サッカー日本代表がインド代表とアジアカップの予選を行った。今年に入って初めての公式戦ということで楽しみにしていたのだが、いかんせんインドとは力の差がありすぎる。
一つ気になったことを。インド代表のフォワードの選手は通称「インドのベッカム」と呼ばれているとしきりに実況は言っていた。確かに凛々しい顔をしていたし、なかなかうまかった。が、そんなコピーをつけて評価するのはその選手にとって失礼なことだと思う。
岡山にも「日本のエーゲ海」と呼ばれる牛窓があるが、そのコピーが僕は嫌いだ。山口県を「小京都」と呼んだり、以前巨人に相当な期待を背に入ったルイスだったかな?名前はうろ覚えだが確か「台湾のイチロー」とか呼ばれていた。ちなみにポジションはサード。もう何でもありだ(笑)
そんな安易なコピーはエーゲ海、京都、イチローというそれぞれの権威にその土地や人が迎合しているようでよくない。エーゲ海とも京都ともイチローともベッカムとも違う「それ自身」の評価を放棄しているように感じるのだ。
面接に行ってきた。市役所の中に教育委員会は入っていた。普段、役所へはあまり来る機会がないので感じたことがなかったのだが今回は意識的に市役所の中を見ることができた。
色らしい色はない。灰色のベールがすべてを覆っていた。気分が悪くなるような無機質。この中で仕事していてどういう「感覚」で仕事をするのだろうか?皆、「仕事」という不確かな「ルール」に則り働いている。
以前、なにかの本にテリー伊藤が書いている言葉が頭に浮かんだ。
「役所はまずは服装からセンスを磨かないとダメ。あんな職場じゃセンスのある政策なんて浮かばないよ」
なるほど。同感である。
ついでに面接の話に戻るが、案の定、僕の予想通りの人だった。
色らしい色はない。灰色のベールがすべてを覆っていた。気分が悪くなるような無機質。この中で仕事していてどういう「感覚」で仕事をするのだろうか?皆、「仕事」という不確かな「ルール」に則り働いている。
以前、なにかの本にテリー伊藤が書いている言葉が頭に浮かんだ。
「役所はまずは服装からセンスを磨かないとダメ。あんな職場じゃセンスのある政策なんて浮かばないよ」
なるほど。同感である。
ついでに面接の話に戻るが、案の定、僕の予想通りの人だった。
講師の登録をする為、教育委員会に電話をかけた。登録するにも面接がいるのだ。2カ所かけたのだが、片方がひどかった。電話からも伝わってくる「僕と生理的に合わない」オーラ。少しカチンときて、「もう登録しません!」と電話を切ろうかと思ったが、「僕はその人の為に働くのではない」と思い直してやめた。面接は明日。どんな人だろう。楽しみにしている。
「雪がとけたら何になる?」
僕はみんなに質問した。
すると、みんなの手が一斉に上がる。全員がこの自明の答えを発表したそうだ。
いつも元気が体からはみ出してる男の子を指名した。
「ハイ!水になります!」
見渡すと皆、納得した顔。
でも、「あれっ?」という顔でノートを隠した子がいた。無口なのだがいつもニココニしていて友達が たくさんいる女の子。僕はみんなに気づかれないようにそっとノートを覗き込んだ。
その子のノートには彼女らしい慎ましい字で答えが書かれていた。
「春になる」
僕はみんなに質問した。
すると、みんなの手が一斉に上がる。全員がこの自明の答えを発表したそうだ。
いつも元気が体からはみ出してる男の子を指名した。
「ハイ!水になります!」
見渡すと皆、納得した顔。
でも、「あれっ?」という顔でノートを隠した子がいた。無口なのだがいつもニココニしていて友達が たくさんいる女の子。僕はみんなに気づかれないようにそっとノートを覗き込んだ。
その子のノートには彼女らしい慎ましい字で答えが書かれていた。
「春になる」
かくすれば
かくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂
吉田松陰の句である。明治維新の原動力となり明治政府に活躍した多くの逸材を育てた人物である。松陰の祖父の玉木文之進が1842年に自宅で私塾を開いたのが始まりで、次に久保五郎左衛門が継承、1857年に当時28歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰することになった。
今、松下村塾から学ぶべきものはなんであろうか?吉田松陰についての研究に着手しよう。
かくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂
吉田松陰の句である。明治維新の原動力となり明治政府に活躍した多くの逸材を育てた人物である。松陰の祖父の玉木文之進が1842年に自宅で私塾を開いたのが始まりで、次に久保五郎左衛門が継承、1857年に当時28歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰することになった。
