生きること、死ぬこと


            (Memento mori)





ひびきあう生と死 (カールベッカー) ~ 呪文のように「自己決定権、自己決定権」と・・・


生命学をひらく (森岡正博) ~ 死とは何かについて今まで考えてこなかったことに、初めて気づく  


BLACKJACK (手塚治虫) ~ 命の重みを知る “死を与える医師” ドクター・キリコ


男のための自分探し (伊藤健太郎) ~ いちばんうまいウソ


がん患者 治す力  (帯津良一) ~ 死生観をもたない医師に治療されることほど、恐ろしいことはない


生きて死ぬ私 (茂木健一郎) ~ 毎日どのようなポーズをとろうかと苦心している


医療のための人間学 (産業医科大学) ~ 先生にとって、これが何回目の経験か知りませんが


死を見つめる心 (岸本英夫) ~ 人間の日常生活は、一つのごまかしの上に営まれている


医師の生命観 (管 邦夫) ~ 人みな孤独であること、そのことを私たちは幸いにも普段は忘れてすごしている


無痛文明論  (森岡正博)  ~ 「私の死」という観念は、その前提を崩壊させる


いのちの器 (日野原重明) ~ 予測できる必然の未来について、もっと学習しなくてはならない


医師の生命観 (新福尚武) ~ 死を考え、死に迫ろうとすればするほど、死から遠ざかる


脳がほぐれる言語学 (金川欣二) ~ 幸福は不幸になるまで分からない


武者小路実篤 詩集  ~ お前は何時までも生きるつもりでいるのだね、何時までも




 たくさんの人が、死生観の重要性を説いている割に、


 現場にはまだまだ反映されていない気がします。



 特に、医療教育においては、今後ますます重視されていくことを念じます。










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こんな医者になりたい!


   The practice of medicine is

        an art, based on science.


                                 (Willaim Osler)




洪庵のたいまつ (司馬遼太郎) ~ 世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない


医者という仕事 (南木 佳士) ~ 医者に向く人の三条件

医学生へ 医学を選んだ君に問う (河崎一夫) ~ 人前で堂々と医学を選んだ理由を言えるか?

がんばらない (鎌田 實)  ~ いちばん支えが必要なときの支え方を知らない


人間について (司馬遼太郎) ~ 医学者は人間というものを考える義務がある

ONE PIECE (尾田栄一郎) ~ だから医者がいるんだよ!!!

最上の命医 (橋口たかし) ~ そりゃあ何倍も怖いからですよ 自分が何もできなかった時の方が


看護覚え書 (ナイチンゲール) ~ 看護婦とは何か、看護婦に向かない者とは何か

平静の心 (William Osler)  ~ 医師に不可欠ともいえる資質

精神と物質 (利根川進) ~ 本当に重要なものを重要と判断できるジャッジメント能力を身につけろ

女は男のどこを見ているか (岩月謙司)  ~ 人にウケる生き方よりも、自分にウケる生き方を

プロフェッショナル:認知症介護 (大谷るみ子) ~ 向き合えば見えない心が見えてくる


 GIFT  (Mr.Children)  ~  君とだから探せたよ ぼくの方こそありがとう  


人はいつか死ぬものだから (ポーリー・チェン) ~ 医師にとっての最終試験(Final Exam)


感動する脳 (茂木 健一郎)  ~  思いやりと学力は比例する


The practice of medicine is an art based on science ( William Osler )  




 けっこう、色んな本を読んできましたが、


 それぞれが大事なことを教えてくれてます。



 整理してみると、またこれから、どんな本を読んでみたいと思ってるかとか、


 なんとなく見えてきたので、これからも大いに学んでいきたいです!










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「うつ病の予防・治療日本委員会(JCPTD)」が本格始動。 10月第1土曜日を「うつ病を知る日」と定め、今年10月2日(土)、長崎、徳島、滋賀、東京でイベントを開催(福岡は10月9日)

2010. 9. 27  21世紀医療フォーラム取材班




うつ病の啓発活動を行う「うつ病の予防・治療日本委員会」(JCPTD:Japan Committee for Prevention and Treatment of depression)は、今年3月の法人化(一般社団)により、活動の強化を図る新たなステージに立った。
10月第1土曜日を「うつ病を知る日」と定め、今年10月2日(土)、長崎、徳島、滋賀、東京、10月9日(土)、福岡で、教育講演、専門家医による個別相談会、パネルディスカッションなどをプログラムとするイベントを開催する。

