馬込名号板碑――なぜ寅子石伝説は生まれたか 4 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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              馬込第六天神社鳥居の額

 

 黒須という姓氏は埼玉県が最も多く、なかでも、上尾市瓦葺と蓮田市御前橋(瓦葺と御前橋とは1kmも離れてはいない。)とに集中し、ついで白岡市篠津に多い。瓦葺は河原吹であって、その小字梶ヶ谷戸は鍛冶ヶ谷戸と考えられる、ということはすでに書いた。御前橋は大字蓮田の小字金山・金塚の至近にあり、篠津は小字の中妻から精錬工房跡が発見されたところである。

 


 いずれの地にも共通するのは鍛冶であるといえる。なかでも、瓦葺の小字梶ヶ谷戸には瓦葺黒須氏の本家があり、その屋号は鍛冶屋であるという。

 この氏には以下の伝説がまつわりつている。
 
 《桓武天皇の延暦年間、田村麻呂が東山道から武蔵に入り、東北へ進もうとしたが、綾瀬川が広く越すことができない。川を渡れそうなところを探して瓦葺村に至ると、瓦葺の長者に船を用意し、向こう岸の蓮田村に渡してくれるように頼んだ。長者は近くの村々から船を集め、軍勢を無事に渡した。田村麻呂はお礼として家紋を贈り、その使用を許した。
 瓦葺の長者、黒須家では今も丸の中に帆かけ船の図柄の家紋を大事に受けついでいるという。》(『蓮田の伝説(1)』中里忠博著)

 長者には様々な意味があるが、ここでは「億万長者」という場合の長者、すなわち大金持ち・富豪をさす。おそらく、黒須氏は大鍛冶・小鍛冶業で一大資産を築いたのではなかろうか。

 馬込第六天神社に斎藤氏と連名で額を奉納した黒須氏は、思うに、瓦葺黒須氏の分かれで、同様に、鍛冶業を営んでいたのではなかろうか。そして、斎藤氏は鋳物業を営み、同業ではあるものの、きっちりと棲み分けはしていたということなのではなかろうか。第六天神社鳥居の額から、そんなことをわたしは想像してしまうのである。

 ところで、辻谷共同墓地には、他にも魅力的な氏の墓碑が多い。金子氏、白鳥氏、本橋氏などである。

 

    
     原馬室の権現堂 2007年9月撮影


 金子氏というと、どういうわけか、真っ先に思い出すのが、鴻巣市原馬室字権現にある、権現堂のことである。それは、金子姓が最も多いのが埼玉県であり、なかでも、鴻巣市原馬室がトップクラスであることからの連想かもしれない。権現堂の敷地は墓地になっており、そこはすべて金子氏の墓なのである。この権現とは何かというと、おそらく羽黒権現ではなかろうか。近くにある氷川神社の石碑に、合祀した神社の一つとして、《羽黒神社(権現社)》とあるからである。

 

    

      原馬室氷川神社 同上

    

     近くには馬室埴輪窯跡――埴輪を登り窯で焼いていた5~6世紀頃の遺跡

 

 金子氏の墓地で羽黒と云ったら、お歯黒のこととしか思えない。お歯黒、つまり鉄漿(かね)である。そもそも出羽三山は修験の山であり、山伏たちの活躍の場であっただけあって、一帯は鉱山だらけであった。山伏の「伏」とは、「亻(にんべん)」に「犬」と書く。古く、《犬は地下に埋もれた鉱物資源を発見する能力をもっていると信じられ》(『四天王寺の鷹』谷川健一)ていた。昔話の「花咲か爺さん」にあるとおり、犬がここ掘れわんわんと鳴けば、大判小判がザックザックなのである。福岡県宮若市犬鳴にはタタラ谷があって、古くから鉄が造られていたという。つまり、山で、人でありながら犬の役目をするのが山伏なのである。権現の金子氏が山伏だったかどうかは不明だが、柳田國男は金子を金工(かねく)のことと解釈している。(『地名の研究』)それかあらぬか、権現堂の南500mに小字で鉄砲宿というところがあり、鉄砲鍛冶がいたところだといわれている。また、北北西2.5㎞ほどのところ、同市北中野・糠田付近をかつて中野村といい、ここの金子氏は武蔵鐙鍛冶だったという。(『埼玉苗字辞典』)糠田(額田)のヌカとは、《青銅のような銅合金鋳造の鋳型に米糠で作った糠型》(『青銅の神の足跡』)というのがあり、これを指しているのではないかという説がある。(糠=砂鉄という説もある。)天糠戸(あめのぬかと)神は鏡作部の遠祖であり、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)は天目一箇神の後裔である。もしかすると、中野村のナカもヌカだったかもしれない。

