以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第9章をまとめる。
この「忠義」という徳目は「何の為に死ねるのか」ということを問いかけてくる。日本人が考えている「忠義」は、他の国ではほとんどその信奉者を見いだすことはできないだろう。それは日本人の考え方が間違っているからではない。他の国では「忠義」が忘れ去られていたり、日本人が他の国では到達しなかったくらいにまでその考え方を進めたからである。
武士道においては、一族の利害とその個々の成因の利害は一体不可分であるとされた。そして日本人は法律や国家にも人格を与えられた。
生命は主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第8章をまとめる。
「名誉」という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。羞恥心は人類の道徳意識の出発点であるといえる。
「名誉」に対する侍の極端な感覚の中に、我々は香り高い徳の素地を認めることができる。それは「名誉」の繊細な掟がおちいりがちな、病的な行き過ぎは、寛容と忍耐を説くことではっきりと相殺される。些細な挑発に腹をたてることは「短気」として嘲笑される。
寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人は稀であった。つまり「名誉」は境遇から生じるものではなくて、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、ということに気づいているのは、ごくわずかの人だけであったのである。
若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、「名誉」である。恥となることを避け、名をかちとるためにいかなる貧困をも享受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもっとも厳しい試練に耐える。
もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていたのである。したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられたのである。
「名誉」という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。羞恥心は人類の道徳意識の出発点であるといえる。
「名誉」に対する侍の極端な感覚の中に、我々は香り高い徳の素地を認めることができる。それは「名誉」の繊細な掟がおちいりがちな、病的な行き過ぎは、寛容と忍耐を説くことではっきりと相殺される。些細な挑発に腹をたてることは「短気」として嘲笑される。
寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人は稀であった。つまり「名誉」は境遇から生じるものではなくて、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、ということに気づいているのは、ごくわずかの人だけであったのである。
若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、「名誉」である。恥となることを避け、名をかちとるためにいかなる貧困をも享受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもっとも厳しい試練に耐える。
もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていたのである。したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられたのである。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第7章をまとめる。
真実性と誠意がなくては、「礼」は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。孔子が説くところによれば「誠」とは広々として深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力をもっている。
嘘をつくことやごまかしは臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い「誠」の水準を求められていると考えてきた。よって、武士の言葉は重みを持っているとされたので、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行された。
偽りの証言をすることに対する何らかの積極的な戒めがない中で、嘘をつくことは罪悪として咎められたのではなかった。むしろ弱さとして批判された。そして弱さはおおいに不名誉であった。
真実性と誠意がなくては、「礼」は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。孔子が説くところによれば「誠」とは広々として深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力をもっている。
嘘をつくことやごまかしは臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い「誠」の水準を求められていると考えてきた。よって、武士の言葉は重みを持っているとされたので、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行された。
偽りの証言をすることに対する何らかの積極的な戒めがない中で、嘘をつくことは罪悪として咎められたのではなかった。むしろ弱さとして批判された。そして弱さはおおいに不名誉であった。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第6章をまとめる。
「礼」とは他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。それは社会的な地位を当然として物事の道理を尊重するということである。
「礼」はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。それは「長い困難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事という者をたくらまない」ものである。
