6/16(日)

 

店員の姿が見えないオートメーション化された横浜郊外の自遊空間の寒々しい空虚感には、妙な感慨があった。お金がない、とはこういうことなのだ。ネットカフェに泊まるような人間は、このこぎれいに整理整頓された孤独な空間に何も感じなくならなくてはならないのだ。今まで目撃した最もウエルベック的な光景かもしれない…これだったら、そこかしこにアダルトグッズの広告が貼ってある個室ビデオの方が、店員も(風俗店あがりだから)親切だし、まだ心が安らぐ。

 

10:00放送ライブラリーへ。阿久悠原作、野沢尚脚本の88年単発ドラマ「喝采」観る。18年前に大ヒット曲を出してから鳴かず飛ばずの演歌歌手に桃井かおりが扮する。彼女に私生活を投げうってつかえるマネージャーが小林桂樹なのだが、実は彼は中学時代の桃井かおりに教えていた理科教師。放課後の理科室で彼女の処女を散らしてしまった罪悪感から20年近く彼女に奴隷のように尽くしていたのだ!小林桂樹が売れっ子作詞家に新曲を書いてもらうためにとりつかれたように追い回す描写が鬼気迫る。

野沢尚脚本×鶴橋康夫演出のドラマはやはりできる限り追わなければならない…と思わせるに足る傑作。

 

 

お昼休憩はさんで、山田太一脚本の74年「真夜中のあいさつ」観る。

 

せんだみつおが恋に悩む純情な飛行機整備技師の青年に扮し、彼の恋の進展が深夜のラジオ放送で毎週報告されることによってリスナーたちの人気を得るが、せんだのあこがれの女性(あべ静江)はその事実に自分が馬鹿にされたように思い、傷つき去っていく…。

クライマックス、あべ静江が急遽ラジオマイクに自分の意志で話すときの声に漲る切実なリアリティに息をのんだ。セリフ的には孤独な人々をつなぐ「ラジオ」というメディアについて話しているのだが、もしかしたら彼女は自分が今は始めたばかりの「歌」や「アイドル」という仕事について、私事として引き付けて想い、語っていたのではないかとも思う。今まで中古レコードのシングル盤でよく見かける綺麗な人、以上の興味がなかったあべ静江という人に初めて親近感を持った。まあ、考えてみたら『トラック野郎 爆走一番星』とか『冒険者カミカゼ』とか出演作は見ていたはずなのだが。少なくとも、これほど等身大の女性として真正面から魅力的に撮られた作品はないように思われる。

 

終わって、東横線から渋谷に出て、神保町。猫の本棚に行く。樋口尚文さんにお会いしたら、「野沢尚「この愛に生きて」のシナリオの全話って、どうやったら読めるかご存じではないですか」ときこうとおもっていたのだが、いらっしゃらず。残念。藤井淑禎「90年代テレビドラマ講義」を買って出る。

 

矢口書店で北川悦吏子「素顔のままで」のシナリオが数話収録された「ドラマ 92年7月号」、野沢尚と鶴橋康夫の対談収録「ドラマ 99年7月号」、野沢尚「親愛なる者へ」シナリオ集(今では考えられない凝った作りで、90年代ミニシアターパンフデザインのセンスの延長線上にある)を購入。ヴィンテージで金子修介「咬みつきたい」パンフ(成美さんの素晴らしいスチールが掲載されている…これは買ってよかった)。神保町シアターに今度の「90年代邦画特集」のパンフをもらいに行く。『ラストソング』がスクリーンで見られる日までへこたれてはならない…。神保町シアター前のエロ本屋で野沢尚『私たちが好きだったこと』所収の「シナリオ 97年10月号」を220円で見つける。サンクルカフェで「素顔のままで」シナリオ読みながら寝る。

お茶の水のユニオンへ。山本俊輔 佐藤洋笑「永遠なる「傷だらけの天使」」、藤木TDC「醜聞聖書」購入。

 

