篠津から連想する(上) | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 何年か前、白岡市(旧南埼玉郡白岡町)の病院について調べ物をしていたら、2014年に、同市篠津字中妻で奈良・平安期の精錬工房跡が発見されたことを知り、会心の笑みを浮かべるとともに、心のなかで、そっと、自分の勘の良さを自画自賛した。もっとも、発見されたのは精錬炉跡であって、タタラ炉ではないので、それほど大見得も切れないのだが。
http://www.city.shiraoka.lg.jp/10989.htm
         
                                篠津久伊豆神社

        

                                 篠津須賀神社

        

                                 篠津妙見社

 

 というのも、2008年4月、この辺りをうろうろしたとき、久伊豆神社・須賀神社・妙見社の存在から、篠津一帯でタタラ製鉄でも行われていたのではないか、とほんのり思ったからにほかならない。この思い付きには、当然、篠津という地名が無意識の内に影響を及ぼしていたにちがいなかった。

 この地名について、『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎 北辰図書)には、こう記されている。

 ≪篠津の名は渡津よりおこったものとみられる。津とは船つき場の意であるから、岸辺に篠が生えていたために篠津の名が生じたものであろう。
 沖積層の発達いまだ十分でなかった時代には、此地を流れる元荒川の河身も今日と異なってさらに大であり、その水量も極めて豊富で運輸の便がよかったであろうことが想像される。したがって、篠津の命名は、元荒川の河身が大であったころ、この地が水上交通の要津としてその名がつけられたものであろう。≫

 なるほど、上記三社は、西に元荒川の河川敷、東に利根川が乱流した沖積地に挟まれた、台地上に鎮座しており、韮塚の「津」に関する解釈に文句のつけようはない。が、「篠」については、想像力を膨らませる息吹がなく、はなはだ物足りない気がする。岸辺に篠が生えているのは、ごく当たり前の風景であって、ならば、篠津という地名がもう少しあってもおかしくはない。にもかかわらず、この地名は、県内で、もう一ヶ所あるのみである。

 近江国蒲生郡に篠笥(ささき)郷があったように、「篠」はササと読んだのではあるまいか。ササとは小さく、細かいものを指す語で、古く、採鉱冶金の民は砂鉄のことをササと称した。元荒川で採れた砂鉄を集積する津であったので、篠津(ささのつ)といったのが、後に、シノヅに変化したのではなかろうか。

 県内もう一ヶ所の篠津とは、桶川市にある。ここには式内社に比定されている多気比賣神社が鎮座する。元は姫宮社といい、明治になって、つまり、式内社の論社となってから、名称を改めている。祭神は豊葦建姫命で、アサ・アソと通音の「葦(アシ)」がつくところが鉄を想起させ、「建(タケ)」が篠津の篠と一致する。

 

         

                               篠津多気比賣神社

   
                    赤堀川  こんもりした樹があるところが多気比賣神社


 この多気比賣神社の南東約500m、同市加納字宮ノ脇から製鉄遺跡が出ている。加納は金生で、金属産出地を指す地名ではなかろうか。篠津と加納の間を東西に細長く大字赤堀が入り込み、ここを赤堀川が流れる。この地名も酸化鉄に因んでおり、ここの砂鉄から鉄を造っていたのではないかと想像される。つまり、桶川の篠津も砂鉄集積地であった可能性がある。

 ちなみに、白岡の篠津には赤池というところがあり、こんな伝説が残っている。

 

          
                                    赤池橋


 ≪「赤池」という地名は、菖蒲城の城主が逃げてきて、最後に戦って死んだっていうとこですね。そばの堀っこが血でまっかになっちゃったっていうんです。菖蒲城から逃げてきたっていうので、菖蒲新田というんです。
 そばに「カキッツカの地蔵様」というのがあって、そこんとこに胴とか首をいけた(埋めた)ってんですね。今、野牛のなんとかという神社に合祀されているお堂は、この菖蒲城の霊を祀ったものだという。ところが、毎年毎年、そのお宮の馬が出て八穀を荒らしてしょうがなかったんで、みてもらったら、菖蒲城主の因縁だったんですね。≫(『白岡町史 民俗編』)

