これは、友人と話をしたものをまとめたものです。


せっかくなので、これも。





 介護体験実習を終えて 2



自分ひとりでは思いもよらないようなことを、
お互いに想った事を述べ合うことで、学ぶことができた。

チーム医療の大切さも実感できた。


本音を語り合うことの大切さも知った。


「認知症にはなりたくないと思った」

「介助は、お互いにとって精神的苦痛を伴う」

「顔がゆがみそうになった」

いずれも実習先ではとても言えないが、本当にそう思ったものは仕方がない。
そしてまた、それが素人にとっての現実だ。

少なくとも、医療に携わらない人は同じようなイメージを持つ人が多いだろう。
一般の人のイメージを知ることも、それはそれで大事だ。

同時に、私たちは素人ではないことも自覚しなければならない。



一方で、前向きな発言も多く出た。

「今までの勝手な思い込みを壊す期間だった」

「思い出話をされているときは、とても生き生きとし、話し方がしっかりされていた」

「いきいきと楽しそうにお話されていた」

「感謝の言葉が印象に残った。
 職員の方は"ありがとう"と意識して使っているようにも思えた」


以下のようなことも学んだ。

「医学は悪いところを探し、介護は良いところを探す」


ここで言う「医学が探す悪いところ」とは、肉体的な疾病を指す。
ちょっと言いすぎなニュアンスはあるが、悪いところといえば確かにそうだ。

介護は、肉体的な治療を目的とするよりも、むしろ精神的なケアを重んじる
介護は、相手のできることを探し、
良いところを発見して誉める
ようにする心がけが大切なのだと思った。



実習の感想に戻る。


食事介助では、始めはなるべく自分で食べてもらい、
途中ペースが落ちてきたら介助を始めるようにと教わった。

少しでも歩ける人は一歩でも半歩でも、と勧めていて、
歩けたらそれを思い切り、一緒になって喜んでいた。


排泄介助では、相手の尊厳を尊重する為にも、手すりをつけたりして、
できる限りは自分でやってもらうようにとの配慮が随所にあった。

体が動く、手が使える人にはタオルをたたんでもらったり、
包丁を使うことが出来る人には料理を作るリハビリを勧めたりと、
少しでも何かできることはないか、と職員が一生懸命に探していた。


できないことを嘆くよりも、
どんな小さなことでも出来ることを探して一緒に喜べれば、
そこには笑顔感謝が生まれる。


実習先では、そんな笑顔がたくさんあった。

「ありがとう」の言葉を頻繁に聞いた。

とても大切なことを学んだように思う。



医療に従事する者は、
病気に苦しむ人を目の前にして、何が原因なのかを診断して見つける必要がある。
それで大勢が決するようにも思える。


また、健康になってもらいたいと思えば思うほど、
健康な状態と比較して、病気で苦しんでいる人を見てしまいがちだろう。


そうすると、どうしても悪いところにばかり目が行って、
必要以上に憐れんだり、同情したりしてしまいがちなのではないだろうか。


あるいは、その反動で、簡単にあきらめてしまったりもするのだろう。


悲しいすれ違いは、きっとたくさん起きてしまっている。




相手は生きている一人の人間であり、
生きている以上は、そこに何か「生命の尊厳」と言わるべきものがあるはずだ。


「もう○○ができないから、仕方が無い」とアキラメルのは、
できないことばかりに目が行き、
そのできなくなってしまったことに重きを置きすぎているのかもしれない。

他人の良いところ、できることを見つけるのは簡単ではないのかもしれない。

しかしそれは、医療従事者の仕事の一つだと思う。


いのちに直接的に触れるこの仕事は、
このことに関しては、どれだけ真剣に取り組んでも過ぎることはない。


安楽死問題にも直結することだ。
延命をこそ是としてきた医学が、
自ら否定するような行為は、何かひっかかる。
気持ちのいい終わりには成りえない。


現場の空気に触れたからこそ、知ることの出来たことは色々あった。

これからの座学も、机上の空論にならないように、
今回の経験を心にかけてゆきたい。







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9月8日付 編集手帳


 娘が父親に尋ねる。

「お父さんは幸せなの?」。


父親が答える。

「そんなこと分からないさ。胃袋に、おいしいかと聞くようなもんだ…」


◆30年ほど前のテレビドラマ『さよならインバネス』(作・早坂暁)の一場面を

『テレビドラマ代表作選集』から引いた。

幸せを玩味する舌を、人は持ち合わせていない。


幸福とは何か?

