その1からの続き。

 『本町の曲がり』まで来たたかとっさんですが、ここから
 更に南下します。


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 昨日の日報は コチラ → 本日は・・午前中から東横堀川までポタリング。

 02月の散策記事

         焼野まで旧街道をポタリング。 210211 その1
         焼野まで旧街道をポタリング。 210211 その2

         この土日の平野道標散策+平野まではポタ。210214その1
         この土日の平野道標散策+平野まではポタ。210214その2

         旧街道ポタ(短め)。 210228

 03月の散策記事

         深江お地蔵さま散歩。 210307
         深江お地蔵散歩2回目。210312

         東横堀川ポタリング。210314その1


 1月以前の参拝記事はコチラ

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 写真①、『本町の曲がり』の縁にある『曲り淵地蔵尊』は人っ子一人いない路地の上、
     上は阪神高速道路があるので薄暗いカンジ。
     どう考えても夜歩きはお勧めできません。
     尚、写真の通り厳重に施錠されているので中に入ってお参りすることも
     無理です。

     余談ですが『本町の曲がり』は上方落語の『饅頭こわい』の中にも
     出てくるので聴いてみるのも一興ですよ。

     ■桂米朝 「饅頭こわい」
      この↑場合、12分頃から。     
     


 写真②、続いて来たのは7番目の『農人(のうにん)橋』。
     ちょっと東側に同じ名前の交差点があります。

     名前の理由は『摂津名所図会』に「いにしへ川西船場に田圃多くして、
     上町より農民かよひて耕作をなす」と書かれています。
     要は上町(上町台地の上)に住んでいた農民が作業する田んぼが台地の下
     東横堀川の西側にあったため通うために使ったためのようです。


 写真③、ちなみに中央大通が走ってるので幅が広く見えますが・・。
     実は農人橋という橋は現在2本同名で掛かっています。

     北側が橋長33.14m、幅員18.35m。
     南側が橋長18.35m、幅員18.35m。

     元の橋の位置は南側らしい。
     こちらも江戸時代は公儀橋の一つ。

     農人橋交差点は交通量が多いためか中央大通りを渡るのに
     歩道橋を使います。
     ゆえに中央大通りに横断歩道はありません。


 写真④、農人橋の南側の東横堀川の眺め。


 写真⑤、ひっそりと案内板もあります。


 写真⑥、続いては8番目の久宝寺橋(きゅうほうじばし)。
     名前の由来はここにあったとされる寺の名、
     もしくは道頓堀開削で河内の久宝寺村から人々が
     移住したという説があります。
     たかとっさん的には後者を押したいところ。


 写真⑦、西詰には東警察署 南久宝寺町交番があります。


 写真⑧、続いて元々の目的地だった9番目の安堂寺橋(あんどうじばし)。
     由来はは『日本書紀』孝徳天皇白雉4年条に記載されている伝説的な寺
     ・安曇寺から訛った物とも、古代海人族の阿曇氏の拠点が上町台地の
     この地にあったからとも言われています。

     元の目的地がここだったのは暗越奈良街道に接続する道だったから。


 写真⑨、安堂寺橋を別角度で。


 写真⑩、10番目の橋は『末吉橋(すえよしばし)』です。
     由来は江戸時代初期に活躍した豪商、末吉孫左衛門が架けたと
     伝えられているから。
     写真は西詰ですが東へ行くと松屋町の交差点。
     反対側の西へ行くと心斎橋の新橋の交差点に繋がります。

     現在は長堀通りが通っているので現在の橋は・・
     1927年11月に架け替えられたこの橋は橋長41.5m、幅員33.5mの
     鉄筋コンクリートアーチ橋です。


 写真⑪、11番目は『九之助橋(くのすけばし)。
     由来は人名と考えられているもののハッキリとしない。
     かつては付近も九之助町とも言ったらしい。


 写真⑫、九之助橋の案内板。


 写真⑬、九之助橋からの眺め。


 写真⑭、こちらは12番目の『東堀橋(ひがしほりばし)』。

     1936年(昭和11年)に周防町筋(アメリカ村のメイン通りや
     ヨーロッパ通りとしても知名度がある)が市道堀江玉造線として
     貫通・拡幅整備された際、鋼製アーチ橋として架けられた。

     東堀橋の開通により、玉造と九条が一本の道路で結ばれたらしい。


 写真⑮、13番目の瓦屋橋(かわらやばし)は大阪市中央区瓦屋町2丁目と
     島之内2丁目の間を結ぶ。

     1615年(元和元年)に御用瓦師の寺島宗左衛門が4万6千坪を拝領し、
     1694年(元禄7年)には南瓦屋町(現在の瓦屋町)として大坂三郷に
     組み込まれた。

     このあたりは古代より良質の粘土が取れ、江戸時代には大坂市街に
     おける瓦生産の中心地だったことかららしい。


 写真⑯、こちらは14番目、東横堀川最終の上大和橋(かみやまとばし)。
     橋名は道頓堀川北岸の町名「道頓堀大和町」に由来する。

     現在の橋は1925年(大正14年)10月に橋長35.8m、幅員9.1mの
     三径間の単純鋼桁橋だったんですが1965年(昭和40年)に
     高速の道頓堀出口からの出路を設置するために橋の東側が
     約4.5m短縮される改修を受け全長31.3m幅員11.0mの桁橋となりました。


 写真⑰、上大和橋からの南側の眺め。
     右(西)へ90度曲っています。
     元々の東横堀川はここが終点でいわゆる堀止。
     しかし安井道頓らによって東西に堀が掘られ、現在の道頓堀川に。


 写真⑱、堀の側壁にはきっちりと河川看板が。

      さて、東横堀川のポタが終わったので帰ることにする。
      まずは当初の目的地へ。


 写真⑲、帰りは安堂寺橋から東に向けて帰ります。
     行きと違って上町台地横断ルートなのでこの時点で
     不安しかありません。



      その3に続く。