20時過ぎ、ゴールデン街西瓜糖に行く。上條さん、途中から来た児玉くん、中山くんと飲む。「もうほとんど映画に興味が持てない」「こんなに大衆的な文化(テレビドラマ)を探求しているのに、どんどん孤独になっていく気がするのはどうしてなんだろう…」と愚痴ってしまう。

中山くんに連れられ、草野さんの働くビリーに行く。インスタでつながっている草野さんが気を利かせて「安田成美」というフレーズを振ってくれたのが運の尽きで、上條さんの店ではセーブできていた想いが溢れて涙声になってしまう。もう真人間には戻れないのだろう。人並みの幸せなんか、もう僕にはないんだと宣言。そんな宣言されてもみんな困っただろうけど。

 

歌舞伎町の金太郎に泊まる。

 

6/15(土)

 

早朝起きて6:50発佐久インター南のバスに乗る。バスの中で今野勉ほか「お前はただの現在にすぎない」読みながら爆睡。

約三時間後練馬で降りて西武池袋線経由で東横線に乗ってそのまま横浜の放送ライブラリーへ。所定の時間内に効率よくみられるように、事前に手帳に書き込んでいたコードを打ち込んで、「並木家の人々」第一話を見る。冒頭からやや風邪気味の成美さんが「お兄ちゃん、今度のお見合いよそうと思うの」とぶつぶつつぶやきながら歩くところから引き込まれる。当然だが、シナリオ集で読んで想像していた何倍も成美さんがいい。ニッキー・ホプキンスの音楽のダサさにはびっくりしたけど…。でもサントラもほしい。

続いて、これも現在ではここ以外で見るチャンスのない「ヴァンサンカン・結婚」第一話見る。冒頭、小林稔侍の胸に顔を埋めて甘え、別れ話を切り出されて泣く成美さんという、あんま見たくなかった感じの画から始まる。91年の作品だが、2年前の「同・級・生」と同じく菊池桃子と共演。しかも菊池桃子が心底いやな女の役で、高校時代以来久々に再会した成美さんを貶めるためにグイグイ食い込んでくる(安田成美さんの役名が「朝子」なのだが、その飼い猫の名前が「ヨル」だときいて「バッカみたーい」とあざ笑う)。一話を見た限りだと、演出はあまりケレン味のない代わりに洗練されてもおらず、二年前の「同・級・生」より古いドラマにも見えなくもない(ただ、成美さんが胃カメラを呑まされるシーンの、奇妙なエロティシズムは忘れ難い)。一話のラスト、出会って数回でいきなりプロポーズした石黒賢と成美さんがどうなるかは正直そんなに気にはならないが、これだって全話見たいに決まってる。今の私にとって、どんな安田成美さんのイマージュも重要だから。

「愛していると言ってくれ」で、「あなたの描いた絵は、私にとってはどれも大事なの」と豊川悦司に涙ながらに訴える常盤貴子の気持ちが今すごくよくわかる。

 

放送ライブラリーを一回出て、駅中のローソンで昼食買ってベンチで食べる。少し歩けば中華街もあるのに、天気だっていいのに、僕は4時間もかけて横浜まで来て、ただモニターの前に座ってる…。

 

ライブラリーに戻って、山田太一ドラマ「兄弟」「三人家族」の第一話をそれぞれ見る。

そのあと、76年の東芝日曜劇場「なつかしき海の歌」観る。

 

↑この四人がこんなに仲良く並ぶ画は本編には一瞬もありません…。

 

全身全霊を賭けて駆けずり回る加山雄三の叫びと、それでも救うことが出来なかった、薄暗いスナックの片隅のテレビを見つめる浅田美代子のらんらんとした瞳の輝きに打ちのめされる。

山田太一先生がすごいことは前から重々知ってはいたのだが、そんな人間でも「いくら何でもこんなに凄いのかよ」と動揺させられる。「高原へいらっしゃい」や向田邦子「家族熱」も手掛けた福田新一の演出も本当に無駄がなく素晴らしい。CMを抜かしたランニングタイムは75分ほどに過ぎない。なのに、これほど、深く、やるせなく、しかも重層的に人間を描くことは可能なのだ。人はそのことに驚いたり、希望をもったり、あるいは絶望したりもっともっとするべきなんだと思う。