 金で幸せになれるか?

 昔に問い、今もなお問いつづけているのは、舌なき身の宿命だろう



◆収入が上がるにつれて生活の満足感は上昇するものの、

幸せな気分は年収7万5000ドル(約630万円)前後のところで頭打ちになる――


◆米プリンストン大学の教授らが年収と幸福の関係を統計的に分析した。

米国人45万人以上を対象にした電話調査をもとに、

笑う頻度などに表れる感情の起伏を考察したという。


「高収入で幸せになれるとは限らない」。

まあ、想定内の結論ではある



◆歌人、安立(あんりゅう)スハルの一首を。


〈金にては幸福は(もたら)されぬといふならば

 その金をここに差し出し(たま)へ〉。


年収630万円で幸福感が頭打ちになるのならば、

一度、その天井に頭をぶつけてみたい人は多かろう。



               (2010年9月8日01時16分 読売新聞)



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



お金は、使ってなんぼですからね。

お金を何に使うかで、幸福になれるかどうかが分かれるのであって、

お金がありさえすれば、

あるいは、何でも使いさえすれば、それで幸せになれるとは限らないのは、

容易に想像できます。





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オレは前から、ヤシの下で昼寝をしているさ


 人生苦海に波間から、しきりに、こんな嘆きが聞こえてくる。
「金さえあれば」「ものさえあれば」
「有名になれたら」「地位が得られれば」
「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
 どうやら苦しみの原因をそこらに見定めて、
近くに浮遊する、それらの丸太や板切れに向かって、懸命に泳いでいるようだが、
はたして苦海がわたれるのだろうか。

 考えさせる小話をひとつ、紹介しておこう。
 所はある南の国。登場人物はアメリカ人と現地人。
 ヤシの木の下で、いつも昼寝をしている男をつかまえてアメリカ人が説教している。
「怠けていずに、働いて金を儲けたらどうだ」
 ジロリと見上げて、男が言う。
「金を儲けて、どうするのだ」
「銀行にあずけておけば、大きな金になる」
「大きな金ができたら、どうする」
「りっぱな家を建て、もっと金ができれば、暖かい所に別荘でも持つか」
「別荘を持って、どうするのだ」
「別荘の庭にヤシの下で、昼寝でもするよ」
「オレはもう前から、ヤシの下で昼寝をしているさ」
 こんな幸福論の破綻は、周囲に満ちている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



病気になって、

臨終間際になっても、もっと稼ぎたいとは思わないでしょうし、

生きていくための手段と、

求めるべき幸せ(目的)と、混同しないことが大切なのではないでしょうか。





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健康の大切さというのは病気にならないとなかなか分からないものだ。


つまり、健康というのは「病気ではないこと」と定義できる。


同じように幸福というのも不幸になるまで分からないものだ。

幸福というのはとりあえず、「不幸ではないこと」と定義できる。


自分の幸福というのも

他人の不幸を通してでないとなかなか分からない

「他人の不幸は蜜の味」だ。


ホリエモンは「お金で人の心も買える」というメッセージを残したが、

お金では幸せさえ買えない。

それどころか、お金で失う幸せもあるということを身をもって教えてくれた。


過去が未来を規定するのではなく、

本当は逆で、未来が過去を規定する。



今時点のことで考えてみよう。


今が幸せなら過去の不幸も、そのおかげで今の自分があると肯定できる。


ところが、今が不幸ならあのことがあったおかげで今も自分が不幸だと、

その過去をずっと責め続けることになる。


幸福というものは客観的な条件があるわけではなく心のあり方だ。

今不幸だと思うより、幸福だと思えるように生きていけばいい。



だから、過去を考えるよりは、未来を考えるべきだ

未来が過去を変える、というのはそういう意味なのである。



「生」を最も意識するのは他人の「死」を目の前にしたときである。


ところが、死というものが社会からポルノのように隠蔽されていて、

逆に性の方が露出する、奇妙な社会になってしまった。


(社会学者ジェフリー・ゴーラーは「死のポルノグラフィティ―化」といった)。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



