- 近代科学を超えて (講談社学術文庫)/村上 陽一郎
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岐れた諸科学は再び集まる
医学は「科学的」であるか。またあり得るか。
この問いは、決して見かけほどナンセンスではない。
なるほど、科学の発達とともに、
人体に関する科学的知見は、驚くほど増大した。
たとえば、皮膚の感覚受容器に対する機械的刺激が
どのようにして神経のネットワークを経て中枢や反射弧に伝えられるか。
刺激の伝達というマクロな現象は、カルシウムイオンのポンピングとか、
それによる電位差など、よりミクロな概念によって把握される物質の振舞いから記述される。
そうした知見が、実際の医療にどのように利用されるか、
ということは、一応抜きにして、
マクロな現象を分析によってミクロな世界へ還元しようとする「科学」の論理は、
医学においても、つねに、徹底的に行われる。
病原体と病気との関係も、そうした論理の適応の結果でもあるし、
免疫などの抗原・抗体反応を高分子レベルで解明することも、
まさしくその結果のひとつである。
かくして医学は、立派に科学的ではないか。
しかしながら、それで全部というわけにはいかない。
もともと、病気はギリシア語ではパテーマ<pathema>と呼ばれた。
病理学<pathology>の語源である。
パテーマとは「苦しみ」とか「苦しみを受けること」とかいった意味に関わる語である。
ちなみに、キリストの受難やそれを扱った楽曲、劇などが
パシオン<passion>と呼ばれるのも、
ペーソスやパセティクといった語が「悲哀」の含意をもつのも、語源が同じだからである。
病気とは、まさしく苦しみである。
しかし、それでは苦しみとは一体何だろう。
苦しみは、傍の人がそれと指せるような、つまり「客観的」なものではない。
百日咳の咳込みは、見ていても如何にも苦しそうだ。
自動車事故による骨折や挫傷は如何にも痛そうだ。
しかし「苦しい」のと「苦しそうだ」とは違う。
「痛い」と「痛そうだ」とは違う。
「苦しみ」や「痛み」は「客観的」にはなり得ない。
だれも、咳込んでいる百日咳の小児の苦しみを苦しむことはできない。
ベッドの上で呻吟する事故負傷者の痛みを痛むことは、
たとえ患者の最愛の妻やであっても他人にはできない。
「他人の苦しみを自分の苦しみとする」という言葉は、
表現としては判るが、論理的に不可能である。
「他人の苦しみを自分の苦しみ」として本当に感じる人があるとすれば、
もはやその人の感じている「苦しみ」は、決して「他人の」のものではなく、
まさしく「自分の苦しみ」にほかならない。
「苦しみ」「痛み」は、主観的なものである。
どれほど「苦しみを共にする」こと、
つまり<sympathy>(同情)があったとしてもそれは変わらない。
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科学、医学の力は大きいですが、
その限界を知ることもまた、とても大切なことだとおもいます。