「礼」の厳しい遵守に伴う道徳的訓練として礼法としての作法がある。正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたるようにすること、それこそが芸術へと繋がりをみせるとともに、精神修養の実践なのである。
「礼」とは他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。それは社会的な地位を当然として物事の道理を尊重するということである。
「礼」はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。それは「長い困難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事という者をたくらまない」ものである。
「礼」の厳しい遵守に伴う道徳的訓練として礼法としての作法がある。正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたるようにすること、それこそが芸術へと繋がりをみせるとともに、精神修養の実践なのである。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第5章をまとめる。
愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は人間の魂がもつあらゆる性質の中で最高のものと認められてきた。「仁」は優しく、母のような徳である。
「武士の情け」すなわち武士の優しさは私たちの内にも存在する高潔なものに訴える響きをもっている。それは武士の慈悲が盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味している。またその慈悲は、単にある心の状態の姿というのではなくて、生かしたり殺したりする力を背後に持っていることを意味する。
戦いの恐怖の中で他者への哀れみの心に貢献したのは、ヨーロッパに置いてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対する嗜みがそれをなした。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが「礼」の根源である。
愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は人間の魂がもつあらゆる性質の中で最高のものと認められてきた。「仁」は優しく、母のような徳である。
「武士の情け」すなわち武士の優しさは私たちの内にも存在する高潔なものに訴える響きをもっている。それは武士の慈悲が盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味している。またその慈悲は、単にある心の状態の姿というのではなくて、生かしたり殺したりする力を背後に持っていることを意味する。
戦いの恐怖の中で他者への哀れみの心に貢献したのは、ヨーロッパに置いてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対する嗜みがそれをなした。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが「礼」の根源である。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第4章をまとめる。
「勇」は「義」によって発動されるのでなければ価値はないとされていた。つまり「勇気とは正しいことをすることである」と言える。武器を持つことを職業とする者にとってしばしば勇猛と同一視され向こう見ずな行為が不当に賞讃されてきた。しかし武士道が教える「勇」では死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。
「勇」の精神的側面は心の平静さによって表される落ち着きである。つまり静止状態における勇気である。本当に勇気のある人は常に落ち着いていて決して驚かされたりせず、何事によっても心の生成差をかき乱されることはない。
勇気と名誉は共に「価値ある人物』のみを平時の友とし、戦時においても「価値ある人物」のみを的とすべきと要求している。「勇」がこの高みに達するときそれは「仁」に近づく。
「勇」は「義」によって発動されるのでなければ価値はないとされていた。つまり「勇気とは正しいことをすることである」と言える。武器を持つことを職業とする者にとってしばしば勇猛と同一視され向こう見ずな行為が不当に賞讃されてきた。しかし武士道が教える「勇」では死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。
「勇」の精神的側面は心の平静さによって表される落ち着きである。つまり静止状態における勇気である。本当に勇気のある人は常に落ち着いていて決して驚かされたりせず、何事によっても心の生成差をかき乱されることはない。
勇気と名誉は共に「価値ある人物』のみを平時の友とし、戦時においても「価値ある人物」のみを的とすべきと要求している。「勇」がこの高みに達するときそれは「仁」に近づく。
以下、『武士道』(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)第3章をまとめる。
「義」とは武士道の光り輝く最高の支柱であるとされている。裏取引や不正な行いを最も嫌うこの精神は素直で、正直であり、絶大な賞讃をかちえた。
「義」は「正義の道理」と言える。絶対的に正しいことだからである。またその「正義の道理」とは「義務」でもある。なぜなら「正義の道理」以外に私たちが従うべき「義務」は他にあるだろうか?「正義の道理」こそ私たちが従うべき絶対命令であるべきなのである。
したがって「義」とは本来義務以外のことを意味していない。
では「正義の道理」とはどこから湧き起こってくるものなのだろうか?頼りになるものは「人の理性」である。自分の良心の内に「正義の道理」があり悟るべきなのである。
その「正義の道理」からはじまった「義」は人為性により時が経つに従って曖昧な適否を使い分ける感覚にまで落ちこんでしまった。「~の為に・・・を犠牲にしなければならない」「~を得るため・・・をしなければならない」等のように。
「義」は様々な詭弁や偽善を抱え込んでしまった。もし「武士道」に鋭敏で正当な勇気の感性、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば「義」は臆病の巣に成り下がっていたに違いない。