何事も、比べないと分からない、ということでしょうか。


比べないと、今の自分が、健康なのか、幸せなのかも、よく分からない。



健康な時は、健康であることが当たり前すぎて、中々その有難味はわからないし、


恵まれている時は、それが当たり前に思えて、なかなか感謝できない。


親の存在も、その代表的なものの一つかもしれません。



今が幸せなら、過去に感謝できるし、

今が不幸なら、過去は後悔にしかならない。



ならば、人生に感謝できるか、後悔するかは、

臨終になるまで分からないんですかね?


でも、それも何か遅いような。


死を見つめたうえで、幸せといえる“今”を生きているかどうか、

ということでしょうか。


死を美化するのは、ナンセンスですが、

生きてきてよかったと思える様な、そんな「いのちの尊厳」を

学んでいきたいです。







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目的と手段の取り違え





  「旦那様、旦那様、起きてくださいませ。睡眠薬を飲む時間です」――



「健康のためなら死んでもいい」という人も多い。

酒もダメ、タバコもダメ、美食もダメとなると

「生きていることが健康に悪い」と思えてくる。


船は港にいると安全だが、船が作られた目的は海に出ることだ。


コード(手段)メッセージ(目的)混同してはいけない


幸せになることが目的なのに、

手段でしかない、いい大学に入って、いい会社に入ることが目的になり、

しかも肥大化している。



英会話を学びたいという人も多いが、決定的に欠けているのが、

何のために学ぶかということである。


なんとなくアメリカ人と自由に会話をしたい、というのだが、

じゃあ、何でアメリカ人なの?というと詰まってしまう。

話せる内容をもたないのに、英会話という形式を求める人が多すぎて、

「イデオロギーとしての英会話」になっている。



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医療も、幸福になるためにある。


命を延ばすのは、幸福になるためだ。



医療の目的、延命の目的、生きる目的は、幸福になること。



これは、ある意味、大前提のことだが、意外と忘れられている気がする。


安楽死や尊厳死の問題が、一向に出口を見いだせないのも、


ここがハッキリしていないからだとおもう。



幸福になること。


言葉だけみれば、聞こえはいいが、


では、幸福って何か、を考えて見ると、実はよく分からない。


とりわけ、終末期に臨んでも、なお求めるべき幸福なんてあるんだろうか。



「幸せになるため」 「生命の尊厳」 などの言葉にとらわれて、


幸せとはなんだろうか。


生命の尊厳って、一体どうすることを言うんだろうか。


思考が停止している。


言葉はよく使われる割に、それ以上の議論は、あまり聞かない。




もっといえば、医学は、生きる(生かす)手段だ。


ということは、目的が分かっていなければ、手段である医学も生きない。



ようやく、あの一節が分かってきた気がした。




■なぜ生きる ~ 真に医学が生かされるには








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「共有」のためのコミュニケーション





コミュニケーションという言葉は

ラテン語の「共有する」から来ていて、

誰かが考えたことをみんなで共有できるということだ。


アメリカのあるソフト会社のコピーに

「車輪を二度発明するな」(Don't Re-invent the wheels)というのがあった。


つまり、誰かが考えたことは共有すればいいという。

そして、他人の情報を共有できるのはまさに言葉のおかげだ。


考えてみればいい。

ジェスチャーで他人の情報を共有できるだろうか?

しぐさだけでデートの約束をできるだろうか?

