馬込名号板碑――なぜ寅子石伝説は生まれたか 余話1 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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         瑠璃光山満蔵寺山門

 

 蓮田市馬込の辻谷共同墓地を管理しているのは、岩槻区馬込にある天台宗の満蔵寺で、宗派は違うものの、今も、馬込名号板碑に記された、真宗高田派の祖、真仏の報恩供養を執り行っている。

 

        
          満蔵寺本堂

        

          満蔵寺薬師堂


 『新編武蔵風土記稿』によると、この寺の本尊は三尊の弥陀となっているが、その山・院号を瑠璃光山東光院ということから、元々は薬師如来が本尊だったのではないかと考えられる。境内には、今も薬師堂が残る。わたしが興味を引き付けられるのは、ここに、馬込の、斎藤氏や黒須氏の大きな墓と並んで、杉山氏のこれまた大きな墓があることである。この氏は旧馬込村に多く存し、『埼玉苗字辞典』には、《岩槻市馬込に五戸、蓮田市馬込に十戸現存す。》とある。岩槻区では金重の北隣の掛(かけ)にも多い。旧国道122号線沿いに、杉山氏だけの墓地があったり、相当に古い家柄と思われる。わたしは、もしかして、馬込の、斎藤氏や黒須氏と共に、杉山氏も渋江鋳物師の一翼を担っていたのではないか、と思わずにはいられない。

 杉山氏の分布は、日本全国にわたるが、特に静岡県清水市が突出しており、葵区・清水区(区内に杉山という大字がある。)・駿河区に際立っている。同県裾野市茶畑にもやたら多い。次いで多いのは神奈川県で、ここには、鉄の生産と関係があるといわれる、杉山神社が多く存在する。埼玉県は上位に属し、なかでも川越市に多く、殊に古谷本郷と古谷上に多い。そこに、わたしの興味は引き付けられる。なぜなら、『新編武蔵風土記稿』によると、満蔵寺は入間郡古尾谷上村灌頂院の末寺だというからで、この灌頂院とは、今の川越市古谷本郷にある、慈覚大師創建とされる灌頂院にほかならないからである。

      

       天台宗寳聚山灌頂院

 

 しかも、古谷上には小字で黒須というところがあることを力太郎氏(『力太郎のブログ』)

 

 

から教えていただいた。かつて、この辺りに、古尾谷城があったという。さらに力太郎氏は、『新編武蔵風土記稿』の入間郡藤久保村(現同郡三芳町藤久保)条に、つぎのようにあることを指摘している。《旧家者惣八郎、杉山氏なり。本名は黒須にて、先祖は当郡渋井村の旧家伊三郎が家より出し者なりと云へり。伊三郎が蔵する系図を按ずるに、北条長氏の妾・懐体せしを、駿河国東郡茶畑三郎右衛門吉秀に嫁せしむ。爾の時出生の子を黒須長右衛門吉永と云ふ。是れ伊三郎が先祖なり。其の弟黒須庄太夫吉安は三郎右衛門が実子にて、即ち惣八郎の先祖なり。二代目も庄太夫と名乗りしと見ゆ。其の後のことは惣て詳ならず。今杉山を以って氏とせるは、惣八郎より二三代前、杉山氏の人を養ひて家を嗣がしめしより称せりと云ふ》藤久保村の杉山氏の本名は黒須氏で、入間郡渋井村を出自とする、というのである。

 『埼玉苗字辞典』黒須の項に、古尾谷城主仲氏家臣の黒須氏について、《三ヶ島村中氏先祖書に「古尾谷城主仲筑後守資信・応永年中落城、禅仲寺者城跡也。資信家臣黒須長次兵衛あり、古尾谷近郷に子孫数多有之」と見ゆ。資信は天正頃の名にもあり。渋井村の黒須長右衛門吉永の子孫に黒須長次兵衛あり。荒川対岸の足立郡瓦葺村及び大成村等に此氏多く存す。古谷上村善仲寺附近の字黒須は此氏の屋敷名なり。》とあって、渋井黒須氏と瓦葺黒須氏との関係をほのめかしているように思えないでもない。(所沢の三ヶ島といえば、中氏と共に本橋氏も多いところであり、古谷上の北、川越市鴨田には本橋という小字もある。)

 渋井村とは、現在の川越市渋井である。この渋井という地名が渋江鋳物師の渋江と通音であるのは偶然なんだろうか。