 

ふらふらになりながら、渋谷へ。イメージフォーラムで発券する。いつも行ってたエクセルシオールが混んでて入れず。しかたなく青山ブックセンターで時間をつぶす。

 

18:30イメフォで『極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU』。上映直前に、僕のすぐ近くの席に哀川翔が普通に座ったんでびっくりする。映画を観ながら、Vシネで調子に乗っているときの哀川翔特有の「ヒャヒャヒャ」みたいな笑い声がたまに実際に本人が座ってるところから漏れ聞こえてくるから、もうそれだけで感無量。映画自体は初見。想像していたような何でもありのキワモノでは全然なく、今となっては格調すら感じさせる素晴らしい不条理劇。これほど切れ目なく濃厚な映画の画面が連続する作品が、本当にビデオスルーでよかったのか、というか本当にビデオで見ただけで価値がわかるものだったのか。スクリーンで一回しか見てない僕にはよくわからない。

 

「なつかしき海の歌」はたぶんテレビにしか出来なかった表現の極点であり、『極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU』は映画にしか出来なかった表現の(あくまでひとつの、だけど)極点なのだと思う。この二つにこの日出会えて、良かった。

 

終わって、また東横線で横浜方面に向かう。明日も朝から放送ライブラリーに行くため、適当なネットカフェを見つけて(どこだったか思い出せない)泊まる。

 

 

 

 

 

 

6/10(月)


「青い鳥」「素晴らしきかな人生」を続けてみた後、DVDで小原宏裕『トロピカル・ミステリー 青春共和国』観る。小原宏裕はロマンポルノの中でもたまに忘れ難い女性像を提出してくれる作家なので、その彼が成美さんの映画デビュー作を撮っているという事実に否が応でも期待してしまったのだけれど…。早々と期待は雲散霧消したので、あとは成美さんが水着姿になったり、宍戸錠と対決したり健気に頑張ってる姿を応援する。何かもう保護者みたいな気分。

この辺りから、既に成美さんと映画というメディアとの間にはミスマッチングが生まれていると思う。薬師丸ひろ子には『セーラー服と機関銃』が、原田知世には『時をかける少女』があったのに、わずか数年遅れた安田成美さんにその才能と魅力に見合う特権的なイメージを与えられる力を既に日本映画は持っていなかったのだと思う。

6/6(木)

 

出勤前にK-plusで借りたVHSでラン・ナイチョイ『孔雀王』観る。普通にすごい面白いが、安田成美史観で観るでとりたてて言うべきことはなく…途中で話と関係なくなっちゃうし。三上博史と惹かれ合う展開も少年漫画的ご都合主義を出ない。まあでも、『ZIPPANG』鉄砲のお銀役と同じく、こういうシャキシャキした役を演じているときの成美さんのハリウッド女優的な所作も嫌いではない。

 

6/7(金)

 

ユーネクストで野沢尚「青い鳥」、FODで野沢尚「素晴らしきかな人生」を並行して観ながら、池端俊作「並木家の人々」シナリオを読む。全話観ることはほとんど叶わないが(放送ライブラリーで一話のみ視聴可能)、成美さん演じる花さんの言葉が、所作が、生き生きと文字を通して脳内に再生される悦び。

しかし、もう観ることの叶わない連ドラのシナリオを毎日読んで、キャスト表と照らし合わせて「見た気になる」という行為は本当に儚い。これが戦前の失われた小津安二郎作品のシナリオだったりするならともかく、30年前に普通に全国放映されていたフジテレビドラマだったりするのである。なんというつつましい芸術鑑賞の態度だろう。

 

6/8(土)

 

朝から「青い鳥」と「素晴らしきかな人生」を続けて観る。前者の田舎で囚われの身になっている夏川結衣の石井隆ヒロイン的な面影の絶妙な幸薄感にヤラレル。こんな大人のいい女が、テレビで観られなくなってどれくらい経つだろう。トヨエツの『愛していると言ってくれ』に続く、全身全霊の好演も素晴らしい。

