暴力 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 

 

            

              伊丹十三DVDコレクション 『マルサの女2』より転載

 

 伊丹十三監督の『マルサの女2』に、こんなシーケンスがある。

 ガサ入れで押収した資料の中に、秘密取引ノートがあり、容疑者はそれを取り戻すため、賊を国税局査察部(通称マルサ)に侵入させる。主人公の国税局査察部査察官板倉亮子は、押収物保管庫で、飛び出しナイフを操るその侵入者と丸腰で対峙することになる。

 

 ナイフを構える男に対し、逃げるのではなく、逆に、じりじりと近づきながら、「ナイフを渡しなさい。おい、ナイフを渡すなら今しかないぞ。今なら建造物不法侵入、公文書破損くらいで済むかもしれない。しかし、グズグズしてると、公務執行妨害で5年、もしわたしを傷つけたら、強盗傷人で7年、わたしを殺したら、間違いなく無期だ。(呆然とする侵入者)まじめに勤めて30年で仮釈放になったとしても、そんとき、あんたいくつだ。60か、65か、それまで刑務所ですごす覚悟なら、わたしを止めてみろ。」というと、呆然と立ちすくむ男のナイフにそっと触れ、それを抜き取る。

 暴力に非暴力で立ち向かう、板倉亮子にわたしは感動した。

 それで、これも、今は昔、電車内の暴力事件について思い出した。車内の暴力というのは枚挙にいとまがない。これについては、昔も今も変わらないのではなかろうか。

 ある朝、わたしは列車に乗ると、すぐ読書に集中した。だから、原因がなんだかわからない。間もなく、鈍い音と共に、わたしの前にいた男子高校生がよろけ、二三歩後退した。次に、男の怒鳴り声「なめてんじゃねぇぞ、このやろお。」高校生は帽子を取り、ぼそっと「すいませんでした。」と謝っている。なんだかさっぱり状況が飲み込めなかったが、しばらく鈍い音が耳から去らなかった。

 ま、この程度の暴力は日常茶飯事ではないのか。

 これから話そうとする事件は、ある冬の月曜日に起こった。なぜ曜日を憶えているかというと、前日の日曜、わたしはNEWYORKERへ白のトレンチコートを買いに行き、翌月曜日がお披露目だったからにほかならない。

 朝、わたしは満員電車の中で、とにかく女性の近くにはいかないよう細心の注意を払った。なにせ、以前、ファンデーションやら口紅やら付けられ、さんざんな目にあったことがあるから。

 事件は帰りの車内で起こった。

 車内は、座れはしないものの、混雑してはいなかった。わたしがドアの横で、手摺りに寄りかかるように立っていると、突然後ろで、「なんだよ、こらぁ、今足引っ掛けただろう。」という若い男の声、「えっ、爺さん、今、足出して引っ掛けようとしただろ。」とたたみかける。そういわれた年寄りは、ドア脇の椅子に腰を下ろしているから、立っているわたしの真後ろになる。どうやら、多少酔っているらしく、何かしゃべるが、何をいってるんだかよく聞き取れない。サラリーマン風の若い男が「わっかんねぇよ、はっきり言えよ、クソジジイ。」と詰め寄ると、「お前が、勝手に俺の足に躓いたんだろ。ばぁかぁ。」この一言で、若者は切れた。

 その男は傘を持っていた。(わたしは持っていなかったからその日雨は降っていないと思う。)その傘の石突で爺さんの顔面めがけて突いた。それは脅しではなく、目いっぱい力を入れての、殺意さえ感じさせる突きだった。老人はとっさに顔を振って一撃をかわした。ついで二撃目、これもすれすれでかわす。酔ってはいてもすばやい身のこなしだ。しかし、一撃目よりは、反応が明らかに遅いように見えた。

 そのとき、わたしは、一瞬、『LIFE AT WAR』に掲載された、ベトナム戦争時、サイゴンでの、ベトコン公開処刑の写真を思い浮かべた。報道カメラマンのエディ・アダムスが撮影した、南ベトナムの軍人が、捕虜となったベトコンの頭を、至近距離から撃ちぬいた瞬間の写真だ。これにより、アダムスはピューリッツアー賞を受賞することになるのだが、かれは、撃たれた男の頭から血が1メートルほど噴出し、見るに堪えなかった、とどこかで述べていた。

 わたしは、買ったばかりの真白なコートが、老人の頭から迸る鮮血に染まるのを想像して、なぜか急に、恐ろしくなり、三撃目の体勢に入った若者を止めに入った。

 「やめとけ、やめとけ。怪我でもさせたら、刑務所行きだぞ。死ぬことだってあるからな。一生台無しだぞ。」このことばに、すうっと我に返ったものか、若者は、まるで給仕ロボットのように、踵を返し、反対側のドアへ向った。列車はちょうどうまい具合に尾久駅に着き、ドアが開き、男は、おそらく目的の駅ではないのだろうが、降りようとした。すると、年寄りが「なんだこのやろう、逃げるのか。もういっぺんやってみやがれ。」と投げつける。若い会社員は一瞬戻りかけたが、ドアが閉まるまで外で立ったままじっと老人を睨んでいた。

 尾久駅を出ると、爺さんがでかい声で吠え始めた。「あのやろう、俺の頭を刺そうとしやがった。もういっぺんやってみやがれ、あのやろう、ただじゃぁおかねえぞお。」怒りがおさまらないらしい。それで、わたしは年寄りのご機嫌取りもしなければならなくなり大変疲れた。

 余計なおせっかいはするもんじゃないが、とにかく、コートが無事であったのはなによりだった。