今、松下村塾から学ぶべきものはなんであろうか?吉田松陰についての研究に着手しよう。
皇學館大学の松浦光修助教授が日教組王国三重県での闘いを綴った本である。戦後、日教組が行ってきた偏向教育は現在でも続いている。学校教員の日教組への加入率が三割前後になったとはいえ、いまだにその力は健在であり、教育界を牛耳っている。
この本には三重県の教育界の実態が書かれている。教員の勤務評定オールB開示、勤務時間内の組合活動、反日自虐史観・・・。
一つ気になったことがある。日教組は「労働組合」か?という疑問に答えている箇所があるのでまとめてみる。
まず日教組が現行法のどのような法規に基づいて組織されている団体であるのか?憲法28条には「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」とある。ここから「勤労者」の「労働基本権」という概念が導き出される。この「勤労者」とは私企業の場合や私立学校の教職員の場合は「労働基本権」はなんら制限されるものではない。
問題は公務員の場合である。憲法15条2項「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とされる。公務員とはそのような特殊な「勤労者」である。したがって、「国家公務員法」「地方公務員法」「自衛隊法」などによって制約を受けることになる。
そして「地方公務員法」第58条「労働組合法、労働関係調整法、及び最低賃金法、並びこれらに基づく命令の規定は、職員に適用しない」と明記されており、公立の小学・中学・高校の教諭は地方公務員にあたり、ここでいう「職員」に該当する。よってこれら3つの法律の適用除外の対象となり、日教組が「労働組合法」上の「労働組合」ではないことがわかる。
しかし、それに替わる措置はある。「国家公務員法」第108条の2と「地方公務員法」第52条には「この法律において『職員団体』とは、職員がその勤務条件の維持改善を図ることを目的として組織する団体又はその連合体をいう」とある。したがって、公立の小学・中学・高校の教諭が所属している「組合」は法的には「職員団体」ということになる。
「労働組合」と「職員団体」の違いは何であろうか?
「労働組合」には加入を促す一定の強制力が認められるが、「職員団体」にはそれが認められていない。「国家公務員法」第108条の2と「地方公務員法」第52条の3に「職員は、職員団体を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる」とある。
日教組への加入率が限りなく100%に近い県もあるという。僕も眼には異常に写るのだが。そもそも「教員」という呼び方に違和感を覚える。僕は「教師」になりたい。
この本には三重県の教育界の実態が書かれている。教員の勤務評定オールB開示、勤務時間内の組合活動、反日自虐史観・・・。
一つ気になったことがある。日教組は「労働組合」か?という疑問に答えている箇所があるのでまとめてみる。
まず日教組が現行法のどのような法規に基づいて組織されている団体であるのか?憲法28条には「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」とある。ここから「勤労者」の「労働基本権」という概念が導き出される。この「勤労者」とは私企業の場合や私立学校の教職員の場合は「労働基本権」はなんら制限されるものではない。
問題は公務員の場合である。憲法15条2項「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とされる。公務員とはそのような特殊な「勤労者」である。したがって、「国家公務員法」「地方公務員法」「自衛隊法」などによって制約を受けることになる。
そして「地方公務員法」第58条「労働組合法、労働関係調整法、及び最低賃金法、並びこれらに基づく命令の規定は、職員に適用しない」と明記されており、公立の小学・中学・高校の教諭は地方公務員にあたり、ここでいう「職員」に該当する。よってこれら3つの法律の適用除外の対象となり、日教組が「労働組合法」上の「労働組合」ではないことがわかる。
しかし、それに替わる措置はある。「国家公務員法」第108条の2と「地方公務員法」第52条には「この法律において『職員団体』とは、職員がその勤務条件の維持改善を図ることを目的として組織する団体又はその連合体をいう」とある。したがって、公立の小学・中学・高校の教諭が所属している「組合」は法的には「職員団体」ということになる。
「労働組合」と「職員団体」の違いは何であろうか?