※JCPTD「うつをこえて」シンポジウム参加・相談申し込みは、http://www.jcptd.jp/

うつ病対策、国家的課題の背景

9月18日、東京丸ビルにおいて開催された記者発表では、まず「うつ病の予防・治療日本委員会」(以下:JCPTD)理事長代行を務める国立精神・神経医療研究センター総長・樋口輝彦氏が「うつ病対策の国家的課題」と題して、うつ病が大きな社会問題になっている背景をテーマとするプレゼンテーションを行った。


樋口氏は、うつ病もその背景にある自殺者数が12年連続で3万人を超え、減少の気配が見えないことを指摘。国を挙げて、自殺予防にさまざまな取り組みがなされてはいるが、この傾向は大きくは変化していないことを憂慮する。


そして、うつ病がその原因となっている自殺の予防には、うつ病の早期発見・早期治療が有効であることを解説。

そのためにも、内科医などかかりつけ医によるうつ病の早期発見を促進することが必要であることに言及した。


また「不眠」に着目し、『お父さん、眠れてますか?』キャンペーンで、うつ病の早期発見・早期治療を実現した「富士モデル事業」の紹介を通して、かかりつけ医から精神科医にうつ病患者をつなぐシステムの構築の重要性を訴えた。



うつ病の治療は、(1)治療関係の確立、(2)休養、(3)薬物療法、(4)精神療法の4つを組み合わせることが効果的。

特に、(1)の治療者と患者との関係がうまくいくかどうかが大切で、そのためには十分に話を聞くこと、十分に病気の説明をすることが基本となる。


(2)の休養も治療の基本であるが、(3)の薬物療法と(4)の精神療法については、両方を併用することが治療効果を上げることが実証されている。樋口氏は、“薬物療法か精神療法か”といった二者択一、または精神療法が薬物療法に代わるものであるかのような、マスコミの取り上げ方の間違いを指摘した。


また、樋口氏は、精神療法の1つである『認知行動療法』に、今年度、診療報酬が付いたが、“精神療法に習熟した医師が、1人の患者について30分以上診た場合”という条件付きであることから、実効性に乏しく、普及していないのが現実と指摘。精神科医のみならず臨床心理士なども含めたチームを組んだ場合にも、診療報酬が付くようにならない限りは実効性を上げられないのではないかと問題提起した。


さらに最近話題になっている新型うつ病については、「新型うつ病」とは学術用語ではないこと。この言葉を使う人によって概念が一致しているものではないこと。「非定型うつ病」=「新型うつ病」のように表現されることもあり、概念自体が少し曖昧になっていると述べ、学会にも責任があるとして明確化していく必要があると訴えた。


うつ病に限らず、我が国のメンタルヘルスという観点から、

英国では、「がん」「循環器疾患」「精神疾患」を3大疾患と位置付け、

自殺・特定不能の傷害を20%減少することを目標として設定し、精神保健の政策を大きく変更した。


それに引き換え、我が国では「精神疾患」が4疾病5事業にも入っていない。

最近ようやく、“これは時代に合わない”と、議論が始まりつつあることを報告した。


そして、日本では精神疾患に対して、国家予算の配分が諸外国に比べて低い。それは、精神疾患に対する偏見・差別が諸外国に比べて非常に強く、国民一般の意識に大きな違いがあるから。


日本とオーストラリアの“うつ病に対する態度の違い”を調べた調査では、

『うつ病の人が隣に引っ越してきてもよい』

『親しい友人になってもよい』

『近くで仕事をしてもよい』などといった項目で、

『強く反対』『確かにそうしたくない』という声が、日本ではオーストラリアに比べて圧倒的に高いことを指摘。


最後に樋口氏は、メンタルヘルス・精神疾患の医療費の総枠について、

「国民的なコンセンサスをつくりあげるための精神疾患に対する意識が、国によってこれだけ違う。

 逆にいえば、ここから変えていかない限り、全体は変わらないのではないか

という感想でプレゼンテーションを締めくくった。



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或旧友へ送る手記 (芥川龍之介) ~ 唯ぼんやりとした不安
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岐れた諸科学は再び集まる





