前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト -27ページ目

リバタリアンに補助金の必要性を説く人々~日本人の知らないリバタリアニズム超入門

SNSを見ていると、ワタセユウヤ、めいろま、蔵研也(敬称略)などのガチガチのリバタリアンに政府の責任とか、共生社会とか、全く意味のない絡みをしている人々がいて、不思議かつ哀れに思っていた。ある日、ふと気づいたのである。そうか、日本人の大部分はリバタリアンを知らないということなのか!
リバタリアン、日本ではなじみがない言葉だが、いわゆる欧米、特にアメリカとイギリスでは一定の人口割合を占める政治的集団である。
オバタリアンでもラストバタリオンでもなく、リバタリアンである。リバタリアンとはリバタリアニズムを思想信条とする人々である。
では、リバタリアニズムとは何か。
リバタリアニズム(libertarianism)は、個人的な自由、経済的な自由を重視する政治思想・政治哲学の立場である。リバタリアニズム思想が際立つのは「Leave me alone(ほっといてくれ)」という彼らのセリフである。リバタリアンは自由主義の一種であるが、特に個人的な自由をも重んずることが特徴である。彼らは徹底的な自由主義者であり、他者の身体や私的財産を侵害しない限り、人は基本的に自由であると主張する。
リバタリアニズムは日本人にはなじみにくい概念であることから適切な訳語はなく、「完全自由主義」「自由人主義」「自由至上主義」などバカっぽい訳語があるが浸透していない。

彼らがどれくらい自由主義かというと…
「政府は次世代を育てる教育内容など分かりもしないのに、それができると主張して増税して教育予算を投下しているわけで。俺には意味が分からんなと。あんなもんでは金を稼げるようにはならんだろ。」(ワタセユウヤ)

「エネルギーが輸入できなければ、江戸時代に戻る。どうしたって日本では4000万人しか生きれられないから、食料生産を優先するのは完全なムイミ。」(蔵研也)

「なぜかというとかワイはリバタリアンだからです。能力がある人が才能を発揮できないのは資源の無駄遣い。資源の最高に効率的な使用は人類進歩に貢献します。だからワイは資本主義に賛成で共産主義を嫌います。」(めいろま)

日本人の特徴として「わかっているけどやめられない」という思考回路がある。上記の蔵氏の言うように、日本の独自のエネルギーで養えるのは全員が貧乏してなおせいぜい3千万人~4千万人であることは、江戸時代や明治時代が物語っている。でも、ついつい有機農産品を買ってしまったり、暖炉に憧れる。

全員に一人10万円配って大丈夫なわけがないけれどもう一回10万円ほしい、あるいは、税収50兆円で100兆円の予算を組んでいたら何かヤバいことがありそうだけど、先のことだからまいっか、とか、そういうものである。

背景にあるのは「まあ、上が何とかするだろう」というものであり、政治家でも日本の議員や首長、特にご高齢の町村長にはよくそういう方がおられる。しかし為替一つとっても「上」が何とかできる範囲は今の国際社会において大きくはない。

一方で、アメリカ人はどちらかというと「上」への信頼がない。これは建国の経緯などもあり、アメリカ人の心の奥底に沁み渡っているものであると言われる。
例えばアメリカの地方に行くと「サバイバリスト」という人々がいて、自宅の地下に武装した核シェルターを持ち、いざという時にはそこに数か月こもる準備をしている。自分のみを信じ、世界最強の米軍をも信頼しない人々である。武装は人の根源的な権利、と考えているから銃を持つ権利を強硬に主張する。

サバイバリストとリバタリアンの思考回路には通底するものがある。それは「政府は無駄であり、信用できない」というものである。
これは大いに当たっている。人というものは自分の金を大事にするようには預り金を大事にしない。洋の東西を問わず、共同体や資産家の資産管理は代理人に委ねられてきたが、そこは無駄を増やし、私腹を肥やす代理人と資産の持ち主のバトルの歴史だった。だからこそ、複式簿記が発達したわけである。
一方で、人には能力差、気力差などがある。人の社会におけるスタート地点は異なるので、自由競争は莫大な不平等をもたらす。共同体があり、助け合うことで弱者も強者も共存していける、という面があるのが社会である。

そもそも日本人はリバタリアニズムという思想に接する機会がない。初等教育、中等教育の現場の先生にはいわゆる左翼思想が行き渡っているので、そもそもリバタリアニズムを知らないだけでなく、勉強家で知っていても、あえて嫌いなリバタリアニズムを紹介する教員など存在しない。大学も、基本的には左翼大学が多いので、リバタリアニズムは紹介されることがなかなかない。日本の右翼大学は全体主義であるから、これまたリバタリアンとは縁がない。マスコミもまた、左翼思想が行き渡っている。日本の右翼マスコミは全体主義がお好きであるから、望んでハイエクやフリードマンを読みに行く物好きか、アメリカなどに留学するか、どちらかでなければリバタリアンに出会うことがない。
ちなみに、典型的な日本人である私のような気の弱い人間は、リバタリアンの考え方を「理解はする」ものの、それだけでは世の中は回らないのではないか、という中途半端な思考になるが、彼らリバタリアンは自由こそ至上の価値である、と言い切ることができる。

