ほんの少し
個人的なことの続きと、個人的ではないこと
入院を続けている母親の状態が良くなり、退院の目処がつきました。
手術後はたくさんの管につながれていましたが、1週間程でそれらが外れ、
2週間が経つ頃には、歩いて(補助付きで)トイレに行くようになりました。
それでも、心臓を動かすために行ったメイズ手術の効果がなかなか表れず、
再度、ペースメーカーを体内に埋め込む手術が必要かもしれないので、
主治医からお話があるので来て下さいと言われ、
再手術を覚悟していたのですが、病院に行ったところ、
その前日に突然、自力で心臓を動かすことが出来るようになって、
再手術は必要なく、体外式のペースメーカーを外して、様子を見ましょうと
いうことになり、母親、妹共々、ホッとしました。
体外式のペースメーカーを約4週間つけていましたが、母親はその機械を
大切な子供のように思っていたようです。
そして、今は何とか補助なしで、ゆっくり歩けるようになり、
退院に向けてのリハビリを頑張っています。
11月中には退院出来そうなので、このまま順調に進んで欲しいです。
ところで、この入院では公的医療保険のお世話になっています。
入院費はおよそ1ヶ月あたり、130万円以上で、
手術を受けた月の明細はまだ届いていませんが、
相当な金額になると思われます。
しかし、実際にはそのほとんどが公的医療保険によってまかなわれています。
つくづくこの国の医療保険制度に助けられていると実感しています。
ただ、手術をする時には、こんなことを考えました。
高齢の母親に対して多くの税金が使われていること、
もちろん、これまで、税金も国民健康保険も納めているのだから、
その権利はあると思うのですが、およそ4ヶ月間の入院と手術にかかる費用、
これだけのお金があれば、例えば、
本当に支援が必要な人が救われるかも知れないのでは・・・。
でも、こうも考えました。それは、この入院や手術が、
それに携わった人たちの経験となって、
少しでも医療の発展に結びつくのではないのかとも・・・。
そんな時に、富山県議会議員をはじめ、多くの議員の不正な支出問題、
国会議員の白紙領収書問題と、相変わらずのこの国。
田中角栄が見直されているとか、最近何か話題になっているようですが、
金と権力の象徴であり、全てを否定するわけではありませんが、
こんな政治家に注目する必要はなく、同じ田中でも、
田中正造を手本にすべきだと思うのです。
フィリピンの大統領、
韓国の大統領、
アメリカの次期大統領、そして、
日本の総理大臣、
何だか、品格のない人たちの集まりですか?
自分が優れているとは思っていませんが、
この人たちより品がないとも思ってません。
省吾が、さいたまスーパーアリーナのライブで、
“アジアの風 青空 祈り” の中で
No more nuclear weapon と歌っていました。
せめて、核兵器だけでもなくせないものなのでしょうか・・・
せめて、原子力発電所だけでもなくせないものなのでしょうか・・・
せめて、辺野古の海を埋め立てずに済ませることが出来ないのでしょうか・・・
せめて、戦争をなくすことだけでも・・・
最後に、母親のこと、僕のことを気遣ってくれている友人に感謝いたします。
ありがとうございます。
個人的なこと
2016年7月17日日曜日
7月に入ってから熱中症のような症状で体調を崩していた母親が救急車を呼びました。
何度も何度も何度も病院に行くことを勧めていた妹や僕の意見を聞き入れずに、
半月ほど苦しんだ末に母親自ら119番通報をしたのです。
親子というのは素直にお互いの意見を聞かないこともありますが、
この時ばかりは本当に困ったことになったと思いました。
仕事から帰ってきて、母親が死んでいたらと思うことが何度もありました。
妹にも何度も相談しましたが、何故か頑なに病院に行くことを拒んでいたのでした。