しぐさのようなアナログな情報はコピーされるたびに劣化していく。

でも、デジタルな言語を使えば、鮮度を落とさずにみんなで使いまわすことができるのだ。


(中略)


どんなに面白いアイデアでも伝わらなかったらおしまいだ。

だから、語学の前にコミュニケーション能力を上げる必要がある。

そのためには言語に対する感覚を鋭くすることだし、色々な物語を知ることだ。


(中略)



臨床心理家の河合隼雄は

白洲正子との対談『縁は異なもの』の中で次のように話している。


  例えば、日本の学者同士はある水準まで行くとツーカーでわかるんでしょう。

  ちょちょっというとパッとわかる

  すると、弟子はものが言えないわけですよ。

  それがアメリカなんかへ行くと若造がパッと手を挙げて、

  すごい馬鹿な質問をするわけですよ。

  でもそれに対して先生はちゃんと答える

  アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想を言うと

  「何と馬鹿なやつらが大学に来ているか」。

  その結果、どうですか?

  学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。

  これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、

  無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですね。

  こういう点では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。

  好みとしては嫌ですが、仕方なく関西弁の英語で、

  言葉にするように頑張っています

  疲れますけどね。

  しかし、言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「わかったつもり」は、思考が停止して、言葉に表す努力を怠らせてしまう。


バカな質問でもいいわけではないんでしょうが、


分かったつもりで何も言わないよりは、ずっといい、と。



自分の思っていること、素直な気持ち、


モヤモヤした感情を、言葉にするのは大事ですよね。



「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」 とも言われますし。



相手に自分の思いを伝えようとした努力の分だけ、


相手が、言葉にならない想いを伝えようとしていることに気付ける感性も育まれる気がします。









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言葉の限界が発想の限界





発想は誰にも必要だが、発想の邪魔をするのが偏見である。

そして、その偏見を形作るのが言葉である。


言葉は「両刃の剣」なのである。


ある言葉を知ったと思った瞬間発想はフリーズしてしまう

「日が昇る」「日が落ちる」といった途端に人は

太陽と地球の関係を考えようとはしなくなる。


「リンゴが落ちる」といった途端、重いものは落ちると思ってしまい、

月のように重いものが落ちない理由など考えようともしなくなる。


ガリバー旅行記を知らない人はいない。

「ああ、あの小人の話」と誰だっていうだろう。

でも、作者のスウィフトが描いたのは童話ではない。

子どものためでもない。
ラピュタというと「天空の城ラピュタ」を思い浮かべ、

「ヤフー」というと検索エンジンだったり、株だったり、ソフトバンクだったりするが、

これらがガリバーからきていることを知る人は少ない。


ガリバーが江戸まで来たことがあるのを知っている人も少ない。

ガリバー=小人の国という知識で留まってしまっていて、

「知っている」ことが「本当に知る」ことを妨げる


「知ってるつもり」になってしまう


名前を手に入れた途端に「知ってるつもり」になるから危険である。



オタクの多くがモノを手に入れたとたんに満足するのも同じ心情である。

手に入れたものを離さないので、知が閉鎖的になっているのである。


開かれていない

ややもすると「モノを多く知っていること」「知識が正確であること」

ばかりに気を取られがちである。


知っていることは知らないことだ。



茨木のり子の詩「知」は次のように歌う。


  H2Oという記号を覚えているからといって
  水の性格、本質を知っていることにはならないのだ
  
  仏教の渡来は一二一二年と暗記して
  日本の一二〇〇年代をすっかり解ったようなつもり


  人のさびしさも 悔恨も 頭ではわかる

  その人に特有の怒髪も 切歯扼腕も 目にはみえる

  しかし我が惑乱として密着できてはいないのだ
               知らないに等しかろう(略)



