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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 いろんな手がある
 すらっと伸びた綺麗なピアノ線のような手
 厚みがあっていつも暖かそうな手
 油をいじって爪の間が黒くなってとれない手
 手のひらに蛸ができ、その上に皮が厚く張った堅い手
 いっつも深爪をしている手
 手は意思を表す
 僕の手は・・・
 サッカーワールドカップが開催される2006年最初の日本代表の試合が行われた。対戦国はアメリカである。しかし、あまりにも会場がひどい。なんと野球場に無理矢理サッカーのピッチをとって行われた。芝は野球用の芝なのでとてもスリッピー。重要な局面で選手は滑りまくっていた。
 試合内容もとても代表の試合とは思えないようなものだった。こんな試合には入場料を払ってライブで観る気にはならない。結果は3-2で日本が負けた。宮崎合宿から始まった体力強化の練習に選手達は疲れのピークだったのだろう。
 この「疲れのピーク」という単語、実はこれからよく聞くことになるだろう。そう、プロ野球が開幕すれば4月下旬には解説者は「疲れのピークですからねぇ」と連呼する。実はこの言葉、5月に入っても使われ、暑くなってくる夏場にも絶えず聞かされることになる。年中、疲れのピークなのだ。
 それでは年中疲れた選手のプレーばかり観ていることになる。僕らが観たいのは一般の人では出来ない超人的なプレーである。そこにお金を払っているのである。それをベストの状態でプレー出来ない状態で見せ続けているのは詐欺である。
 プロ野球中継は今年は大幅に減るだろう。そんな疲れ切った選手もそうだが、プロ野球中継はそれを放送する側にも問題がある。解説者がまったくもって面白くないのだ。解説する人はみんな元プロ野球選手である。しかし、テレビの前で観ている素人でも言えそうな事しか言えない。「この一球がこの試合を決めました!」と、したり顔で言う解説者。野球ってそんなに単純に試合が決まるのですか?もっと複合的な要素が絡み合っていく中で試合のペースが決まって勝敗を決するのではないですか?
 解説を聞いていておもしろいと思ったのは現中日監督の落合と今年から楽天を率いる野村くらいである。しかし野村の解説の場合、「野村スコープ」が登場し、テレビ画面が非常に見づらくなる欠点があるが(笑)
 役に立つことは価値があることか?
 誰が与える?
 誰に与える?
 僕には価値がある?
 在るのなら
 価値ある僕は無価値なモノに
 価値をみる
 第一次世界大戦中、アラブの独立に燃えたロレンスがベドウィンの部族を率い、砂漠社会で称えられていくようになる物語である。
 僕は世界史をずっと勉強してきていて、高校生の頃からいつも第一次世界大戦の単元になるとこの映画のタイトルが先生の口から出てきていた。予備校時代の先生もそうだし、今となってもこの時代の書物を読むとこの映画のタイトルが出てくる。気にはなっていたのだが縁がなかった。
 最近また世界史を勉強し始めたので、ちょうど良い機会だし観てみることにした。僕の家にはDVDを観る機器がない。唯一はパソコンなので夜になりカーテンを閉め、ヘッドホンを付け、ゆったり座れる椅子に腰掛け鑑賞した。
 僕が以前から勝手に想像していたロレンス像が全くもって僕個人の想像の産物であることにまずは驚いた。「イギリスとフランスのサイクス・ピコ協定に反旗を翻し、アングロサクソンにも関わらずアラブ独立に尽力した英雄」だと思っていた。よって僕の中でのロレンスは勇ましく、頭脳明晰、人道的見地から世界を観ることができる人物という像が出来上がっていたのである。
 次に驚いたのが砂漠の美しさである。現代のCGによれば再現は可能かもしれないが偽物はどこまで再現しても偽物である。この映画には本物の砂漠があった。これだけの奥行きと拡がりのある砂漠はパソコンの17インチの画面で観るのはもったいないと感じた。素晴らしい。
 街の映画館がどんどん潰れていく。名作を頑なに上映し続ける映画館があったらいいのに。
 ロバート・デ・ニーロ主演の作品。ずっと以前に友人に勧められていたのだが今まで観られずにいた。
 オープニングからサックスの音がとてもカッコ良く曲を奏で、ネオンが瞬く夜の街を想像させた。物語はロバート・デ・ニーロ扮するタクシードライバー、トラヴィスがある使命感に駆られ静かにその計画に向けて準備をしていき、そして実行する。
 彼の目を通してみたニューヨークの社会は淀み、歪み、汚い。そこで生活している人を日々タクシーの後部座席に乗せ走っている。この薄汚れた社会をどうにかしたいと切に願うがどうしたらいいのかわからない。でも猛烈に何かをしたいという感情が蓄積されていく。
 作品を通じてとても雰囲気があり、観れば観るほど深い作品に気づいていくと思う。まだ初めて観た今回だけでは消化不良を起こしている。
 面接試験を受けてきた。僕はこういう試験では全くと言って良いほど緊張とは無縁な性格である。常に「為すがまま」的な開き直りをしてしまう。良いのか悪いのか・・・。
 いろいろな面接を受ける度に違和感を感じることがある。それは「自分の長所をアピールしてください」というものだ。小学校の頃から先生には「日本人は自分をアピールすることが苦手だから良くない」という台詞をよくきいた。学年の始めの頃には自己紹介のようなものを書かされた記憶がある。その中の項目「自分の長所」の欄だけは毎回頭痛の種だった。
 なぜか?自分の長所をその欄に書くことによって、その長所が長所ではなくなってしまうような感覚があるからである。「自分で言うなよ」というツッコミが自分の心から飛んでくるのである。