 菖蒲城は久喜市菖蒲町(旧南埼玉郡菖蒲町)新堀にあった、室町期に築かれた城である。シブ(渋)・ソブ(祖父江)・ソボ(祖母)・ショウブ(勝負)もまた鉄を指す語で、菖蒲新田というのは、おそらく白岡市野牛の小字で、宇都宮線が姫宮落川を越える近くに菖蒲橋があるから、この辺り一帯を指す、鉄分が多く赤い、いわゆる渋田をいうのだろう。その菖蒲という地名を解釈するために、菖蒲城主の話を故事付けたというのは、故事付けにしては相当にいいセンスだと思う。なぜなら、菖蒲城主金田氏は近江国蒲生郡篠笥郷を本貫とする佐々木氏の後裔とされるからである。

 

          
                                   菖蒲城祉


 《菖蒲城址之碑》と題する、県が昭和15年6月に建てた碑文にはこうある。

《菖蒲城ハ一ニ新堀城ト云ヒ東北ニ星川西南ニ小林沼ヲ擁スル要衝ニ營マレソノ形勢羽生騎西ノ諸域ニ類似シ康正二年五月金田式部則綱ノ創始ト傳フ金田氏ハ近江佐々木氏ニシテ秀義十二代ノ孫氏頼ノ長子満高始メテ金田氏ヲ稱シ…云々》

 それにしても、篠笥と書いてササキと読むのは違和感がある。篠(しの)とは、小竹のことで、ササともいう。笥は音読みでシ、意味はハコで、≪飯、または衣服などを入れる四角なはこ。葦、または竹を編んで作る。≫(『新漢和辞典』大修館)とあり、また、ケともいうとあるから、本来、篠笥の読みはササケであろう。

 とすると、篠で編んだ箱とは、砂鉄淘汰のための箱でもあろうか。

 『大日本地名辞書』「篠笥郷」に、≪和名抄・大角豆注散々介とありて、介と貴は音便なれば、古音相通なるべし。≫とあるのは、『和名抄』の注に、篠笥の読みを、大角豆(ささげ マメ科の一年草)とし、これを散々介(ささけ)と訓じ、介(け)と貴(き)は通音だから、篠笥でササキと読むんだ、ということなのだろう。

 同書は続けてこうも記している。≪古書に佐々貴、狭々城又沙々城に作り、後世は専ら佐々木に作る。佐々木氏は姓氏録「摂津皇別 佐々貴山君、阿部朝臣同祖、大彦命之後也」とあり、陵墓の事に因める氏号なるべし。雄略紀に狭々城山君韓帒と云ふ人あり。実に陵守を職とす≫つまり、佐々貴、狭々城、沙々城とも書いたが、後に、佐々木と書くのが一般化した、狭々城氏は大彦命の後裔で、その職業は墓守だ、と。

  佐々貴や狭々城の方が分かりやすいにもかかわらず、敢えて篠笥という難字を宛てたところに、なにか強烈なメッセージが、こそーっと、隠されている予感がする。そのメッセージを探るヒントこそ、『和名抄』がわざわざ注釈している大角豆、つまりササゲではなかろうか。というのは、大角豆の蔓に足を取られ、転倒して、片目を傷つけたという伝承が少なからず見受けられるからなのだ。

 柳田國男の「片目の魚」には、こんな伝説が掲載されている。

 ≪福島縣の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があつて、若き太子様の木像を祀つております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて澤の奥にはひつて行くと、ふいに草むらの間から、負つて行け負つて行けという聲がしましたので、たづねて見るとこのお像でありました。驚いてさつそく背に負うて歸つて来ようとして、途中でさゝげの蔓にからまつて倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈で突いたといふことで、今見ても木像の片目から、血が流れたやうなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いといふ話がありましたが、この頃はどうなつたか私はまだきいていません。≫

 柴田弘武の『産鉄族オオ氏』には、笹岡明の「ジュウドノ考」という論文から引用してこうある。

 ≪「ジュウドノ」の神をめぐる禁忌に、「ささげと胡麻は作れない」というものがあり、それは、神様がささげのつたにつまずいて転び、胡麻で目を突いたからだという。≫

 ちょっと記憶を手繰っただけでもこうだから、探せばもっとあるにちがいない。おそらく、篠笥郷は片目の居住地だ、というメッセージを、意識的に込めようとしたのではあるまいか。篠笥郷が、天目一箇命の父であるという天津日子根命を祖とする、蒲生稲寸の支配地であったことを考えると、それも当然といえば当然ということになろうか。

 そこで、久しぶりに、篠津一帯を探索してみることにした。