前和光市長の松本武洋です。
和光市政での経験を活かして、地方創生や地方自治の研究や教育を通じて世の中のお役に立つべく、教員として地方の現場を歩いています。
市政の現場は離れましたが、和光市を全力応援しています。
「稼ぐ大学論」が的はずれな理由
会社だとものを売ったり、そもそも開発したり、作ったりするための仕組みが最適化されているわけで、それでも赤字になったり黒字になったりするわけである。
大学は、確かに研究はしているが、稼ぐためのノウハウがあるわけではなく、もともと稼ぐための研究をしているわけではない。
仕事をして、目に見える形して、利益を生み、そこから組織を回しつつ、いくばくかの食い扶持を得ると言うことの意味を役人が理解する事は絶望的に難しい。
私の場合で言うと、出版の流通の仕組みを知っていて、本ができるまでに使う資材や、企画の進め方、間接部門の規模感など、一通りの事は理解しているけれど、じゃぁ、出版社を新たにやって稼いでみろ、お前、と言われると稼げないと思う(既存の出版社ならできるし稼ぐ自信はありますけどw)。
もちろん、大学がすべての経費を大学の稼ぎで賄うなんて事は想定していないわけだが、そもそも百万円の純利益を稼ぐということの労力やかかる元手を理解している公務員は副業をやっているか、 実家が商売をやっている人だろう。当然、少数派である。
モノやサービスを売ってちゃんと回すのは難しい。
私学や医療は補助金があるし、参入規制もそこそこ強い。
しかし、普通の商売はそうではない。
稼ぐ大学とか「ばかだなぁ」としか言いようがないのである。
たまたま儲かった、というのと恒常的に稼ぐことの違いを誰か教えてやってくれ、というのが私の個人の感想です。
政策対象は制度を読んで動く――少子化対策が毎度毎度失敗するわけ
こども家庭庁が発足し、異次元の少子化対策に巨額の予算が投じられている。しかし出生数は過去最低を更新し続け、政策効果は見えない。その原因は「結婚したい若者」を無視し、「結婚した高所得者」ばかりを支援する的外れな設計にある。
なぜ、こうした“論理のすり替え”がまかり通るのか。その根本には、霞が関の政策立案が依拠するロジックモデル(論理モデル)の前提が見落としている致命的なポイントがある。それは、政策対象は、制度を読んで動くということ。 ところがロジックモデルは、人々が制度を「読む」ことを想定していないのだ。
霞が関のロジックモデルが前提とする「素直な人間」
ロジックモデルとは、
政策の資源(インプット)
→活動(アクティビティ)
→直接の産物(アウトプット)
→成果(アウトカム)
という因果の連鎖を図式化し、政策の妥当性を検証する道具である。少子化政策で言えば、「子育て世帯への給付金(インプット)→経済的負担の軽減(アウトプット)→出生意欲の向上(アウトカム)」といった流れが想定される。
このモデルは一見、合理的でわかりやすい。予算要求の際に「投入に対する成果」を明示でき、議会や国民への説明責任を果たす形式上も便利だからだ。霞が関はこれを義務化している。以前は、そのような検証すらなかったのでロジックが検証されること自体は悪くない。下記は厚生労働省のものだが、見たとおり、ないよりはましである。ロジックがつながっていない政策などあるのか、という疑問もあるだろうが、かつては「それ」が蔓延していたからこそ、このような形でロジックを点検するようになったのである。
しかし、ここには重大な問題点がある。霞が関のロジックモデルは、政策対象を「与えられた条件に機械的に反応する存在」
とみなしている。給付金を出せば喜んで受け取り、奨励された方向へ素直に進む。制度の「読み筋」が変わろうとも、人々の行動は不変だと暗黙のうちに仮定しているのである。
現実の人間は、そんなに単純ではない。目の前の給付金だけでなく、「この制度は将来も続くのか」「周りはどう出るのか」「自分が動くことで何か損をしないか」を考えている。つまり、政策を所与の条件として受け取るのではなく、政策そのものを戦略的に読む存在なのだ。ロジックモデルには、この「読む」という行為が最初から組み込まれていない。