 そもそも人の長所とは自分で決めるものではないのではないか?自分では明るい性格を長所と思っていても、周りの人がそれを長所と認めなければ長所でも何でもない。独りよがりだ。
 最近、僕は子どもの頃から持っているこの感覚を大切にした方がいいと感じるようになってきている。世の中の価値観が揺らいでいるせいもあるだろう。日本人的な考え方が様々な局面で見直されはじめている。
「自分はこういう人間です!」
「こういう良いところがあります!」
と、アピールすることは自分の「美意識」に反すると気づいた。自分の善いと思ったありのままの感覚を信じて生きる。その中で人が良いと感じてくれるモノが僕の中に宿るのであれば、その言葉を謙虚にありがたく頂こうと思う。
 昼過ぎから雪が降り出した。大きな固まりで落ちてくる。綿のような雪で水分を存分に含んでいる。その雪が夕方まで続き積もった。
 家の外は見慣れない銀色の世界になっている。僕は岡山で降るこの雪があまり好きではない。僕の雪の理想型は夜に人知れずひっそりと降り、朝カーテンを開けると劇的に世界が変わっている・・・というものだ。そう、雪に求めるものが「静」なのである。
 雪が降ると「音」はどこに行ってしまうのだろう。辺りに静けさがたちこめる。
 今日は岡山城の近所にテストを受験しに行ってきた。特に合格したから、落ちたからどうのこうのなるようなものでもないテストだった。
 前の晩に広島の友人が家に来て、飲んでいた。そう量は飲んでいないのだが、お酒を飲んだ次の日は朝寝をしたい。猛烈に眠く、どうでもいいテストなのでこのまま寝ていたいとさえ思った。どうでもいいテストなのだが、いずれは受けなければならない。
 テストもほどほどに(おいおい!)終わり、帰りにシャツを買って家に帰った。最近お酒を飲んだ次の日が潰れていることが多い。気分的に。二日がかりでお酒を飲んでいるようでなんだかもったいない。学生の頃はどんなに泥酔しても、次の日の午後からはハードな部活の練習にすんなり行けたのに。
 緒方正人さんの著書である。緒方さんは熊本県の芦北町の女島という小さな漁村で生まれ漁業を営んでいる。彼は「チッソ」という単語でおそらく大部分の人が連想するであろう「水俣病」事件の患者認定運動に身を投じてきた。その運動をしていく中で、自分の価値観の大ドンデン返しを自分の言葉で綴った本である。
 彼の父親は水俣病により悲惨な死を遂げている。それを緒方さんは幼少ながら目の当たりにしている。チッソを恨む気持ちが募る中でチッソの防波堤となっている国や熊本県の責任追及の運動に関わったいくようになった。
 しかし緒方さんはこの運動という闘いの中で一つの違和感を覚えてくるのである。チッソが加害者であるにしても姿が見えてこない。国を相手取っても「私が国です」と言う人はいない。つまり水俣病の責任というのは結局はシステムの責任であり、それに対して運動をして補償を求めてきたことに気づいたのである。「人間の責任」という一番大事なものが抜け落ちていたのである。
 そのシステムに責任があるとすれば、もし緒方さんがチッソという会社にいて、そのシステムの中にいれば水俣病事件を引き起こすような同じようなことをやったのではないかと気づいたのだ。絶対同じことをしていないという根拠がどこにも求められず彼の中で「加害者」と「被害者」の立場が逆転するどころか、足場を失ってしまったのである。
 緒方さんは認定申請患者協議会から離脱し、認定申請を取り下げる。その後彼は「狂いに狂った」と述べている。その壮絶な内面との闘いの後、闘っている相手が巨大な「システム社会」であることに気づいた。それは価値観が構造的に組み込まれている世の中という意味である。
 我々の生きている時代は「豊かさに駆り立てられた時代」である。我々の日常生活がその大きく複雑な仕組みの中にあり、抜けようとしてもなかなか抜けられない。
 緒方さんはこう述べている。
『水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかということが、大きな問題としてあるように思います。』
 この本の最後には対談「祈りの語り」が掲載されている。その中で、緒方さんの世界観、宇宙観を垣間見ることができた。その感覚は普遍的なモノだろうと思う。とても良い本であった。
 武士道の基本的な徳目を章ごとにまとめてきた。そこには見事なまでの「武士としての生き方」が見て取れた。なんて「品格」のある生き方なのだと。
 現在の風潮として「合理主義」「科学至上主義」「個人主義」「金銭至上主義」「能力主義」などのアメリカやヨーロッパから入ってきた価値観がある。その一方で極端にそれに対抗するような考えを持つ人もいる。「栄光、地位、名誉、金」何もかも「いらない」とする立場の人間である。
 極端であると思う。守るべきモノは守るべきである。武士は何を守ってきたのか?それはまとめてきた各徳目の「最小限」を頑なに守ってきたのである。
 『武士道』を読む以前から感じていたことがある。「お金はあるに超したことはないけど、必要最低限でもいい。地位も分不相応なものはいらない。でも『名誉』っていうものはあっても良いのではないか?」ということだった。
 本当の名誉の為に生きる。それは素晴らしいことなのではないか?何が名誉になるか?その「本当の姿」を探す行為こそ道徳であり、哲学である。
 今の価値観だと何もかも棄てすぎている。中身が何もなくなってしまっている。つまり「こころ」という殻だけがぽっかり残ってしまい、何にすがって生きれば良いのかわからないのである。人は自分だけでは生きられないという。もちろん周りの人間関係、社会の中で生きていくしかないという意味でも受け止められるが、眼には見えないモノの頼りがいは自分が決めていける。そのヒントが『武士道』には隠されていた。僕は何として忠実に生きていくか?