野沢さん「夫婦」三部作二作目の「素晴らしきかな」は、演出が光野道夫のやりすぎノリノリ演出に代わって、ひたすら軽快。前作「親愛なる者へ』と180度違う、佐藤浩市の西田敏行的なC調的演技も今まで見たことなかったから新鮮だったし、これがデビューのともさかりえの初々しさも大変いいのだが、なんと言っても織田裕二。その顔や表情が醸し出す独特の異物感をここまで作品全体にいきわたらせた映像作品はないように思われる。このドラマ撮影直前に出演した映画『卒業旅行 ニホンから来ました』の撮影現場で見せた数々の奇行と態度の悪さは、当時「月刊シナリオ」で金子修介監督に暴露されていたが(最近読んで胸が痛かった)、その延長線上にこれがあるのかとある意味納得できるブチギレぶりである。

 

図書館で池端俊作「並木家の人々」読む。

 

帰って、ユーネクストで井筒和幸『犬死にせしもの』観る。井筒監督のファンなのに、長年、なんとなくスルーしてた作品だが、傑作と呼ぶには決定打に欠ける独特の決まり過ぎない、無様なアクションの連続に血が騒ぐものがあった。瀬々さんの『課外授業 暴行』の瑞々しさを連想。成美さん史観的にも、当時のまだ半分アイドル然とした佇まいから次第に積極的に戦うヒロインになっていく相貌が同時に収められていて、すごく嬉しかった。井筒さん、エライ、わかってる。

また映像に寄り添わず、拮抗していくような武川雅寛による音楽もなかなか素晴らしく、前に高田馬場のユニオンで5000円近くしたサントラLPもいつか手に入れたいものだと思う。

 

6/5(水)

 

レコード屋を周ってから13:00ヴェーラで川頭義郎『ママおうちが燃えてるの』観る。タイトルが面白すぎるため、前々から観たかった作品。で、これがなかなか拾い物という感じのいい映画。淡島千景演じる子沢山シングルマザーの苦労や本音、深い愛情を安易な協力的男性キャラを登場させたりしないで真摯に描いている。

 

見終わって神保町。矢口書店で野沢尚「リミット もしも、わが子が…」シナリオ、池端俊策「並木家の人々」シナリオ(どちらも本になったもの)を発見。あと「この愛に生きて」の第一話が収録された「月刊ドラマ」94年5月号、いまおかさんがオススメしていた一色伸幸「それでも僕は母になりたい」収録の「月刊ドラマ」90年7月号を購入。あと@ワンダーの外の棚から「荻元晴彦著作集」を購入。

 

帰りのバスの中で「この愛に生きて」第一話のシナリオを泣きながら読む。出版されてないこのドラマのシナリオ全部、どこでどうやったら読めるんだろう…。

 

長野に帰宅して、FODで『親愛なる者へ』最後の2話を観る。会社の大スキャンダルを暴いて辞表を叩きつけた佐藤浩市。新聞報道を見てかつての熱く生きていた彼への愛情が蘇った元・妻の斉藤慶子が「ママ、いま好きな人がいるの、ずっと好きだった人なの」と子どもに語りかける場面がすごく好きだった。ラストの葬式場面で老け込んだギバちゃんの顔がもっとちゃんと映って終わっていたら満点だったのに…。老けメイクフェチとしては見逃せないポイントなので。

6/4(火)

 

早朝起きて、6:50佐久インター南の長距離バスに乗る。道中、眠りながら「お前はただの現在に過ぎない」読む。

 