救急隊員に入院させたい旨を伝え、とりあえず掛かりつけの木場病院に搬送してもらいました。
ところが、日曜日ということもあり、点滴を一本打っただけで、自宅に帰ってくれと言われたのです。
僕はトイレにも一人で行けないような状態の母親を連れて帰ることは出来ないと考え、
病院に向かっている妹を待ちたいと伝えました。
そうして、病院のロビーのソファで横になっていました。
すると、看護師だか受付だか分かりませんが、待っていてもいいと言ってくれた女性が、
(母親が)辛そうだから、早く自宅に連れて帰ってくれと言ってきました。
辛いから病院に来ているのに、何を言ってんだと思いましたが、
とにかく妹が来るまでいてもいいと言ったのだからと訴え、そこにいることをお願いしました。
そうしたら、日曜日で空いている診察室の診察台で寝かせてくれることになりました。
薄暗い診察室の診察台で意識が朦朧としている母親と、その近くの椅子に座って妹を待っていました。
すると、そこに電話の呼び出し音が大きな音で長く響き、その時、突然、
母親が寝返りをうって診察台から床に落下してしまいました。
僕は為す術もなく、俯せのまま顔面から出血している母親を見て、
誰か来てくださいと叫びました。
さっきの女性が来て、見ていてくれると思ったのに、と、落下したことはまるで僕の所為で、
自分には責任がないと言わんばかりの勢いでした。
と、その時、ちょうど妹が到着しました。
僕は頭に血が上っていたので、妹に事態を話し、対応を任せました。
結局、そこは日曜日で対応出来る医師もおらず(入院している患者はいるのですが)、
空きのベッドもなく、再び救急車を呼び、別の病院に転院することとなりました。
ふざけたことに、さっきの女性は、休日で急患を受け入れてくれるのは、
この近くだと聖路加ぐらいしかないなどと言ってきました。
聖路加は個室しかなく、差額ベッド代だけでかなり高額になるのは、誰もが知っているのに。
妹と、もしも入院が長くなったら聖路加は厳しいと確認し、
都立墨東病院に搬送してもらおうと話していたところ、
救急隊員の方が墨東病院は混んでいるから、
墨田区の山田記念病院に行きましょうと言ってくれました。
木場病院の100倍綺麗な病院ですよと話してくれ、そちらに急患の受け入れを確認してくれました。
そして母親と妹と僕と救急車に乗り、山田記念病院に行きました。
その後、木場病院とは全く連絡もとってません。二度と行くこともないと思っています。
山田記念病院に着いて、すぐに処置室に運ばれ、
診察台から落ちた怪我の処置やレントゲンなどの検査をしている間に入院の説明を受け、
しばらく待合室で妹と話していました。
少し離れたところで暮らしている妹と話をすることなんて長い間なかったけれど、
こういう時、本当に助かると心からそう思いました。
一人だったら、素早く、的確な判断が出来たかどうかと思いました。
その日は、そのまま、入院することになりました。
次の日、休日でしたが、病院に行くと、少し状態が落ち着いた母親に会うことが出来ました。
ただ、木場病院の出来事は一切覚えてなくて、落ちた時の顔面の痛みもないということだったのです。
覚えていたのは、山田記念病院を勧めてくれた救急隊員のことでした。
あの人、いい人だよね、と。
この時は、一週間も入院すれば、良くなるかなくらいに考えていたのでした。
ところが、入院手続きに行った次の日、そこの医師に言われたのは、
心臓と腎臓の状態が悪く、糖尿病の症状も悪くなっていて、
人工透析をしなければならないかもということでした。
そして、しばらく、検査も兼ねて入院しましょうということでした。
すぐに夏期講習が始まる時だったので、そうしてくれたら、どんなに助かるかと思い、
病院にお願いすることにしました。
それから、区役所に高額療養費制度の利用と、看護師長から言われた介護認定の手続きをしました。
講習前に全ての手続きが出来て、ホッとしました。