リバタリアンに「補助金ガー」「MMTガー」「地域社会ガー」「食料自給率ガー」と言っても説得できる可能性は「ゼロ」である。何しろ「政府はいらない」と確信している人々である。正直、上のお三方にそういう議論にもならない議論を吹っかけている人々は滑稽そのものであるが、背景にあるのは「日本人がリバタリアニズムを知らない」という一点に尽きる。
リバタリアンは課税を徹底的に忌避するが「クレクレ」とも言わない。
ちなみに「減税せよ」と言いつつ「クレクレ」言う「太郎イズム」は「フリーライダー(日本名薩摩守)」という。フリーライダーについての説明はまたの機会に。

自由主義は個人と自由市場の機能の可能性を信じる思想であり、リバタリアニズムはそれを徹底的に信じる思想である。リバタリアンに議論を吹っかけてそこが変わるものではない。蛙に水をかけるようなものである。

参考になる文献
蔵研也『リバタリアン宣言』
渡瀬裕哉『税金下げろ、規制をなくせ 日本経済復活の処方箋』

フリードマン『選択の自由』

 

「ゆたぼん親子」のコンテンツは「教育論」ではなく「ショータイム」として消費すべし!?

最近、ネット記事等でいわゆる「ゆたぼん」を目にしない日はないと言って良いだろう。世間的には、親子で旅し冒険する彼らの資金調達であったり、ご飯をおごってもらうとかもらわないとかいうたわいもない話であったり、さらには日々の親子の言動がコンテンツとして消費されている。
重要なのは、それはリアルな冒険と言うものではなく、どちらかと言うと以前に大ブレイクした猿岩石の世界紀行であるとか、あるいは、亀田3兄弟の表の姿(どちらが裏か表かはわからないが、亀田はボクサーとして一流の中でも上位の実力を持っていたとされており、私もそれを信じている)に近いものだと考えればよいだろう。
要するに、あれはリアルな教育でなければ家庭像でもなく、ある種の予定されたエンターテイメントなのである。もちろんそのエンターテインメントのあり方自体が川口浩や猿岩石の時代と今のネット社会とでは異なるわけだが、本質は同じ、なのである(純烈&ダチョウの「白い雲のように」再ブレイクにびっくり)。
とするとその挙動をいちいち報道している一部の芸能マスコミが伝えるのは、まさに昭和のプロレス団体の「闘争」に代表される、一つのショーなのである。
よって、「ゆたぼん親子」が提供しているコンテンツはまさに、ショータイムとして消費すれば良い性質のものだろう。くれぐれも、教育論をそこに絡ませてはならないということがわかる。ましてや、彼が学校に行かないからといって、それを真に受けてもう学校に行かなくても良い、と考えてしまう子どもがいるとしたら、それをたしなめるのは親の役目である。
昭和の話で言うなら、素人が体育館でマットを敷いてブレーンバスターをやってはならないのと同じである。
もちろん学校に行くと言うこと自体に価値があるかというと、そこは揺らいできている。学校に行くこと自体には、当の文科省も100%の価値を認めているというわけではなく、すでに学力保証と出席は一体という考え方ではない。

重要なのは「楽しんでも、真に受けない」ということなのである。もちろん、楽しむ必要すらないものなのかもしれないが。
 

ちなみに「ゆたポン」と思ってました!

分担執筆した地域政党本『情報オープン・しがらみフリーの新勢力』届く

私も分担執筆させていただいた地域政党サミット編の地域政党本『情報オープン・しがらみフリーの新勢力』(CAPエンタテインメント)が届きました。主要書店にも並んでいるとのことです。私の担当は第1部の総論編「地域政党の存在意義」のうち、「議員主導型地域政党VS首長主導型地域政党」のパートです。金井先生の地域政党論を土台として、それぞれの類型について、ここ15年ぐらいの動きを概観しつつ概説し、地域政党の存在意義があるとしたらどういうところにあるのか、という観点から持論を述べました。
ちなみに、恐れ多いことに沖縄の地方自治学の大御所である島袋純先生とご一緒させていただきました。ちょうど先週末の地方自治学会の島袋先生の沖縄の戦後史にかかる発表も非常に重厚で、やばいやばい、勉強しなきゃ、とあらためて反省したところです。
 
第2部、第3部が地域政党のパート。各地でぶれずに、地域本位、市民本位で頑張る仕事人たちの個性が楽しいパートです。
本書は幅広く地域政党の現在地について情報を読み取れる内容になっていますが、私としては、これから地方選挙に挑む人々、特に大政党の公認なく戦う人々に参照していただければいいなあ、と思っています。
 
