イタリアデザインの深読み 竹下彬史

イタリアデザインの深読み 竹下彬史

海外進出を目指す方々は必見です!
イタリアデザインを中心に、イタリアの文化、歴史に触れていきます。
そこから見える今日の日本のデザイン、デザインにおける日本とイタリアの関係も解説していきます。

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イタリア人の省エネ生活。イタリアは、原発を使用していないため、電力をフランスから輸入しているます。そのため割高ですが、電力を使わない生活の知恵が沢山あります。



1:電気を夕方までつけない

2:アパートの階段の照明は自動消灯

3:集合住宅では暖房器具の使用出来る期間が決まっている

4:アパートによっては棟ごとに暖房がつくので、個人の無駄使いは出来ない。

5:暖炉のある家が今も多くある

6:カーシェアリングの需要がある

7:ヨーロッパの家は組積造建築のため壁が厚く、夏にエアコンが無くても過ごせる

8:水を常温で飲むのに慣れている

9:夏は家族でバカンスに出かけ、公共の電力を使う。あるいは海外の電力を使う。

10:月に一回ストライキをして、公共の電力すら節約する。

11:月に一回 No Car Day があり、許可のある車以外は公道を走れない。

12:基本的に季節の野菜と果物しか買わない ハウス栽培は少ない

13:美味しいものは基本的に現地で食べる 輸送にかかるエネルギーが少ない


などなど。


自由に電気を使える環境で育った自分にとっては、イタリアでの生活は目から鱗でした。彼らは太陽光をうまく使い、出来るだけ少ない電力で生活する知恵があります。電気を共同で管理するシステムがあります。

少々ストライキがあっても、自分で暖房の調整が出来なくても、夕方まで電気がつかなくても、24時間のコンビニがなくても、日曜にスーパーが休みでも日常生活にはほとんど支障がないということに気付きました。暑ければ、涼しい街に行けばいいだけの話です。


イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端でした。しかし、チェルノブイリ事故以降、1987年の国民投票で原発全面停止を決定。1990年以降原発は停まったままです。この選択はまた、急激な経済発展は必要ないという民意であったともうけとれます。このような環境下で、様々な省エネの工夫がされてきました。

日本人もここから学ぶ事は多くあるはずですが、その前に私たちのメンタリティーも同時に変えていかなくてはなりません。

少々不便な事があっても、不都合なことが起きても社会は回ります。仕事も回ります。コンビニが無くても、日曜日スーパーが休みでも日常生活に支障はありません。

私たちが便利さや快適さを求めている限り、エネルギーの需要は変わりません。エネルギーの需要が変わらないという事は、原発も停まりません。
日本の経済発展は安いエネルギーの供給によって成し遂げられました。日本中にあるほぼ全てのサービスは原発からの安いエネルギー供給によって支えられています。


電気にそこまで依存しなくても生活できるジャン!って人がたくさんいれば、原発の需要は減っていくだけの話です。


電気に依存しない生活が進めば、もちろん既存のサービスも受けられなくなります。コンビニも減りますし、ツナおにぎりが一個300円になるかもしれません。ヨーロッパの美味しい食材も高額になるでしょう。そうなると、イタリアンやフレンチもなかなか食べれなくなります。美容エステにも通えなくなるかもしれません。テニスもナイター施設が利用出来なくなるかもしれません。そういった、側面を受入れる覚悟が日本人にあるかどうかになってくるのです。





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前回のブログでは、「フェラーリを生んだ国、ベンツを生んだ国2」でドイツ人が何故「重厚で丈夫」な乗り物を生み出したのかを見てきました。



今回は日本車を見てきましょう。

日本車の特徴として省エネ自動車が挙げられると思います。
 
1955年にトヨタ、日産、いすゞ、富士精密工業が車の販売を始めました。
当時はアメリカなどの外国車を購入し、分解、それぞれの部品を徹底的に調べ上げ、自分たちの技術にしていきました。