「労働組合」には加入を促す一定の強制力が認められるが、「職員団体」にはそれが認められていない。「国家公務員法」第108条の2と「地方公務員法」第52条の3に「職員は、職員団体を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる」とある。
日教組への加入率が限りなく100%に近い県もあるという。僕も眼には異常に写るのだが。そもそも「教員」という呼び方に違和感を覚える。僕は「教師」になりたい。
稲田弘重さんが岡山県に作ったフリースクール「あすなろ学舎」の12年の記録が収められている本。稲田さんは「現在の教育界は腐っている」と言い切り、学校へ行けない子ども達のために全寮制フリースクールを設立した。見てみたい学校だ。
東京シューレというフリースクールがどのように誕生し、現在どのような活動を行っているかが書かれた本である。
そもそも「フリースクール」とはなんであるのか?スクールと名はついているが、それは正規の「学校」とは違う。日本では学校教育法第一条で「学校」というものが規定されている。では正規の「学校」がある中で「フリースクール」がなぜ誕生してきたのか?
その背景をこの著書では次のようにまとめられている。
「近代学校は、大量生産の工業化社会にみあった教育を国家の必要から展開する場としてつくられ、制度化されていった。一定の場所に通い、決められた時間、決められた内容をこなす場所である。(中略)そこでは教師の権力は強く、子ども・若者は生徒として、素直な服従が期待される」
「一人ひとりの個の尊重を重要視する人からみれば、国家・社会が求める人間像を要求され、自分を押し殺しているのが見え、あるいは、荒れる子を前に思い悩む。そこでオルタナティブ(もう一つの、独自の)な学校や教育のあり方が模索されることになる」
このような背景の元、模索された形として「フリースクール」が誕生していくことになる。
「フリースクール」に通う子ども達は不登校の子ども達が多い。しかしこの本を読んで、その中で子ども達が活動する様子などを想像するに、今まで僕がイメージしていたものと違ったモノだった。子ども達が自発的に学校を作り上げていっているのである。
僕が感じたのは正規の学校というシステムが既に限界点に達しており、そこに拒否反応を示す子どもの感覚はむしろ正常なのではないだろうかというものであった。教育を考える上でこの視点からも見てみる必要性を感じている。
そもそも「フリースクール」とはなんであるのか?スクールと名はついているが、それは正規の「学校」とは違う。日本では学校教育法第一条で「学校」というものが規定されている。では正規の「学校」がある中で「フリースクール」がなぜ誕生してきたのか?
