前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト -26ページ目

クリスマスの打ち合わせはイスラム料理の名店で

クリスマスは盟友 大豆生田実氏と。
あいにくクリスマスなのでどこも混み合っている。どこか静かなところは、と探したのが池袋のガチのイスラム料理の名店マルハバ。
普段とは打って変わったガラガラの店内ですが、店員さんが「今日はスペシャルメニューがあります」。2人で顔を見合わせて「えっ、クリスマスメニューですか?」
店員さん当惑。
「違います!日曜のスペシャルです」
ほっと胸を撫で下ろし、「では、スペシャルとナンを!」
その後、骨付き羊肉のカレーから、名物のチャイまで楽しみ、話題は尽きないのでした。

氏は県議から初挑戦の足利市長選で統一教会信者である旨の虚偽宣伝をされ、落選、訴訟勝訴などを経て当選、市長時代には民主党政権のバラマキに反対し、ともに戦いました。
議題は統一教会問題など既存政党の腐敗を踏まえた保守の再構築。大豆生田さん、相変わらずの熱い人です。
ちなみに統一教会事件絡みで記事を『現代』などで色々お書きになっていますので、気になる方は検索を!











裾野の事件は氷山の一角~現場は保育人材を十分に厳選できていない

裾野市内の保育園の赤ちゃん組の暴行、暴言事案は衝撃的に世間からは受け止められているが、これは氷山の一角である。

0歳児、1歳児は基本的に暴行や暴言を受けても親に言うことができないため、不届きな保育士のターゲットになりやすい。

また、基本的に保育室は密室であり、その中で何が行われているかは担任以外は把握できない。

厚労省は今回の事案を受けた調査をする、と言っているがそれで事案が把握できるかというと容易ではない。

 

私は全国市長会子ども子育て検討会議の座長の時代から、無償化や待機児対策による人材の質の低下、保育の質の低下に警鐘を鳴らしてきた。昨今はとにかく保育人材が不足し、従来であれば選べた選考の過程でも、とにかく数合わせになりがちな状況に拍車がかかっている。

実は教員の採用倍率も下がり、教育現場も疲弊してきているが、学校であれば子供も問題を親に言うし、協力して課題解決に当たるということができるが、密室である保育室で、他の保育士たちにも見えないところでの暴行や暴言となると、口裏を合わせられれば対処のしようがない。

 

今回のような案件はさすがにひどすぎるが、たたく、つねる、不適切なあだ名をつける、などの事案は頻発している。子どもが保育園を極度に嫌がる場合、園の管理職とは情報共有をした方がいい。

多くの保育士は真面目に職務に当たっている。しかし、保育士不足になってからは、とにかく子供好きではない保育士が現場にいてもおかしくはない、という実態を前提としてわが子の様子を見ていただきたいのである。

中位投票者定理と選挙制度を学ぶ

ここでは杉田水脈氏の政治姿勢についての是非は議論しない。杉田水脈さんという衆議院議員が存在しうる理由を初歩的な経済学の定理と選挙制度から説明する(経済学的な正確な定義ではなく、わかりやすくするためのざっくりした説明であることをお許しいただきたい)。

いわゆる(公共)経済学に中位投票者定理という定理がある。小選挙区において、仮に候補者が二人で争点がひとつ(リベラルか保守か)であるとする。
①  Lを左寄りの政治思想(リベラル)、Rを右寄りの政治思想(保守派)とする。
②  両極端から順番に人を並べていくと、LからもRからもちょうど真ん中の人がM、いわゆる中位投票者。
多数決投票となるので、半分以上の票を得る必要がある。左派も右派も両端から順番に票を獲得していき、中位投票者(M)の票を得た政党が選挙で勝利する。簡単に言うとこういう話だ。

 

まあ、そこまでの話ではなくとも、選挙では、極端な人は基本的に態度が決まっているので、小選挙区の選挙戦では真ん中あたりの有権者の取り合いとなる。
つまり、小選挙区制度では、所属がL系でもR系でも、穏健というか真ん中よりの人が選ばれやすい、ということがわかる(もちろん、アメリカのレッドステート、ブルーステートや日本の島根鳥取のように真ん中に来る前に圧倒的にどちらかが得票してしまう選挙区もある。いわゆる無風区である)。
このように小選挙区からは、比較的極端な思想を表明している杉田水脈氏が衆議院議員になる可能性はさほど高くない。小選挙区では杉田氏のような態度表明は非常に不利となる、ということを中位投票者定理は教えてくれる。皆さんの皮膚感覚的なものと同じ結論だろう。