 

   

    樹木が帯状になっているところが金山堤 長宮付近から 2008年9月撮影

   

    長宮薬師堂 金子氏が年に一度祭祀しているという 同上

   

    増長薬師堂 手前は成田山不動堂 同上

   

    増長薬師堂の額 「明治廿貮年拾貮月吉祥日 奉 薬師堂 納 川通村大字増長金子作治郎」 とある

 

 鋳物といえば、渋江鋳物師がいたという岩槻区村国の、元荒川を挟んだ対岸に金山堤があって、この堤に沿っていくつかの村があり、それぞれの村の鎮守は香取神社で、必ず薬師堂がペアとしてあった。これらの薬師を信仰していたのが金子氏であった。同区大谷・長宮・増長・大口など金子氏が極めて多い。長宮には小字で猫島、大口にも小字根古島、大谷には小字鍛冶掛がある。つまり、金子は金工のことだとする、柳田説は傾聴に値する。(沖縄や奄美の方では、兼久(カニク)・金久(カネク)は海岸の砂丘や浜堤を意味し、外洋に面した砂の荒っぽいところをいう。桶川市川田谷の荒川右岸の河川敷、ホンダエアポートに兼子という小字がある。)

 白鳥というと、すぐに思いつくのはヤマトタケルで、三重県の能褒野(のぼの)で「吾が足は三重(みえ)の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり。」と謎の言葉を残して薨御した尊の霊は、白鳥となって飛び立ち、河内国志幾にとどまったので、そこに陵を造った。これを白鳥御陵という、といった話が『古事記』にある。谷川健一は、この謎の言葉を水銀中毒の症状と解釈している。能褒野の北8000mに足見田神社があり、風神シナツヒコやヤマトタケル・天目一箇神を祀るが、この神社は元々は鎌ヶ岳山頂付近に鎮座し、この山にかつてあった水銀鉱山と関係があるという。能褒野を訪れる前にヤマトタケルは滋賀・岐阜にまたがる伊吹山を訪れていたが、ここにも石灰岩(古代においては顔料、漢方薬として使用されたという。)の鉱山があり、今も米原市の大字太平寺で採掘が続けられている。石灰岩地帯はスカルン鉱床といってさまざまな金属鉱物を産出するケースがあり、わたしなどは、太平寺という地名から鉄の存在を感じてしまう。それは伊吹山から尾根筋を北へ15㎞に金糞岳(1317m)があることからも証明されそうだ。石灰岩といえば、秩父武甲山にもヤマトタケル伝説が残り、秩父には金・銅・鉄などの鉱山が多数あった。まさにスカルン鉱床である。金といえば、那須郡那珂川町健武の健武山神社にヤマトタケルと金山彦命が祀られ、近くの武茂川から砂金が採れることはすでに書いた。

 

 

 武茂川の上流は八溝山で、ここにもヤマトタケル伝説があり、この山には金鉱山があった。これらの例から、つまり、ヤマトタケルは鉱山とかかわりが深いといえそうで、その幼名小碓命は石臼を象徴しているように思える。金属鉱物を含有した鉱石はそのままでは還元できないので、これを石臼で挽いて細かく砕いてから炉に入れるのである。ヤマトタケルはなぜ、死後、白鳥となって飛び立っていったのか。それは、古代、霊魂は鳥によって運ばれるという信仰があったこともさりながら、白鳥は鍛冶が最も尊崇する神だったからである。豊受姫命を祀る神社の近傍に、しばしば、製鉄遺跡や鍛冶遺構が発見されるのは、豊受姫の真の正体が白鳥だったからに他ならない。(『丹後国風土記』逸文「奈具の社」・『近江国風土記』逸文「伊香小江(いかごのをうみ)」参照)