その後通産省(経財産業省)は、「国産車」構想を打ち出し、国民が所有できる自動車を作るようにメーカーに働きかけ、日本の自動車産業は一気に加速しました。

しかし、第四次中東戦争をきっかけに1973年以降、原油の価格が高騰しました。オイルショックです。

オイルショック以降、日本の家電製品は省エネ路線に移行しました。
官民をあげて省エネ技術開発が進み、石油消費量の削減量は先進国トップになり、小型で燃費の良い日本車が生まれました。

日本の国土の66%が森林です。また、平野は国土の14%ほどで、関東大平野をはじめ19の平野からなり、人口の5割が平野に集中しています。
先ほど挙げた「国産車」構想もあり、一家に一台自動車を所有する事が可能になり、都市圏は車で溢れます。速い車や丈夫な車より渋滞しても燃料を消費しない車が求められます。この様な経済状況や地理環境下では、省エネルギーな自動車の所有が当時では合理的だったのです。


最後に触れておきますが、アメリカ車が巨大化したのも、戦時中において物資をより多く運ぶ為には、大きな荷台が必要であったと考えられます。アメリカは第一次二次大戦ともに、北アメリカ大陸が戦場とならなかっため、多量の物資を一度にできるだけたくさんヨーロッパ大陸に運び込む事が大きな役割でした。また長距離移動に耐える為、室内を広くとり、巨大化して行ったと考えられます。大きくある事がアメリカ人にとっての合理性だったのです。しかし、この仮説は自然環境の影響という点で説得力に欠ける為、もう少し検証が必要です。



今回は自然環境が人間の性格を特徴づけ、必ずその土地にあった「合理性」があるというのを説明する為に車を例にしました。私たちの住む土地環境、気候、風土、から一番最適なモノを考え出していくのが自然な行為です。



今後少しづつ説明して行きますが明治の近代化以降、日本は様々な道具や哲学、あるいは社会システムまでも西洋から取り入れてきました。
また敗戦後、GHQにより一方的に西洋型社会システムを押し付けられました。
それらは日本の環境下では必ずしも適切では無いものも含まれています。今後の大きな課題として、強引なまでに押し進められた西洋化に対して、良いものは取り入れ、悪いものは日本人の肌に合うモノ、あるいはシステムに少しづつ変えていく事が必要になると考えます。


改めて日本の文化を見つめ直し、日本人にあった「合理性」を模索して行くごとが21世紀に生きる我々のテーマであると思います。




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隈氏の建築の特徴として、現地で採れる素材を可能な限り使用していることです。広重美術館
の木ルーバーは全て美術館の裏山の木を使用しており、壁面に使用されている和紙も地元のものを使用しています。

20世紀は消費の時代であったとも隈氏は言っています。ガラスの量産化に始まり、化学的な人工素材など、様々な素材が生まれ使用され消費されてきた一方で、地域とは無関係な建築が乱立してしまったのです。ユニバーサルデザインと言われるものです。地域性を排除したことにより、どこでも経済的に、誰もが使える建築を建てる事が可能になり、東京、ロンドン、NY、あるいは中東の砂漠や、サバンナの真ん中に同じ様相で無機質な近代建築を出現させてきました。それは、地域や民族性、歴史や習慣、伝統などを一切無視してきた行為だったのです。

20世紀に失ってしまった、「場所性」を取り戻す手法として、現地の素材を使う事が隈氏の建築では重視されています。


また、隈氏はヒューマンスケールの小さい建築が今後のテーマであると述べています。その中で人間の身体と建築の関係についても言及しており、人間が共感出来る造形を探るにあたって、オーガニックな形を無視できないと言っています。人間や植物の体が小さな細胞の集合体であるのと同じように、建築もフラクタルなものの集積によって構成される事で、身体との関係はより接近すると言っていました。さらに、1ユニットで全て構成し切る事が重要で、形の重要性は低いということです。

