず表面に、《南無阿弥陀佛》の名号。その下に、右から《報恩眞佛法師 延慶四 辛亥 三月八日 敬白 大發主釋唯願》とあり、裏面には、申し訳なそうに、小さく《銭已上佰五十貫(ぜにいじょうひゃくごじゅっかん)》とあるのみ。

 

 蓮田市が建てた説明板には、

 《表面の銘文からは浄土真宗の僧である真仏への報恩供養のために、延慶(えんぎょう)四(一三一一)年に唯願が建立したことがわかります。常陸国(現在の茨城県)の出身といわれる真仏は、親鸞(浄土真宗の開祖)の真弟子で、真宗の関東布教の中心となった人です。》

 

とある。

 《銭已上佰五十貫》というのは、この供養碑を建てるのに、合計で百五十貫の銭がかかったということである。鎌倉時代の1貫をAIに尋ねたところ、《米1石と同じ価値で、4万5000円(約150kg)でした。》と出た。とすると、6,750,000円もかかったというのか。でも、まあ、秩父辺りから、結晶片岩を切り出して、荒川をえっちらこっちら船で運び、これに文字を刻み、どれほどの重さかはわからないものの、高さ4メートルもある塔婆を直立させるわけだから、材料費・加工費・人件費・輸送費等々、それくらいの銭がかかっても不思議はないか。それにしても、そんなこと、書き記しておくことだろうか。これを建立するのに、余ほどの苦労があったからこそ、どうしても、これを書置きしたかったのだろう。その気持ちはわからないではないが、そこはかとなくみじめさを感じさせる。

 なぜ馬込名号板碑に、全く無関係で、奇怪な伝説がまとわりつくことになったのか、その理由を、わたしは、この辺り一帯に採鉱冶金の民、つまり、ネコと呼ばれた鍛冶師・鋳物師たちがいたこと、に求めるのである。