科学の発展の原動力は、

未知のものへの好奇心であったり、

実際的な要求であったり、名誉欲であったり、

種々様々だろう。


だが、その最終的な目標が、

ちょうど医学のそれが「患者のために」あるように、

「人類のために」というところにないのなら、

人類の知的営みとしては、自己破産せざるを得ない


そして科学は、まさにそこに統合化の視点をもっているはずなのである。


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ゴールがずれれば、どんなに頑張っても、達成はありえませんからね。



しかしながら、医療崩壊が叫ばれる今日この頃は、


この最終的な目標が、曖昧になっていたり、


「患者のため」とは思いつつも、


どうすることが「患者のため」になるのかが、よく分からない状態にあるように思います。



人類にとっての、最終目標は、一体どこになるのか。


それこそ、究極の問いかもしれませんが。








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岐れた諸科学は再び集まる


医学は、その出発点において、

患者の苦しみを取り除くという大前提を忘れるわけにはいかない


それを忘れたとき、医学は医学としての存立基盤を失うからである。

そして、「苦しみ」は、科学的分析からは決して検出されない。

「苦しみ」は、人間という一個の全体的な存在の主観的側面としてある。
もし「先後関係」という概念を使うとすれば、

つねに「苦しみ」が先にあり、その科学的分析は後である。

「苦しみ」は、主体という人間の形成する

全体的な「場」の一つ一つにおいて、初めて登場する。


足を一本取り出して、針で突いて「痛いですか」ときくことはできない。

しかし、切り取ってしまってもうないはずの右足のつま先が「痛みますか」と人に聞くことは、

場合によっては十分意味がある。


痛みや苦しみは、時間-空間のキャンバスの中に分析された

物質要素の振舞いを詳細に描き上げることで済むものではない。


そして、このことは、あたかも医学においてのみ本質であるかのように見えるかもしれないが、

しかし実は、科学全般の、あの「分析の論理」について多かれ少なかれ当てはまる。

現象のレベルを降りれば、降りただけ何かが失われる。

医学の場合、どうしても「苦しみ」を感ずる「場」としての

一個の全体的人間という現象のレベルから、下降することができない

という実際上の足かせをはめられている特殊事情がある。


それゆえにこそ、医学者は自らの分科に専門としての分析的な眼と頭とをもつと同時に、

全体的な人間という統合的な視点不可欠なものとして要求される


医学界の現状が、この要求をどこまで満たしているかはまた別の問題である。


だが、科学一般もまた、同じ掣肘の中に本来あるはずなのだ。


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大前提、


忘れるわけにはいかない、


不可欠なものとして要求される、


とありますが、簡単な要求ではないとおもいます。



でも、それが出発点であり、大前提なわけですし、


これがズレたら、もはや医学ではないですからね。



原点の確認、というのは、何度してもしすぎることはないものです。





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岐れた諸科学は再び集まる




医学は「科学的」であるか。またあり得るか。

この問いは、決して見かけほどナンセンスではない。

なるほど、科学の発達とともに、

人体に関する科学的知見は、驚くほど増大した。

たとえば、皮膚の感覚受容器に対する機械的刺激が

どのようにして神経のネットワークを経て中枢や反射弧に伝えられるか。
刺激の伝達というマクロな現象は、カルシウムイオンのポンピングとか、

それによる電位差など、よりミクロな概念によって把握される物質の振舞いから記述される。


そうした知見が、実際の医療にどのように利用されるか、

ということは、一応抜きにして、

マクロな現象を分析によってミクロな世界へ還元しようとする「科学」の論理は、

医学においても、つねに、徹底的に行われる。


病原体と病気との関係も、そうした論理の適応の結果でもあるし、

免疫などの抗原・抗体反応を高分子レベルで解明することも、

まさしくその結果のひとつである。


かくして医学は、立派に科学的ではないか。



しかしながら、それで全部というわけにはいかない。

もともと、病気はギリシア語ではパテーマ<pathema>と呼ばれた。

病理学<pathology>の語源である。

パテーマとは「苦しみ」とか「苦しみを受けること」とかいった意味に関わる語である。

ちなみに、キリストの受難やそれを扱った楽曲、劇などが

パシオン<passion>と呼ばれるのも、

ペーソスやパセティクといった語が「悲哀」の含意をもつのも、語源が同じだからである。


病気とは、まさしく苦しみである。


しかし、それでは苦しみとは一体何だろう。

苦しみは、傍の人がそれと指せるような、つまり「客観的」なものではない。

百日咳の咳込みは、見ていても如何にも苦しそうだ。

自動車事故による骨折や挫傷は如何にも痛そうだ。


しかし「苦しい」のと「苦しそうだ」とは違う。

「痛い」と「痛そうだ」とは違う。

「苦しみ」や「痛み」は「客観的」にはなり得ない。

だれも、咳込んでいる百日咳の小児の苦しみを苦しむことはできない。

ベッドの上で呻吟する事故負傷者の痛みを痛むことは、

たとえ患者の最愛の妻やであっても他人にはできない。


「他人の苦しみを自分の苦しみとする」という言葉は、

表現としては判るが、論理的に不可能である。