2005年のミラノでのパビリオンCIDORI では日本の組木工法を使用しています。

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愛知のプロソミュージアム・リサーチセンターでは6cmx6cmx150cmの組み木材を同じ技法を使い集積しています。

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非常に抽象度の高い建築になっていると思います。このようなモヤモヤしてボケボケしている表現はまるで、環境にとけ込んでいる様でもあり、また建築が景色の一部になり気配を消そうとしている印象を受けます。前回のブログでも述べましたが、日本建築の特徴は自然に対し抗わない精神です。とても脆弱で今にも自然に消えてなくなりそうな様相ですが、私は逆にそれが日本建築の持つ「強さ」であり、日本が世界に誇るべき特徴であると感じています。




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今回は久しぶりにうんちく建築です。
10/18ミラノ工科大学で隈研吾氏の講演会がありました。
今後の建築の方向性、日本の建築のあり方、いろんな示唆に富んだ講演であり、いろんな発見がありました。

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まず、スライドに映る前に隈氏は「小さい建築」が21世紀のテーマと言って講演が始まりました。

3.11の津波のスライドからスタートし、津波で押し流され崩壊した家屋の写真が流れました。近代に建てられた鉄筋コンクリートの建物ですら破壊され跡形も無くなっている現状を見て、隈氏は本当の意味での建築の強さを再度問い直したという事です。隈氏の手がけた石巻にある北上川美術館は幸い少しの破損だったのですが、この建築の中にある強さとは何なのかを問うた時、隈氏はそれを「自然と建築が一体となっている」という結論に至ったそうです。

自然と建築が一体となるとはどういう意味なのでしょうか。

それは日本の建築の特徴とは何なのかを理解する必要があります。

以下は私なりに日本の建築のありかたをまとめてみました。
日本の建築の精神として自然との一体化が重視されてきました。日本は森林に覆われた風土でありモンスーン気候です。夏には台風が幾度となく上陸し、大雨や突風をもたらし、土砂崩れや洪水を引き起こし、全てのものを破壊してきました。そして3.11では大震災に見舞われ、私たちに大きな衝撃をもたらしました。それは、今日まで途絶える事無く、またこれからも日本である限り続いていくものなのです。
そうした環境で生活を営んできた私たちの先祖のメンタリティーとはどういったものなのでしょうか?それは常に「自然を敬い、決して逆らわず、大地に身をまかせ、一体化したい」といった無意識の願望をはらんでいます。大地に甘え、共感し、寄り添う姿勢こそごく自然な私達の姿なのです。また、そのような環境に建築を建てるとはどういう事を意味するのでしょう。山は聖なる領域です。家を建てる為には木を切り、土地を削らければなりません。神の領域を侵す事になるため、お供え物や儀式を通し、大地の神をなだめました。それが地鎮祭という形で今日に引き継がれています。大地を鎮める為の大切な行事なのです。山の神の怒りに触れぬよう、その山で育った木や茅、あるいは土を使い、一切の装飾は避け目立たず、森の中にとけ込むような建築を造ってきました。それが、私たちの祖先が自然の神に対して行ってきた誠意だったのです。
ここに私は日本建築の本質があるのではと思っています。隈氏が言う自然と一体となる建築は、本来の日本建築のあるべき姿の事を言っているのだと思います。


また隈氏は講義で、20世紀は巨大建築が乱立した時代だと言っています。対して21世紀の建築で求められるのは、もっと小さいヒューマンスケールの建築だと述べています。

20世紀の巨大建築、それは「強さ」の現れでもありました。「弱さ」を克服し、強い社会に向かった時代背景が巨大建築という形で現れたのです。この「弱さ」とは曖昧なものや、非合理的なもの、不確定要素の多いものなどを指し、20世紀の近代合理主義はそれらを一切受け付けず排除してきたのです。また「弱い」人間はレッテルを貼られ、社会の片隅へ追いやられてきました。しかし、多くの人は近代合理主義社会が求める様な完璧な人間ではありません。傷つきやすく、気まぐれで、繊細なものです。
これからは、近代合理主義社会によって排除されてきた「弱さ」を少しずつ取り戻す作業になるということです。



では、建築における「弱さ」とは何なのでしょうか?

