通の鯨墓 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

通の鯨墓

捕鯨に関心を持ってから一度は行ってみたかった場所にようやく行くことができた。山口県長門市にある青海島の「鯨墓」である。
この鯨墓は、いわゆる鯨塚の一類型であり、元禄5年(1692)鯨組網頭により建てられた。
日本人は古来、寄り鯨・流れ鯨といわれるクジラを捕獲し食料として活用、これにより地域に栄養源や富がもたらされることへの感謝と供養のため墓を建て、神社にまつるなどして手厚く追悼してきた。
その後、近代的な組織捕鯨を行うようになっても、このような慣習は途絶えることなく、鯨墓にとどまらず、鯨過去帳の作成や卒塔婆や戒名や鯨法会を行う地域もあるなど、日本人は鯨への特別な思いを持ってきた民族と言える。
日本国内には鯨墓以外にも、鯨塚や鯨碑などもあり、その数は百程度あるとされる。
もちろん、各地の寺院には魚塚から針塚までさまざまなものがまつられているが、戒名を持つのは人と鯨ぐらいだろう。
さて、数多ある鯨関係の遺構であるが、この青海島の鯨墓は特別な存在である。それは、母鯨を殺してしまった時に、同時に死んでしまった鯨の胎児をとりたてて供養している、という特異性だ。
 
現地の解説版には下記の解説が記されている。
「鯨としての生命は母鯨と共に終わったが、われわれの目的はおまえたち胎児をとることではなかった。むしろ、海へ放してやりたいのだが、広い海へ放たれても、 独りではとても生きてはいけまい。それ故に、われわれ人間と同様に念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを得てくれるようにお願いする。(照誉得定師解説)」
 
この通(かよい)という集落の人々は古式捕鯨の時代から明治時代まで、2百年以上にわたり、鯨を捕り続けた。江戸時代末期、鯨一頭の価値は現代的には地方のマンション一戸ぐらいの価値があり、最高で1日に5頭もの鯨を捕獲したという。
通は鯨で大変潤った地域である。今では当時のことなど想像もできないほど鄙びた漁村だが…。
 
通の捕鯨は明治時代、欧米諸国の鯨乱獲により幕を閉じる。日本の開国は、アメリカの捕鯨船の基地を求めての要求が直接の引き金になったのだから、いろいろと考えさせられる。
 
この地域が生んだ詩人 金子みすゞの「鯨捕り」の一節を最後にご紹介する。
 
「鯨捕り」
 
(略)
むかし、むかしの鯨捕り、
ここのこの海、紫津しづが浦。
(略)
厚いどてらの重ね着で、
舟の舳みよしに見て立つて、
鯨弱ればたちまちに、
ぱつと脱ぎすて素つ裸、
さかまく波にをどり込む、
むかし、むかしの漁師たち…
きいてる胸も
をどります。
 
いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。
(略)
 
サッカー日独対決を見ながら。