つまり、知るといっても記号だけを知ったのであって、何も知らないのである。

ソクラテスの「無知の知」ではなく「知の無知」なのである。

古くは「一知半解」といって

「なまかじりで知識が十分にその人のものとなっていない」ことを意味したが、

実は半分も分かっていないことが多い。




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怠惰な言葉





フランツ・カフカは「ある闘いの記録」で次のようにいう。



  しかし、月と名付けられたきみをあいかわらず月とよんでいるのは、
  もしかしたらぼくが怠慢なのかもしれない。



つまり、日常言語というのは怠惰の産物なのだ。



「月が昇る」という言い回しがあると、

月はずっと昇っていくものだという思考から人間は逃れることが難しい


月は月でなくなってしまっているかもしれないのに、

みんなが月だというと、疑うことなく、月だと言ってしまう。




同じように「日が昇る」という言葉も、本当は

「地球が太陽の周りを回って

 今いるところから見た地平線から太陽が少しずつ出てくる」

とでもいわなければならないのに

「日が昇る」と言い切ってしまい、「真実」から離れてしまうのである。


言語という、人間を人間たらしめている最大の「檻」から離れるには

詩的言語を生み出したり、言語から離れて思考することが大切になってくる。



「魔女」などいないのに、一度「魔女」という言葉が生まれてしまうと

「魔女狩り」に追い立てられるのが人間である。


魔女でなくても、ラベリングというか、人にレッテルを貼ることは日常茶飯事だ。


誰かが「まったり」という言葉を使い始めると、

日本中の料理が「まったり」とした味になってしまう。




何か事件が起こるたびに、

専門家による適当な病名を見つけて安心するのも同じ精神構造だ。



訳の分からないことがあると、「○×症候群」と名づけて安堵するが、

命名したとたんに、思考を停止しているのである。





長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)に

「コンコルドの誤り」(Condorde fallacy)という言葉がある。


コンコルドは英仏共同開発の音速機のことだが、

経済的に失敗することがわかっていても、事業を止められなくなることである。



失意や反感を恐れるあまり、

すでにその名に値しなくなったものを惰性で呼び続けることである。



ソクラテスは愛とか正義のような言葉が根拠のない思い込みにすぎないか

話し合いの中で一つ一つ暴いていき、

これを「ドクサ(偏見)の吟味」と呼んだ。



思想にも「コンコルドの誤り」というものがあり、

「教養」だと思っていることが「コンコルドの誤り」でしかなかったりする・・・。


ウェゲナーが大陸移動説を発表した時も、

自分たちの今までの研究をどうしてくれる!という批判があったという。




引き算が大切だ。



人間はあまりに多くの情報を持ち、固定観念に縛られている


物事の本質を見るためには足し算でたくさんの情報を得るのではなく、

むしろ、引き算をしていかなければならないというのだ。



先入観をなくせ、先入観を捨てよ、というのは簡単だが、

「偏見」や「先入観」や「固定観念」や「制度化された見方」から逃れるのは容易ではない。


「先入観が悪い」というのも実は先入観である。


これらをなくして何かを理解することは不可能だからである。



先人が何を言っているかを知ることは大切だ。


しかし、先人の言うことが正しいとは限らない



こうして、現代人は情報の海で溺れそうになる。

そして、そんな状況を「コンコルドの誤り」と呼んで、

他人事のように感じてしまうのかもしれない







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



名前が分からないと、落ち着かない。


久しぶりに会った友人で、名前が思い出せないときとか。。。


名前が分かると、急に色んな事が分かった気になれる。



人体の構造や機能、病気の名前なども、なんとなく似ている。


色々覚えていくと、自分が医者になれそうな気がしてくる。


でも、専門用語を覚えたことと、


医者として、一人の人間である患者さんに向き合うことは違うはずだ。



生命倫理、動物愛護、死生観、などなど、


そういう「名前」の授業を受けて、単位をもらえると、


それらが分かったつもりになるのも同じかも。



ちょっとしたできものが顔にできて、心配になって病院を受診したけど、


病名がハッキリしなくて、もしかしたら・・・とおもうと不安になって、


大きな病院で教授っぽい先生に診てもらったら


「顔面湿疹です」と言われて、


「さすがは大学病院の○○先生」とひと安心。


病名が分かっただけで、不安もなくなって、気付いたらできものもなくなってた、


みたいな話も聞きます。






体調が悪くても、病院に行くまでは元気だった人が、


診断を受けて、たとえば「癌です」と告知を受けると、


世界が一変する。


体調が激変したわけではなくても、


ラベルが貼られたことで、全てが変わる。





死は「永眠」 という言葉があると、