練馬で降りて、豪徳寺へ。かつてしまおまほさん一家が住んでいた旧テオドラ邸へ。しまおさんの幼少期の写真、絵、おもちゃから零れ落ちる静かな幸福感に浸る。

そこから一時間以上かけて横浜の放送ライブラリーへ。山田太一脚本、安田成美、奥田瑛二主演「奈良へ行くまで」観る。題名から想像できないがテーマはゼネコンである。空虚な形式主義に支えられたゼネコンの体質に風穴を開けるために奔走する奥田瑛二。その虚飾に満ちた世界と対比する形で、奥田の旧友で、奥田の妻の成美さんへの愛の告白を押しとどめられない男(村上弘明)の姿が描かれる。「小さい頃から、バカなことはしなかった。学校でも仕事でも、自分をなんとかコントロール出来ました。奥さんへの気持ちだけが、消すことが出来ない。え?人間て、こんなこともあるのかと、この齢になって驚いています。嘘だろっていわれるかもしれないけど、いま、電話してるのは私の人生の、はじめての無茶苦茶です。常識もモラルも、計算の節度も、なにもかも、ほうり出した無茶苦茶です…」。ここでは嘘で塗り固められた世界の中で、例え旧友の妻であっても好意や愛情や美しいと思う気持ちを正直に伝えることの尊さが、ある種の苦笑と共に優しく肯定される。今の私には刺さりまくる作品。いまこのタイミングで観られて本当によかったというのもあるけど、どちらかといえば後期の言及されることの少ない2時間ドラマでも無茶苦茶山田太一してて、その作家性の強靭さには驚きを禁じ得ない。本シナリオが収録された当時の「月刊ドラマ」の山田先生のインタビューでは特に成美さんには言及されていないけど、明らかにこの役は成美さんのために書かれているのが伝わってくるから嬉しかった。彼女の出演した山田太一ドラマがこれだけなのが惜しまれる。




続いて、野沢尚脚本『ドラマシティー’92 性的黙示録』観る。田舎の布団屋の経理担当の真田広之が会社の金を横領している事実を社長の津川雅彦に掴まれ、言われるがままに真田の妻の樋口可南子と津川の妻の樹木希林とのスワッピングを持ちかけられる。ここまでは良いのだが、このスワッピングは有耶無耶なまま双方未遂で終わる。その後もこれが特に話に絡まないままいつのまにか真田は津川を殺害し、死体を車のトランクに入れたまま毎日何食わぬ顔で出勤する。ヤンキーの椎名桔平と浮気してカーセックスしまくる樋口可南子に向き合えない弱気な真田広之は、もの答えぬ津川雅彦にだけ心を開いて語り続ける…。地味ではあるが、80年代前半くらいのATG味があり(原作は「遠雷」の続編だともいうし)、見せられてしまう。こんな小さなドラマでもちゃんと脱いでる樋口可南子のきっぷの良さには惚れ惚れするし、椎名桔平の中上健次的なキャラクター造形も的確だ。しかしこれ一本では、野沢さんが終生感謝を伝えていた鶴橋康夫演出の真髄はよくわからず。

終わって、みなとみらいに行ってJINSで眼鏡作る。

渋谷のbonoboへ。去年は参加できなかった中原昌也さんの誕生日会へ。倒れられてから初めて中原さんに挨拶するので、正直緊張したが、たまに見せる柔和な笑顔と言葉のウィットは今までの中原さんと変わらない。演奏見れたし、満足して帰る。

新宿の歌舞伎町の金太郎に泊まる。

6/2(日)

 

この一週間、仕事しながら休み時間に野沢尚「映画館に、日本映画があった頃」読む。「北野武との仕事のことがなんか書いてあるかな」と数ヶ月前に古本屋で軽い気持ちで手に取ったのだけど、今の私にとって連載当時に執筆・放映された「この愛に生きて」について実作者の熱量に満ちた文章が読める本として光り輝いている。

「この仕上がりなら、例え数字の戦争に負けたって構わない。見ないお客の方がバカなのだ。」

 

脚本家デビュー作『V・マドンナ大戦争』のヒロインに当時18歳だった安田成美さんを推薦していた話も知らなかったし、それが『マリリンに逢いたい』『ラストソング』を経て「この愛に生きて」に結実した事実は美しい。未見の「リミット もしも、わが子が…」も観なければ。

しかしこの本の執筆された当時子どもが生まれたばかりだった野沢さんが、しきりに20年後子どもに誇れる仕事がしたい、とか将来のビジョンを語っているのを読むと胸が痛む。この時期の彼の繊細な感受性やロマンチズムが特に「この愛に生きて」の終盤に最も集約されているのだと思うけど…。

 

