競馬狂夫人 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

                 

 

 ヘンリー・スレッサーに「競馬狂夫人」(ハヤカワ・ミステリ 『うまい犯罪、しゃれた殺人』所収 1964年)という短編がある。

 話は、主人公のフラン・オランド夫人が、朝、競馬新聞を見て、明日のレースの馬券購入依頼のため、ある会社に電話するところから始まる。ところが、クーニーという、その担当者は、今まで立て替えた25ドルを今日中に返済いただけない限り、これ以上の依頼には応じられないし、本日6時までに返済できないなら、御主人と話すことになると強硬にいう。夫に話されたら大変なことになると踏んだ夫人は、手持ちの金をかき集めるが、2ドル78セントしかなく、窮余の策として、あるアイデアを実行しようと試みる。

 彼女は、おめかしすると、アパートから400mほど離れたバス停に向う。そこは三路線のバスが乗り入れる発着場になっている。彼女は、カモになりそうな――両手をポケットに入れて、しきりにコインをじゃらつかせている――男の側に立ち、バスが近づいてくるのを確認すると、サイフを開け、中をかき回しながら「まあ、どうしましょう。」と大声を上げる。何ごとかと興味をひかれた男に、夫人はサイフに一銭も入っていないことを示し、これからどうしても街に出なければならないのに、と訴えかけ、まんまと15セントをゲットする。

 こうして、夫人は、3時までに、やっとの思いで、18ドル10セント集めることができた。一息入れて、再び、バス停に並び、また別の男からバス代を工面してもらおうとしていると、「奥さん、ちょっと…」と突然見知らぬ男にドレスの袖をつかまれる。抵抗しようとする彼女に、一緒に来た方が身のためだ、わたしはずっとあなたのしていたことを見ていた、なんならバッジを見せましょうか、と無理やり車に乗せられる。

 しかし、車は街中とは逆方向の、川沿いにある倉庫街へと向かい始め、やがて男の話から、警官ではないことに気付いた彼女は、車のドアを開け、脱出しようとするが、男は彼女を逃がすまいとするので、夫人がコインのたっぷり入った財布を男の顔面に投げつけると、怒った男はハンドルから両手を放し、彼女を捕まえようとしたので、車は歩道に乗り上げ、赤レンガ壁に激突して止まった。

 無傷で、車からはい出した夫人は、誰からも見られていなかったことを確認すると、すぐに逃げようと思うが、サイフを車内に忘れたことに気付く。車内に戻ると、それは意識を失った男の側に落ちていた。男の生死は不明だが、そのときの彼女にとっては別にどうでもよいことだった。それから、ふと、男のサイフに思い至り、洋服の内ポケットから、札入れを見つけ出す。それにはぎっしりと札が詰まっていたが、彼女はたった10ドルだけを抜き出した。

 それから、夫人は、6時10分前に、クーニーに借金をすべて返済し、アパートに戻り、階段を上っていると、上の階に住む友人のリラに遭遇する。リラはフランの夫から電話があったことを告げる。午前中、何度電話してもあなたが出ないものだから、わたしのところにいるんじゃないかと思ったらしい、という。なんでも、仕事で、シカゴに行かなきゃならず、今日は帰れないと伝えてくれ、とのことだった。彼女は、愕然として、思わず、友人に「家に帰ってこないの」と聞き返してしまう。

 家に戻ると、彼女はサイフをテーブルの上に投げ、靴を蹴飛ばすように脱ぎ捨てる。彼女は疲れ果てて、どっかとイスに座り込み、タバコに火をつけ、ぼんやりと戸外の光を見つめ、「シカゴか」と苦々しく吐き捨てた、その時、頭にひらめくものがあった。

 《彼女は電話のところへ歩いて行き、おなじみの番号を廻した。
「もしもし、クーニーさんいますか?」彼女のストッキングをはいた足はいらいらとリノリュームの床を叩いていた。
「もしもし、クーニーさん?わたし、フラン・オランドよ。あすの第四レースに賭けたいの。シカゴフライヤーに五ドル。それだけ。第四レースよ…」》



 この短編の原題を「something short of murder」という。「殺人には至らないなにか」とでもいうのだろうか。

 

 この種の人間の典型が見事に描かれているのではあるまいか。