若者たちの「結婚ゲーム」
独身研究家の荒川さんの記事によると、20代が「結婚できる」と感じる世帯年収は、2015年の400万円から2026年には800万円へと倍増した。一方、実際の20代の年収ボリュームゾーンは300万円台のままだ。
この状況を、若者たちが参加する結婚ゲームとして捉え直してみよう。
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プレイヤーは結婚を考える若者たち。彼らは「いま結婚する」「先送りする」「断念する」という戦略を持つ。
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結婚の利得は、得られる生活水準や幸福度から、経済的コストとリスクを差し引いたものだ。
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そして重要なのが、「どれくらいの年収があれば結婚生活が維持できるか」という相場観。これは周囲の結婚事例やメディアの言説、そして政府の政策の「見え方」を通じて形成される。
ここで起きているのは、相場観の現実への反映だ。中間層の若者が「600万円なければ結婚は無理だ」と信じれば、実際に結婚を断念する。すると結婚する層は高所得者に偏り、メディアに登場する「新婚夫婦の生活」はますます高コストなものになる。それを見た次の若者はさらに閾値を引き上げる。全員が合理的に判断した結果、社会全体では誰も幸せになれない悪循環が固定化する。
ロジックモデルは、この「人が制度の意味を読み合い、互いの出方を予測しながら動く」という相互作用の連鎖を描写できない。描写できないから、政策が悪い均衡をむしろ強化してしまう可能性にも気づけないのだ。
子育て支援が「結婚のハードル」を上げる皮肉
ロジックモデルの限界は、現在進行中の少子化対策にも如実に表れている。
政府が推進する子育て世帯への手厚い支援――保育無償化、児童手当の拡充、育休給付の上乗せ。これらはロジックモデルの上では、「支援→負担軽減→出生増」という美しい因果で結ばれている。
しかし、制度を読む若者たちの目には、まるで違って映る。
子育て支援の拡充は、「子育てにはそれだけの公的補助が必要なほどコストがかかる」という社会的事実を浮き彫りにする。それは同時に、「あなたがたはこの水準に達しなければ家族を養えない」というメッセージにもなる。結婚可能年収の相場は、このシグナルを受け取ってさらに上昇する。
皮肉なことに、既婚者向けの手厚い支援は、未婚者にとっては結婚市場への参入障壁として作用してしまう。ロジックモデルが「支援→安心→出生増」と描く矢印の裏で、未婚者は「支援の手厚さ→コストの高さを再認識→結婚断念」という、モデルに書かれていない矢印をたどっているのである。
霞が関のロジックモデルは今のところ、インプットからアウトカムへ一直線に進むことしか想定しない。だが現実には、政策は常に別のプレイヤーによって別の意味に読み替えられ、想定外の行動を誘発する。その「読まれ方」まで設計しないモデルは、もはや無力を通り越して有害ですらある。
さらに深刻なのは小池百合子師匠が率いる、都庁が仕掛ける自治体のゼロサムゲームである。都庁による手厚い(すでに子育てしている層への)子育て支援により、東京に住み、子育てができる層は恩恵を受ける。しかし、そもそも東京での子育ては高コストである。例として都立高校復活が喧伝されるが、都立上位校に我が子を送り込むには中学受験と大差ない費用の投入が求められる。東京は余裕がある層を近隣三県がら吸い上げる。三県は完全に対抗できはしないものの、相応の、基本的には的外れの投資を強いられる。三県の子育て予備軍、結婚予備軍は蚊帳の外である。
海外では「対象者に読まれること」を前提に設計している
こうした「人間の戦略性」を政策設計に組み込む発想は、海外では決して新しいものではない。
