昨日、今日と平野まで放出街道を南下。
道標探しをしてきました。
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昨日の日報は コチラ → 本日は・・午後から道標探しへ。
01月の散策記事
お墓参りついでの散策 210108
11月以前の参拝記事はコチラ。
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写真①、今回は道標のマップから。
いちばん最初はタイヤガーデンの方から勝山通りを渡って
しばらくのところにある道標の位置。
写真②、駐車場の隅っこにひっそり建っています。
便宜上、巽中1丁目の道標としておきます。
写真③、続いて、加美巽川を渡って、東へ。
内環状線を渡って、ガソリンスタンドのところで東に入ると。
写真④、民家の前に巽東1丁目の道標。
正面: 左 大坂
左 : 右 信貴山
右 : 施主 富士○六
秋葉善三
ここから南へ移動。
写真⑤、『熊野神社蕉跡』碑。
こちらにあった熊野神社は巽神社に合祀されました。
写真⑥、そのお隣の矢柄地蔵尊。
写真⑦、法泉寺、山門。
法泉寺の由来。
本寺の開基は、毛利豊元の末裔小早川某なるもの剃髪して
僧侶となり、諸国の行脚の末河内の国渋川郡矢柄村に居を
構えて、称名念仏に励みながら、悩み相談所のようなものを
開設したものらしい。
如意山を号し、真宗大谷派(東本願寺)の末寺として、本尊に
阿弥陀如来(木像)を安置しております。
貞享三年(1686)霊元天皇の御宇に一如上人より寺号を
賜ったものであります。
この寺号の起りは、境内の東南隅に古井戸ありて、或る夜
白き大蛇が井戸より飛び上がりたる霊夢を見、清水が滔々と
湧き出て周辺の村人のもらい水が絶えず、それにちなみ、
「法(みのり)の泉」として法泉寺の寺号が生まれたものであります。
現在に至るまでには、大水のため本堂が崩潰し、やっとの
思いで本尊を抱え水難から逃れることもあり、幾多の苦難と
変遷を経て来ましたが、昭和47年11月、多くの檀信徒の
懇志により、現在の本堂が再建され、その後平成二年7月には
客殿も建立され三百十有余年の間、宗祖親鸞上人立教開基の
本旨に基き、法燈をともし続け現在に至っております。
如意山法泉寺第九世 永井宗雲 記
平成十年三月 横野万葉会 建立
以上、山門横の掲示より。
写真⑧、法泉寺、東南角の道標。
正面: 右 大坂
右 : 左 信貴山
裏 : 天保四巳年七月
左 : 読み取れず。
そのまま南下して、JRの踏切を渡って昨日と同じく
イズミヤの東側を通って杭全神社へ。
写真⑨、そのイズミヤ。
写真⑩、杭全神社に到着。
参拝してちょい休憩。
写真⑪、続いては国道25号線に点在する竜田越え奈良街道の道標。
そのマップ。
写真⑫、杭全神社の鳥居から国道を挟んで向かい側の平野上町の道標1。
正面(西向き): 当社 熊野権現
祇園宮
左(北向き) : 右 大坂
寛政十二・・
世話人・・
右(南向き) : 右 ふじい寺
大峯山上
かうや山
裏(東向き) :すぐ 天王寺
大さか
写真⑬、こっちは右と裏向き。
写真⑭、こちらは道標の向かい側の和菓子屋「塩伊」の福助。
写真⑮、続いて平野東一丁目道標。
正面(西向き): 右 ふじいでら
大峯山上
左(北向き) : 左 しぎ山
すぐ 道明寺
右(南向き) : 左 天王寺
すぐ 玉つくり
裏(東向き) : 弘化二四月 世話人・・・
写真⑯、こちらは南向き。
写真⑰、加美西二丁目道標。
正面(西向き): 左 八尾 信貴山 瓢箪山
すぐ 柏原 道明寺 奈良
裏(東向き) : 大阪府
写真⑱、25号線北側にある含翠堂(がんすいどう)跡碑。
平野郷七名家の一人、土橋友直(ともなお)が享保2年(1717)に
発議し創設したものである。
経書講読・国学・医学・算学等を教えたほか、飢饉の際に
備えて基金を積み立て、救済活動も行った。
明治5年(1872)学制発布のため閉鎖、155年にわたる歴史を閉じた。
その2に続きます。