それは、自然に抗わず、自然と共存している建築と言えます。


次回は、自然と共存する建築を隈氏の講義の内容も踏まえ説明して行きます。



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前回のブログでは、「フェラーリを生んだ国、ベンツを生んだ国」で、何故イタリア人がスピードカーを生み出したのかを見てきました。


今回は、ドイツで生まれた車を見ていきます。


メルセデスベンツは1926年スタートしました。
アウディは1901年に、BMWは1916年航空機エンジンメーカーとしてスタートしました。一般的にドイツ車は「重厚で丈夫」と言われています。

ドイツでスピードカーが発達せず、丈夫なボディーを持った車が発達して行った理由も、地理的環境が大きく左右していると私は考えます。

以下の地図を見て下さい。

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ドイツ北部から、デンマーク、さらにポーランド北部に「北ヨーロッパ平原」があり、このエリアも北イタリアのパダナ平野以上に巨大な平地が広がっています。ではなぜ、ドイツでフェラーリの様なスピードカーが発達しなかったのでしょう。


ドイツにはあって、イタリアには無いもの。。。何でしょうか?





それは、「深い森」と「長い冬」です。
建築をみてもそうですが、ゲルマン系の民族の生活の中には常にこれらの影響があると言えるでしょう。
当たり前ですが、豪雪地帯にはスピードカーはかえって不便です。
また、森の中に道を敷いた場合、平野に敷くように直線的な道路を整備するのも非常に困難で、カーブの多い道路であった事は明らかです。そんな過酷な地域でフェラーリの様な車は使いにくいですよね。
更に、まめにメンテナンスを必要とする車だと、極寒の大地では整備をするだけで体力が奪われ、場合に追っては凍死してしまうというケースもあったでしょう。


このような環境下での乗り物は、壊れず頑丈である事が優先されます。多少の雪やぬかるみは、はね除ける「重厚で丈夫」な乗り物の方が目的地に早く着くには都合が良かったのです。

これはイタリアとドイツで暮らす人々の「合理性の違い」と言えるでしょう。




では日本車はどうでしょうか?日本人にとっての合理性とは何なのでしょうか?

次回は日本について書いてみます。


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前回のブログで、「地理的要因がもたらしたギリシャ社会と中国社会」で環境は人々の性格を特徴づける要因の一つで、必ずその土地にあった「合理性」があると言いましたが、今回はドイツ車とイタリア車の違いを通して、説明してみたいと思います。自然環境の差が人間のメンタリティーの差に影響すると分かってもらえればと思います。


イタリア車と言えば
「フェラーリ」「アルファロメオ」「ランボルギーニ」
ですね。これらのクルマは「スーパーカー」の代名詞となっています。

対してドイツ車といえば
「メルセデスベンツ」「BMW」「アウディ」等が挙げられるかと思います。「重厚で丈夫」と一般的に言われています。


アルファロメオは1910年北イタリアのミラノで創立され、戦前から自動車レース界の強豪としてスピードカーを生み出しており、フェラーリはアルファロメオのレーシンググループであったエンツォフェラーリによって北イタリアのモデナで1929年に創立されました。 
また、ランボルギーニは北イタリアのボローニャで1962年に創立されました。

どれも北イタリアで生まれた会社であり、スピードカーとして世界的に有名です。ではなぜ、イタリアでスピードカーが発達して行ったのでしょか。

ここで自然環境が人間の性格を特徴づけ、必ずその土地にあった「合理性」があるという話に戻ります。



イタリアの地図を見てください。北イタリアには「パダナ平原」という大平野があります。このような大平野に住む人々の合理性とはどういったものなのでしょうか?

