前和光市長の松本武洋です。
和光市政での経験を活かして、地方創生や地方自治の研究や教育を通じて世の中のお役に立つべく、教員として地方の現場を歩いています。
市政の現場は離れましたが、和光市を全力応援しています。
「ねるとん紅鯨団」でわかる高校入試のDA ― なぜ作戦を考えなくてよくなるのか
noteに高校入試のDAについて書きましたが、わかりにくい、というご意見がありましたので、中高年のために「ねるとん」による説明の部分を膨らませてみました。
さて、昔、フジテレビ系列で『ねるとん紅鯨団』というお見合い番組がありました。
独身男女数人ずつが団体で旅行やイベントに行き、最後に告白タイムがある。男性が一斉に「付き合ってください」と女性の前に走る。人気の女性の前には3人、4人と男性が並ぶ。女性はその中から1人を選ぶ。選ばれなかった男性は、その場で失恋が確定する。
あの番組があれだけ盛り上がった理由は、純粋な「好き」という気持ちだけではマッチングが決まらないからです。
本当はA子さんが好きだ。でもA子さんは絶対にモテる。自分が行ってもフラれるかもしれない。だったら確実に自分を選んでくれそうなB子さんに行った方がいいのではないか。でも、B子さんに行ったら、A子さんへの未練が残る。相手の気持ちを探り、ライバルの動きを読み、自分の告白先を決める。あの番組は、恋愛というより高度な情報戦で、それが番組の人気の源だったように思います。
女性もまた、意中の男性からの告白を得るために工夫を凝らしました。
今の都道府県の公立高校入試も、構造はあれとそっくりです。単願制。1校しか出せない。本当は日比谷高校に行きたい。でも落ちたらあまり行きたくない併願校に行くしかない。だったら最初から○○高校に下げて「利確」した方がいいのではないか。受験生は学力を上げることと同じくらい、「どこに出願するか」という作戦に脳のリソースを奪われています。
まさに、ねるとんの情報戦です。
ここでDA、受入保留アルゴリズムを「ねるとん」に導入してみます。
ルールはこう変えます。
男女全員が、事前に「本当に付き合いたい人」を第1希望、第2希望、第3希望……と正直に紙に書いて提出する。
コンピュータがまず、全員の第1希望同士を突き合わせる。A子さんに3人の男性から告白が来たら、A子さんはその中で一番好きな1人を「とりあえずキープ」し、残り2人を振る。
振られた2人は、自動的に自分の第2希望の女性のところに回される。そこでまた、女性がキープしている人と新しく来た人を比べて、より好きな方をキープする。
これを誰も振られなくなるまで繰り返す。
これがDAです。
この方式のすごいところは、作戦を考える意味が完全になくなることです。A子さんが人気だからといって、最初からB子さんを第1希望に書いても得をしない。なぜなら、A子さんにフラれても、あなたの第2希望であるB子さんへの告白の権利は完全に保証されているからです。正直に「第1希望はA子さん、第2希望はB子さん」と書いた方が、絶対に損をしない。これを経済学では「耐戦略性」と呼びます。
もし『ねるとん紅鯨団』がこの方式だったらどうなったでしょう。番組は一瞬で終わります。全員が一斉に紙を出し、コンピュータが0.001秒でカップルを発表する。駆け引きも、散々迷った末に走る緊張感も、失恋のドラマもない。
まあ、番組としては最悪です。盛り上がる要素が一切ないからです。
しかし、高校入試は盛り上がらなくていいのです。
DAが導入されれば、受験生は「受かりそうかどうか」を一切気にせず、本当に行きたい高校を第1希望に書けます。日比谷がダメだったら、自動的にその他の都立が検討される。コンピュータが、あなたの希望順位の中で「合格できる最も上位の高校」を探してきてくれる。
制度設計次第ではここに国立や私立を混ぜることもできるでしょう。