死に対するイメージが和らいで、


それだけで恐ろしさが軽減される気がする。





本質を見失わないよう、


言葉にとらわれて、思考を停止させずに、


考え続けることが大事なんですね。







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怠惰な言葉



言葉記憶を、思考を固定化するが、

同時に偏見をも固定化する可能性がある。

言葉は一人歩きする。

これをカセット効果ということがある。



カセットというのは宝石を入れる箱のことだが、

中身が入っていなくても宝石箱というだけで人は喜んでしまう



例えばここで「発想論」という言葉を使ったとしよう。

そうだ、発想を論じることができるのだ、と思う人がいるかもしれないが、

中身は何も伴っていないかもしれない。



「神」も「オバケ」も、もしかしたらいないかもしれないが、

言葉だけで畏れる。恐れる。


スローガンというのもカセット効果が大だ。

「年寄りを大切にしよう」というのは年寄りを大切にしていない証拠なのだが、

「キャンペーン文化」である日本ではスローガンだけで満足してしまう



僕の研究室にも

「ちょっと待て、その一杯がブタにする」

「注意一杯、ブタ一生」というスローガンが書かれている。

そのうち「学生を大切にしよう」というのを掲げようと思う。





(中略)



『星の王子様』では王子さまが



「あの頃、僕は何も分からなかった。

 あの花の言うことではなくて、

 することで判断しなければならなかったのに」 という。



こうして言葉によって惑わされてしまうのが人間だ。

行為で判断することができず、記号で判断してしまうのだ。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



いわゆる、「机上の空論」、「観念の遊戯」みたいなものですかね。


現実とは異なっていても、そういう言葉があると、


そういう言葉を繰り返し聞いていると、


それが現実であるかのように錯覚してしまう。


あるいは、過大に影響を受けてしまったり。



「医療崩壊」とか、


「モンスターペイシェント」とかも、


ある意味、キーワードみたいなものになってますが、


医療界全体がもう崩壊している、みたいに思ってしまったり、


患者さん全員が、モンスターに見えてしまったり。



言葉の一人歩きというのは怖いですが、


そういうことがありうることを知っておくのは、


言葉に振り回されないために、大切なことだとおもいます。



どこか、遠いところで生まれた言葉に惑わされずに、


目の前にいる人と、その人の言動で判断することですよね。



場合によっては、過去の言葉も、


今の気持ちとは異なることがありますし。


常に、「今」、「目の前のこと」を重んじられるようになりたいです。








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矢を射る者



俺の放つ矢を見よ。

第一の矢はしくじった、
第二の矢もしくじった、
第三の矢もまたしくじった。

第四、第五の矢もしくじった

だが笑うな。

いつまでもしくじってばかりはいない。

今度こそ、
今度こそと
十年あまり
毎日、毎日
矢を射った。

まだ本物ではないにしろ
たまにはあたり出した

見よ

今度の大きな矢こそ
人類の心の真ただ中を
射あてて見せる

そしてぬけない矢を


俺の放つ矢を見よ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


志を高く、


そして、それを如何に継続させるか。


夢は、見るためじゃなくて、実現するためにあるんですからね。









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過去の人間



過去の人間よ、
君達が地上にのこした
働きのつみかさなりを
我等は喜びをもって
生かしたく思っている。

君達は苦しい処を
よく生きぬいてくれた。

そして地上に
いろいろの仕事を仕出かしてくれた。

それは一朝一夕では出来ないことだ。

あらためて君達に感謝する
君達の苦心、血、
労働、愛を
無意味に消えささないつもりだ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




これも、自分へ向けた言葉だ・・・。



医学部に入れて、とりあえずよかった。

受験時代の自分、よく頑張ってくれたよ・・・。


人間関係にも、恵まれていると思える。


やりたいことも、けっこうさせてもらっている。



ただ、これは大きな課題だ。


生まれてきたことを、喜びをもって生かしているだろうか。


今あるいのちを、どれくらい大事にしているだろうか。


生命は尊厳、と口では言えど、


そもそも自分の生命を、尊厳あるものとおもっているか。


せっかく、今まで、生きてきたのに。。。


いろんな苦労もあれば、犠牲も重ねてきた上に、今の自分があることを、


決して忘れてはならないと、改めて思う。






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