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それは、ヨーロッパ諸国は常に戦争と隣り合わせでした。イタリアは1861年にひとまず統一されイタリア王国となりましたが、それ以前は隣の公国(今で言う州)とで常に争いが起きていました。
このような状況下では、情報を如何に早く伝えるかという事が求められます。

北イタリアは大平原があります、平野の西部と、東部を行き来するのに一本の真っ直ぐな道路を敷くことが可能で、目的地に早く到達するために、スピードが出る乗り物を所有する事はアドバンテージになります。山や丘を越える必要はありませんので一気に目的地に到達できます。時速50キロの乗り物と100キロ出せるものとでは、到達時間に大きな差が生じ、その差は戦時中には致命的な差になっていた事は想像に難くありません。



少々壊れやすく、燃費が悪くても、高速の乗り物の方が、戦時中、大平原で生きる彼らにとっては「合理的」だったのです。


北イタリアのパダナ大平原は何千万年と今日まで平野であり続けています
この様な環境で育った人間(あるいは生物)たちが、スピードというものに執着してしまうのは、当然と言えば当然なのかもしれません。遺伝子レベルで組み込まれた、そこに生きる人々の記憶なのです。



ではドイツ車ではどうでしょうか?

次回はドイツ人にとっての合理性を見ていきます。


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前回、「ギリシャ人と中国人」で、大きく古代ギリシャ社会と古代中国の社会の違いを見てきました。

環境は人々の性格を特徴づける大きな要因のうちの一つです。
特に自然環境が人間に与える影響は大きく、必ずその土地にあった「合理性」というものがあります。建築に良く見て取れるのですが、当然の事ながら豪雪地帯と亜熱帯地帯では必要とされる建築は異なります。

では地理的な違いからも、古代ギリシャと中国の違いを見ていきます。

当時、ギリシャは世界の貿易の中心に位置していた事もあり、常に民族、宗教観、政治形態、異なった人々と遭遇していました。いわば、異民族が入り乱れるカオスの様な場所だったと言えるでしょう。
そのため、絶えずそこは矛盾が渦巻いたと考えられます。そこで当時のギリシャ人は矛盾を処理する必要に迫られていたと考えていいと思います。ある人物が「事実はAである」と言い、別の人物が「事実はAではなくBだ」という状況に直面していたとあります。このような環境下では、論理的な説得方法が発達したのは必然であったと言われています。

一方中国では、一方で中国は95%が漢民族に属しているため、ギリシャのような自分と大きく異なる思想や習慣を持った人と出会うのは稀でした。つまり、村の生活において誰もが顔見知りであったため、必然的に調和を保つ事を重視するようになって行ったそうです。仲間どうしての不一致もどちらが正しいか論理的に説得するのではなく、お互いが納得出来る中間、妥協点を探る事に力が注がれました。
日本もまた、ギリシャ世界とは異なり同じ民族の集まりであり、更に離島という地理的要因は、中国よりも更に異なった文化が混じり合うことが稀な環境であると言えます。

また、農耕を営む地域の人々は、お互いに協力し合う事が必要になり、例えば中国や日本でよく見られる稲作において、昔は互いに協力して土地を耕す必要があったため、調和というのはとりわけ重要になってくるのです。

一方ギリシャの様な山岳地帯では、狩猟、牧畜、貿易に適しており、これらは他社との協力をあまり必要としない仕事に分けられます。これは、貿易業を除いて、経済活動を他者と同じ共同体に定住しなくても行う事が出来るものです。
彼らには、なんとしても仲間との和を維持しなければならないという気持ちは無く、市場で意見を戦わせたり政治集会で討論をしたりと言った事を日常的に行っていました。


簡単に説明しましたが、以上が古代の西洋と東洋の大きな違いを理解しってもらった所で次はもう一度言語の特性を見ていきます。



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前回の漢字とアルファベットに関して述べました。言語は道具です。道具にはそれぞれ特徴があります。道具が異なれば、それぞれに出来る事、出来ない事が出てきます。
例えばヨーロッパのナイフと日本の包丁を比べてみても分かると思いますが、どちらも「切る」事に関しては同じ目的を果たしますが、何が切れるかは大きく異なります。洋包丁では肉や果物を切りやすいサイズと形ですが、刺身を均質には切れません。やはりお刺身を切るには和包丁の持つ厚みと切れ味が必要になってきます。道具には得意不得意が必ず発生しますし、どちらが優れているというのはありません。


