馬込名号板碑――なぜ寅子石伝説は生まれたか 1 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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 蓮田市馬込字辻谷の共同墓地にある馬込名号板碑 通称寅子石

 

 今度のNHK朝ドラ『虎に翼』の主人公の名が猪爪寅子というんで、いささか驚いた。なにせ、ちょうど、蓮田市馬込の辻谷共同墓地にある寅子石について、あれこれ考えていた矢先だったから。ただ、朝ドラのヒロインの名は寅子と書いてトモコと読むらしい。なんでも、日本で初めて女性弁護士になった三淵嘉子をモデルにしているんだとか。この人は、1914年(大正3年)生まれだから、寅年である。そこから主人公の名を寅子にし、「虎に翼」という、おしゃれなタイトルになったと思われる。大修館の『大漢和辞典』には《虎翼 虎の猛き上に更に翼をつけると、其の凶暴の制し難くなること。轉じて、勢力家に権威を増し與へる喩。》とある。明治期に培われた「益荒男ぶり」を粉砕するには、虎に翼が不可欠だったに違いない。

 一方、馬込名号板碑――通称寅子石――に伝わる話では、あまたの男たちから結婚を迫られた寅子は、どうしたらよいものやら悩んだ末に、あっさりと自ら命を絶ってしまうのである、しかも、自分の肉をかれらに食してもらうために。

 《永仁(1293~1298)のころ、辻谷の里に長者がいた。その娘をお寅といい、大変器量がよかったため、大人になるにつれて嫁に欲しいとの申込があまりに多く、両親は婿選びが悩みの種となり、お寅自身も、争い事が起こるのではないかと、胸を痛める始末で、悩んだあげく、ある日自室で自殺してしまう。
 今わの際の遺言は、自分の身体を料理して、自分を望んだ多くの男たちに馳走し、すべての男たちの希望を満たしてもらいたい、というものだった。
 長者夫婦は娘の死に気も転倒せんばかりだったが、娘の気持ちをあわれに思い、彼女の死を隠して、お寅に求婚した男たちに、酒宴をはるという招待状を出した。
 当日、山海珍味で供応し、宴もたけなわのとき、主人が「ただ今差し上げる馳走は、娘の心から薦める品であるから、どうかご賞味願いたい」と、一皿づつの膾(なます)を銘々にくばった。
 みながその膾を食べ終わると、長者は涙ながらにつぎのように述べた。
 「ただ今差し上げた膾は、まことを申せば娘の腿の肉でございます。お寅はあまりに皆様のご執心がきついので、誰のもとへ参ったらよいのか迷い、とうとう自害してしまったのです。その遺言に、せめて自分の肉なりと皆様にご馳走して、皆様のお心の等分に立つようにしていただきたい、といって死んだのでございます。」
 男たちは大変驚くと同時に、激しい後悔の念にさいなまれ、お寅の後生を慰めるために、大きな青石の供養塔を建てた。これが寅御石である。》

 (今はどうか知らないが、30年ほど前に訊いた話では、蓮田市は、野外学習の一環として、小学校低学年の生徒を辻谷共同墓地に連れて行き、実際に寅子石を見せながら、このような伝説をがあることを教えていたという。なかには、強烈な印象から、まさに寅ウマになってしまった子がいたらしい。)

 伝説では、お寅の霊をなだめるために建てられたのが寅子石だと、仰々しくいうのだが、実は、この青石塔婆に刻まれた銘文は寅子伝説とは全く無関係なのである。

 この板碑に刻まれた文字は、まず表面に、《南無阿弥陀佛》の名号。その下に、右から《報恩眞佛法師 延慶四 辛亥 三月八日 敬白 大發主釋唯願》とあり、裏面には、申し訳なそうに、小さく《銭已上佰五十貫(ぜにいじょうひゃくごじゅっかん)》とあるのみ。

 

 蓮田市が建てた説明板には、

 《表面の銘文からは浄土真宗の僧である真仏への報恩供養のために、延慶(えんぎょう)四(一三一一)年に唯願が建立したことがわかります。常陸国(現在の茨城県)の出身といわれる真仏は、親鸞(浄土真宗の開祖)の真弟子で、真宗の関東布教の中心となった人です。》

 

とある。

 《銭已上佰五十貫》というのは、この供養碑を建てるのに、合計で百五十貫の銭がかかったということである。鎌倉時代の1貫をAIに尋ねたところ、《米1石と同じ価値で、4万5000円(約150kg)でした。》と出た。とすると、6,750,000円もかかったというのか。でも、まあ、秩父辺りから、結晶片岩を切り出して、荒川をえっちらこっちら船で運び、これに文字を刻み、どれほどの重さかはわからないものの、高さ4メートルもある塔婆を直立させるわけだから、材料費・加工費・人件費・輸送費等々、それくらいの銭がかかっても不思議はないか。それにしても、そんなこと、書き記しておくことだろうか。これを建立するのに、余ほどの苦労があったからこそ、どうしても、これを書置きしたかったのだろう。その気持ちはわからないではないが、そこはかとなくみじめさを感じさせる。

 なぜ馬込名号板碑に、全く無関係で、奇怪な伝説がまとわりつくことになったのか、その理由を、わたしは、この辺り一帯に採鉱冶金の民、つまり、ネコと呼ばれた鍛冶師・鋳物師たちがいたこと、に求めるのである。