並行して、FODで野沢尚「親愛なる者へ」を毎日見て涙し、中島みゆき「浅い眠り」を口ずさむ日々である。愛妻家であり子どもを愛していた野沢さんにとって、「夫婦」や「子ども」が失われること、壊れることの苦しみは強迫観念のように反復しなければならなかったものなのだと思う。


VHSで「恋子の毎日Ⅱ」(88)観る。小林薫演じるやくざがマンション建設反対の住民運動に参加させられる、という物語自体が一作目より面白いのだが、なによりいいのが2年前の前作と大幅に異なるビートたけしの顔つきであり、芝居の質。フライデー事件を経て、明らかにこの人の中でやくざという存在への洞察が豊かになっている(傷害事件を経て人が成長する、ということを素直に肯定できない気持ちもあるが)。また、クライマックスのヤクザ事務所への殴り込みシーンのチンピラ役で寺島進さんが出ていることを確認できたのも収穫。ノンクレジットながら、翌年の『その男、凶暴につき』への重要な布石だろう。

 





 

5/29(水)

 

仕事後、帰宅してVHSで鴨下信一演出、安田成美・田村正和「ローマの休日」を観る。93年一月四日放映のスペシャルドラマ。基本的には題名と配役と放映時期で想像できることが正月気分でほのぼのと起こるので結構油断していたのだが、ローマの美容院に行った安田さんがオードリー・ヘップバーンの髪型にしてもらってから急激に「女」の顔になり、「今夜だけは…」と田村を誘惑するために燭台の蝋燭を吹き消していく生々しい仕草には非常に感動した。さすが鴨下信一。彼女がマリッジブルーに苦しんでいる、という設定自体が、一年後の結婚を念頭に入れているとしか思えず、安田成美史的に重要な一作だと思う。

 

 

最近「安田成美」という活字を見るだけで涙が出る。

「安田成美史」をマッピングできるようにならなくては、という闇雲な情熱においてはいま絶対にノリさんに勝ってると思う。

 

 

5/28(火)

 

早朝K‐plusで借りていたVHSで久世光彦「恋子の毎日」(86)観る。つまらない。ビックリするほどにビートたけしも小林薫も全然よくない。せっかくのやくざ役なのに、たけしも演技のアプローチに迷っている節がある。あの鬼気迫る『コミック雑誌なんかいらない』と同年のたけしとはとても思えないふやけ方である。

 

仕事後、ユーネクストで森田芳光脚本のオムニバス『バカヤロー! 私、怒ってます』観る。贔屓目ではなく、安田成美さん主演第二話目(監督は、なんとこれがデビュー作の中島哲也だ)が一番良かった。主人公が現実離れした特異なキャラクターたちに抑圧されて最終的にブちぎれるというパターンが多い中で、この話では都内の勤務先と郊外の家との距離によって生じる不公平感というのが題材となっており、共感しやすい。やけ酒あおってホテルの廊下で暴れる安田さんの等身大の女性像がチャーミングだった。

しかし、この話だけでなくセックスネタがとにかく多くて辟易した。この時代、本当に日本人はこんなにぎらぎらとセックスのことばかり考えていたのか。なんだか嫌な味が残る。こんな人間ばかり生み出していたなら、バブルなんて弾けて結構だ。

 

続いて、ヤフオクで落としたVHSでサイトウマコト『マコトノハナシ』観る。このビデオ、よくわからないまま買ったのだけど、91年にNHKのお正月に放映された番組らしい。コントともドラマともいえない、オフビートな人々のやりとりが、透明感あふれる16㎜撮影で描かれており、全体で50分ほどだが非常に充実したアートな連作だと感じた。撮影があのボウイのポートレイトなどで著名な写真家鋤田正義なのも驚いたけど、脚本の君津道幸は、森田芳光の変名だと判明。『おいしい結婚』に出ていた唐沢寿明や爆笑問題、『そろばんずく』『バカヤロー!』に出ていた安田さんなどが出ているのは当時の森田人脈なのだろうし、森田芳光らしい独特の人間たちの距離感や空気感のオフビートなおかしさがしっかり出ているのは、『バカヤロー!』よりはるかにこちらだと思う。

