個人的なこと
2016年7月17日日曜日
7月に入ってから熱中症のような症状で体調を崩していた母親が救急車を呼びました。
何度も何度も何度も病院に行くことを勧めていた妹や僕の意見を聞き入れずに、
半月ほど苦しんだ末に母親自ら119番通報をしたのです。
親子というのは素直にお互いの意見を聞かないこともありますが、
この時ばかりは本当に困ったことになったと思いました。
仕事から帰ってきて、母親が死んでいたらと思うことが何度もありました。
妹にも何度も相談しましたが、何故か頑なに病院に行くことを拒んでいたのでした。
救急隊員に入院させたい旨を伝え、とりあえず掛かりつけの木場病院に搬送してもらいました。
ところが、日曜日ということもあり、点滴を一本打っただけで、自宅に帰ってくれと言われたのです。
僕はトイレにも一人で行けないような状態の母親を連れて帰ることは出来ないと考え、
病院に向かっている妹を待ちたいと伝えました。
そうして、病院のロビーのソファで横になっていました。
すると、看護師だか受付だか分かりませんが、待っていてもいいと言ってくれた女性が、
(母親が)辛そうだから、早く自宅に連れて帰ってくれと言ってきました。
辛いから病院に来ているのに、何を言ってんだと思いましたが、
とにかく妹が来るまでいてもいいと言ったのだからと訴え、そこにいることをお願いしました。
そうしたら、日曜日で空いている診察室の診察台で寝かせてくれることになりました。
薄暗い診察室の診察台で意識が朦朧としている母親と、その近くの椅子に座って妹を待っていました。
すると、そこに電話の呼び出し音が大きな音で長く響き、その時、突然、
母親が寝返りをうって診察台から床に落下してしまいました。
僕は為す術もなく、俯せのまま顔面から出血している母親を見て、
誰か来てくださいと叫びました。
さっきの女性が来て、見ていてくれると思ったのに、と、落下したことはまるで僕の所為で、
自分には責任がないと言わんばかりの勢いでした。
と、その時、ちょうど妹が到着しました。
僕は頭に血が上っていたので、妹に事態を話し、対応を任せました。
結局、そこは日曜日で対応出来る医師もおらず(入院している患者はいるのですが)、
空きのベッドもなく、再び救急車を呼び、別の病院に転院することとなりました。
ふざけたことに、さっきの女性は、休日で急患を受け入れてくれるのは、
この近くだと聖路加ぐらいしかないなどと言ってきました。
聖路加は個室しかなく、差額ベッド代だけでかなり高額になるのは、誰もが知っているのに。
妹と、もしも入院が長くなったら聖路加は厳しいと確認し、
都立墨東病院に搬送してもらおうと話していたところ、
救急隊員の方が墨東病院は混んでいるから、
墨田区の山田記念病院に行きましょうと言ってくれました。
木場病院の100倍綺麗な病院ですよと話してくれ、そちらに急患の受け入れを確認してくれました。
そして母親と妹と僕と救急車に乗り、山田記念病院に行きました。
その後、木場病院とは全く連絡もとってません。二度と行くこともないと思っています。
山田記念病院に着いて、すぐに処置室に運ばれ、
診察台から落ちた怪我の処置やレントゲンなどの検査をしている間に入院の説明を受け、
しばらく待合室で妹と話していました。
少し離れたところで暮らしている妹と話をすることなんて長い間なかったけれど、
こういう時、本当に助かると心からそう思いました。
一人だったら、素早く、的確な判断が出来たかどうかと思いました。
その日は、そのまま、入院することになりました。
次の日、休日でしたが、病院に行くと、少し状態が落ち着いた母親に会うことが出来ました。
ただ、木場病院の出来事は一切覚えてなくて、落ちた時の顔面の痛みもないということだったのです。
覚えていたのは、山田記念病院を勧めてくれた救急隊員のことでした。
あの人、いい人だよね、と。
この時は、一週間も入院すれば、良くなるかなくらいに考えていたのでした。
ところが、入院手続きに行った次の日、そこの医師に言われたのは、
心臓と腎臓の状態が悪く、糖尿病の症状も悪くなっていて、