『ねるとん』では作戦こそがエンターテインメントでした。でも入試における作戦は、ただの不公平です。お金があって私立で併願校を確保できる子は強気な作戦が取れるけれど、公立一本の子は安全策を取らざるを得ない。DAは、この情報戦を終わらせて、受験を純粋に「学力と、あなたが本当に行きたい場所」の勝負に戻してくれる。
まさに、盛り上がらない、誰も取り残さないのがDAなのです。
熊本支援のフェーズは人的支援メインに
千葉の水害が心配だが、熊本の震災では、水などの生き残りのリソースの支援から、中期的な人的リソースの支援へとフェーズが変わっているとのこと。一方で、支援する側の自治体の意識もまちまちである。なかには被災地に行きたい、という職員がいて、しかもわがまちは人的支援に名乗りを上げていない、というケースは多い。
基本的に派遣費用は特別交付税で支弁される。特に行政保健師さんでぜひとも行きたい、という場合は、とりあえず勤務先に相談されたら、と思う。首長サイドからすると、自分のところにそんな熱心な職員がいる、と把握できていないケースもあるのである。まさに、情報格差が行きたい職員と首長側で生じているのであり、そういうわけで派遣費用も手続きをしっかりやれば国費なので、ぜひ、ご検討されたい。
「稼ぐ大学論」が的はずれな理由
会社だとものを売ったり、そもそも開発したり、作ったりするための仕組みが最適化されているわけで、それでも赤字になったり黒字になったりするわけである。
大学は、確かに研究はしているが、稼ぐためのノウハウがあるわけではなく、もともと稼ぐための研究をしているわけではない。
仕事をして、目に見える形して、利益を生み、そこから組織を回しつつ、いくばくかの食い扶持を得ると言うことの意味を役人が理解する事は絶望的に難しい。
私の場合で言うと、出版の流通の仕組みを知っていて、本ができるまでに使う資材や、企画の進め方、間接部門の規模感など、一通りの事は理解しているけれど、じゃぁ、出版社を新たにやって稼いでみろ、お前、と言われると稼げないと思う(既存の出版社ならできるし稼ぐ自信はありますけどw)。
もちろん、大学がすべての経費を大学の稼ぎで賄うなんて事は想定していないわけだが、そもそも百万円の純利益を稼ぐということの労力やかかる元手を理解している公務員は副業をやっているか、実家が商売をやっている人だろう。当然、少数派である。
モノやサービスを売ってちゃんと回すのは難しい。
私学や医療は補助金があるし、参入規制もそこそこ強い。
しかし、普通の商売はそうではない。
稼ぐ大学とか「ばかだなぁ」としか言いようがないのである。
たまたま儲かった、というのと恒常的に稼ぐことの違いを誰か教えてやって くれ、というのが私の個人の感想です。
政策対象は制度を読んで動く――少子化対策が毎度毎度失敗するわけ
こども家庭庁が発足し、異次元の少子化対策に巨額の予算が投じられている。しかし出生数は過去最低を更新し続け、政策効果は見えない。その原因は「結婚したい若者」を無視し、「結婚した高所得者」ばかりを支援する的外れな設計にある。
なぜ、こうした“論理のすり替え”がまかり通るのか。その根本には、霞が関の政策立案が依拠するロジックモデル(論理モデル)の前提が見落としている致命的なポイントがある。それは、政策対象は、制度を読んで動くということ。 ところがロジックモデルは、人々が制度を「読む」ことを想定していないのだ。
霞が関のロジックモデルが前提とする「素直な人間」
ロジックモデルとは、
政策の資源(インプット)
→活動(アクティビティ)
→直接の産物(アウトプット)
→成果(アウトカム)
という因果の連鎖を図式化し、政策の妥当性を検証する道具である。少子化政策で言えば、「子育て世帯への給付金(インプット)→経済的負担の軽減(アウトプット)→出生意欲の向上(アウトカム)」といった流れが想定される。
