この自然界では、樹木や野花の種の何割が再び「生命」として生きられるのだろうか。他の生命に於いても「生き残り誕生する」には相当の低い確率なのだという。種でも魚類や動物の「卵」でも、その種族が維持されるギリギリの確立でしか次世代の命をつなぐまでの成長が叶わないという。
しかし、命をつなぐことが出来なかった多くの生命にも「生まれて来た」ことには大きな意味があると感じるんだ。魚であれば他の生命をつなぐためでもあり、その生命の集団的意識が「生き残るための実験」として、経験を積み重ねる意味も含まれるんだ。
さて、ここに頑強なアスファルトに咲いた可憐な花があります。たくさんの兄弟は死んでいきましたが、彼女は確かに花咲きました。人間から見ると「こんなところに咲かなくても」と感じてしまうかもしれませんが、彼女にとっては奇跡にも似た幸運でしょう。なぜなら次世代に命をつなぎ、この経験を伝えることが出来る可能性は0ではないのですから。
釈迦が法華経の後に説いた「涅槃経」。これは法華経の後書きとも言える法華経証明の経典ですが、そのなかに「爪の上の土」という言葉が書かれています。
人々を生かし、命の源とされるインドの広大なガンジス川。その沿岸には無数の砂があり、人知ではその数など知る由もない。釈迦はそのひとつひとつの「砂」を生命に例えます。どんな生命でも構わないけれど、地球上の(あるいは宇宙の)生命の数を「砂」に例えるのです。
※カンジス川の砂の数:仏教ではインド数字で「恒河沙」(ごうがしゃ)と現され、10の52乗~56乗とされる。(説):この数字は人間の細胞の数や宇宙の星の数と=で結ばれる不思議。
あるとき、一人の人がその広大な砂浜にやってきます。
そして一握(一握り)の砂を手にします。(石川啄木の歌集・「一握の砂」もこれが起源) そして手の指を出してその砂を落とすのです。すると、うまくいけば砂が滑りやすい爪の上にも数粒の砂が残ることもあるでしょう。釈迦はこの確率を「生命が人間として生を受ける確率」として説きます。
ここで、僕たちは深く考えなければなりません。この説をさかのぼるのです。
ガンジス川の砂の数が生命だと仮定する釈迦の説法には無量の意味が込められています。そして爪の上に残った数が人間だとすれば、一握の砂はどうなることでしょう。もしかしたら「生まれてくる生命の数」なのかもしれないと思うのです。そしてもっとさかのぼれば、ガンジス川の砂の総量が「生命」であるなら、その生命は「確かに存在するのに、この世界には生まれていない」ことになります。
一握の砂。生まれてくる生命。
爪の上の砂。人間として生まれる確率
ガンジスの砂。潜在的な生命の数。
全てはガンジスの生命の一部。
そう考えると、「アスファルトに咲いた花」とは、素晴らしい使命を抱いていることがわかるでしょう。まして、人間として生きることが出来る幸運とは何物にも代えがたいものです。しかし、貴方は「なんで? 全てはガンジスの生命の一部なの?」と疑問に思うかもしれません。そこで、他の生命を僕が例にとり説明を加えることにします。
例えば、ガンジスの河原に生命力の強い「柳」があります。人は一見、私たちと同じようにこの柳の命が「ひとつ」だと考えるのが自然ですが、そこで僕はこの柳の枝を折り、すぐそばのに数本刺します。するとその枝は命を以て、元の柳とは明らかに違う人生(木の一生)を送ることでしょう。それならば柳の命はいくつですか?枝が成長した柳をまた折って刺せば命は無限であり、結局は「柳」という生命は普遍的であり、「たったのひとつ」だということが理解できます。
人間も動植物も同じです。柳からみれば枝を折った僕は神様ですか?いいえ、違います。生命を一つにする「愛の波動」がこの宇宙にはあり、それがなければ僕たちは生まれてくることも呼吸することもできません。僕のことを神様と呼ぶと本当に不幸になりますが、そんな神様が、この世界には蔓延していますね。神とはガンジスでもなく、ガンジスを創った根本の原理のことであり、それを維持する「パワー」のことです。枝を刺した人間は「神」ではありません。これを釈迦が見たら情けないと嘆くことでしょう。
生命はつながっていて、ひとつのものです。釈迦、天台、ユング。それらの偉人が説明しようとした「シンクロニシティ」とは、このことなのです。生命には種類により集団的意識があり、昆虫や下等生物はそれだけで生きて、経験や実験を重ねます。それが一握の砂です。しかし、もっと深いところにもシンクロはあり、宇宙意識として統合されて「つながり」を形成してなお「この宇宙自体の進化」を促しているのです。それを2500年前に法華経は説明していたのです。
生まれることの奇跡と、その使命。生きることの経験と実験。そのフィードバックを宇宙の愛は待ち望んでいます。それがアスファルトの花であっても、その素晴らしい「生きる」経験値を。
爪の上の土。
生まれてきて良かった。この喜びをいま、大自然たちは無数のハミングで唄い続けています。その感謝と使命を貴方も共有してはいかがでしょうか。それが生まれて来た意味を知るきっかけになります。そしていつか、この生命は「たったのひとつ」だと知り、愛が貴方に歩み寄ることでしょう。
アスファルトに一輪の花。彼女は生まれて来たことだけでも愛に包まれています。そして生きて花咲きました。その花は感謝と歓喜のハミングを詠い続けます。だから僕もいつまでも詠うことを諦めはしないのです。
関連記事:エッセイ「愛の波動とは」松尾多聞
多聞はブログランキングに参加しています。
音楽BGM
←クリック
「たったのひとつ 」
ただ寂しさに微笑む人よ
傾げた首を戻してごらん
顔を上げれば世界が見える
刹那に君を迎えてくれるよ
願いは夢に祈りは時に
心の色を変えてくれる
あの星も海もこの大地も
両手広げて待っているよ
それを信じるだけでいい
その寂しさに微笑む人よ
本当の笑顔が輝く場所へ
両手広げて君をいだいて
繋がる空へ連れてゆくよ
この世界に微笑んだなら
君も僕もたったのひとつ
詩作:松尾多聞
自由詩人・松尾多聞「たったのひとつ」 - YouTube
北海道の大自然に抱かれてご高覧ください。
多聞はブログランキングに参加しています。
◆自由詩人 松尾多聞 最新詩集◆
恋愛詩集・泡沫(うたかた)の舞
恋愛詩集・遥空(かなた)
恋愛詩集・揺れる灯(あかり)
恋愛詩集・雪化粧
新作詩集・返えり見の空
恋愛詩集・待ち合わせ
恋愛詩集・水面の月
恋愛詩集・サムシング
恋愛詩「星空の詩人 Ⅱ」
詩集「渚の詩人」
恋愛詩集 「優しい貴方へ」
恋愛詩集「愛の詩が聴こえる」
◆法華経の真実 七つのたとえ話◆
・その1 譬喩品第三
「三車火宅の譬え」
・その2 信解品第四
「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の譬え」
・その3 薬草喩品第五
「三草二木の譬え」
・その4 化城喩品第七
「化城宝処の譬え」
そ・の5 五百弟子受記品第八
「貧人繋珠(衣裏珠)の譬え」
・その6 安楽行品第十四
「髻中明珠の譬え」
法華経の真実 七つのたとえ話 完結編
画像をクリックして拡大

多聞はブログランキングに参加しています。