一方で、杉田氏は比例単独候補である。衆議院比例は複数が当選する制度であり、「拘束名簿制度」をとっていることから、政党が用意した名簿が上位であれば、本人がどのような思想信条でも非有名人でも、関係なく当選することができる。拘束名簿の順位は知名度でも得票数でもなく、政党の意思である。つまり、杉田氏は選挙制度を踏まえた自民党の意思で衆議院議員になった、ということが分かる。

参議院比例に出るのはどうか。こちらは非拘束名簿方式であるから、政党が順位を決めるものではないが、逆に極端な思想信条(を表明している人)であっても、その政党から選ばれる複数の政治家で最も人気を得て、名前を書いてもらえれば当選はし得る。ただ、こちらからの当選も可能であるが、巨大な利益集団を背景に持たない杉田氏の背景と、社会一般における知名度ではハードルは高いだろう。特に自民党の参議院比例は利益団体の団体戦であり、ここに故石原慎太郎氏のようなタレントが割って入ることはあっても、一般人が入る隙はほとんどない。

さて、参議院には小選挙区の地域と中選挙区の地域があるが、中選挙区の地域であれば、中位投票者定理はもちろん当てはまらない。よって、比較的極端な思想信条でも、当選ラインの票数さえ積み上げれば当選はできる。しかし、当選者を見ればわかるが、こちらのハードルも高い。

ちなみに、このような複数の仕組みがもたらすのは、党内分裂である。中道寄りが揃う衆議院選挙区議員(および選挙区落選から比例復活のゾンビ)、参議院1人区議員と、極論が言える比例単独や参議院中選挙区の議員が混ざることで政党は求心力を持てなくなる。

さらに、政党には地方議員も所属している。これがまた政党をばらばらにする。
政令市議会は数人まで、都道府県議会議会は定数10数人という選挙区がせいぜいだが、一般市議会、23区の議会では1選挙区だから、50人区なんて無茶な選挙区もある。定数50で当選ラインを越えればいいのだから、過激派の構成員ですら当選してしまう。
よって、政党所属を名乗っていても、なかには極端な人が当選し、党内では政党所属地方議員として発言することになる。
ちなみに、政党が一糸乱れぬ同一の(あるいは近しい)思想により団結し、比較的まとまった議論をして効率的に政策に取り組むことが良い政党である、という考え方が経済学にはある。政治学的にも評価される場合が多い。これを構造化された政党、と呼ぶ。

構造化された政党の特色としてはラベリング効果がある。「〇〇議員は△△党らしいよ。じゃあ思想的には□□だね、お察し―」が明確なのである。選挙的にもわかりやすい。

構造化された政党による戦いのメリットは、選挙区が動いても基本的には全然問題ない、という点にある。

一方で、政党の構造化は階級社会と結びついているケースが多く、メリットばかりではない。

逆に主として個人に立脚した政党を名望家政党などと呼び、政治学的には古い形態として一段低い評価を得ることになる。経済学的には名望家政党の評価は化石扱いだろう。

では、構造化された政党とはどんな特色がある政党かと言うと、これは党中央が強い政党でもある。まあ、読者が思い浮かべられるその党である。その党と、たとえば名望家政党の最たるものである自民党を比較して、どちらがいいか、魅力的かと問われるとなかなか明確に答えることは難しい。もちろん、挙国一致で政策を形成するためには効率的だが、特に、地方分権の考え方との整合性はどうか。

地方議会が地方/地域に立脚して仕事をすべきである、というのが地方分権の考え方であるが、政治学者、経済学者はこのような状況は構造化されない、名望家政党的な色合いを政党にもたらすので良くない、と考える方が多いようである。
ただ、考えていただきたい。構造化された政党の地方議員は国会議員と縦の関係に置かれはしないだろうか。

まあ、国と地方の関係は今回のテーマではないので措く。


少なくとも、国政政党で党内にいろいろな背景のある、極論型の議員と穏健型の議員が混在する理由が選挙制度にある、という意味はお分かりいただけたかと思う。
そして、杉田さんは現在の選挙制度と自由民主党の意思が生んだ衆議院議員である、ということが初歩的な経済学の定理を踏まえて確認できた。