その背景をこの著書では次のようにまとめられている。
「近代学校は、大量生産の工業化社会にみあった教育を国家の必要から展開する場としてつくられ、制度化されていった。一定の場所に通い、決められた時間、決められた内容をこなす場所である。(中略)そこでは教師の権力は強く、子ども・若者は生徒として、素直な服従が期待される」
「一人ひとりの個の尊重を重要視する人からみれば、国家・社会が求める人間像を要求され、自分を押し殺しているのが見え、あるいは、荒れる子を前に思い悩む。そこでオルタナティブ(もう一つの、独自の)な学校や教育のあり方が模索されることになる」
このような背景の元、模索された形として「フリースクール」が誕生していくことになる。
「フリースクール」に通う子ども達は不登校の子ども達が多い。しかしこの本を読んで、その中で子ども達が活動する様子などを想像するに、今まで僕がイメージしていたものと違ったモノだった。子ども達が自発的に学校を作り上げていっているのである。
僕が感じたのは正規の学校というシステムが既に限界点に達しており、そこに拒否反応を示す子どもの感覚はむしろ正常なのではないだろうかというものであった。教育を考える上でこの視点からも見てみる必要性を感じている。
岡山中学校・岡山高等学校の文化講演会を友人に誘われ参加することができた。講演者はベストセラー『バカの壁』の著書で知られる養老孟司先生であった。演目は「君たちに大切にしてほしいもの-人として生きるために-」というものである。
解剖学者である氏の講演は存分に哲学的な内容であった。氏がどのような眼で世界を観ているかがよく分かる内容だった。人間理解という観点からみて僕にとってもとても参考になるもので有意義な時間を過ごすことができた。
「青」という字を赤色で書く。そこで「これは何?」と質問すると「青」という答えが予想される。しかし、視覚を通してみたそれは「赤」である。そこにはどんな違いが隠されているのか?
「青」という答えが返ってくる理由はそれが「言葉」だからである。「青」という「言葉」を認識し解答されている。
「赤」という答えが返ってくる理由はそれが「感覚」だからである。「青」という字が「赤」色のペンで書かれそれを認識して解答されている。
氏はこのような例を通して、「同じ」ということと「違う」ということを講演の中で一貫して述べられていた。「個性、個性としきりにいうが、君たちは同じ人間は誰一人としていない。一人ひとり「違う」のだ。さらに自分の中でも昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分は変わっていく。むしろ変わらないことの方が怖いと思いませんか?」と講演を聞く中学生・高校生に対してメッセージを投げかけておられた。
世界は自分が観ている。自分の見方によって世界は変わる。「面白き事も無き世を面白く」という高杉晋作の辞世の句が浮かんだ。
解剖学者である氏の講演は存分に哲学的な内容であった。氏がどのような眼で世界を観ているかがよく分かる内容だった。人間理解という観点からみて僕にとってもとても参考になるもので有意義な時間を過ごすことができた。
「青」という字を赤色で書く。そこで「これは何?」と質問すると「青」という答えが予想される。しかし、視覚を通してみたそれは「赤」である。そこにはどんな違いが隠されているのか?
「青」という答えが返ってくる理由はそれが「言葉」だからである。「青」という「言葉」を認識し解答されている。
「赤」という答えが返ってくる理由はそれが「感覚」だからである。「青」という字が「赤」色のペンで書かれそれを認識して解答されている。
氏はこのような例を通して、「同じ」ということと「違う」ということを講演の中で一貫して述べられていた。「個性、個性としきりにいうが、君たちは同じ人間は誰一人としていない。一人ひとり「違う」のだ。さらに自分の中でも昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分は変わっていく。むしろ変わらないことの方が怖いと思いませんか?」と講演を聞く中学生・高校生に対してメッセージを投げかけておられた。
世界は自分が観ている。自分の見方によって世界は変わる。「面白き事も無き世を面白く」という高杉晋作の辞世の句が浮かんだ。
先日受けた面接の結果が郵送されてきた。結果、不採用。出来レースだと思って受けた面接が実はガチンコであった。さて、次は・・・。軽く路頭に迷い気味だが、むしろこの方がよかったのだろう。次の展開を楽しもう。
今のままの環境を変えずに考えると、結局はその循環から抜け出せず堂々巡りを繰り返す。つまり今までの方向性に違和感を感じているのであれば、新しい土台の上に次の展開を考えていかねばならない。一番の方法は日常から飛び出し、旅という非日常の空間で考えてみること。新しい発想が生まれるかもしれない。
今のままの環境を変えずに考えると、結局はその循環から抜け出せず堂々巡りを繰り返す。つまり今までの方向性に違和感を感じているのであれば、新しい土台の上に次の展開を考えていかねばならない。一番の方法は日常から飛び出し、旅という非日常の空間で考えてみること。新しい発想が生まれるかもしれない。