このモデルは一見、合理的でわかりやすい。予算要求の際に「投入に対する成果」を明示でき、議会や国民への説明責任を果たす形式上も便利だからだ。霞が関はこれを義務化している。以前は、そのような検証すらなかったのでロジックが検証されること自体は悪くない。下記は厚生労働省のものだが、見たとおり、ないよりはましである。ロジックがつながっていない政策などあるのか、という疑問もあるだろうが、かつては「それ」が蔓延していたからこそ、このような形でロジックを点検するようになったのである。
しかし、ここには重大な問題点がある。霞が関のロジックモデルは、政策対象を「与えられた条件に機械的に反応する存在」
とみなしている。給付金を出せば喜んで受け取り、奨励された方向へ素直に進む。制度の「読み筋」が変わろうとも、人々の行動は不変だと暗黙のうちに仮定しているのである。
現実の人間は、そんなに単純ではない。目の前の給付金だけでなく、「この制度は将来も続くのか」「周りはどう出るのか」「自分が動くことで何か損をしないか」を考えている。つまり、政策を所与の条件として受け取るのではなく、政策そのものを戦略的に読む存在なのだ。ロジックモデルには、この「読む」という行為が最初から組み込まれていない。
若者たちの「結婚ゲーム」
独身研究家の荒川さんの記事によると、20代が「結婚できる」と感じる世帯年収は、2015年の400万円から2026年には800万円へと倍増した。一方、実際の20代の年収ボリュームゾーンは300万円台のままだ。
この状況を、若者たちが参加する結婚ゲームとして捉え直してみよう。
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プレイヤーは結婚を考える若者たち。彼らは「いま結婚する」「先送りする」「断念する」という戦略を持つ。
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結婚の利得は、得られる生活水準や幸福度から、経済的コストとリスクを差し引いたものだ。
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そして重要なのが、「どれくらいの年収があれば結婚生活が維持できるか」という相場観。これは周囲の結婚事例やメディアの言説、そして政府の政策の「見え方」を通じて形成される。
ここで起きているのは、相場観の現実への反映だ。中間層の若者が「600万円なければ結婚は無理だ」と信じれば、実際に結婚を断念する。すると結婚する層は高所得者に偏り、メディアに登場する「新婚夫婦の生活」はますます高コストなものになる。それを見た次の若者はさらに閾値を引き上げる。全員が合理的に判断した結果、社会全体では誰も幸せになれない悪循環が固定化する。
ロジックモデルは、この「人が制度の意味を読み合い、互いの出方を予測しながら動く」という相互作用の連鎖を描写できない。描写できないから、政策が悪い均衡をむしろ強化してしまう可能性にも気づけないのだ。
子育て支援が「結婚のハードル」を上げる皮肉
ロジックモデルの限界は、現在進行中の少子化対策にも如実に表れている。
政府が推進する子育て世帯への手厚い支援――保育無償化、児童手当の拡充、育休給付の上乗せ。これらはロジックモデルの上では、「支援→負担軽減→出生増」という美しい因果で結ばれている。
しかし、制度を読む若者たちの目には、まるで違って映る。
子育て支援の拡充は、「子育てにはそれだけの公的補助が必要なほどコストがかかる」という社会的事実を浮き彫りにする。それは同時に、「あなたがたはこの水準に達しなければ家族を養えない」というメッセージにもなる。結婚可能年収の相場は、このシグナルを受け取ってさらに上昇する。
皮肉なことに、既婚者向けの手厚い支援は、未婚者にとっては結婚市場への参入障壁として作用してしまう。ロジックモデルが「支援→安心→出生増」と描く矢印の裏で、未婚者は「支援の手厚さ→コストの高さを再認識→結婚断念」という、モデルに書かれていない矢印をたどっているのである。
