前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

前和光市長の松本武洋です。
和光市政での経験を活かして、地方創生や地方自治の研究や教育を通じて世の中のお役に立つべく、教員として地方の現場を歩いています。
市政の現場は離れましたが、和光市を全力応援しています。

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生活保護の医療扶助で「自己負担」を求めることは意外に難しい、その理由

生活保護と医療費の一部自己負担は意外に制度的な相性が悪い。それは、生活保護の支給額が積み上げ方式で計算されていて、それは全額使い道が決まっている、という立て付けだからだ。一方で医療扶助は現物支給。つまり、仮に自己負担が一回500円だとして、その500円の原資が生活保護費の計算モデル上存在しない。自己負担を導入すれば、「制度上の想定外の支出」が発生し、それは事実上の生活扶助の減額(=最低生活費を下回る可能性)と同じことになる。場合によっては違憲(日本国憲法第25条の生存権との抵触)ということになる。よって、自己負担ではない方法で無駄な診療をなくす努力をするしかない、というのが制度との整合性という意味では正しいということになる。

自己負担を求める、という政策を主張する人はこの無理を知っていて見て見ぬふりをしているか、知らない、ということになる。もちろん受けはいい。しかし、制度というものは建付けがあり、整合性が必要である。でなければ制度全体の信頼性が危うくなる。
前に挙げたように、自己負担以外でも無駄な受診の抑制をする方法はあるので、そちらを実施してもらえばいいんだよね。それが制度の根幹を守るということであり、同時に現場の負担を増やさない道でもある。
一見、効率が良さそうな案が重大な憲法リスクにつながったりもするのが福祉制度の難しいところ。

東日本大震災と津波の経験を伝える「震災遺構 中浜小学校」へ

東日本大震災と津波の経験を伝える「震災遺構 中浜小学校」に行ってきました。

 


本震の前の群発的な地震の時に避難経路を確認し、しっかりと学習にも取り入れて備えていた学校の体制、それを踏まえた垂直避難の判断、一方で津波警報の10メートルを大きく上回る第三波がたまたま引き波とぶつかって崩壊して10メートルで済んだ幸運、
いろんな要素があってこの場所に避難した人々は全員が生還しました(個人的にここを教育にお勧めするのは、全員が生還した施設だからです。たくさんの方が亡くなられた施設よりは心のダメージが少ないからです。学べることにはさほど差はありませんので)。
校長先生は、事前の嵩上げの高さや校舎の高さと津波警報の予報を踏まえて判断したとコメントしています。
皆で避難した屋上には小屋があり、そこに収納していた運動会などの行事用のグッズから敷物を用意したり、簡易トイレを作ったり、水浸しになった校地内で、事前に町から配布されていた防災毛布が無傷で見つかり、これが寒さから皆を救った幸運もありました。
一方で学校に残された津波による破壊の痕跡は圧倒的で、当時の映像がまざまざと思い出されました。
ちなみに当日、10分後に津波が来るという予報を踏まえて避難を断念した中学校にも行ってみましたが、確かに避難には遠く、その点を事前にも確認していた学校側の体制はしっかりしていると感じました。
ただ、津波が来たのは予報より遅かったため、隣の小学校は中学校に避難し、彼らも無事だったので、どちらが正解だったのかは分かりません。いや、正解はない中で、この2つの学校の関係者はベストを尽くしたんですね。
下記はホームページより。
「開校以来、地域とともに歩み、愛されてきた中浜小学校
平成23年(2011年)3月11日、屋上に避難した児童と教職員、保護者ら90人の命を守り抜いた校舎は、津波や高潮への対策が事前に施されたものでした。
中浜小学校は内陸の坂元小学校と統合され、平成25年(2013年)に閉校となりましたが、山元町では宮城県南部に残る唯一の被災建築物である校舎の保存・活用を決定
大津波の痕跡をできる限り残したまま整備し、震災の教訓を風化させず、災害に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構として公開しています。」
入場料大人400円。語り部の方の説明が聞けました。

 

九都県市会議は協力ゲームに

東京一極集中の議論は私が大切だと思っている、大きな観点が二つあり、一つは東京集積に効率性があるのなら、それはそれでいいのではないか、という観点。もう一つは、それはそれていいとして、インフラの負担など、いろいろと近郊都市や地方都市の立場もあるので、パイはちゃんと配分しようや、という観点ですね。
(さらに、東京に人と水、電力、食料などを送り込むもっと遠い地方との関係もそうであるべきなんですよね。)
前者は、さらに効率的な強い東京を作るにはどうしたらいいのか、という議論につながるとともに、東京一極集中のリスクを踏まえて、バックアップシステムとしての行政の場や、東京に大災害があった時などに、それで日本経済が滅びない程度に強い、いくつかの経済圏を東京から十分に離れた地方に作る、という論点につながり、後者は、強い東京に協力する地方には、それなりのパイを配分する必要がある、という論点につながります。
いずれにしても、教育環境の格差など、生活格差を首都圏内で大きくすることは得策ではないですし、首都圏のグレート東京としての強さを作るためにも首都圏内の格差は何とかする必要があります。
ここの整理がいま一つできていないのが九都県市会議の弱さだと思います(議論していないと主張しているわけではありません。その観点がもっと前面に出てくるべきなのです)。東京から奪う、ではなく、東京とともに栄え、分け前もちゃんといただく、共存共栄が不可欠です。
和光市で言うと、北インターにできた流通系の施設はべつに和光市をターゲットにしたものではなく、首都圏を潤すものです。行政の境は人為的なものであり、便宜的なものにすぎません。
ちなみに、東京を弱くする、という考え方も理論的にはありますけど、その分、大阪や名古屋、福岡が補完できるかどうかってのはやってみなければわかりません。
花粉症ゼロも、満員電車ゼロも、ゼロにはできなくても改善すればそれは都民だけでなく首都圏全体のメリットになります。そういう方向性を都民だけでなく、首都圏の住民が期待した、ということを忘れてほしいくないですね。

(問) 少子化は「政府の頑張り」で終わらせられる?