表紙の「地域のことは地域で決める」は地方議員がよく使うフレーズです。しかし、本当にそうなっているのかというと、ここ10年余りの地方分権に関する議論、特に国政における議論の停滞がそうではないことを物語っています。また、紙幅がなく書けませんでしたが、国政政党はそれぞれ独自の地方自治観を持っていて、なかには集権型の極致のような政党もあります。
「そういうあり方がいい」という方もおられるでしょうし、実際に政治学的には政党、特に国政政党はその安定的な運営が望まれる、という考え方があり、選挙制度一つとっても「混ぜるな危険(砂原庸介)」的な考え方があり、一理も二理も有ります。しかし、そもそも安定的な制度が望ましい、という考え方は合理主義の極致であり、実際の地方自治とは対極にあるものです。
人口169人の青ヶ島村の村長と人口が377万2029人の横浜市の市長の力関係は決して169対3772029ではないのです。
本書の帯を書かれた渡辺喜美さんは「テコの原理」と表現していますが「我こそはテコたらん」という方々はぜひ、本書を通じて新たなワールドを切り開いていただきたいところです。
 

 

 

 

今日は学校でCOP27とUNFCCCのお話

学校で「現代社会と政治~政治と環境-政治は環境問題にどのように関わったのか」というコマを担当しています。COP27の開催を踏まえ、本当は「四日市ぜんそく」の日でしたが、入れ替えて「国際政治と環境問題」を先にやりました。
国際的な枠組みの歴史、温暖化に関する技術の進歩の貢献、COPの仕組みや国々の合従連衡の様子など、今日の説明でニュースがよくわかるよ、というのが主眼です。

「共通だが、差異のある責任」の意味合い、アメリカ、オーストラリア、カナダが組んでいる意味合い、EUが先鋭的なことを言う背景、スイスと韓国、モナコが組んだ背景などなど、COPは政治を学ぶためのネタの宝庫。
また、私が編集者として環境問題、環境会計などに取り組んでいた時代と比較すると、格段に精緻な議論ができていて、背景にスパコンや観測技術の進化があるのは私としては滅法おもしろいのですが、学生はそこが一番眠たかったようです。
本当は一通りの公害問題の説明の後にやりたい内容なのですが…。
この記事の図は資源エネルギー庁のサイトから引用しました。
関心がおありの方はぜひ、「あらためて振り返る、「COP26」~「COP」ってそもそもどんな会議?」をお読みになってください。

やっぱり三島の源兵衛川のまちづくりは凄い

日曜日のお昼は日本ヒューマンリレーション研究学会の昼休みで、三島の中心街を流れる農業用水路である源兵衛川を散策しました。
(以下、現地の説明看板等をもとに記述)
源兵衛川は、かつて、川沿いの多くの家家が生活用水にも使用する三島市民のなくてはならない存在でした。また多くの家々がいわゆる川端と言われる洗い場を川沿いに備え、そこが市民の社交場にもなっていたといいます。
季節の行事で使用され、夏には子供たちが泳いだり魚取りをするなど三島市民の心の拠り所でした。
ところが昭和の高度経済成長期に上流域で産業活動が活性化すると地下水が組み上げられ、さらには雑排水の流入やゴミの投棄などもあり川は汚染され、昭和58年頃には暗渠にしてしまおうという計画すら浮上しました。
ここで立ち上がったのが三島市民です。1992年にグラウンドワーク三島という組織が立ち上がり、市民、NPO、行政、企業の地域協働が始まりました。
資金的には、農水省の補助金(農業水利施設高度利用事業)なども巧みに活用しながら、川づくりという意味では多様な生き物が生息できるように設計された現在の源兵衛川を作り上げたそうです(越戸川も頑張っていますね)。
現在では、絶滅危惧種のホトケドジョウやミシマバイカモが生息し、夏にはゲンジボタルも見られます。
この源兵衛川は、清流まちづくりの有名事例として私が議員になった頃には既に大変有名でした。会派を組んでいた須貝郁子前市議はこの事例が大好きで、その凄さをいつも力説しておられ、私も当時、見学に来て素晴らしさにたまげたものです。
2016年には世界灌漑施設遺産にも登録され、現在では三島市民にとってなくてはならない憩いの場となっています。
実はこの昼休みの散策の前に、土曜日の夜にもこの川沿いを散策しましたが、とにかく市民が夜遅くまで散策し、お年寄りはウォーキング、少し陰になったところでカップルが愛を語り合うなど、老いも若きもこの清流を大変愛し、楽しんでいることがよくわかりました。
越戸川はまだまだこれからの展開がありそうですし、和光市のまちづくりにも参考になる点が多々あると思います。