それから、入院生活が月を超えて、8月に入ってすぐに、
結局、あの日、母親は心不全と腎不全を起こしていたということが分かり、
山田記念病院の循環器内科の医師から、心臓の手術を勧められることになりました。
けれども、心臓の手術なんてしないだろうと、そんな風に僕は考えていたし、
心臓の手術をする事と母親の死が強く結びついて、とても怖かったのです。
でもその時、妹も母親も手術に前向きな気持ちだったのです。
そして、それからすぐに、手術をする病院を選んで欲しいと医師から言われることになったのです。
その医師は、本郷の東大病院から来ていた医師だったのですが、
順天堂大学病院、三井記念病院、墨東病院、東大病院の中から選んで下さいという感じになりました。
順天堂は、幼い頃、妹と僕の命を救ってくれた病院でした。
二人とも、別々ですが、交通事故に遭い、順天堂の脳外科に入院し、手術をしたのでした。
そして、順天堂には、陛下の心臓バイパス手術をした心臓外科の医師がいるのです。
でも、東大病院は、陛下のその手術をした病院でもあり、戦前生まれの母親にとってみたら、
東大という権威や陛下の入院した病院というのは、
それだけで、そこにする理由だろうとそう思っていました。
ただ本当にそれでいいのかなと思った僕は、
ちょうどその頃会う機会があった高校時代の友人の奥様が薬剤師であることを思い出し、
相談することにしました。医師や看護師の友人もいますが、生々しい話になりそうだったので、
少し距離のある人に聞いてみようと思ったのです。相談したところ、退院後の通院のこと、
入院中に僕や妹が病院に行くことなど諸々のことを考えなければならいと教えてもらい、
母親も希望しているだろう東大病院にお願いすることにしました。
それが8月も終わりに近づいた頃でした。
東大病院からは、ベッドが空き次第すぐに入院して下さいとのことでした。
そして、それが9月2日に決まったのは、本当にすぐのことでした。
僕は、転院のための介護タクシーの手配、入院に必要な物の準備をしました。
しかし、初めて買った母親の寝巻きも下着もサイズが分からず、
結局、交換しなければならないことになり、男はつくづくダメだなと実感しました。
9月2日金曜日
午前10時までに、東大病院に来てくれと言われていたので、山田記念病院に8時過ぎに行き、
入院費の精算をし、慌ただしく病院の方々にお礼を言って、
頼んでおいた介護タクシーで東大病院に向かいました。
そこで、母親と、7月のあの日は最悪だったけれども、いい病院を紹介してもらえて、
前向きな手術をすることになって、本当に良かったねと、話しました。
病院に着いて、あらかじめ聞いていた手順通りに病棟に行き、入院の手続きをしました。
そこで、ご挨拶した看護師長も頼りがいのある、聡明な方であることは一目見て分かりました。
最初に差額ベッド代がかからないようにとお願いしていたので、
初日だけは、2人部屋で差額ベッド代がかかりましたが、
二日目からは、4人部屋に移していただけることになりました。
山田記念病院でも、差額ベッド代がかからないようにしていただいたので、本当に助かりました。
もしも、聖路加に入院していたら、差額ベッド代だけで何百万円もかかっていたと思うと、
お金と命は比べようがありませんが、何だか切ない気持ちになりました。
東大病院では、だいたい二週間の検査入院の後、手術をするということでしたが、
母親の心臓の状態は実際にはかなり悪く進行していたみたいで、
入院してすぐに除細動を行う処置をしなければならなかったのです。
そして、9月の中旬に循環器内科の担当の医師から、手術について説明を受けることになりました。
その日の話では、術中に死亡するリスクが20%弱あり、
これは非常にリスクのある手術であるということ、
そして、手術をしても、40%弱は回復しないかもしれないということ、
でも、入院前は、自分で色々なことをして生活していたのだから、