霞が関のロジックモデルは今のところ、インプットからアウトカムへ一直線に進むことしか想定しない。だが現実には、政策は常に別のプレイヤーによって別の意味に読み替えられ、想定外の行動を誘発する。その「読まれ方」まで設計しないモデルは、もはや無力を通り越して有害ですらある。
さらに深刻なのは小池百合子師匠が率いる、都庁が仕掛ける自治体のゼロサムゲームである。都庁による手厚い(すでに子育てしている層への)子育て支援により、東京に住み、子育てができる層は恩恵を受ける。しかし、そもそも東京での子育ては高コストである。例として都立高校復活が喧伝されるが、都立上位校に我が子を送り込むには中学受験と大差ない費用の投入が求められる。東京は余裕がある層を近隣三県がら吸い上げる。三県は完全に対抗できはしないものの、相応の、基本的には的外れの投資を強いられる。三県の子育て予備軍、結婚予備軍は蚊帳の外である。
海外では「対象者に読まれること」を前提に設計している
こうした「人間の戦略性」を政策設計に組み込む発想は、海外では決して新しいものではない。
アメリカのFCCが電波帯域の割り当てにゲーム理論を応用した周波数オークションは、事業者がどう入札するかを均衡分析して制度設計し、巨額の財政収入と効率的配分を両立した。研修医の病院配属や公立学校の選択制には、嘘をついても得をしないマッチング理論が組み込まれている。イギリスのナッジ・ユニットは、人々の「戦略的な先送り」や「周囲の様子見」を読んで、税金の納付率向上を実現した。
共通しているのは、「制度そのものをゲームとして設計する」という思考法だ。プレイヤーがどう読み、どう動くかを事前に分析し、望ましい均衡へ導く仕組みを埋め込んでいる。彼らは「読まれること」を前提にロジックを組んでいるのである。
日本でこれが浸透しないのは、霞が関のロジックモデルが「人は制度を読まない」あるいは「読んだとしても同じ反応をする」という暗黙の前提に立っているからに他ならない。少子化対策の連敗は、その前提の甘さが最も深刻な形で露呈したものだ。
「普通に働き、普通の年収を得る若者が結婚できない社会」を止めるために
普通に働き、普通の年収を得る若者が結婚できない社会は、制度設計の失敗が人々の合理的な反応によって増幅された「均衡の悲劇」である。
この悲劇を終わらせるには、霞が関のロジックモデルそのものをアップデートするしかない。人々は制度を読んで動く。 ならば、読まれることを前提にロジックを組み立てるほかに道はない。具体的には、プレイヤーの特定と利得構造の可視化、情報の非対称性とシグナル効果の検証、均衡分析による「想定外の落とし穴」の洗い出しといった、ゲーム理論の視点を政策立案の標準装備とすべきだ。
痛みの原因を診ずに痛み止めだけを処方するような政策は、もうたくさんである。「読まれてもなお、望ましい方向へ人を導くロジック」をつくること。それこそが、少子化対策に今、最も欠けている視点なのである。
そして、それを一番理解していないのは国会議員なのかもしれない。
ある会社に人が定着する理由を垣間見た
先日ある会社で打ち合わせをし、帰宅したら着信履歴が入っていた。何か大切なことを忘れたかとコールバックしたら、入れ違いで、それでもかかってくるので、留守電やメールで済まない一大事かと思って何度も電話。
夕方にようやくつながって「社長、どうされましたか」というと、「ちょっと昼間の件で○○に代わるのでよろしくお願いします」と一番できる社員を指名。ドキドキ。
するとその社員、「先ほど社長とのお話の中で出てきたその、美味しい店の詳細を教えていただけますか」
ずっこけた。
予約できないことや並び方のシステムなど詳細にお教えして電話終わり。
そういえば、先日もその会社が会社ぐるみで通っている美味しい蕎麦屋さんの話を聞いて今度行ってみようと思っているところ。
なぜ、○○さんという超できる社員を長期間、20年単位で囲い込めているのかも判明。会社の仲間であり、何よりグルメ仲間なんだよね。
人の繋がりにはいろいろあるけれど、美味しいものを一緒に食べるというのは最高のつながりですね。
(写真はイメージです)