漢字は絵としての性質を持っているのに対し、アルファベットは記号です。

以下の文字を見て下さい。見慣れない人はいったい何が書かれているのか分かりにくいと思います。



:-) :-( :-o :D ‘-)




これを日本人が表すとこうなります。




(^^) (-_-) (~o~) (^0^) (^o<)




もうお分かりだともいます。
前者は西洋人がよく使う顔文字に対して、後者は日本人が使う顔文字です。
ここからも西洋人の使う顔文字は絵というよりは記号ですね。日本人の使う顔文字ははなんとかして顔に見せようという意識が感じられます。
まさに私たちにとって文字は絵なんです。

西洋人は日本が使う様な絵文字は使いません。

またコミュニケーションの際、西洋人はスカイプや電話で直接的なコミュケーションを好むのに対し、アジア人はもっぱらメールです。
ヨーロッパ圏では微妙なニュアンスを文字のみで伝えるのに向いてないため、言語でのコミュニケーションを少し大げさなリアクションと共に頻繁に行います。これらも言語の性質上しかたないことなのです。



今回は具体的に古代ギリシャ人と中国人の環境の違いから生まれた差異を見てきます。

現在世界で10億人を超える人々が、古代ギリシャの知的財産を受け継ぎ、20億人を超える人々が古代中国の思想的伝統を受け継いでいると言われています。

当時、ギリシャ以外の国々は独裁社会であり、王の意思により人々の生活が左右されていました。一方で、古代ギリシャでは民主主義が生まれました。彼らは様々な規制から解き放たれた自由な人生を送り、自分の人生を自分の選択したままに生きることが彼らにとっての幸福でありました。ここから個人主義という概念が生まれたとされています。
また、当時最先端の思想である民主主義は一般市民が王に討論を挑む事さえ可能だったそうです。ここからディベートの伝統が始まり、合理的な議論でお互いを説得する必然性が生まれました。アメリカやヨーロッパ圏は討論の文化です。言葉が大きな力を持ち、議論の優劣は話し手の能力に大きく左右されます。
相手をどのように言語で説得するかに力が注がれました。

一方古代中国では、ギリシャの個人主義に対して調和の概念が生まれました。
中国人は個人というよりもまず、彼らの民族や村仲間、家族といった「集合体の一員」でした。彼らの理想の幸福は、調和のとれた人間関係の中で満ち足りた田舎の生活を送る事であり、組織やシステムに従って定められた役割を担う事が彼らの日常の本質でした。ギリシャ人が交響曲を生み出し、中国人が単旋律の音楽を好んだのも一体感根の関心を反映していると言えます。

また地理的要因もそれぞれの思考に大きく影響しています。

次回はギリシャ人と中国人の地理的の違いを見ていきます。


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前々回のブログで英語、イタリア語、日本語の性質で言語はその国の人柄をあらわすと触れましたが、今回は大きく漢字文化とアルファベットの文化との違いについて書きます。

漢字は表語文字、アルファベットは表音文字に分類されます。前者は象形文字に起源を持ち、後者は楔形文字に起源があると言われます。漢字の日本伝来は270~310頃 百済から到来し、それ以前は神代文字が使われていたそうです。

漢字の成り立ちを外人に教えてあげると喜びます。例えば 「木」の成り立ちを教えた後に、「森」を教えます。「木」がいっぱいあるから「森」になってちょっと少ない所は「林」って書くんだよっていうともうイチコロ♡です。あとは「山」「川」「人」とかもいいですね~。