手術をしてその状態に戻すことが本人のためになるということ、
手術をしなければどうにもならないということ、そんな話をして、
心臓外科のチームが最善のことをしてくれるという言葉を信じて、全てを任せる決心をしました。
手術が近づくと、まず、虫歯菌による合併症を防ぐため虫歯を全て抜くということで、
7本も抜くことになりました。抜歯後は食事がし辛いということでしたが、
それでも、一生懸命に食べる姿を何度か目にしました。
そして、10月14日が手術日と決まったのは、9月の終わりでした。
今は亡き父親は東京タワーの見える病室に入院し、
母親はスカイツリーの見える病室に入院しました。
10月11日火曜日
手術にあたって、執刀医からの説明を受けました。
母親と妹と3人、医師4名、看護師1名同席の面談室にて。
僧帽弁と大動脈弁を人工弁に取替え、左心耳の閉鎖、メイズ手術を行うということ。
執刀医は心臓外科教授、陛下の手術チームの一人です。
明快な説明と安心感を与える話の内容と話し方に、僕より少し年長だと思われますが、
頼もしさを感じ、ほとんど不安を感じることなく終了しました。
この病院のスタッフは、まさにプロの集団だと実感しました。
それでいて、明るくて、責任感のある立ち居振る舞い、僕も見習わなければならないと思います。
10月14日金曜日
午前7時30分、病室に行くと、すでに妹が来ていました。
11日の説明通りに物事が進んでいきました。
12階の病棟から、手術室の4階に移動、手術後はICUに、回復後は5階の病棟に移動するため、
一旦病室の荷物をまとめ、院内のコインロッカーに預けることに。
午前8時過ぎ、看護師、医師とともに、手術室の前まで一緒に移動、
ドラマにあるような場面はなく、母親は手術室に。垣間見た手術室の周辺は、
ドラマのワンシーンのように慌ただしく準備をするスタッッフが大勢いました。
予定では10時に手術が始まり、6時間かかるということでした。
妹と術後のICUの面会などの説明を受け、僕は仕事のため14時過ぎに病院を出て、
妹からの連絡を待ちました。16時過ぎに、妹から、一応手術は終わって、
17時過ぎに母親に会えると連絡があり、
その後、麻酔から覚めてないが、母親が自分の心臓で生きてると連絡をもらいました。
ホッとしました。なんていうか、本当にホッとしました。
そして、次の日、土曜日に妹が面会に行き、母親の状態を知らせてくれました。
全身、すごいことになってると。
そして、日曜日、面会に行きました。すごいことになっている母親を見て、
ああ、生きているんだと、ちゃんと生きてるだと分かりました。
ただ、僕がマスクをしていたせいか、あなた誰?と言われました。
まだ、意識が正常に戻ってないと、看護師に言われました。
この前日は家に帰ると、暴れたそうで、暴れるくらい元気なんだと、
何だか嬉しくなりました。
ICUはまさにドラマのセットのようで、でも、そこは現実でした。
明るく清潔な部屋と、明るく元気なスタッフのいる部屋に、
改めて、安心して帰って来ることが出来ました。
ここに至るまで、何人か友人に相談したり、話を聞いてもらったり、
本当に、有り難かったです。でも、全ての友人に話すことは出来ませんでした。
だからと言って、友人であることに何ら変わりはありません。
今のところ、大きく頼らずに済んでいますが、頼れるかもしれないと、
こちらが勝手に思っている友人がいるだけで、心強いものだと、思っています。
まだまだ、安心出来ませんし、退院したら、要介護度4の母親と暮らすことは、
並大抵のことではないと思っていますが、
とりあえず、一つ大きな山を越えたのかなと、今はそう思っています。
9月に長野で省吾の歌を聴いて、勇気をもらった気がします。
10月もさいたまで、11月も横浜で、12月も再びさいたまで、
今年はたくさん勇気をもらって、頑張っていきたいと思っています。
夏の終わりに