人工透析をしなければならないかもということでした。
そして、しばらく、検査も兼ねて入院しましょうということでした。
すぐに夏期講習が始まる時だったので、そうしてくれたら、どんなに助かるかと思い、
病院にお願いすることにしました。
それから、区役所に高額療養費制度の利用と、看護師長から言われた介護認定の手続きをしました。
講習前に全ての手続きが出来て、ホッとしました。
それから、入院生活が月を超えて、8月に入ってすぐに、
結局、あの日、母親は心不全と腎不全を起こしていたということが分かり、
山田記念病院の循環器内科の医師から、心臓の手術を勧められることになりました。
けれども、心臓の手術なんてしないだろうと、そんな風に僕は考えていたし、
心臓の手術をする事と母親の死が強く結びついて、とても怖かったのです。
でもその時、妹も母親も手術に前向きな気持ちだったのです。
そして、それからすぐに、手術をする病院を選んで欲しいと医師から言われることになったのです。
その医師は、本郷の東大病院から来ていた医師だったのですが、
順天堂大学病院、三井記念病院、墨東病院、東大病院の中から選んで下さいという感じになりました。
順天堂は、幼い頃、妹と僕の命を救ってくれた病院でした。
二人とも、別々ですが、交通事故に遭い、順天堂の脳外科に入院し、手術をしたのでした。
そして、順天堂には、陛下の心臓バイパス手術をした心臓外科の医師がいるのです。
でも、東大病院は、陛下のその手術をした病院でもあり、戦前生まれの母親にとってみたら、
東大という権威や陛下の入院した病院というのは、
それだけで、そこにする理由だろうとそう思っていました。
ただ本当にそれでいいのかなと思った僕は、
ちょうどその頃会う機会があった高校時代の友人の奥様が薬剤師であることを思い出し、
相談することにしました。医師や看護師の友人もいますが、生々しい話になりそうだったので、
少し距離のある人に聞いてみようと思ったのです。相談したところ、退院後の通院のこと、
入院中に僕や妹が病院に行くことなど諸々のことを考えなければならいと教えてもらい、
母親も希望しているだろう東大病院にお願いすることにしました。
それが8月も終わりに近づいた頃でした。
東大病院からは、ベッドが空き次第すぐに入院して下さいとのことでした。
そして、それが9月2日に決まったのは、本当にすぐのことでした。
僕は、転院のための介護タクシーの手配、入院に必要な物の準備をしました。
しかし、初めて買った母親の寝巻きも下着もサイズが分からず、
結局、交換しなければならないことになり、男はつくづくダメだなと実感しました。
9月2日金曜日
午前10時までに、東大病院に来てくれと言われていたので、山田記念病院に8時過ぎに行き、
入院費の精算をし、慌ただしく病院の方々にお礼を言って、
頼んでおいた介護タクシーで東大病院に向かいました。
そこで、母親と、7月のあの日は最悪だったけれども、いい病院を紹介してもらえて、
前向きな手術をすることになって、本当に良かったねと、話しました。
病院に着いて、あらかじめ聞いていた手順通りに病棟に行き、入院の手続きをしました。
そこで、ご挨拶した看護師長も頼りがいのある、聡明な方であることは一目見て分かりました。
最初に差額ベッド代がかからないようにとお願いしていたので、
初日だけは、2人部屋で差額ベッド代がかかりましたが、
二日目からは、4人部屋に移していただけることになりました。
山田記念病院でも、差額ベッド代がかからないようにしていただいたので、本当に助かりました。
もしも、聖路加に入院していたら、差額ベッド代だけで何百万円もかかっていたと思うと、
お金と命は比べようがありませんが、何だか切ない気持ちになりました。
東大病院では、だいたい二週間の検査入院の後、手術をするということでしたが、
母親の心臓の状態は実際にはかなり悪く進行していたみたいで、
入院してすぐに除細動を行う処置をしなければならなかったのです。
そして、9月の中旬に循環器内科の担当の医師から、手術について説明を受けることになりました。