 辻谷共同墓地の半分ほどを占める、広い墓域を持つのが本橋一族の墓で、読み取れないほどに風化浸食が進んだ古い墓碑が多くある。

 

   
 

 共同墓地の入口付近に二基の庚申塔と並んで、小さな祠があり、これについて、この墓地近くに住む当時90歳のおばあちゃんに、あれは何か、訊いてみたことがある。すると、彼女はヤシさんだという。ヤシという語から、わたしは、とっさに、小沢昭一の随筆隋談集⑤『笛にうかれて逆立ちすれば』(晶文社)の一節を思い出した。そこで、小沢は、露天商人、つまり香具師(てきや)のことをヤシとか、関西方面で「神農さん」、露天商組合自らも「神農連合会」などと称する理由をこう述べている。

 《神農とは中国古代の伝説上の帝王で、民に五穀を作ることを教え、市を開き、薬草を調べて医道を起こしたのだそうです。そのため薬種問屋などでは、職業神、守護神として神農を祀ってきたといわれるのでありますが、香具師もまた神農をあがめてきました。
 そこで「やし」は「やくし――薬師」のつまったものといわれ、香具師は本来、薬草を扱っていたのではないかと考えられたりしております。》

 わたしが、あそこには薬師如来の仏像が安置されているんですね、と念を押すと、彼女は「仏像は本橋さんが預かっているから、見たいのであれば、云えば見せてくれるはずだ。」とおっしゃった。しかし、その仏像を見せてもらいたいと出向いたとしても、おそらく、それは叶わない願いだったのではなかろうか。なぜなら、寅子伝説地の薬師ならば、12年に一度の寅の年にだけ御開帳する、いわゆる寅薬師に相違なく、この年2008年の干支は子(ねずみ)だったからにほかならない。鍛冶師は目をやられるから、常に薬師を信仰していた。本橋氏が薬師を預かっているとすると、やはり、この氏も鋳冶を業としていたのではないかという疑問が湧く。

 本橋氏は全国的に分布する姓氏だが、特に東京練馬区の石神井公園周辺域に多く、次いで多いのが埼玉で、所沢は三ヶ島・山口に、飯能は唐竹・中藤・赤沢付近に、川口は前川辺りに、それぞれ集中している。石神井といえば、その地名の起源はシャグジなどと呼ばれる、石棒、すなわちマラ石があったことに因るものだろう。石神井川の砂鉄も気になるところである。石神井以外の所沢・飯能・川口の共通点とはなにかといえば、それは金山である。西武池袋線西所沢駅東に金山町、飯能市上赤工(あかだくみ)の北、原市場の小字に金山、そして鋳物の街、川口市の金山町。その川口の鋳物師に本橋氏がいたことは何年か前にすでに書いた。それは、ヤマトタケル伝説の残る、秩父長瀞のホトの山、宝登山神社に奉納された、鋳物製の天水桶にその名は残されている。

 

 

 

とすれば、採鉱冶金の民が多く集住していたと考えられる、馬込の本橋氏も、古く、鋳物師だった可能性は高いのではなかろうか。仮に、馬込の、斎藤氏、黒須氏や本橋氏らが渋江鋳物師の一翼を担っていたとするなら、渋江鋳物師が馬込から金重、渋江、村国、それから川口へと移動したという伝承は、名にし負う、本橋氏をブリッジとして証明されるかもしれない。

 辻谷共同墓地を詳しく見ても、やはり、かつての馬込一帯で、鍛冶師・鋳物師たちが日々躍動的に活動していた姿が想像されるのである。