今年は8月に入ってすぐに、夏風邪らしい状態になってしまい、
本当に辛かったです。
それでも、休むことなく、最後まで出来ました。
盆休みの5日間で体調が戻るかと思っていましたが、
全く良くならず、休みの初日にでも病院に行けばよかったかなと、
少し後悔しました。
原因は分かっているのです。
教室のエアコンなのです。
生徒と僕の体感温度が違うので、
僕はTシャツに長袖のシャツを着ていたのですが、
それでも、体が冷えてしまったのです。
それともう一つは、講習前に体脂肪が11%くらいに落ちて、
体重も減ってしまい、体力が落ちていたのでしょう。
未だ、その状態が続いているので、何とかしなければ・・・です。
何年も続けている片道15kmの自転車通勤のおかげで、
少し身体が強くなっていたから、乗り切れたのでしょう。
もちろん体調を崩してからは、2週間以上電車で通勤しましたが・・・
今年は安保関連法案絡みで、本当に平和について話すことが多かった講習でした。
学校が夏休みの8月は、この国にとって、大事な出来事がたくさんあるのです。
もちろん平和というものは、一人一人が向き合い、
そして、家族できちんと考え、話し合えばいいのですが、
果たして、そういうことが出来ている子供たちはどれくらいいるのでしょうか。
平和を考える日は他にもありますが、特に8月は大切だと感じます。
その8月に長い休みを取ることも必要だと思いますが、
6日から15日の10日間のうち、何日かは学校があってもいいのではないかと、
そんな風に思いました。
盆休みに、恒例になっている大学の先輩、後輩、同期の集まりがありました。
体調も悪く、ずっと頭が痛い状態だったのですが、行って良かったです。
久しぶりに会った同期は、僕の体調を気にかけてくれ、
何も言わずに肩を揉んでくれました。
「ああ、こんな風に自分を心配してくれる人がいるんだ。」
と、感慨深くなりました。
皆が各々の人生を歩んでいるのですが、
こうして集まると一瞬にして、あの頃の関係に戻れるなんて、
いい仲間に恵まれていると感じずにはいられません。
と、こんな感じで書き始めた日記なのですが、
書き始めてから、もう1週間も経ってしまい、
待ちに待った、ライブまであと2週間になりました。
songsの出演も決まり、
年明けのチャリティーコンサートも決まり、
(チケットが取れるかどうか分かりませんが・・・)
色々楽しみなこともあるので、
何とか、頑張っていきたいと思います。
ポンコツだらけ
パネラーはポンコツだらけ。
首相の戦後70年談話についての議論だそうですが、
議題自体が薄っぺらい内容なので、
いつも以上に意味のない議論が繰り広げられることでしょう。
では何故、この談話にしても、どんな話にしても、
彼の言葉が心に響かないのか、
それは人を馬鹿にしているとしか思えないくらい中身が薄いからで、
こんな内容で国内外に対して、理解を得られることはありません。
もう一度、小学校から学び直したほうがいいのではないでしょうか?
青空
笑っている奴がいるよ
隠しているその手を見せてみろよ
THE BLUE HEARTS 「青空」
こんな法案が成立していいのでしょうか?
人の悪口を言うことは、自分の品格を下げることになるのですが、
安倍晋三、お前は本当に馬鹿だ。
自分の欲のために、国民を巻き込むな。
こんな奴を選んだ国民も馬鹿だ。
ああ、情けない・・・
素晴らしすぎて
この何日かの自民党の出来事です。
自分たちに都合の悪いことを言う人たちを消してしまおうなんて、
ナチスがやっていたことと同じですね。
こんなに素晴らしい人たちを国会に送り込んだ自民党の支持者の方々も
きっと素晴らしい人たちなんですね。
僕のような人間は日本から早く居なくなって欲しいのでしょうが、
まだやることがあるんですよ。
もっとも僕のような人間は、誰にも相手にされてませんけどね。
この人たちも消してしまおうと考えていらっしゃるのでしょうか?