その日の話では、術中に死亡するリスクが20%弱あり、
これは非常にリスクのある手術であるということ、
そして、手術をしても、40%弱は回復しないかもしれないということ、
でも、入院前は、自分で色々なことをして生活していたのだから、
手術をしてその状態に戻すことが本人のためになるということ、
手術をしなければどうにもならないということ、そんな話をして、
心臓外科のチームが最善のことをしてくれるという言葉を信じて、全てを任せる決心をしました。
手術が近づくと、まず、虫歯菌による合併症を防ぐため虫歯を全て抜くということで、
7本も抜くことになりました。抜歯後は食事がし辛いということでしたが、
それでも、一生懸命に食べる姿を何度か目にしました。
そして、10月14日が手術日と決まったのは、9月の終わりでした。
今は亡き父親は東京タワーの見える病室に入院し、
母親はスカイツリーの見える病室に入院しました。
10月11日火曜日
手術にあたって、執刀医からの説明を受けました。
母親と妹と3人、医師4名、看護師1名同席の面談室にて。
僧帽弁と大動脈弁を人工弁に取替え、左心耳の閉鎖、メイズ手術を行うということ。
執刀医は心臓外科教授、陛下の手術チームの一人です。
明快な説明と安心感を与える話の内容と話し方に、僕より少し年長だと思われますが、
頼もしさを感じ、ほとんど不安を感じることなく終了しました。
この病院のスタッフは、まさにプロの集団だと実感しました。
それでいて、明るくて、責任感のある立ち居振る舞い、僕も見習わなければならないと思います。
10月14日金曜日
午前7時30分、病室に行くと、すでに妹が来ていました。
11日の説明通りに物事が進んでいきました。
12階の病棟から、手術室の4階に移動、手術後はICUに、回復後は5階の病棟に移動するため、
一旦病室の荷物をまとめ、院内のコインロッカーに預けることに。
午前8時過ぎ、看護師、医師とともに、手術室の前まで一緒に移動、
ドラマにあるような場面はなく、母親は手術室に。垣間見た手術室の周辺は、
ドラマのワンシーンのように慌ただしく準備をするスタッッフが大勢いました。
予定では10時に手術が始まり、6時間かかるということでした。
妹と術後のICUの面会などの説明を受け、僕は仕事のため14時過ぎに病院を出て、
妹からの連絡を待ちました。16時過ぎに、妹から、一応手術は終わって、
17時過ぎに母親に会えると連絡があり、
その後、麻酔から覚めてないが、母親が自分の心臓で生きてると連絡をもらいました。
ホッとしました。なんていうか、本当にホッとしました。
そして、次の日、土曜日に妹が面会に行き、母親の状態を知らせてくれました。
全身、すごいことになってると。
そして、日曜日、面会に行きました。すごいことになっている母親を見て、
ああ、生きているんだと、ちゃんと生きてるだと分かりました。
ただ、僕がマスクをしていたせいか、あなた誰?と言われました。
まだ、意識が正常に戻ってないと、看護師に言われました。
この前日は家に帰ると、暴れたそうで、暴れるくらい元気なんだと、
何だか嬉しくなりました。
ICUはまさにドラマのセットのようで、でも、そこは現実でした。
明るく清潔な部屋と、明るく元気なスタッフのいる部屋に、
改めて、安心して帰って来ることが出来ました。
ここに至るまで、何人か友人に相談したり、話を聞いてもらったり、
本当に、有り難かったです。でも、全ての友人に話すことは出来ませんでした。
だからと言って、友人であることに何ら変わりはありません。
今のところ、大きく頼らずに済んでいますが、頼れるかもしれないと、
こちらが勝手に思っている友人がいるだけで、心強いものだと、思っています。
まだまだ、安心出来ませんし、退院したら、要介護度4の母親と暮らすことは、
並大抵のことではないと思っていますが、
とりあえず、一つ大きな山を越えたのかなと、今はそう思っています。
9月に長野で省吾の歌を聴いて、勇気をもらった気がします。
10月もさいたまで、11月も横浜で、12月も再びさいたまで、
今年はたくさん勇気をもらって、頑張っていきたいと思っています。