このように漢字は一つの文字自体に意味があり、また別の意味を持つ文字を組み合わせてより複雑な文字を作っていきます。「山」という漢字は山の稜線をイメージさせ、「川」という文字は川のせせらぎを表現していると小学校の頃習った記憶があると思います。つまり「環境」から抽出された絵としての機能を持っていると言えます。絵を描く才能のある人が尊ばれるように、漢字圏では字を綺麗に書く人が尊ばれます。

対してアルファベットは一つ一つの文字に意味は持ちません、それらを配列して初めて意味を持ちます。記号として扱われ、文法というシステムに従い文章を構築します。漢字に比べ機械的です。コンピューターのプログラミングに近いと言えるのではないでしょうか。
ブログラミングに漢字でなくアルファベットが使用されるのも二進法計算に適応しやすいとか、処理能力が早いとか言う理由で使用されているそうです。(この前ミラノに来た叔父(元プログラマー)が言っていました。)
また、イタリア人を見ていてあまり字の綺麗な人を見ません。西洋人は、字の持つ美しさにあまり興味が無いように思えます。それもやはり、文字を絵として考える東洋文化と、文字をあくまでも記号としてとらえる西洋文化との違いにあるのではないでしょうか。

漢字とアルファベットという言語という道具の違いからも西洋人と東洋人の思考の差が生じます。道具が異なれば自ずと生み出されるものも異なりますし、また得意不得意も出てきます。

例えば英語は、英語、イタリア語、日本語の性質でも述べたように、文頭がどの単語で始まるかで、文の趣旨が伝わりやすい言語であるため、テンポの早い会話が可能で、会話やディスカッションをする上で都合の良い言語であるといえます。つまり、会話によってより効果を発揮します。

一方で漢字は、どの漢字を使用するかでニュアンス違いを表現する事が可能です。例えば「思う」「想う」どちらの漢字を使うかで、微妙な変化を出す事が可能です。前者は自分の頭で考える一人称的な意味を持つのに対し、後者は
第二者以上の存在を感じ取る事が出来ます。英語だとどちらも「think」ですね。
つまり書く事でより効果を発揮する言語だと言えます。
漢文や俳句にもいえるように、読み手によって色んな意味を想像させることが出来るのも漢字の特徴ですね。

次は何故そうなったかを見ていきましょう。




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イタリアデザインの深読み 竹下彬史
村上隆の「創造力なき日本」~アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」~
を読みました。今後アートやデザインの分野に興味がある、もしくは仕事として関わっている人に是非読んでもらいたい一冊です。
「世界ではこう戦え」と帯タイトルにもあるように、世界に通用するアーティストになるための具体的な戦略と方法論が書かれています。
この内容はアーティストのためのものではなく、デザイナーにもすっぽり当てはまる内容になってるので必ず生き残るためのヒントがえられる事は間違いないです。努力の方向性を間違えないためにも、早い段階で読んでおく事をお勧めします。

アートやデザインのルールの理解無しにもの作りをし続けるのは非常に非効率である事も述べており、
以前に村上隆の「芸術起業論」「芸術闘争論」を読みましたが、今回の「創造力なき日本」は前者で書いた内容にさらにビジネスの視点と、企業組織としての視点が加わり、集団でどのようにアートを作っていくべきなのかという部分にも触れています。

村上氏は、
”アートの世界も’企業の論理’と共通する、共同作業の中には一般企業と変わらない性格が生まれる” と述べています。

前2作も非常に面白いです。読むだけで村上隆のエネルギーが伝わってきます。かなりこってりに仕上がっていて、結構な破壊力がありました。お勧めです。今回のは言葉により磨きがかかり、要点も絞られてるのではじめのとっかかりとしては良い本であると思います。
「創造力なき日本」を読んで更に詳しく知りたい方は「芸術起業論「芸術闘争論」を手に取ると良いかと思います。 