アメリカのFCCが電波帯域の割り当てにゲーム理論を応用した周波数オークションは、事業者がどう入札するかを均衡分析して制度設計し、巨額の財政収入と効率的配分を両立した。研修医の病院配属や公立学校の選択制には、嘘をついても得をしないマッチング理論が組み込まれている。イギリスのナッジ・ユニットは、人々の「戦略的な先送り」や「周囲の様子見」を読んで、税金の納付率向上を実現した。
共通しているのは、「制度そのものをゲームとして設計する」という思考法だ。プレイヤーがどう読み、どう動くかを事前に分析し、望ましい均衡へ導く仕組みを埋め込んでいる。彼らは「読まれること」を前提にロジックを組んでいるのである。
日本でこれが浸透しないのは、霞が関のロジックモデルが「人は制度を読まない」あるいは「読んだとしても同じ反応をする」という暗黙の前提に立っているからに他ならない。少子化対策の連敗は、その前提の甘さが最も深刻な形で露呈したものだ。
「普通に働き、普通の年収を得る若者が結婚できない社会」を止めるために
普通に働き、普通の年収を得る若者が結婚できない社会は、制度設計の失敗が人々の合理的な反応によって増幅された「均衡の悲劇」である。
この悲劇を終わらせるには、霞が関のロジックモデルそのものをアップデートするしかない。人々は制度を読んで動く。 ならば、読まれることを前提にロジックを組み立てるほかに道はない。具体的には、プレイヤーの特定と利得構造の可視化、情報の非対称性とシグナル効果の検証、均衡分析による「想定外の落とし穴」の洗い出しといった、ゲーム理論の視点を政策立案の標準装備とすべきだ。
痛みの原因を診ずに痛み止めだけを処方するような政策は、もうたくさんである。「読まれてもなお、望ましい方向へ人を導くロジック」をつくること。それこそが、少子化対策に今、最も欠けている視点なのである。
そして、それを一番理解していないのは国会議員なのかもしれない。
ある会社に人が定着する理由を垣間見た
先日ある会社で打ち合わせをし、帰宅したら着信履歴が入っていた。何か大切なことを忘れたかとコールバックしたら、入れ違いで、それでもかかってくるので、留守電やメールで済まない一大事かと思って何度も電話。
夕方にようやくつながって「社長、どうされましたか」というと、「ちょっと昼間の件で○○に代わるのでよろしくお願いします」と一番できる社員を指名。ドキドキ。
するとその社員、「先ほど社長とのお話の中で出てきたその、美味しい店の詳細を教えていただけますか」
ずっこけた。
予約できないことや並び方のシステムなど詳細にお教えして電話終わり。
そういえば、先日もその会社が会社ぐるみで通っている美味しい蕎麦屋さんの話を聞いて今度行ってみようと思っているところ。
なぜ、○○さんという超できる社員を長期間、20年単位で囲い込めているのかも判明。会社の仲間であり、何よりグルメ仲間なんだよね。
人の繋がりにはいろいろあるけれど、美味しいものを一緒に食べるというのは最高のつながりですね。
(写真はイメージです)
選択的夫婦別姓、賛成者の方が反対者より多いのに実現しない理由
選択的夫婦別姓に関する様々な世論調査の結果を見ると、世の中においては、賛成者の方が反対者より多いと言うことが明確に見てとれる。
一方で、選択的夫婦別姓が国会で法制化されるかというと、そのような兆しは全くない。
なぜこうなるのかを算式で考えてみよう。
まず、賛成派は人口は多いが、消極的賛成が多いことが様々な統計から現れている。多くの人は、そのような事は許されるべきだが、自分はあまり関係ない、あるいは自分はそういう判断を積極的にはしないと考えている人が含まれている。
一方の反対派は、賛成派より人口は少ないが、価値観などから強烈に反対をしていることがSNS等から見てとれる。反対はそのような事は許されるべきではなく、自分たちも当然そのような事はしないと考えている。
これを政治家の法制化するための期待効用として、比喩的にケースに数字を入れながら具体化してみよう。