(答)
否。なぜなら、少子化の本質は「人口転換」という社会の構造問題だから。

そもそも人口転換とは何か?
図(出所 国土交通省)を簡単に説明しましょう。



①転換前:多産多死の伝統社会
昔はたくさん子どもが生まれ、たくさん人が亡くなりました。出生率・死亡率ともに高い状態ですね。

②転換期:まず死亡率が下がる
産業発展、生活水準の向上、医療技術の発達により、特に乳幼児死亡率が低下します。
このとき、出生率はまだ高いまま。
➡ この「ギャップ」が急激な人口増加を生みます。

③→④転換後:出生率も下がる
以下のような理由で出生率が低下し始めます。

乳幼児死亡率の低下 → 「働き手としての子供の補充」の必要性が減る

社会保障の発展 → 「老後の備えとしての子供」の必要性が減る

女性の社会進出 → 子育ての機会費用が増える(少なくとも、より手厚く育てる)

こうして少産少死の社会へ移行します。
そしてここで出生率がさらに下がるか、死亡率が上がると、人口は減少します。

ポイント:歴史的なタイミングの違い
この図で特に重要なのは、②(死亡率低下の開始)が歴史的に遅い国ほど、その後の変化が急速になるという点です。

つまり、後発で近代化した国・地域ほど、②→③の経過時間が短く、人口増加が急激になる。
その急増の反動で、後の少子化・人口減少も急になることが多い。

だから何が言えるのか?
子どもは今より増やせる可能性はあります。
しかし、そこには限界があります。できることにも、効果にも、限界があるというわけ。

なぜなら、人口転換は政策だけで完全に逆転できるような単純なものではないから。

にもかかわらず、社会全体にこの構造の理解がないと、次のような悪循環が起きる。

政治家が「子どもを増やします!」と、意味のあるのかわからないばらまき政策をやり続け、税金はどんどん捨てられていく。
有権者も効果があるかわからないけれど、なんとなくお金が配られるから「ま、いいか」となる。

まとめ

・少子化は「頑張り不足」の問題ではない
・人口転換という社会の構造を無視した議論は無駄を生む
・できることは限られているという冷静な見積もりが大切

「少子化対策」を語る前に、まず、ひとりでも多くの方々とこのグラフの意味を一緒に考えてみたいところですねえ。

図出所:国土交通省

あれから15回目の3月11日ですね

あれから15年になろうとする2月中旬、相馬市内を少しだけ訪問してきました。

訪問先は相馬市の沿岸エリアにある「みなとオアシスそうま港」と駅周辺です。

みなとオアシスそうま港は、「相馬港周辺に位置し、東日本大震災からの復興拠点として、震災経験の伝承や防災意識の向上、さらにはイベント開催を通した交流人口の拡大が期待されています」とのこと*。

福島県の沖合は寒流と暖流が交わる豊かな漁場として知られ、獲れる魚介類は「常磐もの」と呼ばれ、築地市場でも高値で取引されていました。

東日本大震災にともなう福島第一原子力発電所の事故後は試験操業が行われ、10年が経過した2021年3月31日にようやく試験操業が終了したとのことです。

今回訪問した「相馬復興市民市場(浜の駅松川浦)」は、相馬市と相馬市の漁業関連企業などが手を組み、第三セクターとして相馬市民市場株式会社を設立し、2020年10月に、復興事業のシンボルとして、オープンしました。私も市長時代にお世話になった立谷秀淸前相馬市長(全国市長会前会長)が取り組まれた政策の一つです。相馬市内の産品と新鮮な魚介類がそろい、地元のみならず県外ナンバーの車もたくさん来ていました。

ちなみに、浜の駅には昼過ぎに到着しましたが、食事処は長蛇の列で、弁当もすべて売り切れ。恐るべき人気です。

さすがに食事抜きはきついので、駅近くのお寿司屋さんでランチを食べてきました。

この施設のほか、原釜尾浜防災緑地を少し散策してきました。

何より驚いたのは、浜野駅松川浦の賑わいです。私も最近は福島産の魚介類を積極的に食べていますが、多くの人々が食べて応援の段階を越えて、純粋に楽しみに来ているのが印象的でした。

たまたまお目にかかった地元の方と少し話をしてきました。

復興の特需の時にたくさんの単身用を中心としたアパートが建てられたものの、復興需要が終わり、市内の不動産は空き部屋が目立っているようで、当時投資した地主さんには資金繰りが詰まり、安値で売り出している方もおられるようです。

この方が不動産事業に関係している方だったために、このような話でしたが、復興が少しずつ進むなかではいろいろと課題が出てくるものですね。

一方で復興特需の頃にたくさんの他の地域の人々が入り込み、治安面で心配な事案があったそうですが、最近は極めて平和になりました、とのこと。

今回はほんのわずかの時間の滞在でしたが、遠からず、じっくりと東日本大震災のエリアを訪問したいところです。

結びに、被災地域の益々の復興をお祈り申し上げます。

 

*みなとオアシス公式ウェブサイトより

 

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