その2からの続き。
東横堀川からの帰り道です。
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昨日の日報は コチラ → 本日は・・ちょこっとだけ散歩。
02月の散策記事
焼野まで旧街道をポタリング。 210211 その1
焼野まで旧街道をポタリング。 210211 その2
この土日の平野道標散策+平野まではポタ。210214その1
この土日の平野道標散策+平野まではポタ。210214その2
旧街道ポタ(短め)。 210228
03月の散策記事
深江お地蔵さま散歩。 210307
深江お地蔵散歩2回目。210312
東横堀川ポタリング。210314その1
東横堀川ポタリング。210314その2
1月以前の参拝記事はコチラ。
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写真①、さて引き続き、安堂寺橋からです。
こちらでも余談ですが『安堂寺橋』から『深江』までは
上方落語の伊勢参宮神乃賑にも一瞬でてきます。
■桂吉朝「東の旅 発端・旅立ち・煮売屋」
今回は米朝の弟子の吉朝の高座から。この↑場合、5分頃から約2分で暗峠ですが(笑)。
写真②、こちらはGoogleMAP。
左の高速沿いの上の方が「安堂寺橋」。
右の暗越奈良街道の手前を南に降りると「榎木大明神」です。
その下の大きな東西の道が長堀通です。
写真③、こちらが「榎木大明神」。
横の階段を下りると長堀通りです。
写真④、「榎木大明神」のお社。
以下、掲示してあった由来。
長年に亘り、地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ
呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という
中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と
言われている。
豊臣の時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りと
お伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、
また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて、
代々この樹をお守りしてきた。
昭和二十年(1945年)第二次世界大戦の大空襲の折には、襲って
きた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯が危うく
類焼を免れた。
これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸
前後には地元「箔美会」の人達により、榎木大明神の大祭が挙行
されている。
昭和六十三年(1988年)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、
大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な
延命治療により、再び元気を取り戻した。
そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で生誕され直木賞で
有名な直木三十五氏の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。
平成六年(1994年)十月吉日 榎木大明神 箔美会
尚、由来にある春の大祭はコロナ感染予防のため
今年は中止だそうです。
さて、引き続き東に向かいます。
写真⑤、この道は暗越奈良街道と熊野街道の重複地点ですが
なぜか熊野街道の新しい碑があります。
写真⑥、上町付近のもっとも高いところの景色。
久しぶりに上町台地を登ったのでここから道をそれて
玉造稲荷神社に行ってみる。
写真⑦、玉造稲荷付近のMAP。
写真⑧、玉造稲荷神社、注連柱前より。
写真⑨、境内の厳島神社。
写真⑩、玉造稲荷の前の道を少し行くと道の真ん中に小祠が。
こちらもたぶん巳さん。
写真⑪、こちらが祠のアップ。
『白光大神』さんとおっしゃるらしい。
説明書き等まったくないので詳細は不明。
場所は中央区玉造二丁目7付近。
写真⑫、最後は家の近所の片江七福橋の先にある
民家の前のお地蔵さん。
写真⑬、お地蔵さん、近影。
以上で、東横堀川ポタリングは終了です。