「義」とは武士道の光り輝く最高の支柱であるとされている。裏取引や不正な行いを最も嫌うこの精神は素直で、正直であり、絶大な賞讃をかちえた。
「義」は「正義の道理」と言える。絶対的に正しいことだからである。またその「正義の道理」とは「義務」でもある。なぜなら「正義の道理」以外に私たちが従うべき「義務」は他にあるだろうか?「正義の道理」こそ私たちが従うべき絶対命令であるべきなのである。
したがって「義」とは本来義務以外のことを意味していない。
では「正義の道理」とはどこから湧き起こってくるものなのだろうか?頼りになるものは「人の理性」である。自分の良心の内に「正義の道理」があり悟るべきなのである。
その「正義の道理」からはじまった「義」は人為性により時が経つに従って曖昧な適否を使い分ける感覚にまで落ちこんでしまった。「~の為に・・・を犠牲にしなければならない」「~を得るため・・・をしなければならない」等のように。
「義」は様々な詭弁や偽善を抱え込んでしまった。もし「武士道」に鋭敏で正当な勇気の感性、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば「義」は臆病の巣に成り下がっていたに違いない。
ご存じ新渡戸稲造による日本における道徳の源を明らかにし、世界に大反響を巻き起こした名著である。以前、台湾の李登輝氏により解題されたものを読んだことがあった。今回は奈良本辰也氏による訳である。
なぜこの本を読もうと思ったか。今の社会を概観したところ日本社会において「公共性」の喪失が著しい。いわば道徳である。かつて尊敬された日本人の精神は見る影もなくなってしまった。物や金を所有している者が「勝ち組」とされ、政府の政策により「負け組」との格差は開く一方である。
しかしその「勝ち組」「負け組」という品のない分類方法は何なのであろうか。日本という風土において長い年月をかけて育まれてきた日本人の精神性の土台に立てば、このような分類で社会を見る目にはならないであろう。
「武士は喰わねど高楊枝」「清貧」という言葉の中で大切にしてきたものは一体何なのかを知りたくて、僕はこの『武士道』に帰ってきた。
「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」それぞれに章が割り当てられている。一日ひとつずつまとめていきたいと思う。おそらくその先には更に起源をさかのぼり孔子の『論語』へと続く道が見えてくるであろう。
なぜこの本を読もうと思ったか。今の社会を概観したところ日本社会において「公共性」の喪失が著しい。いわば道徳である。かつて尊敬された日本人の精神は見る影もなくなってしまった。物や金を所有している者が「勝ち組」とされ、政府の政策により「負け組」との格差は開く一方である。
しかしその「勝ち組」「負け組」という品のない分類方法は何なのであろうか。日本という風土において長い年月をかけて育まれてきた日本人の精神性の土台に立てば、このような分類で社会を見る目にはならないであろう。
「武士は喰わねど高楊枝」「清貧」という言葉の中で大切にしてきたものは一体何なのかを知りたくて、僕はこの『武士道』に帰ってきた。
「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」それぞれに章が割り当てられている。一日ひとつずつまとめていきたいと思う。おそらくその先には更に起源をさかのぼり孔子の『論語』へと続く道が見えてくるであろう。
ライブドアの堀江逮捕の意味を考えるべく読んだ。ベンジャミン・フルフォードというカナダのジャーナリストが日本の不況の元を探っている。
彼は日本の不況の背後には「ヤクザ」がいるという。
かつて日本を世界第2位の経済大国に押し上げた「政・官・業」の結束は、「鉄の三角形」と呼ばれていた。しかし1980年代後半からここに「ヤクザ」が加わり、「鉄の四角形」になり日本国民の富を収奪しているというのである。経済問題は政治問題なのである。
その視点から今回の堀江逮捕を見てみると、単なる粉飾決算、風説の流布に留まらない深い闇が見えてくる。今週の「週刊文春」にも大変興味深い記事が載っていた。テレビや新聞から流れてくる情報は信用ならない。マスコミのふるいにかけられた情報しか我々の元には届かないのである。往々にして「本当のこと」は報道されない。情報過疎を認識すべきだ。
彼は日本の不況の背後には「ヤクザ」がいるという。
かつて日本を世界第2位の経済大国に押し上げた「政・官・業」の結束は、「鉄の三角形」と呼ばれていた。しかし1980年代後半からここに「ヤクザ」が加わり、「鉄の四角形」になり日本国民の富を収奪しているというのである。経済問題は政治問題なのである。
その視点から今回の堀江逮捕を見てみると、単なる粉飾決算、風説の流布に留まらない深い闇が見えてくる。今週の「週刊文春」にも大変興味深い記事が載っていた。テレビや新聞から流れてくる情報は信用ならない。マスコミのふるいにかけられた情報しか我々の元には届かないのである。往々にして「本当のこと」は報道されない。情報過疎を認識すべきだ。
ドイツワールドカップの観戦チケットの抽選結果がでた。メールでしっかり結果を教えてくれるのだ。でも僕はそのメールが来る前に待ちきれずチケットのサイトにいき、万が一の当選の瞬間を思い描いた。
予想通り結果は「落選」。
残念ではあるが、悔しくって仕方がないということはない。「まぁ、いいか」くらいである。強がりではない。
そこで考えた。今の自分にとって「これだけは譲れない」と言えるものはなんだろう?自分が持っているものからドンドン引き算をしていき、最後に残るものは何だろう?
友人やいろいろな人の話を聞いていく中で、最近キーワードになっているのが「引き算」である。その話を聞いてとても納得できているのだが、自分の中に消化しきれていない。この壁を乗り越えたい。そして実感し、実践できる人間になりたい。
予想通り結果は「落選」。
残念ではあるが、悔しくって仕方がないということはない。「まぁ、いいか」くらいである。強がりではない。
そこで考えた。今の自分にとって「これだけは譲れない」と言えるものはなんだろう?自分が持っているものからドンドン引き算をしていき、最後に残るものは何だろう?
友人やいろいろな人の話を聞いていく中で、最近キーワードになっているのが「引き算」である。その話を聞いてとても納得できているのだが、自分の中に消化しきれていない。この壁を乗り越えたい。そして実感し、実践できる人間になりたい。