面白いなと思ったところを少しまとめてみました。


”芸術には「大衆芸術」と「純粋芸術」に分けられる。例えば漫画やアニメが日本の代表的な大衆芸術。
大衆芸術は庶民の購買意欲を最大化する事に目的が絞られるのに対し、純粋芸術はハイヒエラルキーの人たちによって、お金で才能を買われる。純粋芸術の場合一般大衆に理解不能な事をしていても、ハイヒエラルキーの人たちの期待を裏切らなければよい。
だからこそ現代美術はその時代において評価を得られなくても”時代を乗り越えていく可能性”が出てくる”

デザインの場合は大衆芸術的な要素も含まれているので、線引きは難しですが、でもこれは自分がどの役割を果たしてゆきたいかによって決まっていくものだと思います。
「時代を乗り越える可能性」という言葉には勇気をもらいます。未来をどう導いてゆけるか、アーティストやデザイナーはその誘導者になり得る職業である。これは誇りを持ってよい事だと思います。


”まず、アーティスト(デザイナー)という職業は、社会的ヒエラルキーのピラミッドの最下層であることを自覚しなくてはならない。
純粋芸術の顧客は大金持ちであり、彼らがいてこそ制作が可能であり、要求に従わなければならない。また、仕事を頂くためにも自分からただただ歩み寄る事をしなければならない。
こうしたヒエレルキーから抜け出すには教授などの「教育者」という社会的立場が与えられ最下層から抜け出す事は出来る”

まず自分たちのおかれている立ち位置を把握することが大事なのだと気付きました。また、自分が最終的にどのポジションに着きたいかで、今やるべき事が変わっていますね。 
自分がどこにいるかも分からず、ゴールも分からないまま闇雲に走り回るフルマラソンほど恐ろしいものはないです。。。
現段階で明確なゴールは分からなくても、大体あっちの方角ってぐらいはハッキリさせるべきなんだと思います。



”最初に問われるのは才能でなく自覚と覚悟。芸術家は覚悟と肉体を資本としたアスリートでなければならない。また絵の才能でなく”戦略”が現代美術の世界で戦う上で重要である。欧米の芸術の世界には”確固たる不文律”が存在し、日本の芸術家たちがほとんど欧米で通用しないのはそれらの理解がないからだ” と指摘しています

”確固たる不文律” ようは、言葉や文章で明確には体系化されていない教養の範囲の事を指しているのだと思います。このあたりを理解するには、キリスト教などの宗教や歴史、戦争や性の問題等の教養を身につけない限り見えてこない領域なのだと僕は考えています。
やはり宗教観、歴史観無しには芸術の奥にある背景は掴めないのではと感じます。また現代社会が抱える問題も見えてきません。


”本気でアーティストを目指している若い人には「寝るな!」といいます。ろくに睡眠を取らずに、意識が朦朧としようとも絵を描き続ける。そういった生活を3年程続けていると、絵を描く事はたいした事ではなくなる。その時にあらためてこれを続けてけていくのかと自問自答する。
~中略~ 
この業界で24時間寝られないと言った状況は苦しみのうちに入らない。死線をさまようのにも近いようなところまで自分を追い込む時期があってもいいはずだし、若くて体力のあるうちにそうした経験をすべきであり、自問自答してみる事も大事である” と言っています。

結構きつい言葉ですよね~。でも”若いうちは”です。出来てますか?


さらに面白かったのが、過去の歴史を振り返り、成功した芸術家は大きく分けて以下のパターンに分類されるという事です。


1:天才型 (ダヴィンチ、ピカソ)
2:天然型 (山下清、ピカソ)
3:努力型 (ダリ、狩野永徳、ウォーホル、陶芸家)
4:戦略型 (ハースト、ウォーホル、ダリ、北大路魯山人)
5:偶然型 (印象派の画家)
6:死後型 (パウルクレー、ゴッホ、ヘンリーダーカー、アウトサイダーアートの画家、山下清)

もちろん一つのパターンには限らず、いくつか組み合わさる人もいます。詳しくは本書に書かれています。



出来るだけ早い段階でこの本に出会っで欲しいと思い、記録も兼ねて書きました。興味が湧いた方は是非!




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