馬込名号板碑――なぜ寅子石伝説は生まれたか 3 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 しかし、伝説・伝承はまだしも、地名の解釈については、いわゆる諸説あるにもかかわらず、あまりにも主観的過ぎ、多分に誘導的であり、客観性に欠けるのではないかと思う向きもあるかと思うので、馬込一帯に鍛冶がいたという、もう少し客観性のある確かな証拠も挙げておこう。

 


辻谷共同墓地にある「鉄山開了沙弥」の墓碑 2008年9月撮影

          

          2023年4月撮影 だいぶ風化が進んでいる


 それは、辻谷共同墓地に残る、古い墓碑で、表面に「鉄山開了沙弥 文政二年己卯年二月十□日施主斎藤長右エ門」と刻まれている。「鉄山」というのは鍛冶師・鋳物師などの戒名に冠せられる道号、「開了」が戒名で、「沙弥」とは、「沙弥から長老にはなれぬ」(《小僧から一足とびに長老にはなれない。物事には段階があって、順序をふまなければ、進めないたとえ。》『故事ことわざ辞典』東京堂出版)ということわざにある通り、駆け出しの坊主のことであるが、ここでは、仏道に入ってはいるが、妻子を持ち、一般人と変わらぬ生活をしている在家の入道者と考えていいのではなかろうか。戒名の「開了」に意味があるとしたら、「冶金業で成功した」といったところか。文政2年は江戸後期の1819年。施主の斎藤長右エ門は、逆修でなければ、墓碑の人物の長男で、おそらく、この人も鍛冶師、正確にいえば、おそらく鋳物師だったのではなかろうか。

 なぜなら、蓮田市馬込は、さいたま市岩槻区馬込と隣接しているように、かつては一村で、岩槻領に属していた。岩槻の斎藤氏といえば、『新編武蔵風土記稿』に《旧家者伴蔵、氏を斎藤と称す。代々名主を勤め傍ら鋳冶を業とせり。家系を失ひたれば来由詳ならず。岩槻太田家及小田原北条家より与へし文書を蔵す、宛名渋江鋳物師とあり、されば往古は岩槻渋江町に住し、御入国の後当所に移りしなるべし。云々》という記述があるからにほかならない。

 岩槻区の村国村記念碑にも《当所はもと埼玉郡渋江郷に属せし地にして、現在字鋳物屋敷と称し、古来居住の斎藤氏は歴代里正を勤め鋳金を業とせし旧家なり》とある。辻谷墓地の斎藤氏はこの渋江鋳物師の斎藤氏と関係のある人物なのではなかろうか。岩槻市教育委員会が1980年にまとめた『岩槻市地歴豆辞典』にはこうある。

 《渋江鋳物師は、江戸の開府に伴って地の利を失い、江戸に近く交通に便利な川口に移動したとされているが、その真偽は不明である。一説には、初め市内馬込に住み、その後金重に移り、そして岩槻渋江、次に村国に移ったとされている。以上の四ヵ所はいずれも金屎を出土している。》

 
2007年12月撮影


(同委員会が昭和36(1961)年に建てた「埼玉県指定旧跡 渋江鋳金遺跡」の案内板には《岩槻市内の鋳金遺跡は馬込・金重・村国の三か所といわれているが、確認できる旧跡は村国と馬込である。》とある。)

 これもまた、《真偽は不明》のようだが、渋江鋳物師は、馬込から金重・渋江・村国へと東へ移動したというのである。

 


赤坂沼 平林寺側 2023年3月撮影

岩槻市給食センター 2009年3月撮影


 ここでいう馬込は蓮田市の馬込ではなく、岩槻区の馬込で、赤坂沼周辺と考えられる。『岩槻城と町まちの歴史』(1987年 聚海書林)によると、岩槻市給食センター裏付近から今も鉱滓が出土する、という。給食センターは1973年に設立、最近取り壊しになり、今は空き地になっているが、周囲を塀で囲まれ、なかに入ることはできない。赤坂沼は馬込と平林寺にまたがってある沼で、おそらく、旧利根川が南進し、岩槻台地にぶつかってできた沼と考えられる。明治期、この辺りを河合村と称し、馬込や平林寺はその大字であった。この河合という地名は旧利根川の南進と関係があるのではあるまいか。ついでにいうと、平林寺という地名は、現在、新座市野火止にある臨済宗金鳳山平林寺がかつてここに所在したことによる。

 

   

   
    赤坂沼馬込側 2009年3月撮影


 さて、赤坂沼の馬込側はその名のとおり赤く、金気だっており、砂鉄の存在を暗示している。旧利根川が元荒川を巻き込んで、岩槻台地に衝突したとき、それぞれの川の砂鉄をここに残溜、堆積させたのではなかろうか。この砂鉄を原料として、馬込・平林寺一帯で、鋳冶業が営まれていたのではあるまいか。

 


馬込第六天神社


 江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』「岩槻領馬込村」の項には、村民持ちの神社として稲荷社・神明社・氷川社・山王社・山神社・白山社・熊野社・荒神社などと共に、採鉱民が奉斎する金山権現社が、あったことが記されている。ところが、明治期に成った『武蔵國郡村誌』には、この社の記述はない。平凡社の『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』には、馬込鎮守の第六天神社に合祀されたとあるが、この神社のどこをどう探しても金山社の存在はないし、『埼玉の神社』を調べても、金山権現が第六天神社に合祀されたという記載はない。つまり、現在、金山権現社は確認されていないが、おそらく、赤坂沼の西、東北自動車道に架かる橋に町谷橋がある辺り、小字町谷付近に、かつて、あったのではないかと想像する。

 

町谷橋

 

なぜなら、十日市と書いて、トオカマチと呼び習わすように、マチ(町)とイチ(市)とは同じ意味を持ち、イチとは、すなわち、非農民の商工業者が多く集まる場所をいうからで、特に神社を中心として集住するのが常であったからである。つまり、金山権現社を中心としてイチが立ったのが町谷だったのではなかろうか。それに、朝鮮語で망치(mang chi)といえば、鍛冶にとってなくてはならない鎚・ハンマーのことをさすのである。

 ところで、馬込の鎮守第六天神社の鳥居の額は斎藤氏と黒須氏との連名で奉納されている。ここにも馬込の斎藤氏が鋳冶を業としていたのではないかという想像を羽ばたかせるワケがある。