「他人の苦しみを自分の苦しみ」として本当に感じる人があるとすれば、

もはやその人の感じている「苦しみ」は、決して「他人の」のものではなく、

まさしく「自分の苦しみ」にほかならない。

「苦しみ」「痛み」は、主観的なものである。

どれほど「苦しみを共にする」こと、

つまり<sympathy>(同情)があったとしてもそれは変わらない。


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科学、医学の力は大きいですが、


その限界を知ることもまた、とても大切なことだとおもいます。












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文芸春秋 季刊秋号


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ゼロからはじめる幸福論




死を超えて生きる


              青木新門




人生最高の幸せとは、生涯を通じて安心して生きることである。



人は丸ごと認められると生きていける。今日の社会は丸ごと認める力がない。

こんな少年の詩がある。


 ぼくは今日学校の帰りに
 トンボをつかまえてきたら
 お母さんがかわいそうだから
 放してあげなさいと云った
 ぼくはトンボを放してやった
 それからぼくは台所へいくと
 お母さんがほうきでゴキブリを
 たたき殺していた
 トンボもゴキブリも昆虫なのに


少年には丸ごと認める力がある。
しかしお母さんはヒューマニズム(=人間中心主義)が
身についていて、人間に都合のよいものは可哀そうだから放してあげなさいと云うが、
人間に都合の悪いものはたたき殺しても心に痛みも感じない。

ここにヒューマニズムの限界がある。



「この世で最大の不幸は、貧しさや病ではありません。
 誰からも自分を必要とされていないと感じることです」

マザーテレサの言葉である。
そのマザーテレサが26年前の1984年に来日して帰国するとき、

「こんなに豊かでこんなに美しい国なのに、
 日本人はどうしてこんなに暗い顔をして生きているのでしょう」

と言い残した。


当時暗い顔に見られた闇の部分が今日では社会現象となっている。

ひきこもり、無縁社会、自殺・他殺、孤独死などなど、

不安は一層闇を色濃くしている。



このことは<生>にのみ価値を認め、

<死>を忌むべき悪としてとらえ隠蔽して生きているからに他ならない。

どんなに笑顔を繕ってみても

老いは必ず訪れ、死は確実にやってくる。
その影に怯えながら人々は生きている。

人生を「生・老・病・死」の4つに分け、

避けがたい災難や苦しみや不安を「四苦」とみなし、
そんな苦しみや不安を超えて安心して生きる道を説いたのが仏教である。

仏教の目的は<安心して生きる>こと以外にない。


「何らかの方法で死の問題を解決した人の生き方は明るい」
とゲーテの箴言にある通り、

死の問題を解決した時、どんなことがあっても安心して明るく生きていけるようになる。


それ以上の幸せな人生はないだろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


死すべき存在であることを、丸ごと受け止める。


これを避けては通れないようです。



無常観とはこういうことでしょうか。


死を見つめようが、見つめまいが死んでいくわけですし、


眼を反らしたまま生きていても、虚しいだけですからね。



医療職は、避けられない現実を、


他人を通して知らされる、そういう意味で有り難い職業のように思えてきました。











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納棺夫日記 (文春文庫)/青木 新門
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仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、
彼らに致命的な問題があることに気付いた。

というものと常に向かい合っていながら

死から目をそらして仕事をしているのである。

自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら

金だけにこだわる姿勢からは、

職業の社会的地位など望むべきもない。


それでいて、社会から白い目で見られることを社会の所為にし、

社会を恨んだりしている。


己の携わっている仕事の本質から目をそらして、

その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない。

嫌な仕事だが金になるから、という発想が原点である限り、

どのような仕事であれ世間から軽蔑され続けるであろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


これはそのまま、医療職にも当てはまりそうです。



常に死と向かい合う仕事ながらも、


死から目を反らして仕事をしている、というのは、


難しいけれども、そうならざるを得ない気もします。



とはいえ、それでは、上記にあるように、

仕事に誇りが持てませんし、患者さんに向き合えません。



死と向き合うとは、どういうことか、


今から学んでいかねばならん問題です。








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こんなときどうする?――臨床のなかの問い/徳永 進
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がん末期の心の臨床

誠意とは何だろう。

患者の立場で考えるということだろうか?