特に、当時人気絶頂だった頃の安田さんと、世間的には「干されていた」頃の爆笑問題太田さんが丁々発止の二人芝居を繰り広げる第五話が二人のファン的には悶絶もの。

年賀状の配達バイト中の太田さんに、私の部屋に上がって年賀状を読ませろと脅してくる安田さん。「バカな女だ。話にならない」「え…あんた私の部屋に上がらないでいられるわけ?」何故か終始ハードボイルドな口調の太田さん、不条理な要求を当然のように口にする安田さんの噛み合わない会話のおかしさ。干されていた頃の爆笑問題に森田監督が積極的に仕事を与えていた美談は有名だけど、これはその中でも相当にいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

5/26(日)

 

午前中、上田へ。電車の中で中川右介「月9 101のラブストーリー」読む。この本、今知りたかったこと、考えたかったことが無茶苦茶詰まってて、このタイミングで出会えてよかった。

 

9:20上田映劇でバス・ドゥヴォス『here』観る。断続的に寝落ち。「何がいいのかはよくわからないが、こんなパッとしない代物をフィルムで撮る人がいることはいいことだ」とか、感想ともいえない寝言を心の中で呟く。

次にバス・ドゥヴォス『ゴースト・トロピック』観る。さっきよく寝た、という単なるコンディションの問題な気がするが、こちらの静かな淋しい夜の抒情の方が遥かに心に沁みた。老人のさすらうブリュッセルの街の光景に、私の脳裏にある幾多の何気ない、しかし奇妙な輝きを湛えた夜の東京の記憶が響き合った。

 

終わって、ラジコで「爆笑問題の日曜サンデー」に出演する山下監督の声を聴きながらバリューブックスへ。何も買わず。

歩いて30分くらいのブックオフ上田中央店へ久々に行く。もう金輪際水着写真集やヘアヌード写真集の類いは買わない、と誓ったのにやることがないので覗いてしまう。そしたら青山知可子の「熱帯性気候」があってビックリするものの、1万8千くらいする普通の市場価格でがっかり…。こういう一喜一憂が人生の無駄だというのだ。

 

上田映劇に戻って、二ノ宮隆太郎『若武者』観る。最近90年代のテレビドラマを集中的に観ることを通して映像作品における「言葉」の立ち方に対して何となく考えていたことが、具体的に「映画」の側から逆照射された気がして驚いたし、凄く魅了された。いまおかさんも書いていたけど、二ノ宮さんは高潔なまでに「作家」だし、スタイルに安住せず、常にいまあるべき映画の形を考えている。数少ない尊敬できる同世代人である。

 

 

 

 

 

 

5/27(月)

 

仕事から帰って、CDで安田成美「ジィンジャー」を泣きながら延々聴く。今の私にとって、安田さんの声は、高校生の頃に孤立無援だった私の心に静かに寄り添ってくれたニコやブリジット・フォンテーヌのよう。「風の谷のナウシカ」の歌唱イメージのまま、安田さんを音痴だと決めつけている人は、端的にこんなに素晴らしい音楽に出会う機会をなくしてかわいそうだと思う(もちろん、オリジナル「風の谷のナウシカ」の安田さんの歌唱も素晴らしいと個人的には思うし、ほぼ毎日レコードで聴いてるし、毎回聴きながら落涙している。早く「2024」versionもアナログ化してほしい)。大貫妙子プロデュースによる楽曲はどれも珠玉で、なぜこれが現在のシティポップブームで注目されないのだろう、とおもうものばかりだが、特にかしぶち哲郎作「突然彼を奪われて」で映し出される、日常的な瞬間で実感する「彼」へのささやかな愛おしさには、「やっぱりあの人のこと想像して歌ってたんだろうな」と思わせる胸に染み入るリアリティがある。

中古市場で高騰して1万円超えているからアナログは諦めてCDで妥協しちゃったけど、これはやっぱりレコードでほしい。今の仕事を最後までやり切った何ヶ月か先に上京する自分へのご褒美として買おうと思う。このアルバムジャケットの安田さんに見守られながら、私は生き直すのだ。