いつの間にか、日本は素晴らしい国になったのですね。
一年に一度の自分自身の反省会
ここ3年出席していますが、Facebookのおかげで、
年々同期の出席者も増え、楽しみになってきました。
20~30代の頃は、仕事が休めずなかなか参加出来ませんでしたが、
今は多少融通が利くのでなるべくこういう会には出席しようと思っています。
2年前の日記にも書きましたが、
→こちら
本当に優秀な同期が多く、
今回もつくづくあの頃の自分のダメさ加減を思い知らされました。
↑この塀を飛び降りて学校から脱走していました。
でも、どんなに立派になっても、偉ぶること無く、
あの頃と同じように接することが出来る友人がいることに感謝です。
総会の中で、現教頭が現在の学校の近況を知らせてくれましたが、
僕たちが学んでいた頃とは違い、進んだ教育を取り入れていました。
知識を詰め込み、それを磨くというより、どれだけ知恵を出せるかというような、
そんな教育プログラムが組み込まれているようです。
しかし、知恵を出すにも知識は必要なので、おそらくそれ相当の学習を、
入学前、つまり小学生のときにしなければならないとも感じました。
総会後に新大久保の居酒屋で、旧交を温めましたが、
5時間くらい長々と話し込んでしまいました。
稼ぎ頭の一人が多めに払ってくれたので、一人3000円でした。
店を出たのが23時過ぎでしたが、街の明るさに驚きました。
Oh!これから半日は退屈な授業で費やすだけで
身も心も疲れ果て 魂さえもknock knock down
こっそり抜け出し 小さなコーヒーショップのsmoking time
ジュークボックスにいかしたRock'n Roll
おいらに聞かせてほしいのさ
ちょっと!こんなラッシュアワーに死ぬまでもまれたくないよ
何がどうして誰のために縛られなくちゃならないの
逃れられない流れの中で 必死にあがいてる俺が見えるよ
↑尾崎豊のハイスクールRock'n Rollの歌詞のような、
こんな毎日を本当に過ごしていましたが、
あの頃、大人に反発するだけでなく、
もっともっと広い視野で考えたり、勉強したり、
そんな時間を持つべきだったな、などと、
今更ながら感じています。
きっと来年も反省することになるでしょうが、
少しずつでも前に進むように生きていきたいと思います。
明日なき世界
でも 本当のことは曲げられやしねえ
政治家は いつもゴマカシばかり
法律で 真実は隠せやしねえ
そりゃ デモをするだけで平和がくるなんて
甘い夢など 見ちゃいねえさ
performed by RCサクセション in 1988
見たくもなかったけれど、見なければと思って見た国会中継のニュース、
あの総理、品性もなく、知性のかけらも感じられません。
あんな男が国の代表なんて、本当に恥ずかしい。
こんな国からは逃げるに限る
守るべき人がいなければ・・・
廃炉への道
言い切りましたが、本当にその通りで、
国営放送のスペシャルの中で、廃炉処理に40年かかると放送していましたが、
番組を見た限りでは、途方もない道のりに思えてなりませんでした。
これこそ、国が一丸となって取り組むべきことで、
戦争準備に向かっている場合でもなく、
米国のために沖縄の基地を整備している場合でもありません。
一億人が知恵を出し合って、より良い方法を早く見つけることが
最優先すべきことだと思います。
憲法改正絡みの安保法整備についても、
あの首相が話している姿を見るとストレスになるので、
なるべく見ないように、内容を知ろうとしていますが、
国会の答弁もいい加減で、何がしたいのか、
どこに向かっているのか、全く分かりません。
何ていうか、信念が感じられないのです。
川内原発が再稼働するような雰囲気ですが、
九電が後悔するような事態にならないことをただ願うばかりです。
もちろん、それはその地域で生活している方々の無事を願うという意味です。
信念なき行動からは、何も生まれません。
ただ他人に迷惑をかけるだけです。
それにしても、こんな人たちを支持している国民が大勢いるんだと思うと、
人の考えって、様々で、何が正しいのか、分からなくなります。
正義は個人個人の中にあるのでしょうが、
果たしてこの方向でいいのかと思います。
何年後かには、これが正しいのか、間違っていたのか、分かるのでしょうが、
過去の過ちを認めない人たちの行動が正しいとは思えないのです。