政治家の期待効用を U とすると:
U(法制化) = (賛成派人口 × 0.3) - (反対派人口 × 0.9) - (党内調整コスト)
このようなイメージ(係数はあくまで比喩というかある種のでっち上げ)。
賛成派の「0.3」は、彼らが実際に投票行動で報いる確率・強度。
反対派の「0.9」は、彼らが投票で確実に罰する確率・強度。
党内調整コストは、議員間の対立処理に費やす手間、政治的キャピタル。
この式がプラスにならない限り、合理的な政治家の多数派が「現状維持」を破るメリットはない。
これはかなり乱暴な算式だが、現実をある程度反映していると思う。カーネマンらが提唱している行動経済学には「損失回避性(Loss Aversion)」という基本法則があるが、人は「得をする」ことよりも「損をする」ことに約2〜2.5倍敏感だと言われている。
そして、政治家には損得で動くタイプと損得以上のものを考えるタイプがいることが予想できるが、選挙で長期間生き残るのは合理的に判断する政治家だろう。つまり、政治家は基本的には現状維持を選ぶ。
ではこの変化はいつ起きるのだろうか。
これもケース分けしてみた。
1.賛成派の「強度」が上がる(例:国際批判・経済損失の可視化、問題が「切実」になる)
2.反対派の「拒否感」が下がる(例:価値観が変化する)
3.反対派の「人数」が自然減少する(高齢層の代替わり)
4.アジェンダとしての関心が総体的に上がる(例:大きな社会事件や国際的な人権評価のきっかけ)
現状で言うと、反対は高齢層が多いため、彼らがこの世を去り、違う価値観を持った人々が社会において割合を増すと変化する可能性が色濃くなってくるだろう。
人が変わるかというと、皆さんが自分自身を顧みればわかるように、人間と言うのは、そうそう変わるものではない。
よって、現状維持は当面続き、積極的な反対派がこの世を去ったところで、法律が変わるのではないかということが予想できる。
「待てということですか」という問いにはこう応答すべきだろう。
変わる時期自体は社会における運動や政治家への働きかけで前後することもある。
落選すればただの人、とは政治家を指すが、正しいかどうかよりも損得で動く政治家が生き残るなら、正しいことはさほど力を持たないかもしれない。
選んでいるのは有権者である。
逆に言うと、損得で動かずに政治にかかわると本当にしんどい。長く続けると確実に身を削るのが実感である。
連合「夫婦別姓に関する調査2025」
朝日新聞の2025年電話調査
生活保護の医療扶助で「自己負担」を求めることは意外に難しい、その理由
生活保護と医療費の一部自己負担は意外に制度的な相性が悪い。それは、生活保護の支給額が積み上げ方式で計算されていて、それは全額使い道が決まっている、という立て付けだからだ。一方で医療扶助は現物支給。つまり、仮に自己負担が一回500円だとして、その500円の原資が生活保護費の計算モデル上存在しない。自己負担を導入すれば、「制度上の想定外の支出」が発生し、それは事実上の生活扶助の減額(=最低生活費を下回る可能性)と同じことになる。場合によっては違憲(日本国憲法第25条の生存権との抵触)ということになる。よって、自己負担ではない方法で無駄な診療をなくす努力をするしかない、というのが制度との整合性という意味では正しいということになる。
自己負担を求める、という政策を主張する人はこの無理を知っていて見て見ぬふりをしているか、知らない、ということになる。もちろん受けはいい。しかし、制度というものは建付けがあり、整合性が必要である。でなければ制度全体の信頼性が危うくなる。
前に挙げたように、自己負担以外でも無駄な受診の抑制をする方法はあるので、そちらを実施してもらえばいいんだよね。それが制度の根幹を守るということであり、同時に現場の負担を増やさない道でもある。
一見、効率が良さそうな案が重大な憲法リスクにつながったりもするのが福祉制度の難しいところ。