ソフトな予算制約~予算制約を一時的に緩和しても、いずれそのツケは税(や債権者)の穴埋めにより払う

財政学や公共経済学の基礎で「ソフト・バジェット」問題というものがある。通常の経済主体では、個人であれ企業であれ、予算制約の中で自らの支出計画を考えなければならない。しかしながら、政府は国債発行により大規模な補正予算を平気で行っている。このような予算がゆるゆるの状況のことを言う。
予算(バジェット)がゆるゆる(ソフト)、つまり「ソフトな予算制約」「ソフト・バジェット」と呼ぶわけだ。もともと、ソフト・バジェットはハンガリーの経済学者コルナイが社会主義体制下の国有企業がいくら赤字でも政府の支援の下、破綻に至らない、という状況を踏まえて提唱した。
ソフト・バジェット問題は現代的には民間赤字企業の救済にも当てはめられる。不採算企業が政府に救済される際には「大き過ぎてつぶせない」論などさまざまな言い訳ものとで財政支出が行われるが、それは民間経営者にモラルハザードを引き起こすことがある。
さて、ソフト・バジェット問題は、予算制約を一時的に緩和しても、いずれはそのツケを税や債権者の穴埋めにより払うことになる、というのが結論である。仮に政府の通貨発行権が予算制約の天井を取っ払うのなら、そもそも政府に関してはソフト・バジェットは問題にならないはずである。ソ連は崩壊したが。

通の鯨墓

捕鯨に関心を持ってから一度は行ってみたかった場所にようやく行くことができた。山口県長門市にある青海島の「鯨墓」である。
この鯨墓は、いわゆる鯨塚の一類型であり、元禄5年(1692)鯨組網頭により建てられた。
日本人は古来、寄り鯨・流れ鯨といわれるクジラを捕獲し食料として活用、これにより地域に栄養源や富がもたらされることへの感謝と供養のため墓を建て、神社にまつるなどして手厚く追悼してきた。
その後、近代的な組織捕鯨を行うようになっても、このような慣習は途絶えることなく、鯨墓にとどまらず、鯨過去帳の作成や卒塔婆や戒名や鯨法会を行う地域もあるなど、日本人は鯨への特別な思いを持ってきた民族と言える。
日本国内には鯨墓以外にも、鯨塚や鯨碑などもあり、その数は百程度あるとされる。
もちろん、各地の寺院には魚塚から針塚までさまざまなものがまつられているが、戒名を持つのは人と鯨ぐらいだろう。
さて、数多ある鯨関係の遺構であるが、この青海島の鯨墓は特別な存在である。それは、母鯨を殺してしまった時に、同時に死んでしまった鯨の胎児をとりたてて供養している、という特異性だ。
 
現地の解説版には下記の解説が記されている。
「鯨としての生命は母鯨と共に終わったが、われわれの目的はおまえたち胎児をとることではなかった。むしろ、海へ放してやりたいのだが、広い海へ放たれても、 独りではとても生きてはいけまい。それ故に、われわれ人間と同様に念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを得てくれるようにお願いする。(照誉得定師解説)」
 
この通(かよい)という集落の人々は古式捕鯨の時代から明治時代まで、2百年以上にわたり、鯨を捕り続けた。江戸時代末期、鯨一頭の価値は現代的には地方のマンション一戸ぐらいの価値があり、最高で1日に5頭もの鯨を捕獲したという。
通は鯨で大変潤った地域である。今では当時のことなど想像もできないほど鄙びた漁村だが…。
 
通の捕鯨は明治時代、欧米諸国の鯨乱獲により幕を閉じる。日本の開国は、アメリカの捕鯨船の基地を求めての要求が直接の引き金になったのだから、いろいろと考えさせられる。
 
この地域が生んだ詩人 金子みすゞの「鯨捕り」の一節を最後にご紹介する。
 
「鯨捕り」
 
(略)
むかし、むかしの鯨捕り、
ここのこの海、紫津しづが浦。
(略)
厚いどてらの重ね着で、
舟の舳みよしに見て立つて、
鯨弱ればたちまちに、
ぱつと脱ぎすて素つ裸、
さかまく波にをどり込む、
むかし、むかしの漁師たち…
きいてる胸も
をどります。
 
いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。
(略)
 
サッカー日独対決を見ながら。