そもそも他人の立場で考えることなんか、

言葉としてはきれいだが、出来るのだろうか。

「そんなことできない」と言い切った方が誠実だろう。

人権を尊重すること。

これも臨床以前の哲学ではあるが、かなり抽象的だ。


結局、誠意とは脚力だと思う。

患者さんが「助けてー」と言っている、何かに困っている。

そのことを家族や看護師から連絡を受けたとき、

すぐにベッドサイドに駆けつけることができるかどうか、それが誠意というものだと思う。

そしてそのことを実現させる力、それが脚力だ。

臨床にはいろんなことごとが入り混じる。

考え事をしているとき、家族に説明しているとき、

患者さんの体に処置をしているとき、論文を書いているとき、

休暇を取っているとき、夜寝ているとき、

そのどんな時にも、「助けてー」「先生、呼んでー」は生じ得る。

断る理由はずらりと並ぶ。

でもそこが臨床の勝負どころだ。

試されているのは、その時の脚力。

すぐに動くか動かないか、それだけが問われる。

フットワーク、なるべく軽やかなフットワーク、

それこそが誠意、と言えるだろう。



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口だけできれいごとなら、誰でも言える。


実際に、行動に移すかどうか、

そこに本音が表れるものですからね。



しっかり勉強して、それなりの点数をとるのも、

誠意ですかね、やっぱり・・・(^ ^;)





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なぜ生きる/明橋 大二
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無益な生涯だったと気づいたり、罪の山積に驚くのは、

 人生でもっとも悲惨な瞬間だ



退職して悠々自適、好きなことができると思っていたのに、

何をしたらよいか分からず、家でごろごろと無気力な人が、

多く見られるようになりました。


地面にビタッと貼りついて動かない「濡れ落ち葉」にたとえられますが、

ひどい人は「粗大ゴミ」と表現します。


居場所を失って、焦る人も少なくありません。



「先生、私には居場所がないのです。どうしたらいいでしょう」と、

研修の場で相談を持ちかけられることが多くなっています。


定年になって、会社を辞めてから一ヶ月もすると、

家にいても身の置き場がない、誠に哀れな状況になっているというのです。

なかには、定年退職した後も、以前と同じように、

毎朝会社に出勤する時間になると身支度を整えて出かけ、

公園かどこかで時間を潰し、夕方帰宅するという、

笑うに笑えない例もあるのです。


これこそ、仕事が人生そのものと思っていた人が、

会社以外に自分という存在を認識できなかった結果を物語っています。

          (佐藤英郎 『気づく人、気づかぬ人』)



「仕事は、人生の目的を達成する手段」と気づく人が、

若者を中心に増えていると、社員研修十五年の佐藤英朗氏は言います。


しかし実際は、「生きるための苦闘」は激しさを増すばかり。

どう生きるかに追われ、

「そんなにまでして生きるのはなぜか」を考える時間は、奪われているようです。


「人生の旅のなかば、正しい道を見失い、私は暗い森をさまよった」と書きだし、

ダンテは『神曲』をつづっています。


この世のウソに飽き飽きし一切にむなしさを覚えるときが、

どんな人にも訪れるのではないでしょうか。


無益な生涯だったと気づいたりゆるされぬ罪の山積に驚くのは、

人生でもっとも悲惨な瞬間でしょう。


多くの場合それは、、体力が目に見えて衰えてきたときに下される残酷な審判です。



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「居場所を失う」というのは、辛いですよね。


自分がいないとみんな大変だろうな、と、自分では思いますが、


いなければいないで、意外とうまく回る。


そういうことに気づいてしまった時の、なんともいえない虚しさとか。。。



介護施設とかに行くと、そういう方たちを目の当たりにするので、


人生ってなんなのかなぁ、と、ふと考えてしまう人は少なくないのではないでしょうか。



自分は大丈夫だろうと思いたいですが、


恐らくは、そう思っていた人たちが、居場所を失って、残酷な審判を下されているのだとおもうと、


決して他人ごとではありません。



患者さんのこころに寄りそうって、やはり、かなり大変そうです。











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